没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~

没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~

last updateTerakhir Diperbarui : 2026-02-05
Oleh:  花柳響Baru saja diperbarui
Bahasa: Japanese
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「もう俺の前に現れるな」――冷酷に突き放されたはずの初恋。 没落令嬢の莉子は、母の手術費を稼ぐため家政婦として働くが、その主はかつて残酷に傷つけた元隣人の天道征也だった。 かつての貧しい青年は、今や巨大コンツェルン「天道ホールディングス」を率いる冷徹なCEO。彼は莉子の窮状を見透かし、「24時間、主人のあらゆる命令に即時従う」という家政婦の枠を超えた支配的な契約を突きつける。 「要塞」のような豪邸で、牙を剥く彼の執着。 「俺が命じれば、たとえ服を脱げと言われても従え」 これは復讐か愛か――。再会から始まる溺愛と支配のロマンス。

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Bab 1

第1話 嵐の夜の拒絶と再会①

 激しい雨が、視界を白く塗り潰していく。

 ずぶ濡れになりながら、私は立ち尽くしていた。

 シルクのワンピースが肌に張り付いて、体温を奪う。靴の中に雨水が流れ込んでくる不快感に、指先が強張る。震えが止まらないのは、寒さのせいなのか、それとも目の前の男が放つ眼差しのせいなのか。

「……言ったはずだ」

 雨音にかき消されそうな低い声。

 傘も差さず、彼はこちらを見下ろしていた。かつて恋い焦がれ、手が届くと信じていた人。

「もう、俺の前に現れるなと」

 心臓を素手で握り潰されたような痛みが走った。

 縋るように伸ばしかけた手は空を切り、雨を吸って重くなった安物のTシャツに触れることさえ許されない。

 濡れた前髪の隙間から覗く瞳には、幼馴染としての情なんて欠片もなく、ただ底知れない拒絶の色だけがあった。

「せい……や、ごめんなさい、私……」

「名前を呼ぶな」

 刃物のような鋭い声。

 雷鳴が轟き、一瞬だけ彼の顔を青白く照らし出す。

 陽だまりみたいに暖かかった眼差しは、もうどこにもない。そこにあるのは、すべてを焼き尽くすような冷たい炎だけだ。

「お前みたいな女は、見るだけで胸が濁る。……失せろ」

 重たい音を立てて、錆びついた鉄の扉が閉ざされた。

 ガチャリ、と冷たい金属音が鳴り、ふたりの世界を隔てる。

 十八歳の誕生日の夜。世界で一番寂しい方法で、私の初恋は死んだ。

 ◇

「……莉子? 聞いてるの?」

 不意に名前を呼ばれ、ハッと顔を上げた。

 視界にあるのは、曇ったガラス窓と、安アパートの薄汚れた壁。雨音なんて聞こえない。外からは、朝のラッシュの喧騒と、工事の音が聞こえてくるだけ。

「あ、すみません……。何でしたか」

 慌ててエプロンの紐をきつく締め直す。

 鏡に映るのは、もうお嬢様じゃない私だ。洗いざらしのシャツに黒いパンツ、実用一点張りのベージュのエプロン姿。化粧っ気のない顔色が悪く、目の下には隈が張り付いている。

 二十二歳。あの夜から四年。今の私は何も持たない、ただの月島莉子でしかなかった。

「今日の現場のことよ。私の代わりに急に行ってもらうことになって悪いけど、大きなお屋敷だから気をつけてねって」

 背後で、母が心苦しそうに眉を下げている。

 かつては宝石を撫でていたその手も、今では水仕事で荒れてゴツゴツしていた。先週からの微熱と腰痛が悪化して、今日は起き上がれそうになかったのだ。

「大丈夫よ、お母さん。お掃除ならもう慣れっこだし、どこへ行ってもやることは一緒だから」

「そうだけど……あそこのご主人、すごく厳しくて几帳面なんだって噂なの。特にプライベートエリアには絶対に入らないようにって、派遣会社の人からも念を押されてて」

「わかってる。余計なことには首を突っ込まない。ただの黒子になって、埃ひとつ残さずに帰ってくるから」

 努めて明るく笑って、母の肩にブランケットを掛け直す。

 父が亡くなり、会社が倒産し、すべてを失ってから四年。生きるために選んだのは、プライドを捨てて手を汚すことだった。どんなに厳しい雇い主だろうと、今日の日銭と明日の食費の方がずっと重い。

