没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~

没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~

last updateLast Updated : 2026-03-22
By:  花柳響Updated just now
Language: Japanese
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「もう俺の前に現れるな」――冷酷に突き放されたはずの初恋。 没落令嬢の莉子は、母の手術費を稼ぐため家政婦として働くが、その主はかつて残酷に傷つけた元隣人の天道征也だった。 かつての貧しい青年は、今や巨大コンツェルン「天道ホールディングス」を率いる冷徹なCEO。彼は莉子の窮状を見透かし、「24時間、主人のあらゆる命令に即時従う」という家政婦の枠を超えた支配的な契約を突きつける。 「要塞」のような豪邸で、牙を剥く彼の執着。 「俺が命じれば、たとえ服を脱げと言われても従え」 これは復讐か愛か――。再会から始まる溺愛と支配のロマンス。

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Chapter 1

第1話 家政婦契約①

 激しい雨が、視界を白く塗り潰していく。

 ずぶ濡れになりながら、立ち尽くしていた。

 シルクのワンピースが肌に張り付いて、体温を奪う。靴の中に雨水が流れ込んでくる不快感に、指先が強張る。震えが止まらないのは、寒さのせいなのか、それとも目の前の男が放つ眼差しのせいなのか。

「……言ったはずだ」

 雨音にかき消されそうな低い声。

 傘も差さず、彼はこちらを見下ろしていた。かつて恋い焦がれ、手が届くと信じていた人。

「もう、俺の前に現れるなと」

 心臓を素手で握り潰されたような痛みが走った。

 縋るように伸ばしかけた手は空を切り、雨を吸って重くなった安物のTシャツに触れることさえ許されない。

 濡れた前髪の隙間から覗く瞳には、幼馴染としての情なんて欠片もなく、ただ底知れない拒絶の色だけがあった。

「せい……や、ごめんなさい、私……」

「名前を呼ぶな」

 刃物のような鋭い声。

 雷鳴が轟き、一瞬だけ彼の顔を青白く照らし出す。

 陽だまりみたいに暖かかった眼差しは、もうどこにもない。そこにあるのは、すべてを焼き尽くすような冷たい炎だけだ。

「お前みたいな女は、見るだけで胸が濁る。……失せろ」

 重たい音を立てて、錆びついた鉄の扉が閉ざされた。

 ガチャリ、と冷たい金属音が鳴り、ふたりの世界を隔てる。

 十八歳の誕生日の夜。世界で一番寂しい方法で、私――月島莉子(つきしま りこ)の――初恋は死んだ。

 ◇

「月島さん。ちょっと、聞いてるの?」

 苛立った声に、ハッと顔を上げた。

 視界にあるのは、曇ったロッカーの鏡と、派遣会社の薄汚れた壁。

「あ、すみません……」

「しっかりしてよね。今日の現場、急に入った代理なんだから。相手は凄く几帳面なお客様よ」

 コーディネーターの佐藤さんは、鼻先で笑うように指示書を突き出してきた。

 鏡に映るのは、もうお嬢様じゃない私だ。洗いざらしのシャツに黒いパンツ、実用一点張りのベージュのエプロン姿。化粧っ気のない顔は色が悪く、目の下には隈が張り付いている。

「住所はここ。特にプライベートエリアには絶対に入らないようにね。余計なトラブルは御免だから」

 渡された紙切れに視線を落とした瞬間、息が止まりそうになった。

 指定された住所は、かつて住んでいた高級住宅街の一角。それも――私の家の、すぐ隣だった場所だ。

「……どうかした?」

 佐藤さんの探るような声に、慌ててエプロンの紐をきつく握りしめる。

「いえ、大丈夫です。なんでもありません」

 口ではそう答えながら、心臓が嫌な音を立てていた。

(大丈夫。四年も経ったんだから。あの人も、もう引っ越したはず……)

