白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

25 チャプター

第11話 宰相補佐は聖女の残業を見逃さない

 宰相府の夜は静かだ。 セルジュ・ラグランジュは、机に広げた書類から顔を上げ、窓の外を見た。西の丘から望む王都アルシエルは、商業区も王宮も、ほとんどの灯りが落ちている。 けれど、川の向こう、東の高台にそびえる公正契約大神殿だけは違った。上層の窓が、今夜も白く光っている。(3日連続だな) 机の端には、神前確認式の進行表と、大神殿から送られてきた聖女出務ログの控えがある。セルジュは数字の列を指で追った。 祈祷、相談窓口、契約審査、打ち合わせ。刻まれた時刻を足し合わせれば、一日16時間前後の稼働になる。(聖女の勤務時間は、契約上どこまで許容されていたか) 脳裏に、古い神殿契約の文言が浮かぶ。「聖女は、神と国のために可能な範囲で奉仕するものとする」。(便利な一文だ。倒れるまで使える) 眉がわずかに動く。セルジュは外套を手に取った。(政治的リスク。信用の失墜。そして、聖女個人の安全) 胸に浮かんだ言葉を、「安全管理」というラベルで包み直す。「……確認に行くか」 短く呟き、夜の宰相府を後にした。     ◇ 終電もタイムカードもない世界の残業タイムだ、と頭の中で苦笑した。ここは、公正契約大神殿の地下にある契約書庫だ。 私は机に積み上がったログをめくりながら、欠伸を噛み殺した。「聖女様、本当に休まないと倒れますよ……」 向かいの机で、書記官のティオが情けない声を出す。「大丈夫。あとこの束を読み終わったら、今日の分は終わりだから」「さっきも同じこと言ってましたよ」「気のせいだよ。たぶん」 神前確認式の台本と、ここ3年分の聖女関連ログ。式の前に、女神様に見せるべき問題点をまとめるため、私は過去の自分の稼働記録を掘り返している。「これ全部整理して、女神様にまとめて休暇くださいって申請するから」「まとめて、休暇……そんな制
last update最終更新日 : 2026-01-31
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第12話 王宮と神殿、板挟みの日

 その日が「板挟みの日」だと気づいたのは、夕方、机の上に紙の山が2つ積み上がった瞬間だった。 午前中、相談と祈祷と書類チェックで執務室を往復していると、若い神官が、妙に重そうな封筒を抱えてやってきた。「聖女様。王宮からの書類です。神前確認式の……『演出会議要旨』とのことです」「ありがとうございます。手が空き次第、確認しますね」 封筒を受け取っただけで、厚さとインクの匂いが想像できる。 封を切ったのは、相談の合間、ほんの数分だけ空いた隙間だった。 まず目に飛び込んできたのは、国王陛下の冒頭の言葉だ。『神前確認式は、国民と諸外国に、我が国と大神殿の結束を示す場である』 結束。絆。……契約の確認、という言葉はどこにもない。 続く段落では、「白い結婚」という言葉が繰り返し使われていた。 けれど、書類の行間を埋めているのは、「見せ方」の話ばかりだった。 王太子殿下と聖女が並んで歩く時間を長く、橋の上で立ち止まる場面を増やす。 そういった文言が並ぶたびに、私は眉間を押さえたくなる。「……歩く距離が増えても、契約文の1文字も増えていないんですけど」《良い資料ですねえ。こういうのは危ないですよ例として、後で教本に載せましょう》「女神様、仕事の熱意の方向がだいぶブラック寄りです」 昼前には、今度は私自身が神殿内の会議に呼び出された。 奉仕契約のときにも使った、少し冷えた会議室だ。窓の外の陽射しだけが春めいていて、部屋の空気だけ冬のまま取り残されている。「では、今年の神前確認式も、例年通りの式次第で進めることといたしましょう」 大神官長アグナス様が、開口一番そう告げる。 若い神官が、過去の式次第や女神御前報告書を束ねた分厚いファイルを机に並べていく。 紙の山は、前例という名の岩の塊みたいに、私の前に積み上がっていった。「女神様も、毎年『形式通りに進めましょう』とお
last update最終更新日 : 2026-02-01
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第13話 契約大橋に集うひとびと

