All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 281 - Chapter 290

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第281話 永遠の契約④

 ただの一言。だが、その中には、血を吐くような後悔と、底なしの独占欲、そして命を賭けた決意のすべてが凝縮されていた。 私も、震える唇を開き、同じ言葉を紡ぐ。 私の薬指のサファイアの隣に、シンプルなプラチナの結婚指輪が押し込まれた。 冷たい金属の感触が、彼の指先の熱によってすぐに私の体温と同じ温度へと溶けていく。「ベールを」 神父の促す声。 征也が一歩、私との距離を詰める。 彼の太い指が、私の顔を覆っていた薄いチュール生地の端を摘み上げた。 シュッ、と。 微かな摩擦音とともに、ベールがゆっくりと持ち上げられ、頭の後ろへと折り返される。 視界を遮っていた薄い膜がなくなり、彼の顔が、息遣いまで感じられる至近距離に迫った。 黒曜石の瞳の奥で、ドロドロに溶けたマグマのような欲望が渦巻いているのがはっきりと見える。 数百人の参列者が見守る、神聖な祭壇の上。 そんな場所であることなど、彼はとうの昔に忘却しているようだった。 彼の手が、私の頬から首筋にかけてを、がっしりとホールドする。 逃げ場を完全に塞がれ、彼の顔が影を落とすように近づいてきた。 目を閉じる暇すらなかった。「ん……っ」 重なり合った唇は、誓いのキスというような形ばかりの軽いものではなかった。 完全に、貪り食うような、捕食者の口づけ。 下唇を軽く噛まれ、開いた隙間から、熱く湿った舌が容赦なく侵入してくる。 口内の粘膜を舐め上げられ、唾液が混ざり合う。 ジュッ、という水音が、静まり返った祭壇の上に微かに響き、私の顔は爆発しそうなほどの熱を持った。 息継ぎすら許されない、深く、執拗な交わり。 背中に回されたもう片方の腕が、コルセットごと私の身体を彼の胸板へと押し付ける。 ドレスの硬い装飾が彼のタキシードに食い込むのすら構わず、彼はただ私の体温を自分の中に取り込もうと必死だった。「……っ、ん, あ……」 肺の空気が完
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第282話 永遠の契約⑤

「よう、嬢ちゃん! 綺麗だぜ!」 使い込まれたスーツを着た三田村さんが、グラスを高く掲げてウインクをしてきた。 その隣には、控えめに微笑む鈴木さんや、あの株主総会で天道グループを救ってくれた下請け企業の社長たちの姿がある。 そして、フランスからわざわざ駆けつけてくれたベルトラン氏が、シャンパングラスを片手に「ブラボー」と叫んでいる。 彼らは皆、私たちが泥水の中で藻掻いていた時に、手を差し伸べてくれた大切な恩人たちだ。 征也は私の腰をしっかりと抱いたまま、その円卓の前で立ち止まった。「……お前たちには、生涯恩に着る」 あの傲慢だった男が、彼らに向かって深く、そして静かに頭を下げた。 会場が、一瞬の温かい静寂に包まれる。「顔を上げてください、天道社長。我々は、あなたの奥様の作るケーキのファンですからな」 大田区の工場長が照れくさそうに笑うと、会場全体がドッと温かい笑い声に包まれた。 征也は顔を上げ、私を自分の胸に引き寄せた。「俺の、かけがえのない妻だ」 彼が誇らしげに、全員に向かって宣言する。 その言葉の重みと温かさに、私の目から涙がこぼれそうになる。 祝福の言葉と、シャンパングラスが触れ合う澄んだ音。 私は、自分が世界で一番幸せな女だと、心の底から実感していた。 だが。 披露宴が中盤に差し掛かった頃から、私の腰を抱く征也の手に、明らかに焦燥に満ちた力がこもり始めていることに気がついた。 挨拶に来る客たちに鷹揚に頷きながらも、彼の指先はドレスの腰の布地をギリギリと握りしめている。 時折、私を見下ろす漆黒の瞳が、恐ろしいほどの飢餓感を湛えて濁っていた。「……征也くん?」 小声で尋ねると、彼は私の耳元に唇をすり寄せ、唸るように囁いた。「……限界だ」「えっ?」「あんな連中に、これ以上お前のこの姿を見せびらかしておく気はない。……今すぐ、お前を俺だけの場所に閉じ込めて
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第283話 永遠の契約⑥