 父が亡くなり、会社が倒産し、母が重い病に倒れてすべてを失ってから四年。生きるために選んだのは、プライドを捨てて手を汚すことだった。どんなに高圧的な雇い主だろうと、今日の日銭と明日の母の薬代の方がずっと重い。

「ただの黒子になって、埃ひとつ残さずに帰ってきます」

 頭を下げ、清掃用具が詰まった重いボストンバッグを肩にかける。

 狭い出口を抜けると、外の冷たい空気が頬を打った。

 電車とバスを乗り継ぎ、小高い丘の上のエリアに降り立つと、空気の味さえ変わった気がする。手入れされた街路樹、ゴミひとつない舗装道路、塀の向こうに見える立派な庭木。

 ここには生活の匂いがない。あるのは、静かで圧倒的な富の残り香だけ。

 バッグのベルトを握りしめ、昔通った坂道を登る。

 角を曲がるたびに、幼い頃の記憶が蘇る。白い犬と散歩した歩道、迎えの車を待ったロータリー。そして、その先に見えていたはずの生家――月島邸。

 かつて、古びたアパートが建っていた一角。雑草だらけで薄暗かったあの場所に、今は周囲を威圧するようなモダンな邸宅が聳え立っている。

「……ここなの?」

 思わず足を止めて見上げた。

 打ちっ放しのコンクリートと、空を映す巨大なガラス。高くそびえる塀は中の様子を完全に隠していて、要塞みたいだ。

 昔、隣に住んでいた貧しい彼を思い出しそうになって、慌てて首を振った。

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reviews

hana
hana
本編完結お疲れさまでした!莉子の没落後の強さが格好良く、征也の冷徹の中の弱さが愛しくてとても好きです これからのスピンオフも楽しみにしてます
2026-03-15 19:40:39
1
0
natsumi
natsumi
更新待ってます!!よろしくお願いします。
2026-02-16 16:00:53
2
0
さと代
さと代
面白い進展の話早く読みたい
2026-01-07 06:21:39
4
0
304 Chapters
第1話 家政婦契約①
 激しい雨が、視界を白く塗り潰していく。  ずぶ濡れになりながら、立ち尽くしていた。  シルクのワンピースが肌に張り付いて、体温を奪う。靴の中に雨水が流れ込んでくる不快感に、指先が強張る。震えが止まらないのは、寒さのせいなのか、それとも目の前の男が放つ眼差しのせいなのか。 「……言ったはずだ」  雨音にかき消されそうな低い声。  傘も差さず、彼はこちらを見下ろしていた。かつて恋い焦がれ、手が届くと信じていた人。 「もう、俺の前に現れるなと」  心臓を素手で握り潰されたような痛みが走った。  縋るように伸ばしかけた手は空を切り、雨を吸って重くなった安物のTシャツに触れることさえ許されない。  濡れた前髪の隙間から覗く瞳には、幼馴染としての情なんて欠片もなく、ただ底知れない拒絶の色だけがあった。 「せい……や、ごめんなさい、私……」 「名前を呼ぶな」  刃物のような鋭い声。  雷鳴が轟き、一瞬だけ彼の顔を青白く照らし出す。  陽だまりみたいに暖かかった眼差しは、もうどこにもない。そこにあるのは、すべてを焼き尽くすような冷たい炎だけだ。 「お前みたいな女は、見るだけで胸が濁る。……失せろ」  重たい音を立てて、錆びついた鉄の扉が閉ざされた。  ガチャリ、と冷たい金属音が鳴り、ふたりの世界を隔てる。  十八歳の誕生日の夜。世界で一番寂しい方法で、私――月島莉子(つきしま りこ)の――初恋は死んだ。 ◇「月島さん。ちょっと、聞いてるの?」  苛立った声に、ハッと顔を上げた。  視界にあるのは、曇ったロッカーの鏡と、派遣会社の薄汚れた壁。 「あ、すみません……」 「しっかりしてよね。今日の現場、急に入った代理なんだから。相手は凄く几帳面なお客様よ」  コーディネーターの佐藤さんは、鼻先で笑うように指示書を突き出してきた。  鏡に映るのは、もうお嬢様じゃない私だ。洗いざらしのシャツに黒いパンツ、実用一点張りのベージュのエプロン姿。化粧っ気のない顔は色が悪く、目の下には隈が張り付いている。 「住所はここ。特にプライベートエリアには絶対に入らないようにね。余計なトラブルは御免だから」  渡された紙切れに視線を落とした瞬間、息が止まりそうになった。  指定された住所は、かつて