 まだ空の端が白くにじむころ、契約大通りの石畳に荷車の音が増え始めた。 焼き菓子用の粉袋、簡易神符の木箱、子ども向けの紙冠。 露店の板が組まれ、色とりどりの布がひらめく。 石畳にはうっすら条文が刻まれており、夜露に濡れた文字列がきらりと光った。『神前確認式当日は、行列の通行を優先する』 古い一文は、この通りが何度も「国の契約」を見送ってきた道だと、今日も黙って告げている。 人々はパンを買いながら、荷を下ろしながら、口々に同じことを言った。「今日、聖女様と殿下が契約大橋を渡るんだってさ」     ◇ 橋のたもとでは、騎士たちがロープを張り、旗を立てていた。「観覧区画はこちらまで。押さないようにお願いします」 若い騎士が声を張り上げ、その横で先輩が淡々と指示を出す。「ルート、復唱」「王宮前広場から契約大通りを通って、契約大橋を渡り、大神殿前広場で合流、です!」 欄干には、昔の戦勝契約を刻んだレリーフ。 橋の中央には、丸い紋章石の上に白い布が敷かれ、女神と王家と神殿の紋章が並んでいた。 そこが、今日の列が立ち止まり、祈りを捧げる地点になる。     ◇「おかあさん、もっと前! 橋の真ん中、ちゃんと見えるとこがいい!」「そんなに早く行ったら、お昼前にへとへとになるわよ」 川沿いの坂を、親子連れや老人たちがゆっくりと登っていく。 橋の下では、洗濯中の女たちが手を止めて空を見上げた。「上のほう、もう旗が見えるよ」「偉い人たちも、橋の上じゃちっちゃく見えるねえ」 川面から見上げる契約大橋は、まだ人影まばらな巨大な舞台のようだ。 昼までには、ここに足音と歓声が重なることを、水だけが知っている。     ◇ 通りの角のパン屋には、朝から列ができていた。 小麦の香りに混じって、噂話がふくらんでいく。「ねえ聞いた? 王妃様が言ったんだって。殿下と聖女様のご婚約は『白い結婚』だって」
last update最終更新日 : 2026-02-02
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第14話 神前確認式、開幕

 契約大橋のざわめきが、背後で扉一枚ぶん遠くなる。 厚い扉が閉まる音がして、外の喧騒は一度きれいに薄まり、広い空間特有の低いざわめきだけが胸の奥に残った。「こちらへどうぞ、聖女様」 案内役の神官の声にうなずき、赤い敷物の上を進む。 少し前を歩くレオン殿下とは、腕一本ぶんの距離が空いていた。婚約者同士なのに腕を組まないこと自体が、「清らかな白い婚約」を象徴する演出だと、打ち合わせで何度も聞かされている。(腕を組まないことまで、演出に含めなくていいと思うんですけれど) 外の人たちにとって、今日は祝福の式だ。王太子と聖女が手を取り合い、国と神殿の絆を確かめ合う舞台。 けれど私にとって今日はいわば、三年間の勤務表と契約書の「答え合わせ」だ。《答え合わせ式。地味ですけど、いい響きですねえ》 頭の内側で、いつもの気楽な声が笑う。 公正契約の女神様。今日の式の主催者であり、この世界で一番、条文にうるさい存在。(女神様。今日だけは、笑ってごまかさないでくださいね)《ごまかしませんよ。真面目に、ログを読みます》 その一言だけで、喉の奥が少し乾いた。 視線を上げると、天井一面のレリーフが目に入る。 過去の「大案件」の名前と図柄が、輪のように刻まれている。戦争終結、王位継承の調停、神殿と王家の和解。 その一番端に、ぽつりと空いた枠が一つ。(三年前、初めてここに立ったときは、「自分には関係のない場所」だと思っていたのに) けれど今は、その空白が、自分の案件のために空けてある余白のように見える。(余白があるなら、書き込むことも、線を引いて消すことも、本当はできるはず) 深夜の泉で、女神様が婚約契約書の余白に「休息」「拒否権」などの言葉をそっと書き込んでいった夜を思い出す。 足元には、巨大な契約書のレイアウトを模した線が描かれている。条文の枠、署名欄、証印のスペース。 私とレオン殿下は、その署名欄にあたる位置に並び立つことになっていた。 前方には、王
last update最終更新日 : 2026-02-03
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第15話 お前を愛するつもりはない

