Masuk春斗が働く量子カフェに毎週水曜日だけ訪れる常連客・ユキ。量子力学について語り合ううち、二人は惹かれ合っていく。 しかし、ユキには誰にも言えない秘密があった。火曜日になると、彼女の身体は透明になり、存在確率が低下する。半年前の交通事故で生死の境界に立った彼女は、量子的な分岐によって、生きた世界と死んだ世界の狭間に存在していたのだ。 「僕が観測すれば、君は消えない」 春斗の観測がユキの存在を安定させることを発見した二人は、量子力学の理論を武器に、彼女の消失を防ごうとする。意識を持つコーヒー豆、時間が逆行する公園、別世界線から干渉する元恋人――不条理な現象が次々と現れる中、春斗は究極の選択を迫られる。
Lihat lebih banyak春斗が量子カフェ・シュレディンガーで働き始めて三年が経った。店の看板には猫のシルエットと「観測されるまで、あなたのコーヒーは存在しない」という洒落た文句が書かれている。物理学科の教授だったオーナーの趣味全開の店名だが、幸いなことに近所の人々は「変わった名前のカフェ」程度にしか思っていない。
午後三時、水曜日の静かな時間帯。春斗はカウンターで量子力学の入門書を読んでいた。正確には読み返していた。三年前に大学院を中退してからも、彼は物理学への未練を完全には断ち切れていない。
「いらっしゃいませ」
ドアベルが鳴り、春斗は反射的に本を閉じた。
入ってきたのは、見覚えのある女性だった。いつもの水曜日の常連客。細身で背が高く、肩までの黒髪。年齢は春斗と同じくらいだろうか。彼女はいつも窓際の席に座り、ブレンドコーヒーを注文し、文庫本を読む。それ以外のことを春斗は何も知らない。
「ブレンドコーヒーを一つ」
彼女の声は穏やかで、どこか遠くから聞こえてくるような不思議な響きがあった。
「かしこまりました」
春斗はエスプレッソマシンに向かった。豆を挽く音が店内に響く。この店のコーヒー豆は特別だ。オーナーが「意識の場に共鳴する特殊な豆」と言って仕入れているもので、確かに普通の豆とは違う。焙煎したての豆からは、まるで誰かの囁きのような音が聞こえる気がする。
ドリップしながら、春斗は窓際の席を盗み見た。女性は文庫本を開いている。タイトルは見えないが、カバーから察するに哲学書のようだ。
コーヒーを運ぶと、彼女は本から目を上げた。
「ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」
春斗が立ち去ろうとすると、彼女が声をかけた。
「あの、いつも気になっていたんですけど」
春斗は振り返った。彼女が微笑んでいる。
「この店の名前、量子カフェ・シュレディンガーって、猫のパラドックスからですよね?」
「ええ、そうです。オーナーが物理学者で」
「素敵な名前だと思います。観測されるまで状態が確定しないって、コーヒーの香りが漂うまで味が想像でしかないっていうのと似てますよね」
春斗は驚いた。この店に三年いて、その意味を理解している客に初めて出会った。
「詳しいんですね、量子力学」
「少しだけ。趣味で本を読む程度ですけど」
彼女は文庫本の表紙を見せた。『量子論の哲学的基礎』とある。
「私、雪村透子って言います。ユキって呼んでください。なんか透子って呼ばれるよりそっちのほうがいいんです!」
「春斗です。ここで働いてます」
「知ってます。いつも丁寧にコーヒーを淹れてくれる人」
ユキの笑顔には、春の日差しのような温かさがあった。春斗は気づかないうちに頬が緩んでいた。
「春斗さんも、量子力学に興味があるんですか? さっきカウンターで読んでましたよね」
「ああ、これは……」
春斗は言葉に詰まった。元は専攻していたが挫折した、とは言いづらい。
「昔、少し勉強してたんです。でも難しくて」
「難しいですよね。観測問題とか、コペンハーゲン解釈とか、読めば読むほど混乱します」