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第2話 家政婦契約②
 関係ない。過去に浸っている暇なんて一秒もない。  深呼吸して、通用口のインターホンを押した。 『……はい』  スピーカー越しに聞こえたのは、低く沈んだ男の声。心臓が跳ねたけど、セキュリティの音声だろうと思い直す。 「本日、清掃に伺いましたスタッフの月島です」 『……どうぞ。鍵は開いてる』  短くそれだけ告げられ、通話が切れる。同時に重々しいロック解除音が響いた。  掌に滲んだ汗をスカートで拭って、重い扉を押し開ける。  ひんやりと冷たい空気が肌を撫でた。  美術館のように静まり返った廊下の大理石に、安物のスニーカーがキュッと場違いな音を立てる。  息を殺して指定されたリビングの扉を開けた瞬間、足が止まった。  上質なレザーと深く焙煎されたコーヒー。そして鼻を掠める、冷たいミントのような清潔な匂い。  記憶の奥底で疼く、痛いほど懐かしい匂いだった。  部屋の中央には重厚なソファが鎮座し、壁一面に洋書やモダンアートが並んでいる。生活感のない鋭利な空間に、強烈な既視感を覚える。  ざわつく肌をなだめ、バッグを下ろす。余計なことは考えず、埃払いからだ。自分に言い聞かせてハタキを手に取った、その時だった。 サイドボードの上に、伏せられた写真立てがある。  掃除のために持ち上げて、何気なく表を向けた瞬間、時間が止まった。  カシャン。  手からハタキが落ちて、乾いた音を立てる。  指先が震えて、写真立てを支えきれない。  そこに写っていたのは、知っている姿よりも少し大人びた彼――天道征也だった。  少し伸びた黒髪、射抜くような瞳、不機嫌そうな薄い唇。背景には、どこか寂しげな海が広がっている。 「うそ……」  喉から掠れた声が出た。血の気が引いていくのがわかる。  ここは、彼の――天道 征也(てんどう せいや)の家なのか。あんなに貧しかった彼が、こんな豪邸を。  混乱する頭に、四年前の記憶が濁流みたいに押し寄せてくる。  私が彼にしたこと。  小さい頃から、彼は私にとっての「特別」だった。近くに住んでいて、当時は何かと私のことを気にかけてくれた彼を――私は、「私だけの所有物」だと勘違いしていた。貧しい彼に優しくしてあげているという傲慢さで、彼を自分の可愛い付属品のように見なしていた。  だから、彼が自分以外の女性を大切にし
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第3話 家政婦契約③
「嫌……っ、捨てないで! 私が悪かった、謝るから。でも、あの人はあなたに釣り合わない。私を見て。私なら、お父様に頼んであなたの学費だって、就職だってなんだって用意できるのに!」  最低な言葉だった。  プライドばかり高いお嬢様が、愛をお金で繋ぎ止めようとする、浅ましい戯言。  眉間に皺を寄せた彼は、無言で腕を振りほどこうとする。日々の肉体労働で鍛え上げられた腕は、びくともしない。  突き放されるのが怖くて、爪先立ちになって唇を塞いだ。 「……っ!?」  鉄の味がした。  驚いて固まる彼に、必死で言葉を継ぐ。 「好き……征也、好きなの。