「またよそ見をする?」月明かりがやけに甘い。湯気のこもる浴室には、輪郭の曖昧な影が揺れている。西園寺澪(さいおんじ みお)はタイルの壁に追い詰められ、つかまれた手首を頭上に押さえつけられる。くびれた腰には、もう一方の手が容赦なく回っていて、くぼみに赤い痕がくっきり残っていた。耳もとで低く笑う気配。次の瞬間、熱が耳たぶを包んだ。軽く噛まれて、執拗に擦られて。体の奥で、熱の波が何度も跳ね返る。震えをこらえながら、唇をきゅっと噛んだ。それが、たっぷり一時間。最後には、背後の腕の中で力が抜けきっていた。神崎凛也(かんざき りんや)は後ろから抱きしめたまま、喉の奥で楽しそうに笑う。しばらくして、体をかがめると、そのまま澪を横抱きにして浴室を出ていった。ベッドに下ろされたときには、澪の意識はもうとろとろだった。それでも、凛也がバスローブを羽織って出ていこうとするのを見て、深く息を吸って、起き上がる。「凛也」足が止まる。振り返った彼が眉を上げた。「ん?」「話がある」結婚して半年以上。体だけは、ちゃんと「夫婦」をやってきたのに、心の会話はほとんどなかった。どれだけ遅く終わっても、結局は別々に眠る。政略結婚なのだから、ある意味では最初から「共同作業」みたいなものだった。凛也は戻ってきた。ベッドには座らない。向かいのソファに腰を下ろす。脚を組み、背もたれにだらりと体を預ける。指先で肘掛けを軽く叩く仕草は、色気があるのに下品ではない。「で?」澪は彼を見つめる。欲はもう引いて、残っているのは冷えた理性だけ。「離婚したい」肘掛けを叩いていた指が、ぴたりと止まった。目が細くなる。笑みも消える。「……何だって?」聞こえていないはずがない。澪は余計な説明をしなかった。「離婚協議書は弁護士に作らせた。リビングに置いてあるから、時間あるときにサインして、印鑑も」数秒、部屋の空気が固まった。凛也は澪をまっすぐ見つめたまま、声を落とした。「西園寺家の人間にも、もう話したのか」恋愛結婚だって軽くない。まして政略結婚は、簡単で済む話じゃない。人脈も取引も、全部が絡んでいる。ひとつ動けば、全部が動く。澪は淡々と言った。「自分で決められる」凛也の喉仏がわずかに動く。怒っているのか、笑っているのか
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