「行ってきます」

 清掃用具が詰まった重いボストンバッグを肩にかけ、狭い玄関を出た。

 鉄のドアを閉めると、蝶番が錆びた音を立てて、心のどこかが擦れた気がした。

 指定された住所は、皮肉にも、かつて住んでいた高級住宅街の一角だった。

 電車とバスを乗り継ぎ、小高い丘の上のエリアに降り立つと、空気の味さえ変わった気がする。手入れされた街路樹、ゴミひとつない舗装道路、塀の向こうに見える立派な庭木。

 ここには生活の匂いがない。あるのは、静かで圧倒的な富の残り香だけ。

 懐かしいなんて思う資格もないくせに。

 バッグのベルトを握りしめ、昔通った坂道を登る。

 心臓が早鐘を打つ。角を曲がるたびに、幼い頃の記憶が蘇る。白い犬と散歩した歩道、迎えの車を待ったロータリー。そして、その先に見えていたはずの生家――月島邸。

 けれど、目的地に近づくにつれて、足取りは鉛みたいに重くなった。

 そこは、自分の家の隣だった場所。

 かつて、古びたアパートが建っていた一角。雑草だらけで薄暗かったあの場所に、今は周囲を威圧するようなモダンな邸宅が聳え立っている。

「……ここなの?」

 思わず足を止めて見上げた。

 打ちっ放しのコンクリートと、空を映す巨大なガラス。高くそびえる塀は中の様子を完全に隠していて、まるで要塞みたいだ。

 表札にはデザインされたロゴがあるだけで、すぐには読めない。

 住所は合っている。でも、かつての景色があまりにも変わりすぎていて戸惑う。

 昔、隣に住んでいた貧しい彼を思い出しそうになって、慌てて首を振った。

 関係ない。今の私に、過去に浸っている暇なんて一秒もないんだ。

 深呼吸して、通用口のインターホンを押した。

『……はい』

 スピーカー越しに聞こえたのは、低く沈んだ男の声。心臓が跳ねたけど、セキュリティの音声だろうと思い直す。

「本日、清掃に伺いましたスタッフの月島です」

『……どうぞ。鍵は開いてる』

 短くそれだけ告げられ、通話が切れた。同時に、重々しいロック解除音が響く。

 掌に滲んだ汗をスカートで拭って、重い扉を押し開けた。

 一歩踏み入れた瞬間、空気が変わった。

 ひんやりと冷たくて、静かだ。

 廊下は美術館みたいに静まり返っていて、床の大理石は鏡みたいに磨かれている。安物のスニーカーが、キュッ、と場違いな音を立てた。

 息を殺すようにして、指定されたリビングへ向かう。

 広い。それに、この匂いは……。

 リビングの扉を開けた瞬間、漂ってきた香りに足が止まった。

 上質なレザーと、深く焙煎されたコーヒー。そして鼻を掠める、冷たいミントみたいな清潔な匂い。

 どこかで嗅いだことがある。記憶の奥底で疼く、痛いほど懐かしい匂い。

 部屋の中央には重厚なソファが鎮座し、壁一面の棚には洋書やモダンアートが並んでいる。生活感なんてまるでない。モデルルームみたいに完璧で、冷たい。

 けれど、置かれているモノの趣味――モノトーンを基調とした、無駄のない鋭利な感じに、強烈な既視感を覚える。

 初めて来たはずなのに、知っている気がしてならない。

 ざわつく肌をなだめて、仕事にかかるためにバッグを下ろした。

 まずは埃払いからだ。余計なことは考えない。私はただの清掃員なんだから。

 自分に言い聞かせてハタキを手に取った、その時だった。

 サイドボードの上に、伏せられた写真立てがある。

 掃除のために持ち上げて、何気なく表を向けた瞬間、時間が止まった。

 カシャン。

 手からハタキが落ちて、乾いた音を立てる。

 指先が震えて、写真立てを支えきれない。

 そこに写っていたのは、知っている姿よりも少し大人びた彼――天道征也だった。

 少し伸びた黒髪、射抜くような瞳、不機嫌そうな薄い唇。背景には、どこか寂しげな海が広がっている。

「うそ……」

 喉から掠れた声が出た。

 血の気が引いていくのがわかる。

 ここは、彼の家なのか。

 あんなに貧しかった彼が、こんな豪邸を。

 混乱する頭に、四年前の記憶が濁流みたいに押し寄せてくる。

 私が彼にしたこと。彼が大切にしていた人がいると知っていながら、嫉妬に狂って送りつけた一枚の写真。

 海辺で無理やり撮ったツーショット。その裏に『征也は私のもの』と書いてポストに放り込んだ、最低で幼稚な悪意。

 それがバレた時の、あの凍りつくような怒り。