私を、あなたのものにして。そうしたら、もう離れられないでしょ」  男を知りもしないくせに、震える指でベルトに手をかけた。カチリ、と金具の外れる音が、狭い玄関にやけに響く。  その直後、視界が揺らいだ。  背中を壁に打ち付けられて、肺の空気が押し出される。  逃げ場はない。  目の前には、理性の飛んだ男の顔。 「……ふざけるな」  地を這うような唸り声と一緒に、顎を掴み上げられた。  骨が軋むほど痛い。けれど、その痛烈な力さえも、私に触れてくれている証拠みたいで、背筋が痺れた。  至近距離で睨み合う瞳。そこには軽蔑と、怒りと――それらをねじ伏せるような、暗く濁った熱があった。 「何をしてるか分かってるのか。どれだけ俺を侮辱すれば気が済む」 「……いいよ。私、あなたのものになりたい」  挑発するように見上げると、彼の呼吸が一段と荒くなった。  熱い呼気が顔にかかる。次の瞬間、大きな掌が、濡れたワンピースの上から食い込むように掴みかかってきた。 「あっ……!」  優しさなんてない。  服の隙間から滑り込んできた指は、私の手とはまるで違う。日々の労働で無数の傷がついた、ヤスリのようにざらついた感触だ。  その硬く荒れた肌が、柔らかい場所を無遠慮に擦り上げる。  痛みと熱。  触れられるたびに、彼が生きてきた過酷な時間そのものに侵される気がして、身体の奥が疼いた。 「あっ……ん、征也……」  漏れた声を、冷酷な眼差しが射抜く。  腰を強く引き寄せられ、首筋に噛みつくようなキスが落ちた。  痛みと、そこから広がる火傷のような熱
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第4話 家政婦契約④
 想像しただけで膝が笑う。今の彼は、あのアパートの苦学生じゃない。私の生活なんて、指先一つで簡単にひねり潰せる。  でも。 「……母さん」  今日逃げ出せば、明日の薬代がない。  お嬢様のプライドなんて、とっくにドブに捨てたはずだ。 「……やるしかない」  唇を噛んで、ハタキを握り直す。  私は月島莉子じゃない。ただのスタッフ。番号だけで管理される、透明人間だ。  そこからの時間は、拷問に近かった。  広いリビングの床を磨きながら、無意識に彼の気配を拾ってしまう。  ソファの背もたれに落ちていた、短い黒髪。拾い上げた指先が、火傷したみたいに熱くなる。ゴミ箱のミネラルウォーターの空きボトル、サイドテーブルの読みかけの洋書。  彼がここに座って、息をして、この景色を見ている。  胸が苦しい。なのに、体の奥がざわつくのを止められない。  情けない。あんなに酷いことをされたのに。  逃げるように手を動かした。キッチン、ゲストルーム、廊下。  幸い、主寝室と書斎には鍵がかかっていた。もし中に入って、彼の匂いが染み付いたシーツでも見ていたら、おかしくなっていたかもしれない。  終了予定の五分前。  指紋ひとつ、髪の毛一本残さず磨き上げた。完璧だ。  勝手口で、震える指を端末に滑らせて退勤報告を送る。 「失礼いたしました……」  誰もいない空間に頭を下げて、鉄の扉を閉めた。  外気は冷たくて、雨上がりの土の匂いがする。肺いっぱいに吸い込んで、やっと生きた心地がした。 ◇ 二十一時。  静まり返ったガレージに、低いエンジン音が吸い込まれていく。  車を降りた征也は、ジャケットを指に引っ掛け、気怠げにネクタイを緩めながらリビングへの扉を開けた。  鋭い視線が部屋を舐める。家具の配置は完璧。埃ひとつない。  それでも、空気が違った。無機質なショールームのような空間に、わずかに残る怯えたような体温。  ソファにジャケットを放り投げ、サイドテーブルに置かれた業務報告書を手に取る。 『スタッフNo.408 月島莉子』  無機質な活字の羅列。  征也の口元が、冷ややかに歪んだ。  偶然ではない。派遣会社のリストにその名前を見つけた日から、真綿で首を絞めるように、彼女が逃げられない外堀を埋めてきたのだ。  報告書をテーブルに放り投
