払拭できない、婚姻の色

払拭できない、婚姻の色

作家:  喜々(きき)たった今更新されました
言語: Japanese
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概要

現代

財閥

成長

独立

天才

後悔

西園寺澪(さいおんじ みお)と神崎凛也(かんざき りんや)が離婚したころ、誰かが凛也に聞いた。 「ほんとにそれで終わり?後悔しないのか」 黒いシャツにスラックス。両手をポケットに突っ込んだまま、凛也はだるそうに肩をすくめた。 「もともと政略結婚だろ。後悔とか、そういう話じゃない」 そう言っていたのに。 それからしばらくして。ある夜のパーティーで。 酔いに任せた凛也が、ホテルのバルコニーで澪を壁際に追い込んだ。逃げ道をふさぐように距離を詰め、唇をねだるように顔を寄せる。 大きな手が澪の腰をすべり、ゆっくり下へ。引き寄せられるまま、その長い脚が腰に絡む。 凛也は耳もとで甘くささやいた。あやすみたいに、ずるい声で。 「澪。もういちど、結婚しないか」

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第1話

第1話

結婚六周年の夜、私は顔を赤らめながら、夫である木村靖雄(きむら やすお)の熱いキスを避けた。そして、ゴムを取らせるため、彼をベッドサイドの引き出しへと押した。

そこには、私が用意したサプライズがある。陽性の妊娠検査薬が隠されている。

彼がそれを見つけた瞬間、どんな笑顔を見せてくれるのかを想像している。

しかし、彼の手が引き出しに伸びたその時、スマホが鳴った。

スマホからは、彼の親友である馬場尋志(ばば ひろし)の声がドイツ語で聞こえてきた。

「昨夜の感じはどうだった?うちの会社の新しいラブソファ、快適だろう?」

靖雄は低く笑い、同じくドイツ語で答えた。

「マッサージ機能がいいね。おかげで汐梨の腰を揉まなくてすむ」

彼は私をしっかり抱きしめたまま、しかしその目はまるで私を通り越して誰か別の人を見ている。

「このことは俺たち二人だけの秘密だ。もし妻に、俺が彼女の妹と寝たと知られたら終わりだ」

私の心は鋭く刺し貫かれたように痛んだ。

彼らは、私が大学でドイツ語を副専攻していたことを知らなかった。だから、すべての言葉を理解していた。

私は必死に平静を装ったが、彼の首に回した腕は小刻みに震えていた。

その瞬間、私はついに国際研究プロジェクトからの招待を受け入れることに決めた。

三日後、私は靖雄の世界から完全に姿を消すだろう。

……

靖雄は、私が彼の首に回していた腕を緩めたことに気づき、俯いて私の鼻先に軽くキスをした。

「どうしたんだい?俺の顔、もう魅力がなくなった?」

彼の瞳の優しさは、いつもと変わらなかった。

だが私には、それがただただ滑稽に思えた。

ほんの数分前、彼は電話で妹の柳井汐梨(やない しおり)と寝た余韻を語っていた。

それなのに、今はまるで、妻を深く愛する完璧な夫のように振る舞っている。

この完璧な演技を、彼はいったいどれほど続けてきたのだろう。

私は考えるのが怖かった。

彼の肩に顔をうずめ、私は苦笑を隠した。

「なんでもないわ。ただ、さっき何を話してたのか少し気になって」

靖雄は甘く笑った。

「尋志と商談してたんだ。最近ドイツとの貿易を始めて、ドイツ語で話す癖がついたみたいでね」

きっと彼は、汐梨と逢瀬を重ねるのに夢中で、私が大学でドイツ語を副専攻していたことを忘れているのだろう。

空気が突然重くなり、私は呼吸をするのも苦しく感じた。

その瞬間、彼を押し離し、冷たく落ち着いた声で言った。