 私の初恋は、綺麗な思い出なんかじゃない。罪と罰で塗り固められた記憶だ。

 逃げなきゃ。

 本能が警鐘を鳴らす。ここにいちゃいけない。彼に見つかったら、今度こそ本当に終わってしまう。

 でも、足が床に縫い付けられたみたいに動かない。写真の中の彼に見つめられているような気がして、息ができない。

 記憶の蓋が、こじ開けられる。

 意識は、雨音と一緒に四年前のあの夜へ引きずり戻された。

 十八歳の私が、プライドも何もかも捨てて、彼の安アパートに押し掛けたあの夜へ――。

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2026-01-07 06:21:39
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第1話 嵐の夜の拒絶と再会①
 激しい雨が、視界を白く塗り潰していく。  ずぶ濡れになりながら、私は立ち尽くしていた。  シルクのワンピースが肌に張り付いて、体温を奪う。靴の中に雨水が流れ込んでくる不快感に、指先が強張る。震えが止まらないのは、寒さのせいなのか、それとも目の前の男が放つ眼差しのせいなのか。 「……言ったはずだ」  雨音にかき消されそうな低い声。  傘も差さず、彼はこちらを見下ろしていた。かつて恋い焦がれ、手が届くと信じていた人。 「もう、俺の前に現れるなと」  心臓を素手で握り潰されたような痛みが走った。  縋るように伸ばしかけた手は空を切り、雨を吸って重くなった安物のTシャツに触れることさえ許されない。  濡れた前髪の隙間から覗く瞳には、幼馴染としての情なんて欠片もなく、ただ底知れない拒絶の色だけがあった。 「せい……や、ごめんなさい、私……」 「名前を呼ぶな」  刃物のような鋭い声。  雷鳴が轟き、一瞬だけ彼の顔を青白く照らし出す。  陽だまりみたいに暖かかった眼差しは、もうどこにもない。そこにあるのは、すべてを焼き尽くすような冷たい炎だけだ。 「お前みたいな女は、見るだけで胸が濁る。……失せろ」  重たい音を立てて、錆びついた鉄の扉が閉ざされた。  ガチャリ、と冷たい金属音が鳴り、ふたりの世界を隔てる。  十八歳の誕生日の夜。世界で一番寂しい方法で、私の初恋は死んだ。 ◇「……莉子? 聞いてるの?」  不意に名前を呼ばれ、ハッと顔を上げた。  視界にあるのは、曇ったガラス窓と、安アパートの薄汚れた壁。雨音なんて聞こえない。外からは、朝のラッシュの喧騒と、工事の音が聞こえてくるだけ。 「あ、すみません……。何でしたか」  慌ててエプロンの紐をきつく締め直す。  鏡に映るのは、もうお嬢様じゃない私だ。洗いざらしのシャツに黒いパンツ、実用一点張りのベージュのエプロン姿。化粧っ気のない顔色が悪く、目の下には隈が張り付いている。  二十二歳。あの夜から四年。今の私は何も持たない、ただの月島莉子でしかなかった。 「今日の現場のことよ。私の代わりに急に行ってもらうことになって悪いけど、大きなお屋敷だから気をつけてねって」  背後で、母が心苦しそうに眉を下げている。  かつては宝石を撫でていたその手も、今では水仕事で荒れてゴツゴツし
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-20
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第2話 嵐の夜の拒絶と再会②
 あの日も、今日みたいに全てを掻き消すような雨が降っていた。「開けて! 征也、お願い、話を聞いて!」 錆びついた鉄のドアを叩く拳は、もう感覚がない。頬を伝うのが雨なのか涙なのか、自分でもわからなかった。  脳裏に焼き付いているのは、大学で見かけた光景だ。隣を歩く清楚な女性に、私には一度も向けたことのない穏やかな笑顔を見せる横顔。  胸の奥が焼け付いて、衝動のまま彼女のポストに写真を突っ込んだ。私が彼と映った、ただのツーショット。幼いマーキングのつもりだった。  けれど、それが招いたのは、取り返しのつかない拒絶だった。「もう帰ってくれ。これ以上やるなら警察を呼ぶ」 ドア越しの声は心臓が凍るほど冷たい。でも、ここで引いたら終わりだ。二度と会えなくなるなんて耐えられない。  ガチャリ、と鍵が開く音がした瞬間、滑り込むように身体をねじ込んだ。  濡れたシルクのワンピース越しに伝わる体温。驚くほど熱く、けれど岩のように強張っている。 「嫌……っ、捨てないで! 