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第5話 家政婦契約⑤
 指名? 私が?  あんなに怯えて、逃げるように帰ってきたのに。 『それでね、今後も専属でお願いしたいって。時給も破格よ。こんな好条件、滅多にないわ』 「……お断りします」  頭で考えるより先に、口が動いていた。 「申し訳ありません。あそこの空気は……今の私には、重すぎて。どうしても、無理なんです」 『えっ? どうして?』 「ほかの場所なら、どこへでも行きます」  受話器を握る手に汗が滲む。 「どんなにキツい現場でも、汚れ仕事でも何でもします。だから、あそこ以外で……別のお仕事をお願いできないでしょうか」  必死だった。  姿が見えなくても、あの人の気配が染み付いた場所にいるだけで、私が私じゃなくなりそうで怖い。これ以上近づいちゃいけない。本能が警報を鳴らしている。  電話の向こうで沈黙が落ちた。佐藤さんの声から、営業用の明るさが消える。 『……月島さん。正直に言うわね。これは希望じゃなくて、決定事項なの』  書類をめくる、乾いた音がした。 『先方は「他の人間じゃダメだ」って仰ってる。もしあなたが断るなら、天道様はウチとの契約を白紙に戻すそうよ。そうなったら、会社としても今後あなたに仕事を紹介するのは難しくなる……わかるわよね?』  息を呑む。  断れば、行き止まり。言葉の裏にある圧力に、外堀を埋められた気がした。あの人の機嫌を損ねれば、ようやく掴んだ命綱を切られることになる。 『でもね、条件はいいわよ。時給アップに、特別手当。それに……』  佐藤さんが声を弾ませて、畳み掛けてくる。 『「契約期間中は、当方のスケジュールを最優先にすること」。事実上の専属契約ね。詳しい書類は、すぐに届くはずよ』  逃げ場を塞いで、金で縛り付ける。  かつてその傲慢さで振るった力を、今度は私を飼い殺すために使おうとしている。 「ごほっ、……ぅぅ……」  背後で、母の苦しげな呻き声がした。  それが、迷いを断ち切る合図だった。  プライドを守って野垂れ死ぬか、すべてを差し出して明日を繋ぐか。答えなんて、最初から決まっている。 「……わかりました」  乾いた唇を舐めて、降伏した。 「その話、お受けします」 ◇ 翌日の午後。  靴底で迷いを踏み潰して、またあの重厚な門の前に立っていた。  曇り空の下、昨日の雨を含んだ生ぬるい風
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第6話 CEOと赤いキャンディ①
 二階の廊下は、死んだように静かだった。足音を吸い込む毛足の長い絨毯が、どこまでも続いている。窓のない空間は間接照明のわずかな光だけが頼りで、まるで外界から完全に切り離された別の世界に迷い込んだようだった。  突き当たりの重厚な扉。黒光りする木製の表面には、微かな木目が浮かび上がっている。  カードキーをかざすと、無機質な電子音とともにロックが外れた。冷たい金属のノブを回し、重さを感じる扉をゆっくりと押し開ける。 「っ……」  一歩踏み入れた瞬間、息が止まった。  分厚い遮光カーテンで閉ざされた薄暗い部屋。わずかに開いた隙間から、灰色の空の光が細い糸のように差し込み、床の絨毯に頼りない模様を描いている。私のアパートが丸ごと入りそうな広さの中央に、深い色合いのカバーが掛けられたキングサイズのベッドが鎮座している。  そして、匂い。  冷たく整えられたリビングとは桁違いだ。部屋の空気を吸い込んだ途端、鮮烈な「彼」の匂いが充満していることに気がついた。  