「仕事の話を続けて。喉が渇いたから、水を飲んでくるわ」

彼が何か言う前に、私はそのまま階段を下りた。

リビングを通ると、メイドたちの小声が耳に入った。

「さっき旦那様が奥様へのプレゼントを買ったそうよ。何十億もしたって」

「プレゼントが収納室に山ほどあるのにね。奥様、本当に愛されてるわ」

以前なら、そんな言葉を聞いた私は笑い、幸せを感じただろう。

私は自分が、世界一の夫を持ったと思っていたのだから。

しかし今は、ただ涙をこらえるので精一杯だった。

愛妻家の仮面の下で、彼がどれほど女遊びをしているか、誰も知らなかった。

昨日、私は彼の書斎に忍び込み、記念日の贈り物を置こうとした。

そこは会社の機密が多く、私でも滅多に入れない場所だ。

だがそこで、汐梨の真珠のイヤリングを見つけた。

新しいソファの隙間に、それは眩しく光っていた。

その瞬間、私は靖雄との結婚が終わったのだと悟った。

スマホが震え、思考が中断された。

電話の相手は、私の指導教授である高坂(たかさか)教授だ。

「奈緒、君は科研プロジェクトの招待を受けたそうだね。

あの時、君が木村のために夢を諦めたときは残念だったが、戻ってきてくれて本当に嬉しい。

三日後に迎えが行く。それまでに家族と別れを済ませておきなさい」

家族か。

私は思わず手に力を込め、スマホを握りつぶしそうになった。

両親は六年前に交通事故で亡くなった。それ以来、靖雄が私にとって唯一の家族だ。

だが、彼は裏切った。もう、彼は私の家族ではない。

私は深く息を吸い、かすかな声で言った。

「いえ、もう結構です。最高レベルのセキュリティ権限をお願いします。私のすべての身分記録を消したいんです」

電話の向こうで、高坂教授が驚きの声を上げた。

「なぜだ?記録が消えれば、柳井奈緒(やない なお)という存在は完全に消える。木村には二度と君を見つけられないよ」

私は苦笑した。

「大丈夫です。彼はもう、私を探したりしません。だって彼はもう私を裏切りましたから」

私の目の奥がじんと熱くなった。

薬学部を離れてから、私が薬に関わったのは、彼のために二日酔いのスープを作るときだけだった。

私は自分を見失い、何も得られなかった。

高坂教授はしばらく沈黙し、やがてため息をついた。

「昨日、君が急に承諾したとき、何かあるとは思っていたが……そうだったなのね。

分かった。すぐに手配するよ。三日後にはすべて終わる。準備しておきなさい」

私はそっと目を閉じた。胸の奥に、初めて解放という軽さが生まれた。

安全プロトコルがあれば、もう「木村夫人」という名から逃れる方法を探す必要はない。

「ありがとうございます」

そう言い終えた瞬間、背後から聞き慣れた低い声がした。

「奈緒、誰がお前を裏切ったって?」
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第1話
「またよそ見をする?」月明かりがやけに甘い。湯気のこもる浴室には、輪郭の曖昧な影が揺れている。西園寺澪(さいおんじ みお)はタイルの壁に追い詰められ、つかまれた手首を頭上に押さえつけられる。くびれた腰には、もう一方の手が容赦なく回っていて、くぼみに赤い痕がくっきり残っていた。耳もとで低く笑う気配。次の瞬間、熱が耳たぶを包んだ。軽く噛まれて、執拗に擦られて。体の奥で、熱の波が何度も跳ね返る。震えをこらえながら、唇をきゅっと噛んだ。それが、たっぷり一時間。最後には、背後の腕の中で力が抜けきっていた。神崎凛也(かんざき りんや)は後ろから抱きしめたまま、喉の奥で楽しそうに笑う。しばらくして、体をかがめると、そのまま澪を横抱きにして浴室を出ていった。