私が悪かった、謝るから。でも、あの人はあなたに釣り合わない。私を見て。私なら、お父様に頼んであなたの学費だって、就職だってなんだって用意できるのに!」  最低な言葉だった。  プライドばかり高いお嬢様が、愛をお金で繋ぎ止めようとする、浅ましい戯言。  眉間に皺を寄せた彼は、無言で腕を振りほどこうとする。日々の肉体労働で鍛え上げられた腕は、びくともしない。  突き放されるのが怖くて、爪先立ちになって唇を塞いだ。 「……っ!?」  鉄の味がした。  驚いて固まる彼に、必死で言葉を継ぐ。 「好き……征也、好きなの。私を、あなたのものにして。そうしたら、もう離れられないでしょ」  男を知りもしないくせに、震える指でベルトに手をかけた。カチリ、と金具の外れる音が、狭い玄関にやけに響く。  その直後、視界が揺らいだ。  背中を壁に打ち付けられて、肺の空気が押し出される。  逃げ場はない。  目の前には、理性の飛んだ男の顔。 「……ふざけるな」  地を這うような唸り声と一緒に、顎を掴み上げられた。  骨が軋むほど痛い。けれど、その痛烈な力さえも、私に触れてくれている証拠みたいで、背筋が痺れた。  至近距離で睨み合う瞳。そこには軽蔑と、怒りと――それらをねじ伏せるような、暗く濁った熱
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-20
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第3話 嵐の夜の拒絶と再会③
 ——カチリ。 時計の針が進む音で、現実に引き戻された。 「はぁ……っ、はぁ……」  呼吸が浅い。  掴んでいた写真立てのガラスが、指の熱で曇っている。背中を伝う汗がシャツに張り付いて、気持ち悪い。  記憶の中の、あのザラついた手の感触と、氷みたいな拒絶の言葉。  あまりに鮮明すぎて、今もまだ腕を掴まれているような錯覚が消えない。 「どうして……? ここが、征也の……」  震える指で、写真立てを元の位置に戻す。ミリ単位のズレも許されない気がして、息を止めて角度を直した。ガラスについた指紋をエプロンの裾で拭う。私という異物が、この空間から消えていくように。  逃げなきゃ。  警報が頭の中で鳴り響く。  もし今、彼が帰ってきたら。「二度と現れるな」と言い捨てた女が、家政婦として家に上がり込んでいると知ったら。  想像しただけで膝が笑う。今の彼は、あのアパートの苦学生じゃない。私の生活なんて、指先一つで簡単にひねり潰せる。  でも。 「……母さん」  今日逃げ出せば、明日の薬代がない。  お嬢様のプライドなんて、とっくにドブに捨てたはずだ。 「……やるしかない」  唇を噛んで、ハタキを握り直す。  私は月島莉子じゃない。ただのスタッフ。番号だけで管理される、透明人間だ。 そこからの時間は、拷問に近かった。  広いリビングの床を磨きながら、無意識に彼の気配を拾ってしまう。  ソファの背もたれに落ちていた、短い黒髪。拾い上げた指先が、火傷したみたいに熱くなる。ゴミ箱のミネラルウォーターの空きボトル、サイドテーブルの読みかけの洋書。  彼がここに座って、息をして、この景色を見ている。  胸が苦しい。なのに、体の奥がざわつくのを止められない。  情けない。あんなに酷いことをされたのに。  逃げるように手を動かした。キッチン、ゲストルーム、廊下。  幸い、主寝室と書斎には鍵がかかっていた。もし中に入って、彼の匂いが染み付いたシーツでも見ていたら、おかしくなっていたかもしれない。  終了予定の五分前。  指紋ひとつ、髪の毛一本残さず磨き上げた。完璧だ。  勝手口で、震える指を端末に滑らせて退勤報告を送る。 「失礼いたしました……」  誰もいない空間に頭を下げて、鉄の扉を閉めた。  外気は冷たくて、雨上がりの土の匂いがす
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-21
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第4話 家政婦契約①
