All Chapters of 夫が教え子を選んだので、身を引いてやった結果: Chapter 1 - Chapter 9

9 Chapters

第1話

私の名前は入江未紗(いりえ みさ)。夫の川田貴弘(かわだ たかひろ)は、医学界で「ゴッドハンド」と呼ばれる名医だ。そして、彼の教え子である西野亜希子(にしの あきこ)は、彼が手塩にかけて育て上げた医学界の新星である。二人は難病奇病の研究に没頭しており、夫が彼女と一緒に過ごす時間は、私と過ごす時間よりも遥かに長かった。あの日、私は親族として、彼が率いる研究チームの食事会に参加していた。激辛の料理を誤って口にしたことで、私は過呼吸を引き起こし、呼吸性アルカローシスに陥った。呼吸が困難になり、意識が遠のく中、私は震える手で彼に助けを求めた。しかし、滑稽なことに、私のすぐ隣に座っていた彼は、病院に搬送されてきたばかりの希少な症例について、亜希子と熱心に議論することに夢中だった。死の淵に立たされた私の視界には、病状の誘発原因について頑なに亜希子と論じ合う夫の姿が映っていた。意識が混濁する中、彼の別の教え子が私の異変に気づき、慌てて救急車を呼んでくれたのだ。……目を開けると、そこは消毒液の臭いが立ち込める病室だった。貴弘の目から疲労の色が消え、彼の手が優しく私の額に触れる。「病み上がりなんだから。君の好きな薬膳スープを作ってきたよ」私は無表情のまま、彼を見つめた。反応がない私を見て、彼は眉をひそめる。「未紗、どうして何も言わないんだ?」私は視線を上げ、彼を見た。「何を言えばいいの?あなたが目の前で他の女と楽しそうに話し込み、私を無視したことについて?それとも、私が隣で窒息死しかけているのに、あなたが無関心だったことについて?」貴弘は一瞬呆気にとられたが、すぐに低い声で笑った。「怒ってるのか?それとも、嫉妬?」彼は私の肩を抱き寄せ、子供をあやすような口調で言った。「わかってるだろう?俺と西野さんは医学の研究モードに入ると、周りが見えなくなるんだ。今回のことは俺も西野さんも反省してる。でも、悪気があったわけじゃないんだよ」そう言って、彼は期待に満ちた目で私を見ていた。いつものように、私が許してくれることを信じて疑わない目だ。私はじっと彼を見つめ、何も言わなかった。いつも私ばかりが折れて、なんとか繋ぎ止めてきた結婚生活はもう、こりごりだった。空気が張り詰める。貴弘は眉を
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第2話

結局、彼は申し訳なさそうな顔で私を振り返った。「未紗、まずは頭を冷やしてくれ。さっきの話は聞かなかったことにする。急用ができたから出かけてくるけど、帰りにA市の老舗のうな重を買ってくるから。いいだろ?」足音が遠ざかっていく。誰からの電話かなど、推測するまでもなかった。過去数年間、亜希子はありとあらゆる理由をつけて、貴弘を呼び出してきた。彼女の言い訳にはもう聞き飽きた。医学の進歩という大義名分を掲げて、既婚男性と何度も密会を重ねているが、実際にはまともな研究成果などほとんど出ていない。それに気づいていないのは貴弘だけで、あろうことか彼はそれを楽しんでいるようだった。私は病室のベッドで寝返りを打ち、眠れぬ夜を過ごした。空が白み始めた頃、亜希子のSNSが更新されているのを目にした。彼女は最近いちばん流行っているネタを真似して動画を一本撮り、ネットに投稿した。【ずっと好きだった彼に告白しちゃった!🥺💓今、大好きな人が隣で寝てて、トントンしてくれてるの……(///ω///)私ってば、一人でよく頑張ったよね!褒めて褒めて〜!】添付された写真は、白いシーツの上でしっかりと絡み合う指と指。貴弘の手だと、すぐに分かった。あまつさえ、写真では、彼は結婚指輪すら外していなかった。かつて、あらゆる困難の中、私を導いてくれたその手。胸が締め付けられるような痛みが走る。私は涙がこぼれ落ちないように、強く瞬きをした。悲しむ必要なんてない。真心を裏切られることより、損切りのタイミングを見誤ることこそが一番恐ろしいのだから。経済学には「埋没費用は、意思決定に考慮してはならない」という言葉がある。私は深く息を吸い込むと、以前のように電話をかけて彼を問い詰めることはしなかった。その代わり、スマホをマナーモードに切り替える。今日は、ぐっすり眠ろう。……深夜のネットサーフィンに勤しむネット民たちが、瞬く間にその投稿をトレンド入りさせた。【あやかりたい!私も告白成功しますように!】【待って!この投稿主のプロフ見たら、医学界の重鎮の教え子じゃん!将来有望なので、人生勝ち組すぎて震える】【私の見間違いかな……?この男の人、指輪してない?この女、まさか浮気相手……?】コメント欄は、重箱の隅をつつく
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第3話