ベッドに下ろされたときには、澪の意識はもうとろとろだった。それでも、凛也がバスローブを羽織って出ていこうとするのを見て、深く息を吸って、起き上がる。「凛也」足が止まる。振り返った彼が眉を上げた。「ん?」「話がある」結婚して半年以上。体だけは、ちゃんと「夫婦」をやってきたのに、心の会話はほとんどなかった。どれだけ遅く終わっても、結局は別々に眠る。政略結婚なのだから、ある意味では最初から「共同作業」みたいなものだった。凛也は戻ってきた。ベッドには座らない。向かいのソファに腰を下ろす。脚を組み、背もたれにだらりと体を預ける。指先で肘掛けを軽く叩く仕草は、色気があるのに下品ではない。「で?」澪は彼を見つめる。欲はもう引いて、残っているのは冷えた理性だけ。「離婚したい」肘掛けを叩いていた指が、ぴたりと止まった。目が細くなる。笑みも消える。「……何だって?」聞こえていないはずがない。澪は余計な説明をしなかった。「離婚協議書は弁護士に作らせた。リビングに置いてあるから、時間あるときにサインして、印鑑も」数秒、部屋の空気が固まった。凛也は澪をまっすぐ見つめたまま、声を落とした。「西園寺家の人間にも、もう話したのか」恋愛結婚だって軽くない。まして政略結婚は、簡単で済む話じゃない。人脈も取引も、全部が絡んでいる。ひとつ動けば、全部が動く。澪は淡々と言った。「自分で決められる」凛也の喉仏がわずかに動く。怒っているのか、笑っているのか
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第2話
LINEを送ったとたん、すぐ返ってきた。【?:ほんとに離婚するの?】【澪:うん】【?:……納得してる?】【澪:「ほどよい」って、温度ならいちばん心地いいのにね。気持ちの話になると、とたんにしんどい】【?:それな。ったく、凛也ってほんとクズ】【澪:そもそも政略結婚なのよ。本気にしないで】澪は最後の一文を送って、スマホを伏せて、そのまま布団にもぐり込んだ。けれど、眠りは浅かった。部屋にはまだ、凛也のボディソープの香りが残っている。澪のものとは違う、重たい香り。いつもなら落ち着くはずなのに、今夜は悪夢みたいにまとわりついてきた。翌朝。食卓に降りると、そこに凛也の姿はいない。家政婦の小林京子(こばやし きょうこ)が朝食を並べながら、様子をうかがうように言った。「神崎さまは、もうお出かけになりました」ミルクのカップに指先を添え、「ええ」とだけ返す。「それと……お出かけの際、スーツケースもお持ちになっていました……」「わかった」京子は西園寺家からずっと付いてきた人で、澪のことを小さいころから知っている。だから、しばしば「余計」な話も口にする。「……神崎さまと、けんかでも?」澪は目を上げ、隠す気もなく淡々と告げた。「けんかじゃない。離婚よ」京子が息をのむ。口を開きかけて、踏み込みすぎるのを怖がったのか、最後に、小さく確認するだけにとどめた。「神崎さまから……?まさか、西園寺家の最近の件の影響……」「私からよ。西園寺家の件は彼が知らない」西園寺家のいざこざは、今はまだ本家が押さえ込んでいる。凛也の耳に入る余地はない。京子は唇を結び、何か言いたそうな様子だが、澪は、そのチャンスを与えなかった。ミルクを飲み干し、短い電話を一本入れて、そのまま玄関へと向かう。邸宅を出て、車で自分の働いる会社・週刊ルミナスへ。道中、アシスタントから取材の報告が飛んできた。「取材前に、相手が炎上しました……素行が原因で……秘書にたれこまれたみたいです。模範扱いだったのに、失脚が早すぎて……」澪はハンドルを握ったまま、短く問う。「代わりは?」「……いません」眉間がわずかに寄る。「前にも言ったよね。どの号でも、候補は必ず用意してって」声の温度が下がったのを察して、電話の