高いコロンの清潔な香りと、微かな煙草の残り香。そこに男の人特有の熱を帯びた体温が混ざった、頭がくらくらするような香り。四年前のあの夜、雨の中で私を組み敷いた彼から漂っていたものと同じだ。 (征也……)  いないはずなのに、どこからか視線を感じて足がすくむ。壁に掛けられた抽象画や、黒で統一された調度品の一つ一つが、彼の気配を吸い込んでいるかのようだ。  逃げるように壁際のスイッチを押した。  オレンジ色の温かみのある照明が灯り、モデルルームみたいに片付いた部屋の輪郭が浮かび上がる。埃一つ落ちていない完璧な空間。けれど、木目の美しいベッドサイドテーブルには、水滴のついた飲みかけのグラスと、無造作に外された銀色の腕時計が残されていた。  ここで彼が眠り、目覚め、息をしている。その生々しさに、胃のあたりがギュッと縮んだ。 「さっさと終わらせよう……」  清掃用具を乗せたワゴンから真っ白なシーツを取り出し、ベッドへ近づく。足を踏み出すたびに、自分の呼吸音だけが耳に響いた。  誰かが寝ていた重みで、分厚い掛け布団が不規則な波を打つように乱れている。  それを剥がそうと手を伸ばした時、指先が枕に触れた。  ひやりとしたシルクの滑らかな感触。  瞬間、指先から電流が走った気がした。  ――『俺のも
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第7話 CEOと赤いキャンディ②
 泣いていた私の頬を、彼が大きな手で拭ってくれているような――そんな都合のいい幻覚に、一瞬だけ溺れた。 「……変わってない」  枕を胸に抱きしめて、ベッドの脇に蹲る。  誰にも言えない。言えるわけがない。こんな、浅ましくて惨めな秘密。  その時だった。  ――シャー……。  静寂を破る微かな水音が、ふいに鼓膜を叩いた。  弾かれたように顔を上げる。音は部屋の奥、扉の開いたウォークインクローゼットのさらに先にあるバスルームから漏れてきている。  シャワー? 「え……?」  一瞬で血の気が引いていくのがわかった。  嘘でしょ。この時間は会社にいるはずじゃなかったの?  手元の依頼書には、確かに「不在時の清掃」と書かれていたはずだ。  一定のリズムで水音が続いている。硬いタイルに湯が打ち付けられる音が、部屋の静けさの中でやけに大きく響く。誰かが、あそこにいる。 (まさか……征也?)  心臓が早鐘を打ち、警鐘を鳴らす。  逃げなきゃ。シャワーを浴びている今のうちに、足音を立てずにこっそり出ていけば間に合うかもしれない。  急いで立ち上がろうとした、その瞬間。  ピタリ、と水音が止んだ。  しん、と水を打ったように静まり返る部屋に、私の荒くなった呼吸だけが耳障りに響く。  終わった。出てくる。  金縛りにあったみたいに足が動かない。視線が、奥に見える曇りガラスのドアに完全に釘付けになる。  ガチャリ。  金属のノブが回り、内側からゆっくりとドアが開かれた。  隙間から溢れ出した白い湯気と一緒に、湿気を帯びた圧倒的な気配が部屋の空気を押し除けるように流れ込んでくる。  現れたのは、半裸の征也だった。  腰に白いバスタオルを一枚巻いているだけだ。無造作にかき上げられた濡れた黒髪から滴る水滴が、広い額を通り、通った鼻筋を伝って、深い鎖骨の窪みへと滑り落ちていく。  引き締まった厚い胸板、綺麗に割れた腹筋。そこには、昔のひょろりとした青年の面影なんて欠片も残っていない。日々の鍛錬を感じさせる、自信と力を持て余した大人の男の身体がそこにあった。 「……っ!」  喉が引きつり、悲鳴すら出ない。私は無意識に、抱きしめていた枕を盾にするみたいに胸に押し当て、身体を小さく縮こまらせた。  見てはいけないものを見たという罪悪感と、石鹸の
