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第2章「火曜日の異変」

Auteur: 佐薙真琴
last update Date de publication: 2025-12-06 10:37:07

 翌週の火曜日。春斗は珍しく午前中のシフトに入っていた。通常は水曜日からのシフトだが、同僚が体調を崩したため代わりに出勤していた。

 店内には客が二人。新聞を読むサラリーマンと、ノートパソコンに向かう女子大生。春斗はカウンターでグラスを磨きながら、明日会えるユキのことを考えていた。

 彼女が伝えたいこと。それが何であれ、春斗は真剣に受け止めようと決めていた。量子もつれの話をした時の彼女の表情が、頭から離れない。

 午後二時。ドアベルが鳴った。

 春斗は顔を上げて、息を呑んだ。

 入ってきたのはユキだった。いつもは水曜日にしか来ない彼女が、火曜日に。しかも様子がおかしい。顔色が悪く、足取りが不安定だ。

「ユキさん!」

 春斗はカウンターから飛び出した。ユキは春斗を見つけると、安堵の表情を浮かべた。

「春斗さん……よかった、いてくれて」

「どうしたんですか? 体調が悪いんですか?」

「違うの。今日は火曜日だから」

「火曜日?」

 ユキは窓際の席――いつもの席に座った。春斗も隣に座る。

「私ね、本当は火曜日には外出しないようにしてるの」

「なぜです?」

 ユキは震える手をテーブルの上に置いた。その手が、わずかに透けているように見えた。

 春斗は目を疑った。幻覚か? いや、確かにユキの右手が、まるでスモークガラスのように半透明になっている。

「これが、火曜日の私」

 ユキは静かに言った。

「火曜日になると、私の分子構造が不安定になるの。存在確率が下がる」

「存在確率……?」

 春斗の脳裏に、量子力学の波動関数が浮かんだ。粒子の存在確率を示す数学的記述。しかしそれは原子レベルの話であって、人間の身体全体に適用されるはずが――

「信じられないと思う。私も最初は信じられなかった」

 ユキの左手も徐々に透明度を増していく。春斗は反射的に彼女の手を掴んだ。

 手は確かにそこにあった。温かさも、柔らかさも。でも、視覚的には透けている。

「いつからですか?」

「半年前から。最初は軽い目眩程度だったけど、段々ひどくなって。今では火曜日の午後になると、こうなる」

 ユキの腕全体が透明になっていく。服は普通に見えるが、その中の身体が薄れていく様子は、春斗の理解を超えていた。

「医者には?」

「行った。でも検査結果は全部正常。火曜日以外は完全に普通だから、精神的なものだろうって」

「精神的なもので、身体が透明になる?」

「私もそう思った。でも、写真を撮っても透けて写るの。鏡にも透明に映る。これは幻覚じゃない」

 春斗は混乱していた。目の前の現象は、物理学のあらゆる常識を覆している。人間の身体を構成する原子は、日常的なスケールでは確定的な位置を持つはずだ。量子的な不確定性が巨視的に現れるなど――

 待て。

 春斗の思考が加速する。量子デコヒーレンス。巨視的な物体が量子的な重ね合わせ状態を失うプロセス。通常、大きな物体は環境との相互作用によって瞬時にデコヒーレンスを起こし、古典的な状態に収束する。

 しかし、もしその過程が何らかの理由で阻害されたら?