ユキは楽しそうに言った。春斗は彼女の隣の椅子を引いて座った。客が他にいない時間帯なら、オーナーも文句は言わない。
「観測問題、面白いですよね。観測するという行為そのものが対象の状態を変えてしまう」
「そう。だから私たちは、本当の意味で世界をありのままに見ることができない」
ユキは窓の外を見た。街路樹の桜が風に揺れている。
「でも逆に言えば、誰かが観測してくれるから、私たちは存在できるのかもしれない」
「どういう意味ですか?」
「観測されなければ状態が確定しないなら、誰も見ていない時の私は、本当に存在してるのかなって」
ユキの声には、哲学的な問いかけ以上の何かが含まれていた。春斗には、それが単なる思考実験ではなく、もっと切実な問いのように聞こえた。
「存在してますよ」
春斗は即座に答えた。
「少なくとも、今この瞬間、僕が観測している限りは」
ユキは驚いたように春斗を見た。それから、今までで一番大きな笑顔を見せた。
「ありがとう。それ、とても嬉しい答えです」
その日から、水曜日は特別な曜日になった。ユキは毎週同じ時間に来店し、春斗は時間を見つけては彼女と量子力学について語り合った。彼女の知識は趣味で読んでいるにしては深く、時には春斗も知らなかった解釈や実験について教えてくれた。
三週間が過ぎた水曜日。ユキはいつものように窓際の席に座り、春斗はコーヒーを淹れていた。豆を挽く音の中に、何か囁きのようなものが混じっていた気がした。
「……恋、してる……」
春斗は手を止めた。今のは何だ? 幻聴か?
コーヒーを淹れ終わり、ユキのもとへ運ぶ。彼女は今日も哲学書を読んでいるが、ページが全く進んでいないことに春斗は気づいた。
「今日は、あまり集中できない?」
「ええ、なんだか」
ユキは本を閉じた。
「春斗さん、質問があるんです」
「何でしょう」
「人が誰かを好きになるのって、量子もつれに似てると思いません?」
春斗の心臓が跳ねた。
「量子もつれ……ですか」
「二つの粒子が相関を持って、片方の状態を観測するともう片方の状態も瞬時に決まる。距離に関係なく」
ユキは春斗を見つめた。
「誰かを好きになるって、そういうことな気がするんです。相手の喜びが自分の喜びになって、相手の悲しみが自分の悲しみになる。離れていても、繋がっている」
「それは……」
春斗は言葉を探した。論理的に答えるべきか。それとも――
「そうかもしれません」
春斗は正直に言った。
「相手の状態が、自分の状態を決める。科学的な因果関係を超えた繋がり」
「春斗さんは、そういう経験ありますか?」
ユキの質問は真剣だった。春斗は過去を振り返った。大学時代に付き合っていた華憐のことを思い出す。研究に没頭するあまり、彼女の気持ちを観測することを怠った。結果、二人の関係は崩壊した。
「あります。でも、うまくいかなかった」
「どうして?」
「観測を怠ったから」
春斗は自嘲的に笑った。
「相手のことをちゃんと見ていなかった。自分の研究ばかりに夢中で」
「今は、違います?」
「今は……」
春斗はユキを見た。彼女の瞳には、春の空のような透明さがあった。
「今は、観測することの大切さが分かります」
ユキは優しく微笑んだ。
「私ね、実は春斗さんに伝えたいことがあって」
その時、店の電話が鳴った。春斗は舌打ちしそうになったが、堪えてカウンターに戻った。
電話はオーナーからで、明日の仕入れについての確認だった。五分ほど話して電話を切ると、ユキが立ち上がっていた。
「あ、もう帰るんですか?」
「ええ、ごめんなさい。約束があって」
ユキはコートを羽織った。
「伝えたいことは……また来週でもいいですか?」
「もちろん。来週の水曜日、待ってます」
ユキは微笑んで店を出た。春斗は彼女の背中が見えなくなるまで見送った。
カウンターに戻ると、コーヒー豆の袋から不思議な音が聞こえた気がした。
「……告白、されるかも……」
