ログイン「もう俺の前に現れるな」――冷酷に突き放されたはずの初恋。 没落令嬢の莉子は、母の手術費を稼ぐため家政婦として働くが、その主はかつて残酷に傷つけた元隣人の天道征也だった。 かつての貧しい青年は、今や巨大コンツェルン「天道ホールディングス」を率いる冷徹なCEO。彼は莉子の窮状を見透かし、「24時間、主人のあらゆる命令に即時従う」という家政婦の枠を超えた支配的な契約を突きつける。 「要塞」のような豪邸で、牙を剥く彼の執着。 「俺が命じれば、たとえ服を脱げと言われても従え」 これは復讐か愛か――。再会から始まる溺愛と支配のロマンス。
もっと見る激しい雨が、視界を白く塗り潰していく。
ずぶ濡れになりながら、立ち尽くしていた。 シルクのワンピースが肌に張り付いて、体温を奪う。靴の中に雨水が流れ込んでくる不快感に、指先が強張る。震えが止まらないのは、寒さのせいなのか、それとも目の前の男が放つ眼差しのせいなのか。 「……言ったはずだ」 雨音にかき消されそうな低い声。 傘も差さず、彼はこちらを見下ろしていた。かつて恋い焦がれ、手が届くと信じていた人。 「もう、俺の前に現れるなと」 心臓を素手で握り潰されたような痛みが走った。 縋るように伸ばしかけた手は空を切り、雨を吸って重くなった安物のTシャツに触れることさえ許されない。 濡れた前髪の隙間から覗く瞳には、幼馴染としての情なんて欠片もなく、ただ底知れない拒絶の色だけがあった。 「せい……や、ごめんなさい、私……」 「名前を呼ぶな」 刃物のような鋭い声。 雷鳴が轟き、一瞬だけ彼の顔を青白く照らし出す。 陽だまりみたいに暖かかった眼差しは、もうどこにもない。そこにあるのは、すべてを焼き尽くすような冷たい炎だけだ。 「お前みたいな女は、見るだけで胸が濁る。……失せろ」 重たい音を立てて、錆びついた鉄の扉が閉ざされた。 ガチャリ、と冷たい金属音が鳴り、ふたりの世界を隔てる。 十八歳の誕生日の夜。世界で一番寂しい方法で、私――月島莉子(つきしま りこ)の――初恋は死んだ。◇
「月島さん。ちょっと、聞いてるの?」
苛立った声に、ハッと顔を上げた。 視界にあるのは、曇ったロッカーの鏡と、派遣会社の薄汚れた壁。 「あ、すみません……」 「しっかりしてよね。今日の現場、急に入った代理なんだから。相手は凄く几帳面なお客様よ」 コーディネーターの佐藤さんは、鼻先で笑うように指示書を突き出してきた。 鏡に映るのは、もうお嬢様じゃない私だ。洗いざらしのシャツに黒いパンツ、実用一点張りのベージュのエプロン姿。化粧っ気のない顔は色が悪く、目の下には隈が張り付いている。 「住所はここ。特にプライベートエリアには絶対に入らないようにね。余計なトラブルは御免だから」 渡された紙切れに視線を落とした瞬間、息が止まりそうになった。 指定された住所は、かつて住んでいた高級住宅街の一角。それも――私の家の、すぐ隣だった場所だ。 「……どうかした?」 佐藤さんの探るような声に、慌ててエプロンの紐をきつく握りしめる。 「いえ、大丈夫です。なんでもありません」 口ではそう答えながら、心臓が嫌な音を立てていた。 (大丈夫。四年も経ったんだから。あの人も、もう引っ越したはず……) 父が亡くなり、会社が倒産し、母が重い病に倒れてすべてを失ってから四年。生きるために選んだのは、プライドを捨てて手を汚すことだった。どんなに高圧的な雇い主だろうと、今日の日銭と明日の母の薬代の方がずっと重い。 「ただの黒子になって、埃ひとつ残さずに帰ってきます」 頭を下げ、清掃用具が詰まった重いボストンバッグを肩にかける。 狭い出口を抜けると、外の冷たい空気が頬を打った。電車とバスを乗り継ぎ、小高い丘の上のエリアに降り立つと、空気の味さえ変わった気がする。手入れされた街路樹、ゴミひとつない舗装道路、塀の向こうに見える立派な庭木。
ここには生活の匂いがない。あるのは、静かで圧倒的な富の残り香だけ。 バッグのベルトを握りしめ、昔通った坂道を登る。 角を曲がるたびに、幼い頃の記憶が蘇る。白い犬と散歩した歩道、迎えの車を待ったロータリー。そして、その先に見えていたはずの生家――月島邸。 かつて、古びたアパートが建っていた一角。雑草だらけで薄暗かったあの場所に、今は周囲を威圧するようなモダンな邸宅が聳え立っている。 「……ここなの?」 思わず足を止めて見上げた。 打ちっ放しのコンクリートと、空を映す巨大なガラス。高くそびえる塀は中の様子を完全に隠していて、要塞みたいだ。 昔、隣に住んでいた貧しい彼を思い出しそうになって、慌てて首を振った。