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第3話
編集長室を出たとたん、澪はずきずきとしているこめかみを指で押さえた。週刊ルミナスが凛也に取材するのは、思いつきではなく以前からの計画だった。ただ、凛也がずっと断っていて、なかなか機会がなかっただけ。だから、本来なら喜ぶべきことだ。なのに、胸はちっとも弾まない。編集部に戻ると、澪は近くのデスクを軽く叩いた。みんなの視線が集まるのを待って、淡々と言った。「今号のインタビューは三浦社長に差し替えるの。準備して。来週水曜は、神崎社長の特集を組むことになる」空気がふっとゆるむ。穴は埋まった。さっそく新入りたちがひそひそと話し始める。「神崎グループの社長って……あの神崎社長?」「ほかに誰がいるんだよ」「鬼だって噂あるよね」「鬼かどうかは知らないけど、テレビだと顔はいいんじゃない?」「てか聞いた?あの社長、めちゃ一途らしい。大学のとき彼女できて、ずっと続いてるって」勝手に盛り上がる声を背に、澪は自分の席へ戻った。バッグを置き、コーヒーマシンで一杯淹れる。ひと口含んだとたん、さっきの噂が頭をよぎる。……凛也が大学一年のとき、恋人がいたのは事実だ。仲もよかった。けれど、卒業を機に別れた。理由ははっきりしていない。「相手がより良いキャリアを求めて別れを選んだ」とか、そんな話だけが残っている。それからは凛也が誰とも付き合わず。次に表に出たのは、澪との政略結婚だった。そして今は、離婚。協議書、もう署名しただろうか。凛也なら、引き延ばすタイプじゃないはずだ。澪はスマホを取り、昨夜の相手に続けて送る。【澪:凛也に連絡した?】三十秒ほどして返信が来た。【朱里:したよ。褒められた】【澪:?】【朱里:アフターが手厚いって。結婚から離婚まで、ぜんぶセットで頼めるってさ】相手は佐伯朱里(さえき あかり)。澪の親友で、離婚案件を山ほど扱う弁護士。未婚のくせに、毎日誰かを別れさせている。結婚の話より、離婚のほうがしっくりくる。本人がそう言っていた。当時の婚前契約も、作ったのは朱里だった。……一週間なんて、あっという間だ。気づけば、もう来週の水曜だった。早朝、澪が台本を抱えて撮影スタジオに入ると、スタッフが二人、青い顔で駆け寄ってきた。その慌てた様子を見て、澪が先に聞いた。「どうした
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第4話
凛也の声には、かすかな嘲りが混じっていた。数秒、視線がぶつかる。澪はふっと笑って、再びインタビューの状態に戻った。「神崎社長が答えにくいのでしたら、無理には伺いません。次の話題に移りますね……」取材は二時間続いた。事業の中長期計画から私生活まで。澪は丁寧に尋ねている。終わりの合図が出て、澪が立ち上がった。「本日はありがとうございました」手を差し出すと、凛也は視線を下ろし、澪の指先に落とした。そのまま、無感情に握る。「……今後とも、よろしく」澪も微笑みながら無感情の声で感謝を伝えた。「ご協力ありがとうございました。神崎社長」凛也を見送り、襟元のピンマイクを外して、そばのアシスタントに渡した。受け取ったアシスタントは、目をきらきらしながら言った。「澪さん、神崎社長みたいな人は、いったいどんな女性と結婚するんですかね?お金もあるし、顔もいいし……」澪は少し考えて、短く答えた。「親が決めた政略結婚でしょう」「ですよねえ。このレベルの人って、だいたい政略結婚ですもんね」澪は笑って、そこで話を切った。スタジオを出て、数歩行ったところで、ポケットが震えた。画面にはLINEの通知。澪は指先で開く。【凛也:今夜、本邸で夕食】ごく簡単な言葉。質問ではなくて通知みたいだ。