「きゃっ……!」 背中が冷たい壁にぶつかるのと同時に、彼の大きな身体が私を完全に塞ぐ。 彼のネクタイはすでに乱暴に引き外され、タキシードのジャケットも床に放り捨てられていた。「……よく、我慢したな、俺は」 荒い呼吸とともに、彼の熱い唇が私の首筋に食い込む。「んっ……ぁ……っ」 チュッ、ジュルッという水音が、静まり返ったスイートルームの廊下に響き渡る。 彼は私のドレスの背中へと手を回し、留め具のフックに指をかけた。「待って、征也くん……これ、レンタルじゃなくて買い取ったドレスだから、破かないで……」「知るか」 ジジジジッ! 私の抗議など意に介さず、彼はファスナーを一気に下ろした。 コルセットの締め付けが解け、肺に大量の空気が流れ込んでくる。 同時に、むき出しになった背中に、彼の手のひらの異常なほどの熱が直接触れた。「ひゃああっ!」「この純白の下で、ずっと俺の匂いをさせていたんだろう……」 彼の指が、私の背骨をなぞり、そのまま腰のくびれへと滑り落ちる。 ドレスが肩から滑り落ち、足元に白いチュールの山を作る。 私は下着一枚の無防備な姿で、彼を見上げた。 彼の瞳は、暗い炎を燃えたぎらせた獣そのものだった。 出産してからというもの、私の身体を気遣ってずっと慎重だった彼。 その抑圧されていた欲望が、今夜、完全に解放されようとしている。「……全部、脱がして」 私は彼の首に腕を回し、自らその熱に飛び込んでいった。 彼の腕が私の膝裏と背中に回り、身体が軽々と宙に浮く。 ベッドルームへと運ばれ、最高級のマットレスの上に投げ出された。 視界が反転し、彼が私の上に覆い被さってくる。 シャツを脱ぎ捨てた彼の分厚い胸板が、私の肌に直接触れる。
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第284話 数年後の「家政婦」①

 オレンジ色に染まり始めた夕暮れの光が、リビングの巨大なガラス窓から斜めに差し込んでいる。  無垢材のフローリングに落ちた長い影が、時間の経過とともにゆっくりと、その輪郭を曖昧にしながら形を変えていく。  少しだけ開け放たれた窓の隙間から、春の終わりの柔らかな風が、ふわりと薄手のレースカーテンを揺らして入り込んできた。  風に乗って運ばれてくるのは、広大な庭で満開を迎えたアブラハム・ダービーの、むせ返るような甘く濃厚な薔薇の香りと、ほんの少しの湿った土の匂い。  その香りを胸いっぱいに吸い込むと、肺の奥深くまで、なめらかで温かい液体で満たされていくような気がした。 「ん……っ」  ソファに深く腰掛けていた私は、下腹部の奥で微かに感じた小さな蹴りに、思わず口元をほころばせた。  大きくせり出したお腹の上に、そっと両手を乗せる。  薄手のマタニティニット越しでもはっきりとわかる、確かな命の躍動。  ぽこん、ぽこん、と。  羊水越しに伝わってくるその動きは、長男を妊娠していた時よりも少しだけ控えめで、女の子らしい優しさを感じさせた。  手のひらから伝わるその小さな振動が、私とこの子が一本の臍帯で繋がっているという事実を、これ以上ないほど鮮烈に教えてくれる。 「ママ、どうしたの?」  足元から、幼い、けれどはっきりとした声が響いた。  視線を落とすと、厚手のラグの上に散らばった積み木の中で、三歳になる長男の陽向が、不思議そうな顔をしてこちらを見上げていた。  真っ直ぐでサラサラとした黒髪と、意思の強そうな漆黒の瞳。  輪郭や鼻筋は私に似ていると言われるけれど、ふとした瞬間に見せる表情の硬さや、物を見つめる時の射抜くような眼差しは、どうしようもなく父親譲りだった。  まだ舌ったらずな話し方をする小さな男の子なのに、その瞳の奥には、すでに彼を形作る強い芯のようなものが宿っている。 「ううん。赤ちゃんが、陽向といっぱい遊びたいって、お腹の中で動いたのよ」  微笑みかけながら、私はゆっくりと前傾姿勢になり、彼の手の届く位置まで顔を近づけた。 「ほんと?」  陽向の目がパ
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第285話 数年後の「家政婦」②