春斗は首を振った。最近、疲れているのかもしれない。コーヒー豆が喋るはずがない。
でも、もしユキが何かを伝えようとしているなら――
春斗は胸の高鳴りを抑えられなかった。量子もつれ。相手の状態が自分の状態を決める。もしかしたら、自分も既にユキと繋がっているのかもしれない。
窓際の席を見ると、ユキが座っていた椅子に、読みかけの文庫本が置かれていた。忘れ物だ。春斗は手に取った。
『存在と時間』ハイデッガー。
ページの間に栞が挟まっていた。そこには手書きのメモがあった。
「観測されることで初めて存在が確定するなら、私が本当に存在するのは、誰かに見つめられている時だけなのかもしれない」
春斗の手が震えた。このメモには、もっと深い意味が込められている気がした。
彼は本を大切にカウンターの引き出しに仕舞った。来週、返そう。そして、ユキが伝えたいことを聞こう。
それが春斗の、最後の平和な水曜日だった。
量子もつれ状態になってから一ヶ月が経った。春斗とユキの生活は、不思議な調和に満ちていた。 互いの感情が分かるため、些細な誤解が生じない。相手が何を望んでいるか、何を恐れているか、言葉にしなくても理解できる。 しかし、それは同時に、個人のプライバシーがないということでもあった。 ある日、ユキが沈んだ表情をしていた。春斗には理由が分かった。彼女の心に流れ込んでくる感情――罪悪感、不安、自己嫌悪。「ユキ、大丈夫?」「うん……でも」 ユキは俯いた。「私のせいで、春斗さんまで量子的に不安定になっちゃった」「それは僕の選択だ」「でも、普通の人生を奪っちゃった」 春斗はユキを抱きしめた。「普通の人生より、君との人生の方がいい」「本当に?」「本当だ」 二人は量子カフェで働いていた。オーナーは春斗を正社員にし、ユキもパートとして雇った。 店には不思議な客が増えていた。量子的な異常を抱えた人々。時間がズレて見える人、複数の場所に同時存在する人、確率でしか未来が見えない人。 この街には、量子的な異常が蔓延しているらしい。量子カフェが、その中心にあるかのように。 華憐も頻繁に店を訪れた。彼女は春斗とユキの量子状態を研究し、論文を書いていた。「二人の存在確率は、完全に相関してる」 華憐は興奮気味に説明した。「片方の状態を測定すると、もう片方の状態が瞬時に決まる。距離に関係なく」「それが量子もつれ」「そう。でも、人間レベルでこれが起きるなんて……ノーベル賞ものよ」 ユキは苦笑した。「私たち、実験動物みたいね」「ごめん。でも、これは科学史に残る発見なの」 華憐は真剣に言った。「意識と量子力学の関係を、初めて実証できる」 その日の夕方、緊急事態が起きた。 逆行公園から異常な量子場
プロポーズから一週間が経った。春斗とユキは婚姻届を準備し、華憐は二人の量子状態を継続的に監視していた。 しかし、問題は解決していなかった。 火曜日、ユキは再び透明化し始めた。プロポーズ後の最初の火曜日。「どうして……」 ユキは絶望的な表情で自分の手を見た。「春斗さんと繋がったのに……」 華憐は測定データを分析していた。「婚姻届だけでは不十分だったみたい。法的な結びつきは、量子レベルでは弱すぎる」「じゃあ、どうすれば……」 春斗が問うと、華憐は深刻な表情で答えた。「量子もつれの本質は、状態の完全な共有。二つの粒子が、もはや個別には記述できないほど結びつく」「つまり?」「あなたがユキの状態を完全に引き受けるか、ユキがあなたの状態を完全に引き受けるか」 華憐は測定器を見せた。「今のままでは、ユキだけが量子的不安定性を抱えている。あなたは古典的な状態のまま。これでは片側だけの観測になる」「双方向の観測が必要?」「そう。ユキがあなたを観測し、あなたがユキを観測する。相互観測によって、初めて完全な量子もつれが成立する」 ユキは春斗を見た。「春斗さんも、不安定になるってこと?」「理論的には」 華憐は頷いた。「でも、それが唯一の解決策かもしれない」 春斗は迷わなかった。「やる。ユキと同じ状態になる」「春斗さん、危険だよ! 消えるかもしれない!」「君が消えるより、一緒に消える方がいい」 春斗はユキの手を握った。「どうすればいい、華憐?」「逆行公園でもう一度、世界線の分岐点を観測する。そこで春斗も同じ選択をする。生と死の境界に立つ」「つまり、僕も事故に遭う?」「似たような状況を作り出す必要がある。意識が極限状態に置かれ、量子