澪はすぐ返した。【澪:まだ家に、離婚のこと言ってないの?】三十秒ほどして返信が来た。【凛也:おまえもう言った?】澪は唇を噛む。自分も言っていない。西園寺家はいま、そんな話をできる空気ではなかった。返事を考えていると、追い打ちみたいに二通目が来た。【凛也:運転手を迎えに行かせよう】断る余地のない言い方。けれど澪は短く返す。【澪:自分で行くから】——もともと、この結婚は「そういうもの」だった。澪と凛也は、典型的な政略結婚。三歳のころ、両家の祖父たちが勝手に縁談を決めた。世代をまたいだ付き合いがあり、さらに企業同士の利害関係もあるため、結びつくのは自然だ。この婚姻が終わっても、利益も縁も残る。離婚したところで、両家の関係がいきなり切れることはない。退勤後。澪は車を走らせ、神崎家の本家に着いた。降りたとたん、庭先で電話をしている凛也が目に入る。黒いシャツにスラ
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第5話
まさかと思った。西園寺家の揉め事が、こんなふうに凛也の目に触れることになるなんて。気づけば、視線が突き刺さるのを感じた。何もなかった顔でひと呼吸を置き、わざと足音を立てた。そばにいる凛也の目つきが、さらに一段暗くなった気がした。……西園寺の会長、西園寺誠司(さいおんじ せいじ)は、婿入りでのし上がった男だ。三十年前。西園寺家のひとり娘だった西園寺静江(さいおんじ しずえ)が、貧しい青年に惚れ込んで、周囲の反対を押し切って彼を婿に迎えた。しかし、それを恋だと思っていたのは、静江だけ。「いい人」だと信じていたのに、誠司にとって彼女は「近道」でしかなかった。誠司は演じるのが上手かった。何十年も、いい夫の仮面を被り続けてきた。その間に、老いた当主から株の半分を奪い取り、静江についてきた腹心も全部追い払った。そしてようやく、誠司は尻尾を出した。気づいたときには、もう遅い。会社の中で、彼の足場はすでに固まっていた。……いちばん早く澪たちに気づいたのは、神崎家の家政婦だった。視線ひとつで合図を送ると、凛也の母、神崎絹代(かんざき きぬよ)が襖をさっと引き開いた。一瞬、空気が固まった。けれど絹代は立ち上がり、ため息をついて、意を決したように口を開いた。「……聞こえちゃったわよね」澪は浅く笑って、無言で返す。わざわざお義母さんの顔を潰す必要はない。絹代は澪の手を取って、その上に自分の手をそっと添えた。温かかった。「大丈夫よ。たいしたことじゃない。神崎家も、あなたの味方だから」澪は小さくうなずく。「ありがとうございます、お義母さん」「礼などいらないわ。私たち、家族なんだから」そう言い切ってから、絹代の視線が凛也へ飛ぶ。表情は穏やかなままなのに、声だけが妙にとげる。「……ねえ?凛也」凛也はちょうど、座布団を出しているところだった。名指しされても、目だけを上げた。「うん」返事はそれだけだった。夕食の席では、凛也の両親が澪に次々と言葉を投げた。困ったことがあったら言いなさい、と。こちらで何とかする、と。澪はそのたび丁寧に返す。けれど心底では、本気にしていない。この世界は、情より先に風向きが変わる。政略結婚も、愛情ではなく利害の釣り合いで成り立
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第6話