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第8話 CEOと赤いキャンディ③
 目の前で、水滴の落ちる足がピタリと止まった。  彼は私を部屋の壁際へと追い詰めるように立つと、私の腕の中にある彼の枕へと視線を落とし、ふっと鼻を鳴らした。 「……他人の残り香を嗅ぐのが、お前の掃除のやり方か?」 「ち、違います! これは、シーツを換えようとして……」  慌てて弁解する私を遮るように、彼はわずかに顔を近づけてきた。 「ただの家政婦です、なんて顔をして。……相変わらず、お前は嘘が下手だな」  心臓が大きく跳ねる。核心を突かれたような気がして、私は思わず息を呑んだ。 「子供のころ、嘘ついた時の罰……覚えてるか?」  思考が止まる。  嘘? 罰?  子供の頃の記憶。デコピンとか、くすぐりとか。そんな他愛のないものだったはずだ。でも、今の彼が見下ろす瞳の奥には、そんな無邪気さとはかけ離れた、ひどく冷たくて重たい色が沈んでいる。 「わ、私はもう子供じゃ……!」 「なら、証明しろ」  彼は短く鼻で笑うと、軽く握りしめていた手を開いた。  カサリ、と薄い包み紙が擦れる音がした。彼の大きな指先に摘まれていたのは、鮮やかな赤色のキャンディだった。  彼はそれを自分の口に放り込むと、空いた手で私の顎を掴み、上を向かせた。 「ん……っ!?」  顔が迫る。  長い睫毛、静かな瞳、濡れた唇。彼の端整な顔立ちが視界を埋め尽くす。  まさか。 「口、開けろ」  低い声の命令と一緒に、影が覆いかぶさってくる。  逃げようと首を振るけれど、顎を掴む指の力が強くてうまく動かせない。  唇が触れそうな距離。熱い吐息がかかって、甘い匂いとミントの香りが鼻孔をくすぐった。 「い、や……」  拒もうとして口を開いた、その瞬間。塞がれた。  頭が真っ白になる。  唇は驚くほど熱くて、柔らかかった。けれど、そこに労りや優しさはなく、ただ圧倒的な力で私を従わせようとする圧迫感だけがある。 「んっ……ふ……っ!」  悲鳴を押し込むように、固い飴玉が滑り込んでくる。  強引に入ってきた舌が、ザラリと絡みついた。転がり込んできた飴の甘さが、口の中で唾液と混ざり合う。  苺の人工的な匂い。そして、彼自身のミントと煙草の味。  息ができない。鼻先が触れ合って、彼の長い睫毛が視界を覆う。 (あ、だめ……っ)  頭の芯がじんわりと痺れていく。悔し
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第9話 逃げられない運命①
 逃げるようにして天道邸を出た。  足元がおぼつかない。  夕闇が迫る高級住宅街の静けさが、かえって耳の奥の心臓の音をうるさくさせる。唇にはまだ、あの甘ったるい苺の味と、征也の体温がこびりついて離れない。 「……っ、ふ……っ」  込み上げてきた涙を、エプロンの袖で乱暴に拭った。  最低だ。あんな力ずくでねじ伏せられたのに、指先が触れた場所がまだ熱い。四年前、あれだけ残酷に捨てられたはずなのに。「莉子」と名前を呼ばれた一瞬、尻尾を振って喜んだ自分が死ぬほど惨めだった。 ◇ アパートへ続くいつもの坂道が、今日だけは異様に長い。  母さんに、どんな顔をして会えばいいんだろう。  病気のことも、借金のことも、全部バレていた。背筋が凍る。偶然再会したわけじゃない。最初から、私を逃げ場のない場所に追い込むために、あの門は開いていたんだ。  狭い玄関を潜り、古びた鉄扉を閉める。ようやく肺に酸素が戻ってきた気がした。  けれど、安らぎは一瞬で終わる。  郵便受けに、分厚い封筒が突き刺さっていた。  差出人は、派遣会社。  表には赤字で「親展・至急」のハンコ。  震える指で封を切って、中の書類を引き抜く。  