「昨日、二人が何をしていたかは、自分たちが一番よくわかってるでしょ。彼女を守りたいなら、まずは帰ってきて離婚するのよ」電話の向こうで彼が何か言いかけたが、私は聞く耳を持たずに通話を切った。私は家中の荷物をひっくり返し、自分のものをまとめ始めた。ベッドサイドの引き出しに、貴弘の日記帳が入っているのが目に入った。結婚して数年、私が見ようとするたび、貴弘はまるで重大な秘密でも暴かれるかのように血相を変えて拒んだ。疑念はあったが、あえて深く踏み込むことはしてこなかった。けれど今、その日記帳は魔力を帯びたかのように、私を開くよう誘っていた。適当にページをめくると、そこにあった文字に私の呼吸が止まった。【2023年5月21日。西野から、免疫システムの自己調整に関する重要なメカニズムを発見したと連絡があった。これは世界に貢献できる極めて重要な発見だ。他のことはもう何も構っていられない。あの日、未紗からの電話に出る余裕さえなかった。ただひたすら、その鍵となる研究に没頭したかったのだ】頭の中で何かが爆発し、耳鳴りがした。手が震えて止まらない。かつて、私と貴弘の間には子供がいた。事故は、日記に記されたその日に起きた。私が子供を連れて車で買い物に行く途中、制御不能になった大型トラックが突っ込み、私の車は大破した。顔から滴り落ちる血が地面を染めていく中、私は辛うじて意識を保っていた。病院に着くと、医師は状況を見て深くため息をついた。「この手術は、川田先生にしかできません。このような脳神経に関わる損傷は、我々の手には負えないのです。ですが、先生と連絡がつかないんです」そう、誰一人として彼と連絡が取れなかった。妻である私でさえも。あの日、私は狂ったように、顔や服についた血を拭うことさえ忘れ、彼がいそうな場所を全て探し回った。しかし、何一つ手がかりはなかった。そうして私は、わが子の命が少しずつ消えていくのを、ただ無力に見守るしかなかったのだ。後日、私は彼を殴り、罵り、あの日一体どこに行っていたのかと問い詰めた。彼は一言も発さず、ただ私を強く抱きしめて慰めるだけだった。断片的な記憶が、針のように心臓を突き刺す。心は冷たい氷水に浸されたようで、少しの温もりも感じられない。私は朦朧とした意識の中
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第4話

私が出産で大出血を起こし、生死の境を彷徨っていた時でさえ、彼は亜希子の言う「新発見」とやらのために、私を置いて病院を飛び出していったのだ。お産が進まず、胎児が子宮内で低酸素状態になり、緊急帝王切開が必要になった時のことだ。手術の同意書に親族のサインが必要で、私は泣きながら彼に電話をかけて来てほしいと懇願した。しかし、彼は煩わしそうにそれを突っぱねた。結局、私は激痛に耐え、冷や汗を流しながら、震える手で手術の同意書に自分の名前を書いたのだ。不満を訴えても、彼はいつも価値観を振りかざして私を言いくるめようとする。「これは人類への貢献のためだ。大義のためには、私情を捨てなければならないこともある」そんな言葉で塞がれ、私は何も言い返せなかった。彼は一歩ずつ私をここまで追い詰め、私は愚かにも長年それに耐えてきたのだ。心の中は土砂降りの雨だというのに、私はただ、うつろな足取りで道を歩いていた。突然、誰かに手を引かれた。「危ない!」その声で、私は目の前を猛スピードで車が走り抜けていったことにようやく気づいた。私は顔を上げて、この私を助けてくれた男を見た。「ありがとうございます」彼の目には、私への驚きの色が浮かんでいた。そんな眼差しを、かつて貴弘にも向けられたことがあった。フライトの遅延で、空港で待ちぼうけを食らっていた時のことだ。彼は、あの日に私に一目惚れしたと言っていた。「あの時、ハーフアップにした髪が陽の光を浴びて輝いていて、あまりの美しさに心臓が止まるかと思った」それから彼は私を追いかけ始めた。デパートで私が少しでも目を留めたものは、すぐに全て買い占めた。行動と献身こそが、私を愛する最も直接的な方法だと彼は言った。そうして私たちは自然に恋に落ち、結婚した。結婚後、私は一度だけ亜希子に会ったことがある。彼女は研修医として貴弘について回っていた。痩せて弱々しい少女で、おどおどとした目をしていた。彼女が貧しい地方出身だと聞き、私は不憫に思って、貴弘に彼女の面倒を見るよう頼んだのだ。まさかその配慮が、亜希子に「愛されている」という錯覚を与え、暴走させることになるとは。男の心変わりは、山の天気よりも早い。貴弘の態度は、単なる学生への指導から、あからさまな偏愛へと変わって
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第5話