「ユキさん、火曜日に何か特別なことが起きますか? 環境の変化とか」

「分からない。でも……」

 ユキは窓の外を見た。

「火曜日だけ、世界の見え方が違う気がするの。色が薄く見えたり、音が遠く聞こえたり」

「観測が不安定になっている」

 春斗は呟いた。

「あなたの意識が、周囲の環境を観測する機能が、火曜日だけ弱まっている。だから逆に、環境からあなたへの観測も弱まって、存在確率が――」

 その時、ユキの上半身全体が透明になった。彼女の顔は辛うじて輪郭が見える程度だ。

「春斗さん……怖い」

 ユキの声は震えていた。

「消えちゃうんじゃないかって、いつも思う。火曜日の夜まで、じっと家にいて、ただ時間が過ぎるのを待つの」

「今日はどうして外に?」

「あなたに会いたかった」

 透明な顔の中で、ユキの瞳だけがはっきりと見えた。

「来週まで待てなかった。もしかしたら次の火曜日には、完全に消えちゃうかもしれないから」

 春斗は立ち上がった。店の奥に、オーナーの書斎がある。そこには量子物理学の専門書が山ほど揃っている。何か手がかりがあるはずだ。

「待ってて。必ず方法を見つける」

「春斗さん」

 ユキが春斗の手を掴んだ。透明な手なのに、確かな力で。

「あなたが、ここにいてくれるだけで少し楽になる。不思議」

「観測者効果かもしれない」

 春斗は即座に答えた。

「僕があなたを観測することで、あなたの存在確率が上がる」

「本当に?」

「分からない。でも試してみる価値はある」

 春斗はユキの隣に座り直し、彼女の手を両手で包んだ。

「今から、あなたを観測し続ける。意識を集中して、あなたの存在を確認し続ける」

 春斗はユキを見つめた。彼女の輪郭、髪の流れ、瞳の色、唇の形。全てを記憶に刻み込むように。

 数分が経過した。

 ユキの身体に、わずかに色が戻り始めた。

「あ……」

 ユキが声を上げた。

「本当だ。少し、実体が戻ってきてる」

 春斗も驚いた。まさか本当に効果があるとは。

「観測が状態を確定させる。量子力学の基本原理だ」

「でも、どうして春斗さんの観測だけ? 他の人に見られても変わらなかったのに」

「それは……」

 春斗は言葉に詰まった。科学的な説明を探そうとしたが、見つからない。

 コーヒー豆の袋から、また囁きが聞こえた気がした。

「……特別な観測者……愛の観測……」

 春斗は頭を振った。今は幻聴のことなど考えている場合ではない。

「とにかく、僕が観測し続ければ、あなたの存在は安定する」

「ずっと?」

「ずっと」

 春斗は頷いた。

「少なくとも、火曜日が終わるまでは」

 ユキの身体が徐々に不透明度を取り戻していく。それでも完全には戻らず、薄い霧がかかったような状態が続いた。

 春斗はユキの手を握ったまま、彼女と向かい合って座り続けた。他の客が不思議そうに見ているが、構わない。

「春斗さん、仕事は?」

「今日はもう客も少ないし、大丈夫」

 実際、サラリーマンも女子大生も帰っていて、店内には二人きりだった。

「ありがとう」

 ユキは涙ぐんでいた。

「誰にも話せなかった。言っても信じてもらえないし、変な人だと思われるだけだから」

「僕は信じる。目の前で起きていることを否定する理由はない」

「科学者なのに?」

「科学者だからこそ、観測事実を尊重する」

 春斗は微笑んだ。

「それに、量子力学の世界では、もっと不思議なことが日常的に起きてる。電子は同時に複数の場所に存在できるし、粒子は観測されるまで状態が確定しない。あなたの現象だって、スケールが違うだけで本質は同じかもしれない」

「春斗さんは、怖くない? 私みたいな変な人」

「変じゃない。特別なだけ」

 春斗は真剣に言った。

「それに、もし本当に量子的な現象なら、解決方法があるはずだ。観測、デコヒーレンス制御、環境との相互作用の最適化……何か方法がある」

 ユキは春斗の手を強く握り返した。

「私、春斗さんに会えてよかった」

「僕も」

 二人はしばらく黙って座っていた。窓の外では夕陽が傾き始めている。

 午後五時を過ぎると、ユキの身体は徐々に不透明度を増していった。春斗の観測を続けていたこともあるだろうが、時間帯の影響も大きいようだ。

「火曜日の夜になると、だんだん戻るの」

 ユキが説明した。

「午後二時から四時くらいが一番ひどい」

「では、その時間帯の環境要因を調べる必要がある」

 春斗は思考を巡らせた。

「あと、なぜ火曜日だけなのか。曜日というのは人為的な概念だから、物理的な意味はないはずだけど……」

「私の主観的な時間認識が関係してるのかも」

 ユキは自分の手のひらを見つめた。ほぼ元の状態に戻っている。

「火曜日は、私にとって特別な日だったの。昔」

「どんな?」

「それは……また今度話す」

 ユキは立ち上がった。

「もう大丈夫。ありがとう、春斗さん」

「明日も来てください。水曜日なら、いつも通り大丈夫でしょう?」

「うん。それと……」

 ユキは頬を赤らめた。

「来週の火曜日も、ここに来ていい? 春斗さんがいれば、安心だから」

「もちろん。僕がいる日なら、いつでも」

 ユキは嬉しそうに微笑んで、店を出た。

 春斗は彼女の後ろ姿を見送りながら、胸の高鳴りを感じていた。これは科学的好奇心だけではない。もっと個人的な、感情的な何かだ。

 カウンターに戻ると、コーヒー豆の袋が微かに光っている気がした。

「……恋だよ、それは……」

 春斗は苦笑した。コーヒー豆に恋愛相談されるとは思わなかった。

 でも、豆の言う通りかもしれない。

 彼は、雪村透子という謎めいた女性に、確実に惹かれていた。

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