少し離れたベンチで、陽向が電話をしていた。 「うん。今日は寄れると思う。……分かった。お父さんにも、無理すんなって言っといて」 話し終えてからも、しばらく画面を見ている。莉子は声をかけずにいたが、振り向いた陽向と目が合ってしまった。 「何」 「今度は、私もお店に行きたいなと思って」 陽向はスマートフォンをポケットへしまった。 「母さんが行ったら、結月さん、緊張するよ」 「私だってするよ」 その返事に、陽向の顔が緩んだ。何か言いかけたが、照れくさくなったらしく、ベンチの上の荷物を取るふりをした。 隣では、結衣がイヤホンを片方外していた。画面に映る小さなステージで、レイが歌っている。 曲が終わっても、結衣はすぐには次の映像を選ばなかった。知らない客たちの拍手が、漏れてくる。 「その人?」 莉子が尋ねると、結衣は画面を伏せかけ、途中で手を止めた。 「……うん」 車椅子のそばにしゃがみ、母にも見えるように持ち直す。莉子は少し顔を近づけた。 「聞かせて」 結衣はイヤホンを外した。音量を何度か確かめてから、曲の初めに戻す。 細い伴奏が二人の間に流れた。莉子は膝に手を置いて聞いていたが、途中で結衣の目元が濡れていることに気づき、動かせる方の手を娘の肘に添えた。 結衣は袖で頬を拭った。曲は止めなかった。 征也が胸のポケットからハンカチを出す。差し出された結衣は、小さく礼を言って受け取った。 中庭にはほかにも人がいた。植え込みの前で話す老夫婦、看護師とゆっくり歩く人。陽向がベンチから立ち上がり、四人分の荷物を片方の肩へかけた。 莉子は葉の間に見える空を眺めた。 今日、見せてもらった顔だけでも、知らなかったことがいくつもある。結月という名前を口にする陽向も、泣きながら歌を聞く結衣も、彼女の記憶の中の幼い子供とは違っていた。 膝に置いた手へ目を落とす。二人の髪を結い、朝の台所で鍋を持っていた頃より、指が細くなっている。 隣で征也が身じろぎした。その手が近づき、ブランケットの端に置かれる。 莉子は自分から指を伸ばした。届くまで待っていた征也が、掌を上に向ける。 触れた途端、彼の指がわずかに震えた。 「もう少ししたら、戻ろうか」 莉子が言うと、征也は頷いた。手を握ったまま、彼も枝先へ目をやった。
翌朝、征也は莉子のベッドのそばで、まだ口にしていなかった言葉を探していた。 莉子は目を開けている。視線が合うたび、話しかけてよいものか迷った。眠っていた頃にはあれほど一方的に喋れたのに、今は何から言えばいいのか分からない。 「莉子。俺は、お前に……」 指を握り直そうとして、やめた。 「謝らなければならない」 莉子は征也の顔を見ていた。続きを待っているのだと分かるまでに、少しかかった。 「陽向と結衣にも。話すことが、山ほどある」 窓際で結衣がハンカチを畳む手を止めた。陽向は俯いたまま、椅子に座っている。 莉子の視線が二人へ向かい、征也のところへ戻ってきた。 「ゆっくり、聞かせて」 征也は頷いた。 「途中で、怖い顔しないでね」 昔も、そんなふうに言われたことがあった。返事より先に反論を考え、莉子の顔を曇らせたことまで思い出した。 「……気をつける」 陽向が短く息を漏らした。笑いかけてやめたような音だった。征也はそちらを見たが、何も言わず、莉子へ顔を戻した。 莉子が彼の頬を見ている。征也が身を屈めると、枕元の指が動いたので、その手を下から支えた。指先が頬に触れる。 「ひどい顔」 「……眠れなかったんだ」 声の終わりが震えた。莉子の口元が、ほんの少しほころぶ。 「おかえり、私だけの魔王」 征也は俯いた。頬に添えられた指を濡らさないようにしたかったが、間に合わなかった。 莉子の手を支えたまま、しばらく顔を上げられずにいた。誰も急かさなかった。 やがて看護師が入ってきて、休む時間だと静かに告げた。征也は指先を拭い、莉子の腕を楽な位置へ戻した。 これからの話は、まだほとんどできていなかった。 莉子が眠りに入るのを見届けてから、陽向が椅子を引いた。立ち去るのかと思ったが、ベッドの方へ少し寄せただけだった。◇ 数週間後、莉子は車椅子で病院の中庭へ出た。 桜はほとんど散っていた。枝先の若葉が重なり合い、風が通るたび、裏側の淡い色を見せる。 長く座っていると疲れが出た。膝のブランケットを直そうとしても、指が思うように動かない日があった。それでも今日は、外へ出たいと自分から言った。 征也は日陰を避けて車椅子を止めた。莉子が見上げる先を確かめ、背後へ回る。 「寒くないか」 「さっきも聞いたよ」