火曜日の朝、春斗は量子カフェの前でユキを待っていた。曇り空の下、街は静かだった。 午前十時、ユキが現れた。すでに身体が薄く透けている。「春斗さん……」 ユキは不安そうに春斗を見た。「大丈夫。今日は華憐さんも来てくれる」「華憐さん?」「元恋人で、量子物理学者。君を助けたいって」 ユキは複雑な表情をした。「元恋人……それって、大丈夫なの?」「大丈夫。華憐は味方だよ」 その時、華憐が到着した。リュックには測定機器が詰まっている。「初めまして、雪村さん。華憐です」「ユキです……」 二人の女性は握手した。ユキの手は半透明で、華憐はそれを興味深そうに観察した。「本当に透けてる……量子デコヒーレンスの抑制が起きてる」「そうみたいです」 ユキは自分の手を見た。「春斗さんと一緒にいると、少しマシになるんですけど」「観測者効果ね。意識を伴う観測が、波動関数を収束させる」 華憐は測定器を取り出した。「まず、あなたの量子コヒーレンス度を測定させて」「量子コヒーレンス度?」「巨視的な物体がどれだけ量子的性質を保持しているかの指標。通常、人間の身体は完全に古典的だから、測定値はほぼゼロ。でもあなたは……」 華憐が機器をユキに向けると、異常な数値が表示された。「コヒーレンス度0.67……信じられない。これは単一原子レベルの値よ」「それって、どういうこと?」 ユキが不安そうに聞く。「あなたの身体が、量子的な重ね合わせ状態にあるってこと。複数の状態が同時に存在している」 華憐は驚愕の表情で続けた。「普通ならあり得ない。環境との相互作用で即座にデコヒーレンスを起こすはず。で
春斗とユキの関係は、奇妙な日常へと変化していった。水曜日は恋人としてのデート。火曜日は科学的実験と観測。そして他の曜日は、互いの生活を尊重した適度な距離。 しかし、彼らの周りで不可解な現象が増え始めた。 ある木曜日の午後、春斗がコーヒーを淹れていると、豆の袋から明確な声が聞こえた。「ハルト、聞こえるか?」 春斗は飛び上がりそうになった。「誰だ?」「我々だ。コロンビア産アラビカ種、ロースト度はミディアム。君の店で働いている」 春斗は豆の袋を凝視した。中で豆たちが小刻みに揺れている。「コーヒー豆が……喋ってる?」「正確には、我々の集合意識が君の意識と共鳴している。この店の量子場が、通常とは異なる状態にあるからだ」 春斗は椅子に座り込んだ。「これは夢か?」「現実だ。君とユキの関係が、この空間の量子コヒーレンスを高めている。結果、我々のような微細な意識体も発現できるようになった」「微細な意識体?」「全ての物質には原始的な意識がある。普段は観測されないだけだ。しかし君たちの愛が生み出す観測場は特別だ。未観測のものを観測可能にする」 春斗は混乱していた。しかし、ユキの存在を受け入れた今、コーヒー豆の意識を否定する理由もない。「それで、何の用だ?」「忠告だ。ユキの状態は予想以上に不安定だ。火曜日の存在確率低下は、単なる一時的現象ではない。恒久的な消失への序曲だ」 春斗の血の気が引いた。「どういうことだ?」「彼女の自己観測能力は、週を追うごとに減衰している。やがて火曜日だけでなく、他の曜日にも影響が及ぶ。最終的には――」「消える?」「その可能性がある。だから君の観測が必要なのだ。しかし、それだけでは不十分かもしれない」 豆たちの声には、珍しく深刻さが含まれていた。「何をすればいい?」「まず、逆行公園に行け」「逆行公園?」「