私が答える間もなく、彼は歯を食いしばり、一語一語区切って言った。「トレンドに載ってたのは君だろ?あの男とはどういう関係だ?俺が数日帰らなかっただけで、裏で他の男を探したのか?そんなに尻が軽いのか?」私は表情一つ変えず、感情の読み取れない淡々とした声で答えた。「離婚の話をしに来たのかと思ったわ。それ以外の話なら、一切するつもりはない。私が他の男とどうなろうと、あなたには関係ないことよ」言い終わると、私は彼に一瞥もくれずにドアを閉めた。私が彼の妻であると誇示するかのように、貴弘は街中の大型ビジョンを買い占め、私の誕生日を祝った。私と彼がかつて撮ったプリクラが、街の至る所に映し出される。私にとっては、あれはただの「公開処刑」でしかなかった。私は顔をしかめ、彼にどういうつもりかとメッセージを送った。すぐに返信が来る。【今日は君の誕生日だろ?夜、俺たちのお気に入りだったあのレストランに行こう】彼がこれ以上、厄介な茶番を起こさないように、私は時間通りに約束の場所へ向かった。夜七時。私は客のいないレストランで、一人沈思していた。スマホが鳴る。貴弘からのメッセージだ。【ごめん、予定が変わった。チームの研究に新しい進展があって、今日は帰れそうにない。誕生日おめでとう】そんな自分がおかしくて、ふっと自嘲の笑みが漏れた。一体、私はまだ何を期待していたっていうの?私は学生時代によく行った、別のフレンチレストランへ足を運んだ。そこで、予想だにしない二人の姿を目撃した。貴弘と亜希子だ。貴弘は愛おしそうに亜希子の口元についたクリームを拭い、亜希子は甘えたように微笑んでいる。つまり、貴弘の言葉はすべて言い訳だったのだ。私が裏を取りに来ないことを知っているから、安心して嘘をつけるのだ。彼が唯一計算違いだったのは、私が彼の予約した店で食事をしなかったことだ。虫唾が走るからだ。今回、私は彼らの邪魔をしないことにした。回り道をしようとしたその時、亜希子と貴弘の会話が聞こえてきた。「どうして今日、俺を呼び出したの?今夜は未紗と……」亜希子が言葉を遮る。「先生、私、赤ちゃんができたの」貴弘は思わず眉をひそめたが、無理やり笑顔を作った。「病院には行ったのか?」亜希子
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第6話