 自分の命に代えても守り抜くべきものを手に入れた男の、深く、静かな愛情。 数年前、あのすきま風だらけの四畳半のアパートで、安物の毛布にくるまって震えていた夜には、想像もつかなかった未来がここにある。 陽向の真っ直ぐな瞳を見つめていると、過去のすべての痛みとすれ違いが、この穏やかな時間を手に入れるための試練だったのだと、心の底から思えるのだった。 ◇ ガチャリ。 静かなリビングに、玄関の方から重厚なドアが開く音が低く響いた。 続いて、革靴を脱ぐ微かな物音。「あ、パパだ!」 陽向が弾かれたようにお腹から手を離し、短い足でバタバタと廊下の方へ向かって駆け出していく。 私も、ソファの肘掛けに手を突き、大きなお腹を庇いながら、ゆっくりと立ち上がった。 妊娠後期特有の、腰のあたりに走る重い鈍痛。 けれど、それすらも、新しい家族を迎えるための愛おしい重みだ。 リビングの重い扉が開く。「パパ、おかえり!」「……おう。ただいま」 廊下の照明に照らし出されたのは、仕立ての良い漆黒のスーツを身に纏った大柄な影。 外の冷気と、わずかなシトラスのオーデコロンの香りを漂わせながら、征也がリビングへと足を踏み入れた。 足元に飛びついてきた陽向を、彼は腰を落としてひょいと軽々と抱き上げる。「うわぁっ! たかーい!」 キャッキャと喜ぶ息子の小さな体を、太い腕でがっしりとホールドする手つきには、もうかつてのぎこちなさは微塵もなかった。「……今日も、いい子にしてたか?」 息子を抱いたまま、彼の漆黒の瞳が真っ直ぐに私へと向けられる。 外で戦ってきた男の鋭い威圧感は、リビングの境界線を越えた瞬間に完全に脱ぎ捨てられ、ただ一人の女と家族を愛する男の、柔らかく熱を帯びた眼差しへと変わっていた。 ネクタイはすでに緩められ、一番上のボタンが外されたシャツの襟元から、ほんの少しだけ疲れが滲んでいるのがわかる。 それでも、私と陽向を見る彼の瞳は、世界中のどんな宝石より
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第286話 数年後の「家政婦」③

「……悪い冗談だ」 低い、喉の奥で唸るような声。 彼のごつごつとした大きな右手が伸びてきて、私の頬をそっと包み込んだ。 外の空気に触れていたせいで、彼の指先はほんの少しだけ冷たかったが、掌の中心からは、火傷しそうなほどの強烈な熱が放射されている。 チクチクとした無精髭の生えかけた顎のラインが、彼が一日の労働を終えて帰ってきたことを生々しく伝えていた。「あの頃の俺を、思い切り殴り飛ばしてやりたくなる。……お前にあんな言葉を言わせていた、愚かで惨めだった俺を」 彼の親指の腹が、私の頬骨のあたりを優しく擦る。 チクリとした後悔の色が混じった黒曜石の瞳を見上げて、私は小さく首を横に振った。「ちがうわ。……あの契約があったから、私はあなたから逃げられなかった。あなたが私を無理やりにでも引き留めてくれなかったら、私たちはきっと、あのまま完全にすれ違って終わっていた」 私は、頬に添えられた彼の手首に自分の手を重ね、その冷えた指先を温めるように両手で包み込んだ。「あの家政婦契約は、私が選んで身につけたものよ。……だから、今の私がある。今の、私たちがいるの」 真っ直ぐに見つめ返すと、彼の瞳の奥で、静かな感情の波が揺れるのがわかった。 彼はギリッと奥歯を一度噛み締めると、深く、重い溜息を吐き出し、私の額に自分の額を押し当ててきた。「……ただいま」 至近距離で、彼の熱い吐息が私の前髪を揺らす。「俺の、最愛の妻」 鼓膜を直接撫で上げるような、低く甘い声。 そのまま、彼は私の額に、触れるか触れないかという極めて軽い、けれど深い労りを孕んだキスを落とした。 温かい痺れが全身へと広がり、私の顔が一気に熱を持つのを感じる。 彼と触れ合うだけで、胸の奥が甘く疼き、どうしようもない安堵感で満たされていく。 ◇ 夕食を終え、はしゃぎ疲れた陽向が子ども部屋のベッドで深い眠りに落ちた後。 静寂を取
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第287話 数年後の「家政婦」④