出てきたのは、さっき電話で言われた「専属契約」の合意書だった。  事務的な明朝体が、私を縛り上げる鎖に見える。  本来なら、派遣スタッフがこんな個別契約を結ぶなんてありえない。でも、そこには「天道グループからの寄付に基づく特例措置」なんていう、誰も文句の言えない理屈が添えられていた。 「時給、十倍……?」  金額を見て、息が止まる。  これまでの必死な労働をあざ笑うような、圧倒的な「金」の暴力。でも、これがあれば母さんの手術ができる。海外の新薬も、リハビリも、諦めなくて済む。  ――その代わり、お前のすべてを差し出せ。  紙の裏から、あの冷たい声が聞こえた気がした。  読み進めるにつれ、条文の内容は常軌を逸していく。 『乙は、甲の指示に基づき、指定された場所に常駐すること』 『甲のプライバシー保護のため、契約期間中の外部との接触は、甲の許可を要する』  家政婦の契約じゃない。これじゃまるで、所有物だ。 「……私を、買うつもりなんだ」  乾いた笑いが出た。  許すつもりなんてないんだ。四年前、世間知らずだった私が「金と権力
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第10話 逃げられない運命②
 暗い部屋の中で、ペン先が紙の上で止まったまま動かない。  これを書いたら、もう戻れない。  分かっているのに、指先が勝手に震える。  インクの黒い染みが、自由を絡め取る蔦みたいに見えて、視界がちかちかと歪んだ。  ページを捲り、末尾にたどり着いた時、心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。そこには、他の条文とは明らかに違うフォントで、一行の「特記事項」が記されていたのだ。『乙は、二十四時間、主人のあらゆる命令に即時従う義務を負うものとする』 二十四時間。  労働時間じゃない。睡眠中も、食事中も、彼と同じ屋根の下にいる間はずっと、私のすべてを支配下に置くということだ。  清掃や洗濯といった「家事」の範疇なんか、とっくに超えている。剥き出しの独占欲だ。 「……っ、なにこれ。おかしいでしょ」  掠れた声が、六畳間の薄い壁に吸い込まれて消える。  法律の形を借りた、ただの脅迫。拒否権なんてないのだと、あの氷みたいな瞳で射抜かれている気がした。  脳裏に、昼間の彼が蘇る。隠そうともしない肉体。顎を掴んで、無理やり飴玉を流し込んできた、乱暴で甘い唇の感触。  征也は本気だ。  四年前のあの夜と同じように――あるいはそれ以上に深く、私を掌の中で弄んで、壊そうとしている。 でも、この紙を破り捨てる勇気なんてなかった。  カバンの奥には、病院からの請求書が入っている。これを払わなきゃ、母さんの明日は来ない。  昔の私は、その「金」の力を使って、彼を見下していた。彼がどんなに努力しても手に入らないものを持っていると信じて、そのプライドを踏みにじった。「私のものになれば救ってあげる」と嘲笑った。  今、あの時と同じ重さの絶望を、突き返されているんだ。  震える右手でペンを握り直す。  月島、莉子。  名前を書く。一画ごとに、自分という人間が削り取られていく気がした。お嬢様だった頃のプライドも、女としての尊厳も、全部インクに溶けて、天道征也という男の足元へ流れ出していく。  最後の点を打ち終えた瞬間、全身から力が抜けて、その場に突っ伏した。  冷たい畳の匂いが鼻をつく。壁越しに、外を走る車の音が聞こえる。  世界は何も変わっていないのに、私の人生だけが、ガタンと音を立てて別のレールへ切り替わってしまった。 台所から、母の苦しげな咳が聞こえる。
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