「……恋というのはさ。無理しても、結果が出ないんだよ」その一言で、絹代の喉の奥に引っかかっていた言葉が、ぜんぶ詰まった。傷つく言い方だ。けれど、否定もできない。好きじゃないものは、好きになれない。ホルモンだの何だの、首に刃を当てたって動かない。追い詰めたら、むしろ逆効果だ。ここまで来たら、もう話は噛み合わない。絹代は凛也をひと睨みして、ショールを抱え直し、すっと屋内へ引っ込んだ。その背中を見送った凛也は、もう少しだけ冷たい風で頭を冷やしてから、澪との寝室へと戻った。寝室。風呂を上がった澪はベッドに座り、パソコンを打ちまくっている。凛也が入ってきても、ちらりと視線を上げただけで、何も言わなかった。カタカタと、乾いた音だけが部屋の中で響き渡っている。ウォークインクローゼットから部屋着を取り出して、凛也はその音を背に浴室へ入った。服が床に落ち、鏡みたいに映るタイルに、引き締まった胴体がぼんやりと浮かぶ。蛇口をひねり、湯気が視界を曇らせた。凛也は手を上げて顔にかかった水をぬぐって、心がどうしても落ちない。澪の実家があんな状態になっていたのに、自分は何も知らなかった。——本当に、冷たい男だったな。自分は。けど、それ以上に冷たいのは、彼女のほうかもしれない。……浴室を出たとき、澪の作業がまだ続いていた。そのままベッドの端に腰を下ろし、髪を拭こうとしたそのとたん。背中から、澪の声が飛んできた。温度のない、きれいな声。「今夜は別々に寝る」凛也は振り返る。「……なんで?」澪はエンターキーを叩いて、何も答えずに次の質問を投げた。「元カノに未練があるの?」凛也は眉を寄せる。「だから……」言いかけた凛也を澪は制した。とんと、パソコンの画面を指先で叩く。「仕事」今日の取材で拾いきれなかった穴。そういう目だった。凛也は画面に目を落とす。そこにあったのは、自分の取材原稿。胸が、すっと沈む。細めた目で澪を捉え、吐いた息に、たばこの気配がかすかに滲んだ。「……まだ、取材してるのか」その声は、妙に冷たい。けれど澪は、その視線を逸らさない。感情を乗せずに、ただ事務的に言う。「今すぐ答えづらいなら、明日、秘書を通して別の時間を取っていただいても構わない」その丁
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第7話
凛也は子どものころから、やたらとモテモテだった。顔がいいし、実家も太い。外見も条件も、いちいち揃っている。だから、それを狙って近づいてくる女も、何人も見てきた。ところが、最初から計算して、自分の隣を離れようとする女は、澪が初めてだった。……なんだこれ。遊ばれた気がした。ふと、胸の奥がモヤモヤし始めた。凛也がまだその感覚を噛みしめている間に、澪はもう床に横になっていた。気づいたときには、すでに寝息を立てている。「……ふん」その寝顔を目にして、凛也は思わず鼻で笑った。立ち上がって浴室へ入る。ドライヤーの音だけが、夜を切った。……翌朝。起きるタイミングも、二人は同じだった。洗面を済ませ、身支度を整える。澪は髪をまとめながら、さらりと横目で凛也を見た。「離婚協議書、サインした?」ネクタイを結んでいた手が、ぴたりと止まった。昨夜の「遊ばれた」という感覚が、またぶり返した。「チッ……したぞ」凛也は舌打ちする。「うん。ならいい」澪は淡々と続けた。「親にも早めに言って。でないと面倒になるから」ネクタイを指先に引っかけたまま、凛也は振り返った。口元だけが笑っている。「なにが面倒なんだ?」その問い返しに、澪は顔を上げる。体にぴったりと合ったベージュのワンピースが、彼女の美しいシルエットをきれいに際立たせた。「離婚したあとも同居してるなんて、説明がつかない」澪は細い。なのに、必要なところだけはちゃんと形がある。凛也の視線が、勝手に腰から下へ落ちる。彼の視線に気づいて、澪は半歩、後ろへ引いた。——何をしようとしているのか、もうわかってる。たったの半年でも、凛也の癖はすでに覚えている。彼は、こういうとき、そこに手を置くのが好きだったんだ。空気が、妙に詰まる。艶っぽくて、けれど居心地が悪い。澪がその空気から逃げようと、体をひねりかけたそのとたん、凛也が大きく一歩詰めて、澪の背中を壁際に追い詰めた。そのまま、耳元に声が落ちる。「今は言えないよ」澪の背中が壁に当たり、熱が頬に上る。「母さんは、おまえをかわいがってるんだ。西園寺家がこんな状況になったいま、俺が『離婚する』なんて言ってたら……どう思われる?」顔を首筋に埋めようとするみたいに、凛