 そして、ソファの端に腰掛けると、私の両足を自分の太ももの上へとそっと乗せた。「あ、いいわよ、私が自分で……」「じっとしていろ」 短い言葉とともに、彼のごつごつとした大きな手が、私のふくらはぎを包み込んだ。「ひゃっ……」 彼の掌の熱さに、思わず声が漏れる。 彼の親指が、凝り固まった筋肉の筋を正確に捉え、ゆっくりと、そして力強く押し込んでくる。 痛気持ちいい絶妙な力加減。 どんな高級なサロンのプロの施術よりも、彼の手は私の身体の痛い場所を完全に把握し、的確に解してくれるのだ。 言葉はなくとも、その指先の動き一つ一つから、彼がどれほど私の身体を気遣い、大切に思ってくれているかがダイレクトに伝わってくる。「……ふぅっ、そこ、すごく気持ちいい……」 目を閉じ、彼の手の動きに身を任せる。 足首から膝裏にかけて、血液がじんわりと循環していくのがわかる。「これくらいしか、今の俺には代わってやれないからな」 彼が低く呟く声には、どこか不甲斐なさのような色が混じっていた。「そんなことない。……あなたがこうして触れてくれるだけで、痛みが全部溶けていくみたいよ」 私が言うと、彼のマッサージの手がピタリと止まった。 足首を包み込んでいた手が、ゆっくりと上へと移動してくる。 膝を撫で、太ももの側面を滑り、そのまま私の膨らんだ下腹部へとそっと置かれた。 分厚い掌が、お腹の丸みに沿うようにぴったりと密着する。 彼の熱が、洋服越しに直接お腹の中の命へと伝わっていく。 ぽこん。 まるで彼の手の熱に反応したかのように、赤ちゃんが内側から軽く蹴り返してきた。「……っ」 彼が息を呑む気配がした。 お腹に当てられた手が、微かに震えている。「……元気だな」 這うような低い声。 彼は
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第288話 数年後の「家政婦」⑤

 少し硬い髪の毛が、指の間をすり抜ける。「夢じゃないわ」 私は彼の髪を撫でながら、はっきりと告げた。「あなたが血を流して、泥にまみれて、すべてを捨ててまで守り抜いた現実よ。……あなたが、私を見つけてくれたの」 彼がゆっくりと顔を上げる。 その瞳には、せき止めきれなくなった熱い涙が、水膜となって揺れていた。 あの「氷のCEO」と呼ばれ、誰にも涙を見せなかった男が、ただ一人の女の前でだけ、その脆い素顔を晒している。「……莉子」 彼の目尻から、一筋の滴がこぼれ落ち、私の手の甲を濡らした。 火傷しそうなほど熱い、彼の命の温度。 私は親指の腹で、その涙の痕をそっと拭い去った。「泣かないで、私の王様」「……泣いてない」 彼が鼻をすする音を立てて、強がるように言い返す。 その不器用な意地っ張りさが愛おしくて、私は彼の首に両腕を回し、自らその熱い胸板へと身を預けた。 彼の太い腕が、私の背中を包み込む。 骨が軋むほどの、けれどお腹には決して負担をかけない、絶妙な力加減の抱擁。「……ありがとう。俺を、一人にしないでくれて」 耳元で囁かれた声とともに、彼の唇が私のこめかみに、そして頬に、祈りを捧げるように何度も落とされた。 最後に重なり合った唇は、貪るような激しさではなく、互いの魂の形を確かめ合うような、深く、静かで、途方もなく優しい口づけだった。 息継ぎの合間に、互いの吐息が混ざり合う。 言葉にしなくても、肌と肌が触れ合うだけで、四年間という残酷な空白が、完全に塗り替えられていくのがわかる。 窓の外では、月明かりに照らされたアブラハム・ダービーの花びらが、夜風に揺れてさやさやと音を立てている。 かつて、雨の夜にすべてを失い、絶望の泥水の中で憎しみ合っていた二人。 互いを傷つけることでしか体温を確かめられなかった、不器用で哀れな孤独な魂。 それが今。 この暖かで、絶
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スピンオフ第1話:天道征也の裏語り ~4年前の雨の夜~①