床に叩きつけられた写真を見た瞬間、一瞬、息が止まった。それは、母の遺影だった。ガラスの額縁は粉々に砕け散り、写真の上にはいくつもの靴跡が残されていた。張り詰めていた緊張の糸が、ついに切れた。震える手で踏みつけられた写真を拾い上げると、堪えていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。「ごめん、未紗」いつの間にか、貴弘が私の背後に立っていた。私は声の震えを必死に抑えて言った。「誰がやったの?」貴弘は散乱した部屋を見てため息をついた。「西野さんが家に来たんだ。彼女が持っていた重要な実験データが見当たらなくなって。家の中を探しているうちに、加減がわからなくなったらしい。彼女を責めないでやってくれ。ただ、焦っていただけなんだ」彼の言葉はもう耳に入らなかった。人は極度の苦痛を感じると、周囲が静寂に包まれることを、私は今初めて知った。私は目を赤くし、キッチンへ向かって鋭利な包丁を手に取った。亜希子は、この世で唯一の私の慰めを壊し、私の心に残っていた最後の温もりさえも消し去った。彼女だけ無事でいられるなんて思わせない。包丁を見て、貴弘が保っていた冷静さが崩れ去った。彼は大股で駆け寄り、全力で私を抱きしめた。声が裏返る。「未紗!死んだ人間が、生きている人間より大事なのか?西野さんはそれが何なのかわからないだけだ。そんなに細かく追及する必要があるか?衝動的になってるのはわかる。話し合おう、な?」成人男性の力は女より強い。ましてや貴弘はジムに通っている。私は次第に冷静さを取り戻し、大きく深呼吸をした。亜希子ごときのために刑務所に入る価値はない。彼女を後悔させる方法はいくらでもある。貴弘に関しては、視界から消えてくれればそれでいい。私はスマホを取り出し、110番通報しようとした瞬間、スマホが叩き落とされた。私は信じられない思いで貴弘を見た。彼の顔は蒼白だ。「警察はやめろ。通報されたら、西野さんの人生が終わってしまう」私を見る彼の目には、懇願の色が浮かんでいた。「彼女とは今すぐ別れる。だから、離婚協議書は引っ込めてくれ。もう一度、昔の俺たちに戻ろう。な、頼むよ」私は冷笑し、彼の言葉には答えなかった。この前、念のために家に監視カメラを設置しておいた。やはりそうして
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第7話

彼は一体何のつもり?だが、彼の白々しい演技を見るのも億劫で、私はその手を振り払った。「私より、あなたの可愛いカノジョの心配をしたら?」彼は言葉を詰まらせ、歯の間から絞り出すように言った。「俺は君の夫だぞ。そんなに俺を他の女の方へ追いやるのか?」私はただ冷ややかに彼を見つめた。「もうすぐ夫じゃなくなるわ」貴弘は一瞬たじろぎ、常に傲慢だったその態度を急激に和らげた。「俺が愛しているのは君だけだ。君のいない生活なんて考えられない」彼は一呼吸置き、すがるような目で私を見つめた。「俺はずっと変わっていない。やり直そう……」私は失笑した。「西野さんがここにいるのを忘れてない?」貴弘は自分の演技に酔いしれていて、彼が振り返って亜希子を見た時には、彼女の目はすでに真っ赤になっていた。貴弘は慌てた。亜希子の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。「先生、忘れたんですか?私のお腹には先生の赤ちゃんがいるんですよ」貴弘は、亜希子が私の前でそのことをあっさりと暴露するとは思っていなかったようだ。彼は弾かれたように私を振り返った。その整った顔が瞬時に蒼白になる。「未紗、聞いてくれ。子供は事故だったんだ。あの日、俺も西野も酔っ払っていて……」私は冷ややかに彼を見た。男って、いつまでこの言い訳を使い続けるつもり?浮気を認めるのがそんなに難しいのか?亜希子はもう耐えきれず、地団駄を踏んで泣きながら走り去った。貴弘は反射的に追いかけようとした。去り際に、彼は懇願するような目で私を見た。「未紗、西野さんは危なっかしくて放っておけないんだ。世間知らずな彼女を一人で外に行かせるなんて、心配でできない。俺が言ったこと、よく考えておいてくれ」警察の件については、彼らが罰金を支払うことで決着がついた。もっと大きな恥をかくところを見られなかったのは、ちょっと残念だ。翌朝早く、ドアをノックする音がした。貴弘だとわかると、私は唇の端を吊り上げた。用意していたものが、ようやく役に立つ。ドアを開けると、貴弘がすがるような目で立っていた。「西野さんのことはもう落ち着かせた。未紗、昔の俺たちに戻ろう、いいだろ?彼女はもう俺たちの生活を邪魔しない。彼女が子供を産んだら、引き取って俺たちで育てよう。
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第8話