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第8話
澪は首筋を噛まれて、息がひゅっと詰まった。でも身をよじるより先に、凛也はすっと身を起こして二歩ほど離れ、なにもなかったみたいにネクタイを締め始めた。整ったスーツ姿。見た目だけは、やけに立派だ。さっき噛みついた男とは思えない。だから余計に腹が立つ。……朝食の席でも、二人はほとんど口を開かなかった。勘のいい絹代は、澪の首元の痕にすぐ気づいた。テーブルの下で凛也のすねをこつんと蹴り、顔を上げて、視線で問いかけた。「……?」その視線を追って、凛也は目を細める。けれど黙ったまま。絹代が小声で言う。「あとで後悔するわよ」凛也は眉を上げて、口元だけで笑う。声を出さずに、口の形だけで返した。「ぜったいしない」「ふん」二人のやり取りは、まるでスパイの合図みたいだった。澪はぼんやりしていて、それにまったく気づかなかった。食後。澪と凛也が本邸を出て、車に乗り込む。エンジンをかける前に、澪のスマホが震えた。実家からの電話だ。画面に視線を落とし、指先で受話のボタンをスライドした。「……もしもし。母さん」電話口の静江が、いきなり言葉を刺してきた。「誰が、凛也と離婚していいって言ったの?」澪は答えない。沈黙に苛立ったのか、静江の声がさらに硬くなった。「離婚なんて大事なこと、どうして家に一言もないの?あなた、私を母親だと思ってるの?」ハンドルに添えた手が、わずかに力がこもった。「母さん。私と凛也は——」言い終える前に、氷みたいな声が被さった。「どんな手段でもいい。とにかく、その離婚だけは絶対に許さない」ピッ。ツーツーと、無機質な音だけが耳に残る。スマホを目の前に持ち上げ、通話終了の画面を見て、澪は思わず唇を噛みしめた。物心ついたころから、母さんはずっとこうだ。独断で、強引で。彼女にとって自分は娘じゃない。都合のいい手駒だけだ。どこへ打つか、どう打つか、決めるのは彼女。澪の気持ちなんて、どうでもいいことだ。車内、スマホを握ったまま固まっていると、窓を外から叩く音がした。こん、こん、こん。顔を上げると、外に凛也が立っている。二人の視線がぶつかった。小さく息を吐いて、澪は窓を半分だけ下ろす。「……何よ?」凛也もスマホを手にして、目を細めて笑ってい
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第9話
澪の返事はさらりとしていた。逃げる気配も、はぐらかす気配もない。言い終えると、手にしていたスマホをセンターコンソールに置いて、凛也を見つめながら告げた。「お手すきの際に、ご連絡ください。できれば一週間以内でお願いします」胸の奥に、よく分からないものがじわりと膨らむ。それでも体裁だけは崩したくない。凛也は喉の奥から言葉を絞り出した。「安心しろ。長引かせない」それ以上、澪は留まらなかった。ハンドルを切って、そのまま車を走らせた。しばらく進んでから、バックミラー越しに後ろを見た。凛也はまだ、その場に立っている。澪は唇をきゅっと結び、視線を前に戻した。報われないと分かっている相手に、期待なんてしないほうがいい。向けた気持ちがまるごと空振りする痛さは、もう知っている。あれは、二度と味わいたくない。……一時間後。車は週刊ルミナスの編集部に着いた。