莉子が腕を動かそうとした。 肘がシーツを擦り、それ以上は上がらない。陽向はその手を見つめ、莉子の口元に浮かびかけた謝罪に気づくと、ベッドのそばへ膝をついた。 「いいよ。俺が、こっち来るから」 看護師が寝具を直すのを待ち、身を屈める。莉子の手を髪の上へそっと乗せると、指先が一度だけ動いた。 陽向は目を閉じた。 もっと強く撫でてほしかった。昔のように、髪が乱れるくらいに。それでも頭を上げたら、このわずかな重みまでなくなりそうで、動けなかった。 結衣も傍らにしゃがみ込んでいた。ベッドの縁に頬を寄せ、母の袖を摘まんでいる。 「ママ、私……」 言いかけて、息が詰まった。 莉子が娘を見た。結衣は袖を握る指を緩めようとしたが、うまく離せなかった。 「聞いてほしいこと、いっぱいある」 莉子は頷いた。結衣の手に指を添え、それを見ていた陽向が、自分の顔を袖で拭いた。 看護師に声をかけられ、二人は少しずつ身体を離した。莉子は目を閉じたが、その手にはまだ結衣の指がかかっていた。◇ しばらくして、莉子がまた目を開けた時も、三人はそばにいた。 結衣は椅子に座り、濡れたハンカチを膝に広げていた。陽向は窓辺に立っていたが、莉子の視線に気づくと、すぐ戻ってきた。 「お弁当……」 小さな声に、征也が顔を近づけた。 「匂いがしたの。卵焼きかな」 陽向と結衣が目を見合わせた。 病室で開いた弁当の蓋。征也が紙コップへ注いだほうじ茶。あの日、母の前で笑ってしまってから、陽向は何度かそのことを思い返していた。 「ここで食べたんだよ。三人で」 陽向が答えると、莉子の目が細くなった。 「にぎやかだった」 「結衣が、俺の唐揚げまで食うから」 結衣が顔を上げた。 「一個だけでしょ」 言い返した声がいつもどおりに出て、自分で驚いたように口元を押さえる。莉子は二人を見ながら、わずかに笑っていた。 征也は膝の上のティッシュを丸めた。陽向が差し出したごみ袋へ落とすと、莉子の目がまた彼へ向いた。 「女の人も……来てくれた?」 陽向が動きを止めた。 「知らない声。優しい声が、した気がする」 誰の声だったのか、莉子にも確かではないらしかった。陽向はベッドへ寄り、母の手元に置かれたハンカチを少しずらした。 「結月さんかな。前に、一
「呼びかけに反応が見られます。意識が戻り始めている可能性がありますが、もう少し様子を見ましょう」 医師の話は続いていた。征也は頷き、聞き逃さないように顔を上げていたが、莉子が目を閉じるたび、そちらを見ずにいられなかった。 今度は、また開いた。 処置の間、陽向も結衣も黙って待っていた。看護師が口元の器具を整え、短い時間なら、と征也に場所を譲る。 莉子は酸素マスク越しに何か言おうとしていた。 「無理に話さなくていい」 征也は椅子へ腰を下ろした。さっきまでいた場所なのに、ベッドとの距離が分からず、膝をぶつけた。 細い息に交じって、声が聞こえた。 「……泣かないで」 征也は顔を上げた。 「征也くん」 返事をしようとして、息を吸った。それきり声が出なかった。握り直した莉子の手に額をつけ、何度も頷く。 誰かがティッシュを差し出した。受け取ることもできずにいると、結衣が黙って膝の上へ置いてくれた。 「莉子……」 ようやく名前を呼ぶと、莉子の口元がわずかに緩んだ。征也は濡れた頬を拭いたが、次の一枚を取る間にも涙が落ちた。 「声、聞こえてた」 莉子の言葉はそこで切れた。征也は身を寄せたまま待つ。マスクが呼吸に曇り、また透き通る。 「全部じゃ……ないけど」 「もういい。後で聞く」 そう言いながら、手だけは離せなかった。 莉子は少し休んでから、彼を見た。 「怒ってるみたいな声、したの」 征也の指が止まった。 「でも……そばにいるって、分かった」 謝らなければならないことが、いくつも浮かんだ。今ここで言えば、彼女はそれさえ聞こうとするだろう。征也は口を閉じ、莉子の手の甲に残っていた涙を拭った。 莉子の視線が、その肩越しに動いた。 陽向と結衣が立っていた。近づきたくて、けれど近づくのが怖いように、二人とも足を止めている。 莉子はしばらく陽向の顔を見つめた。次に結衣へ目を向け、また陽向へ戻る。 征也には、その戸惑いが分かった。自分の横に立つ息子は、もう子供の背丈ではない。 「陽向だ。それと、結衣」 莉子の眉がかすかに寄った。 「ひな……た?」 陽向は頷いた。唇を動かしたが、声になるまでに時間がかかった。 「うん。俺だよ」 結衣がベッドへ一歩近づく。莉子は娘の顔を下から見上げていた。
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