 日が落ちて、空がドス黒い群青色に染まる頃、ようやくアパートに辿り着いた。  築三十年の木造建築特有の、湿気たカビと煮炊きの混ざった匂いが鼻をつく。  これが私の現実だ。けれど、あの窒息しそうな豪邸から解放された安堵で、肺の奥から息が漏れた。 「ただいま、母さん」 「おかえり、莉子。早かったのね」  布団から身を起こした母の顔色は、朝より少しマシに見える。それだけで、胃のあたりで固まっていた緊張が解けた。  スーパーで買ってきたレトルトのお粥を鍋にあける。狭いキッチンで火をつけながら、何気ないふりをして聞いた。 「ねえ、今日の依頼主って、どんな人か聞いてる? 派遣会社の人、何か言ってた?」 「ええと、確か三十くらいの若い実業家だって。天道グループの社長さんらしいわよ」 「天道……」  名前を口にした途端、心臓が嫌な音を立てた。  やっぱり、彼だったんだ。  母は気づいていない。かつて隣のアパートに住んでいた貧しい苦学生が、その「天道社長」だなんて想像もしていないだろう。当時の彼なんて、母にとっては挨拶を交わす程度の、名前も知らない隣人でしかなかったのだから。 「独身なんですって。あんな広い家に一人なんて、寂しくないのかしらね」 「……独身、なんだ」  お玉を動かす手が止まった。  白く煮立つお粥を見つめながら、暗い熱がじわりと胸に広がる。  よかった、なんて。  あの日、私が壊してしまった関係。あれほど愛し合っているように見えた彼女とは、結局ダメになったのか。それとも、あの人は今も、誰のことも愛していないのか。  浅ましい安堵が胸をかすめて、すぐに自己嫌悪で吐き気がした。  何様なの、私は。関係ないのに。私に彼を想う資格なんて、これっぽっちも残ってないのに。  湧き上がる感情をねじ伏せるように、鍋の底をガリガリとかき混ぜた。  もう二度と、あそこへは行かない。  派遣会社には適当な理由をつけて、担当を変えてもらおう。実家の近くで辛いとか、なんとでも言える。逃げなきゃ。本能がそう言っている。  でも、甘かった。  一度足を踏み入れた泥沼から、そう簡単に抜け出せるわけがなかったんだ。 ◇ その夜。 「……っ、げほっ、ごほっ……」  暗闇の中で、母が苦しげに咳き込んだ。  弾かれたように布団に駆け寄って、額に触れ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-21
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第5話 家政婦契約②
 胸の奥が、早鐘を打った。  指名? 私が?  あんなに怯えて、逃げるように帰ってきたのに。 『それでね、今後も専属でお願いしたいって。時給も破格よ。こんな好条件、滅多にないわ』 「……お断りします」  頭で考えるより先に、口が動いていた。 「申し訳ありません。あそこの空気は……今の私には、重すぎて。どうしても、無理なんです」 『えっ? どうして?』 「ほかの場所なら、どこへでも行きます」  受話器を握る手に汗が滲む。 「どんなにキツい現場でも、汚れ仕事でも何でもします。だから、あそこ以外で……別のお仕事をお願いできないでしょうか」  必死だった。  姿が見えなくても、あの人の気配が染み付いた場所にいるだけで、私が私じゃなくなりそうで怖い。これ以上近づいちゃいけない。本能が警報を鳴らしている。  電話の向こうで沈黙が落ちた。佐藤さんの声から、営業用の明るさが消える。 『……月島さん。正直に言うわね。これは希望じゃなくて、決定事項なの』  書類をめくる、乾いた音がした。 『先方は「他の人間じゃダメだ」って仰ってる。もしあなたが断るなら、天道様はウチとの契約を白紙に戻すそうよ。そうなったら、会社としても今後あなたに仕事を紹介するのは難しくなる……わかるわよね?』  息を呑む。  断れば、行き止まり。言葉の裏にある圧力に、外堀を埋められた気がした。あの人の機嫌を損ねれば、ようやく掴んだ命綱を切られることになる。 『でもね、条件はいいわよ。時給アップに、特別手当。それに……』  佐藤さんが声を弾ませて、畳み掛けてくる。 『「契約期間中は、当方のスケジュールを最優先にすること」。事実上の専属契約ね。詳しい書類は、すぐに届くはずよ』  逃げ場を塞いで、金で縛り付ける。  かつてその傲慢さで振るった力を、今度は私を飼い殺すために使おうとしている。 「ごほっ、……ぅぅ……」  背後で、母の苦しげな呻き声がした。  それが、迷いを断ち切る合図だった。  プライドを守って野垂れ死ぬか、すべてを差し出して明日を繋ぐか。答えなんて、最初から決まっている。 「……わかりました」  乾いた唇を舐めて、降伏した。 「その話、お受けします」 ◇ 翌日の午後。  靴底で迷いを踏み潰して、またあの重厚な門の前に立っていた。  曇り空の