駐車を済ませて社内へ入ると、助手の結城杏奈(ゆうき あんな)がやけに神妙な顔で寄ってきた。「澪さん」澪は薄く笑った。「どうした?」杏奈が声をひそめる。「聞きました?うちにチーフ記者が上から送り込まれたらしいですよ」澪はそういう話に首を突っ込むタイプではない。けれど、少しだけ引っかかった。「いつの話?」「今朝です」話しながら、二人は澪のオフィスへ入る。杏奈は長く澪についてきた助手で、真面目で実直。ただ、口が軽いのが惜しい。部屋に入るなり、杏奈はさっとドアを閉めた。二人きりになったとたん、彼女は息もつかずに続けた。「それで、早川編集長が昇進するって噂で……その新任のチーフ記者、恐らく澪さんと編集長の職位を争うことになります……」澪はデスクにバッグを置き、目尻だけを上げた。「誰から聞いたの?」「みんなそう言ってます」みんな。便利な言葉だ。それを口に出した瞬間、意見は勝手に「多数派」の顔をする。澪の反応をうかがいながら、杏奈は悔しそうに眉を寄せた。「澪さん、腹立たないんですか?こんなに長く頑張ってきたのに、急に上から送り込まれた人に編集長の座まで狙われるなんて……」澪は水を注ぎ、ひと口だけ飲んで、落ち着いたまま振り返る。「実力のある人が上に立つ。健全な競争よ」杏奈の目が丸くなった。「それ、頼もしいです。
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第10話
今度は、朱里からの返事がしばらく来なかった。たぶん、こっちの気持ちを察したんだろう。 もう少し間を置いて、一つのスタンプが飛んできた。【朱里:(ぎゅー)】【澪:大丈夫】【朱里:昨日さ、凛也と本邸に戻ったんでしょ。なにもなかった?】【澪:もう離婚した。なにが起きるっていうの】【朱里:男ってさ、愛と体はべつで動くものだから。とにかく、損だけはしないで】【澪:平気】短く返して、澪は画面を閉じた。次の瞬間、内線が鳴った。受話器を取ったとたん、早川編集長の声が耳に突き刺さる。「西園寺。ちょっと来い」「はい、編集長」電話を切って、澪は椅子を押し出す。編集長室のドアをノックして入ると、デスク前に誰かが立っていた。編集長は、その相手と話している。「ようこそ。入社おめでとう」編集長の顔つきは、いつもの冷えたそれとは別人みたいだ。営業スマイルを貼りつけ、まるで福の神でも迎え入れるみたいに。相手は上品に笑った。「これから、よろしくお願いいたします。編集長にも、いろいろご指導いただけると嬉しいです」「いやいや。神崎社長がいるんだ、俺がどうこう言える立場じゃない。むしろ、こっちが頼りたいくらいだよ」そんなやり取りの途中で、早川編集長が澪に気づいた。手で呼んで、笑いながら声を上げる。「西園寺。紹介する。こちら、新しく来たチーフ記者の牧野晴香(まきの はるか)さん」続けて、晴香に視線を移し、澪のほうへ手を向けた。「で、こっちは西園寺澪。これまでチーフを張ってきた。これからは二人で、週刊ルミナスを回してもらう。看板だからな。頼むぞ」二枚の看板、二本の腕。言い方は立派でも、空気は正直だった。「左腕」扱いの自分より、「右腕」扱いの晴香のほうが優先されているらしい。編集長が目で促す。先に挨拶しろ、と。晴香が振り向いて、二人の視線が絡んだ。澪は口元だけで、薄く笑う。「お久しぶりです」「澪ちゃん。ひさしぶり」仲良さげに聞こえるのに、どちらも手を差し出さない。さっき同窓グループをざわつかせていたあの「主役」、凛也の初恋相手はまさにこの晴香だ。椅子に座ったままの編集長が、今さら気づいたように目を丸くして、笑みを浮かべた。「……まさか、知り合いなのか?」「同窓です」澪はさらっ
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