母が残してくれた信託資金を手にして最初にしたことは、私立探偵を雇って二人を尾行させることだった。遅かれ早かれ、こんな日が来る予感がしていたからだ。事実は、私の予想通りだった。貴弘は屈辱に顔を歪めた。「俺を調べていたのか?離婚するために、ここまでやるのか」私は淡々と写真を整理しながら、表情を変えずに言った。「人の口に戸は立てられないわよ。あんな気持ち悪いことをしておいて、いつかバレるとは思わなかったの?ベッドの上で楽しそうにしてるのに。今になってどの面下げて私にそんなことが言えるの?」彼はその場に立ち尽くし、瞳孔を収縮させた。まるで、初めて私という人間を認識したかのように。私は協議書を前に押し出した。「サインしないなら、裁判所で会おうよ。同時に、これらの資料も全て公開するわ」貴弘の顔色が土色になる。彼は私の目の前でペンを取り、サインをした。「入江未紗、後悔するなよ」と、彼は歯噛みしながら言った。その取るに足らない脅しを無視し、私は彼が書いた署名を確認して、ようやく心の中で安堵の息をついた。私はバタンとドアを閉め、彼を外の世界へと遮断した。一部始終を見ていた直之が、からかうするように言った。「彼、僕たちのこと誤解しちゃったね。噂が広まったら、僕の名声も台無しだ」彼の冗談はスルーして、私は心から礼を言った。元々、離婚協議書の作成には頭を悩ませていた。家族信託資金の問題で揉める可能性があり、時間がかかっていたからだ。どこで聞きつけたのか、直之は自分が有名な法学部の出身だと言って助け舟を出してくれた。私が作った草案を見せると、彼はいくつもの法的な抜け穴を見つけ出してくれた。危なかった。もう少しで貴弘に有利になるところだった。……役所の前。正式な受理と資産移転の手続きなどが完了するまで、あと一ヶ月かかる。帰宅途中、向こうから歩いてくる亜希子と鉢合わせた。彼女の陰湿な表情を見て、胸がざわつく。突然、集団が押し寄せ、私を取り囲んだ。彼女は挑発的な笑みを浮かべた。「入江未紗、私をここまで追い詰めるなんて、大した度胸ね。あなたのせいで先生は私に見向きもしなくなったよ!毎日、死ぬより辛い思いをしてるのよ!だから、あの日、秋田直之があなたの家にいたって情報を、
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第9話

私は清々しい気分で眠りについた。カーテンを開けると、意外なことに、見慣れた落ちぶれた人影が見えた。貴弘だ。私は思わず眉をひそめ、見なかったことにしようとした。だが貴弘の動きは私より早かった。彼はカッターナイフを取り出し、自分の手首を深く切りつけたのだ。そして私に向かって、泣くよりも醜い笑顔を向けた。彼の意図はわかる。こうして私を脅し、下に降りてこさせようとしているのだ。貴弘がここまで狂っているとは思わなかったが、目の前で人の命が消えるのを放っておくことはできなかった。空が白み始め、彼のやつれた顔と充血した目を照らし出す。私を見ると、彼の目が赤くなった。「未紗、やっぱり君はまだ俺に情があるんだな。西野さんのことで怒ってるだろう?彼女の論文盗用とデータ改ざんを公表したよ。もうこの業界で彼女を雇うところはない。君のためにここまでしたんだ。こっちを振り向いてくれないか」彼の目は懇願し、声は震えている。私は冷静なまま、心動かされることはなかった。「それは自業自得よ。あなたが告発しなくても、他の誰かが告発するわ。私たちに復縁の可能性はない。次に会うのは、手続きが終わった後の役所にして」彼は力なく数歩後ずさり、顔を覆ってその場にしゃがみ込んだ。苦痛に満ちた姿だ。「じゃあ俺はどうすればいいんだ。何もかも失った」指の隙間から涙がこぼれ落ちる。彼は途切れ途切れに言った。「家も失い、君も失った。あんなに愛し合ってたのに……一度だけチャンスをくれないか?」私はよくわかっている。こういう人間に一度チャンスを与えれば、二度目の浮気をし、それが永遠に続くことを。「愛していたわ。……過去形よ」私がかつての感情を肯定すると、彼はかえって呆然とした。そう、いつからこうなってしまったのか。彼が亜希子の越権行為を容認し始めた時からだ。彼は二人の女が自分のために尽くす感覚を楽しんでいたのだ。彼の不幸はすべて、彼自身が招いた種だ。私が彼に眼差しを向けなくなって初めて、彼は私がもう彼を愛していないことに気づいたのだ。男とは滑稽な生き物だ。愛されている時はゴミのように扱い、愛されなくなると媚びへつらってすり寄ってくる。彼の深情けな演技の観客になるつもりはない。私は振り返りもせずに立ち去った。
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