 ――ガチャン、と。 錆びついた金属同士が噛み合う鈍い音が、狭い玄関に響き渡った。 築三十年を超える木造アパートの、薄っぺらい鉄のドア。 その内側にある古めかしいサムターンを力任せに回し切った瞬間、俺の全身から支えという支えが消失した。「……っ」 肺に溜まっていた空気が、ひび割れたような音を立てて喉から漏れ出る。 ドアの冷たい表面に背中を預けたまま、ずるずると、重力に従って身体が滑り落ちていく。 湿ったコンクリートの三和土に尻餅をつき、長い脚を無様に投げ出した。 外からは、トタン屋根を容赦なく叩きつける豪雨の音が、まるで世界の終わりを告げるノイズのように鼓膜を塞いでいる。 だが、その雨音すらも、今この狭い空間に充満している『彼女』の残骸を掻き消すことはできなかった。 右手を見る。 薄暗い裸電球の光の下で、俺の掌は小刻みに、自分でも制御できないほど震えていた。 つい数十秒前まで、この手は彼女の身体に触れていた。 雨をたっぷりと吸い込んで重くなった、高級なシルクのワンピース。 その薄い生地越しに伝わってきた、折れてしまいそうなほど華奢な肋骨の感触と、震える肩の頼りなさ。 無理やり壁に押し付け、首筋に唇を落とした時の、肌の異常なほどの熱さ。「……クソッ」 震える右手を強く握り込み、自らの太ももを殴りつける。 鈍い痛みが走るが、掌にこびりついた彼女の感触は少しも薄れない。 鼻の奥には、彼女が纏っていた甘い花の香りが、このアパート特有の湿気たカビの匂いと混ざり合って、むせ返るほど色濃く残留している。 高級なシャンプーの匂い。雨に濡れた土の匂い。そして、恐怖と悲しみに染まった、彼女自身の甘い体臭。 呼吸をするたびに、彼女の気配が肺の奥深くまで侵入してきて、俺の内側をグチャグチャに掻き乱していく。『私なら、お父様に頼んであなたの学費だって、就職だってなんだって用意できるのに!』 ドアの向こうで、彼女が叫んだ言葉が、脳内で何度も、何度もリフレ
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スピンオフ第2話:天道征也の裏語り ~4年前の雨の夜~②

大学のゼミや、バイト先の金融関係のネットワークから漏れ聞こえてくる情報をつなぎ合わせれば、月島家がすでに泥船に乗っていることは明白だった。 彼女の父親は追い詰められ、彼女が当たり前のように享受してきた「お姫様」としての生活は、もうすぐ音を立てて崩れ去る。 彼女の幼馴染であり、次期頭取候補である神宮寺蒼が、彼女を狙っていることも知っていた。 あいつは、月島家を意図的に破滅させ、全てを失った莉子を「救済」という名目で手に入れようとしている。 俺は、隣の家に住むただの苦学生として、その進行していく悲劇を指をくわえて見ていることしかできなかった。 俺には、何もない。 彼女の父親の会社を救うための莫大な資金も。 神宮寺の圧力に対抗できる権力も。 雨の中で震える彼女に、清潔なタオルと温かいベッドを与え、「もう何も心配しなくていい」と言ってやれるだけの、絶対的な安全地帯すらも。 「……俺には」 ギリッ、と奥歯を噛み鳴らす。 顎の筋肉が痛むほど食いしばっても、口から漏れ出るのは情けない弱音だけだ。 「俺には……お前を幸せにする力が、何一つない」 この四畳半のカビ臭いアパート。 すきま風が吹き込み、隣の部屋のいびきが壁越しに聞こえるような劣悪な環境。 こんな泥水の中に、太陽の下で咲くべき彼女を引きずり込むわけにはいかなかった。 あの瞬間、彼女の涙が俺の手の甲に落ちた時。 俺は自分自身の恐ろしさに震えたのだ。 彼女の細い腰を掴み、柔らかな肌に歯を立てながら、俺の頭の中にあったのは「このまま犯してしまえばいい」という獣の思考だった。 不安でボロボロになっている彼女の心につけ込み、身体の奥深くに俺の痕跡を刻み込めば、彼女はもう二度と俺から離れられなくなる。 金も力もなくても、恐怖と快楽で縛り付けることならできる。 俺の心の底に眠っていた、彼女に対する狂ったような独占欲が、理性の鎖を食いちぎろうとしていた。 彼女が俺を必要としてくれている今なら、完全に俺だけのものにできる。 そう思った自分が、死ぬほど気持ち悪かった。 『泣くくらいなら、誘うな』 『失せろ。二度と俺の視界に入るな』 俺の口から出た言葉は、自分でも驚くほど冷たく、鋭利な刃物となっていた。 彼女の絶望に満ちた目。 すべて
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