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-21
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第6話 CEOと赤いキャンディ①
 二階の廊下は、死んだように静かだった。  突き当たりの重厚な扉。  カードキーをかざすと、無機質な電子音とともにロックが外れた。ノブを回し、ゆっくりと押し開ける。 「っ……」  一歩踏み入れた瞬間、息が止まった。  遮光カーテンで閉ざされた薄暗い部屋。私のアパートが丸ごと入りそうな広さの中央に、キングサイズのベッドが鎮座している。  そして、匂い。  リビングとは桁違いだ。鼻孔を突き刺すような、鮮烈な「彼」の匂いが充満している。  高いコロンと、微かな煙草。そこに男の人特有の体温が混ざった、頭がくらくらするような香り。四年前のあの夜、私を組み敷いた彼から漂っていたものと同じだ。 (征也……)  いないはずなのに、視線を感じて足がすくむ。  逃げるようにスイッチを押した。  照明が灯り、モデルルームみたいに片付いた部屋が浮かび上がる。けれど、ベッドサイドには飲みかけのグラスと、無造作に置かれた腕時計。  ここで彼が寝起きしている。その生々しさに、胃のあたりがギュッと縮んだ。 「さっさと終わらせよう……」  ワゴンからシーツを取り出し、ベッドへ近づく。  誰かが寝ていた重みで、掛け布団が乱れている。  剥がそうと手を伸ばした時、指先が枕に触れた。  ひやりとしたシルクの感触。  瞬間、指先から電流が走った気がした。  ――『俺のものになりたいんだろう?』  あの夜の囁きが蘇る。耳にかかる湿った吐息、シャツの中に滑り込んできた骨ばった手。  怖くて、惨めで。でも同じくらい、身体の芯が疼いた記憶。  拒絶された傷は塞がっていない。なのに、彼の痕跡に触れると、どうしてこんなに胸がざわつくんだろう。 (……何してるの、私)  馬鹿なことだとわかっている。  私は家政婦で、彼は雇い主。しかも、私をゴミのように捨てた男だ。  けれど、磁石に吸い寄せられるみたいに、枕を両手で持ち上げていた。  顔を埋め、深く息を吸い込む。 「……ん……」  肺が、征也の匂いで満たされる。  冷たくて鋭い、でもどこか甘い香り。脳が痺れて、まるで彼に抱きしめられているような錯覚に陥る。  泣いていた私の頬を、彼が拭ってくれているような――そんな都合のいい幻覚に、一瞬だけ溺れた。 「……変わってない」  枕を抱きしめて蹲る。  誰にも
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-22
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第7話 CEOと赤いキャンディ②
目の前で、濡れた足が止まる。  見上げると、温度のない瞳に見下ろされていた。視線が、私の腕の中――彼自身の匂いを吸い込んだ枕を抱きしめる両手へと滑り落ちる。 「……掃除にしちゃ、随分と熱心だな」  頭上から、嘲るような声が降ってくる。 「他人の残り香を嗅ぐのが、お前の掃除のやり方か?」  カアッ、と顔から火が出るかと思った。  羞恥で頭がおかしくなりそうだ。弾かれたように枕をベッドへ放り投げて、後ずさる。 「ち、違います! これは、シーツを換えようとして、その……!」 「莉子」  名前を呼ばれた瞬間、心臓が止まった。  知っていたんだ。私が誰か、最初からわかっていて。 「せ、せい……や……」 「社長と呼べ。今は仕事中だ」  私の動揺なんてどうでもいいとばかりに、濡れた髪をかき上げる。その動作ひとつで二の腕の筋肉が盛り上がり、水滴が飛び散った。  四年ぶりの再会。なのに彼は、道端の石ころでも見るような目で背を向ける。 「さっさと手を動かせ。俺が着替えるまでに、ベッドメイクを終わらせろ」 「え……?」 「聞こえなかったか? 仕事をしろと言ったんだ」  征也はドレッサーの椅子に腰を下ろすと、バスタオル一枚のまま、優雅に足を組んだ。  鏡越しに、獲物を観察するような目が私を射抜く。 「出て行こうとしてみろ。契約違反で違約金を請求する。……母親の入院費、払えなくなるぞ」  息が詰まる。  どうして、それを。手術のことも、お金が足りないことも、誰にも言っていないのに。 「……調べたんですか」 「ウチに入れる人間だ。身辺調査をするのは当たり前だろう」  事もなげに言って、テーブルのミネラルウォーターを煽る。ごくり、と喉仏が上下する動きが、嫌でも目に入った。  悔しさと惨めさで視界が歪む。この人は私の弱みを握って、この状況を楽しんでいるんだ。 「……わかりました」  震える拳を握り込んで、ベッドに向き直る。  背中から突き刺さる視線を感じながらの作業は、拷問だった。  腰を屈めてシーツの端を伸ばす時も、腕を動かす時も、その視線がねっとりと背中や腰を這い回っている気がして、肌が粟立つ。 (見ないで……お願いだから)  意識すればするほど指先が震える。  ふと、鏡越しに目が合った。彼は頬杖をついて、面白そうに私を眺めてい
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-23
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第8話 CEOと赤いキャンディ③
「子供のころ、嘘ついた時の罰……覚えてるか?」  思考が止まる。  嘘? 罰?  子供の頃の記憶。デコピンとか、くすぐりとか。そんな他愛のないものだったはずだ。でも、今の彼の瞳にあるのは、もっと暗くて、ねっとりした色。 「わ、私はもう子供じゃ……!」 「なら、証明しろ」  鼻で笑って、握りしめていた手を開く。  カサリ、と包み紙の音がした。指先に摘まれていたのは、毒々しいほど真っ赤なキャンディ。  彼はそれを自分の口に放り込むと、私の顎を強引に上向かせた。 「ん……っ!?」  顔が迫る。  整いすぎた顔が視界を埋め尽くす。長い睫毛、冷たい瞳、濡れた唇。  まさか。 「口、開けろ」  命令と一緒に、顔が覆いかぶさってくる。  逃げようと首を振るけど、顎を掴む指が骨に食い込んで動かない。  唇が触れそうな距離。熱い吐息がかかって、甘い匂いとミントの香りが鼻孔をくすぐる。 「い、や……」  拒もうとして口を開いた、その瞬間。塞がれた。  頭が真っ白になる。  唇は驚くほど熱くて、柔らかい。でも、甘いキスなんかじゃない。ただの暴力だ。 「んっ……ふ……っ!」  悲鳴を押し込むように、固い飴玉が滑り込んでくる。  強引に入ってきた舌が、ザラリと絡みついた。転がり込んできた飴の甘さが、口の中で唾液と混ざり合う。  苺の人工的な匂い。そして、彼自身のミントと煙草の味。  息ができない。鼻先が触れ合って、長い睫毛が視界を覆う。 (あ、だめ……っ)  頭の芯が痺れる。悔しいのに、口の中を蹂躙される感覚に、背筋がゾクりと跳ねた。  体は正直だった。四年ぶりの接触に、恐怖よりも先に反応してしまっている。  膝から力が抜けて、崩れ落ちそうになるのを、腰に回った手が支える。薄いエプロン越しでも、掌が焼けるように熱い。  チュッ、と音を立てて唇が離された。 「はぁ……っ、はぁ……っ!」  酸欠で激しく喘ぐ。口の中には、移された飴玉がコロコロと転がっている。どうしようもなく甘くて、「彼」の味がした。 「……甘いか?」  唇についた唾液を親指で乱暴に拭って、彼は意地悪く笑った。  獲物を追い詰めて、弄んで楽しんでいる顔。  今の彼は、私が知っている「征也くん」じゃない。冷酷で、危険な男だ。 「……さいてい」  涙目で睨みつ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-23
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第9話 逃げられない運命①
 逃げるようにして天道邸を出た。  足元がおぼつかない。  夕闇が迫る高級住宅街の静けさが、かえって耳の奥の心臓の音をうるさくさせる。唇にはまだ、あの甘ったるい苺の味と、征也の体温がこびりついて離れない。 「……っ、ふ……っ」  込み上げてきた涙を、エプロンの袖で乱暴に拭った。  最低だ。あんな力ずくでねじ伏せられたのに、指先が触れた場所がまだ熱い。四年前、あれだけ残酷に捨てられたはずなのに。「莉子」と名前を呼ばれた一瞬、尻尾を振って喜んだ自分が死ぬほど惨めだった。 ◇ アパートへ続くいつもの坂道が、今日だけは異様に長い。  母さんに、どんな顔をして会えばいいんだろう。  病気のことも、借金のことも、全部バレていた。背筋が凍る。偶然再会したわけじゃない。最初から、私を逃げ場のない場所に追い込むために、あの門は開いていたんだ。  狭い玄関を潜り、古びた鉄扉を閉める。ようやく肺に酸素が戻ってきた気がした。  けれど、安らぎは一瞬で終わる。  郵便受けに、分厚い封筒が突き刺さっていた。  差出人は、派遣会社。  表には赤字で「親展・至急」のハンコ。  震える指で封を切って、中の書類を引き抜く。  出てきたのは、さっき電話で言われた「専属契約」の合意書だった。  事務的な明朝体が、私を縛り上げる鎖に見える。  本来なら、派遣スタッフがこんな個別契約を結ぶなんてありえない。でも、そこには「天道グループからの寄付に基づく特例措置」なんていう、誰も文句の言えない理屈が添えられていた。 「時給、十倍……?」  金額を見て、息が止まる。  これまでの必死な労働をあざ笑うような、圧倒的な「金」の暴力。でも、これがあれば母さんの手術ができる。海外の新薬も、リハビリも、諦めなくて済む。  ――その代わり、お前のすべてを差し出せ。  紙の裏から、あの冷たい声が聞こえた気がした。  読み進めるにつれ、条文の内容は常軌を逸していく。 『乙は、甲の指示に基づき、指定された場所に常駐すること』 『甲のプライバシー保護のため、契約期間中の外部との接触は、甲の許可を要する』  家政婦の契約じゃない。これじゃまるで、所有物だ。 「……私を、買うつもりなんだ」  乾いた笑いが出た。  許すつもりなんてないんだ。四年前、世間知らずだった私が「金と権力
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-24
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第10話 逃げられない運命②
 暗い部屋の中で、ペン先が紙の上で止まったまま動かない。  これを書いたら、もう戻れない。  分かっているのに、指先が勝手に震える。  インクの黒い染みが、自由を絡め取る蔦みたいに見えて、視界がちかちかと歪んだ。  ページを捲り、末尾にたどり着いた時、心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。そこには、他の条文とは明らかに違うフォントで、一行の「特記事項」が記されていたのだ。『乙は、二十四時間、主人のあらゆる命令に即時従う義務を負うものとする』 二十四時間。  労働時間じゃない。睡眠中も、食事中も、彼と同じ屋根の下にいる間はずっと、私のすべてを支配下に置くということだ。  清掃や洗濯といった「家事」の範疇なんか、とっくに超えている。剥き出しの独占欲だ。 「……っ、なにこれ。おかしいでしょ」  掠れた声が、六畳間の薄い壁に吸い込まれて消える。  法律の形を借りた、ただの脅迫。拒否権なんてないのだと、あの氷みたいな瞳で射抜かれている気がした。  脳裏に、昼間の彼が蘇る。隠そうともしない肉体。顎を掴んで、無理やり飴玉を流し込んできた、乱暴で甘い唇の感触。  征也は本気だ。  四年前のあの夜と同じように――あるいはそれ以上に深く、私を掌の中で弄んで、壊そうとしている。 でも、この紙を破り捨てる勇気なんてなかった。  カバンの奥には、病院からの請求書が入っている。これを払わなきゃ、母さんの明日は来ない。  昔の私は、その「金」の力を使って、彼を見下していた。彼がどんなに努力しても手に入らないものを持っていると信じて、そのプライドを踏みにじった。「私のものになれば救ってあげる」と嘲笑った。  今、あの時と同じ重さの絶望を、突き返されているんだ。  震える右手でペンを握り直す。  月島、莉子。  名前を書く。一画ごとに、自分という人間が削り取られていく気がした。お嬢様だった頃のプライドも、女としての尊厳も、全部インクに溶けて、天道征也という男の足元へ流れ出していく。  最後の点を打ち終えた瞬間、全身から力が抜けて、その場に突っ伏した。  冷たい畳の匂いが鼻をつく。壁越しに、外を走る車の音が聞こえる。  世界は何も変わっていないのに、私の人生だけが、ガタンと音を立てて別のレールへ切り替わってしまった。 台所から、母の苦しげな咳が聞こえる。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-25
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