 祭壇の上で、女神様の羽ペンがくるりと回った。《それでは、形式通り――発言ログから抜粋を再生します》 眠たげな声色はいつも通りなのに、本堂の空気だけがきゅっと締まる。石造りの壁も、色ガラスも、息を潜めたみたいに静かになった。 私は、膝の上で組んだ指に力を込めた。冷たく汗ばむ手のひらが、手袋越しにも分かる。(大丈夫。これは、三年間かけてここまで積んだログの話) 天井の契約文様が淡く光り、そこから垂れるように、薄い光の板が何枚も降りてきた。半透明の羊皮紙が円を描くように私たちの頭上に立ち上がり、それぞれに文字が浮かぶ。「年月日」「場所」「発言者」。 条文と同じく、すべてが整理され、整列されている。《王太子レオンハルト殿の発言ログより。三年前から本日に至るまでのうち、婚約契約第二条『互いの名誉を尊重すること』および第四条『聖女の安全と健康を守ること』に関わる部分を、順に再生します》 いくつもある光の板の中で、一枚が強く光を帯びた。件名欄に浮かんだ文字を見て、喉がひゅっと鳴る。「件名:お前を愛するつもりはない」 見慣れすぎて、私の頭の中ではただのラベルになっていた言葉が、今日は本堂の真ん中に掲げられている。(……本当に、やるんだ) 胸の奥で、三年前の夜の冷たい空気がよみがえる。それでも、私は視線をそらさない。逃げないと決めて、ここまで来たのだ。《では、再生開始》 女神様の声と同時に、光の板の縁がくるりと回転する。次の瞬間、本堂の上空に、別の声が響いた。《再生:三年前 王宮西回廊/発言者:王太子レオンハルト》『……俺は、国のための駒だ』 低い声が、石壁に反響する形で再生される。実際の回廊ではなく、ログの音だけが、この神殿の天井を叩いている。 ざわ、と前列の貴族席がわずかに揺れた。王家の紋章が刻まれた列のあたりで、誰かが小さく息を呑む音がした気がする。《この部分は、当事者自身による自己定義ですね。ここか
last update最終更新日 : 2026-02-04
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第16話 契約破綻の宣告

「女神様、契約違反の有無を、お伺いしてもよろしいでしょうか」 自分の声が、本堂の天井に届くくらい澄んでいたのを覚えている。 女神様の羽ペンが、私の頭上でふわりと回転した。さっきまでいたずらっぽく揺れていた光が、少しだけ硬い色に変わる。《では、形式通り、条文とログを突き合わせて確認いたしましょう》 ゆるい声色のまま告げられた一言で、空気がきゅっと締まる。 祭壇の上に浮かんだ光の契約書が、ゆっくりと配置を変えた。左側に王太子レオンとの婚約契約書。右側には、さきほど会場にさらされた発言ログの板が、何枚も重なって並ぶ。(さっきまで「ただの晒し」みたいだったのに) 今、ログたちは、証拠の顔をして静かに光っていた。《第二条。双方は互いの名誉と信頼を損なう行為を避け、公私において尊重をもって接すること》 女神様が条文の一部を読み上げる。 同時に、右側のログ画面に、短い光の断片が次々と再生された。『便利な聖女だな』『君の感情は、職務の邪魔になる』『お前を愛するつもりはない。役割を果たせばそれでいい』 時系列がわざとシャッフルされたクリップ集。 王宮の廊下、執務室、馬車の中。あちこちの景色の中で、レオンは同じような目をしていた。(これでも「互いの名誉と信頼を守っている」と言えるだろうか) 胸のどこかが、冷静にチェックを始める。仕事で契約書を読む時と同じ癖だ。《ログとの照合の結果、本条の履行状況は……》 一拍おいて、女神様は淡々と言い切った。《王太子側の継続的な不履行と判断されます》 本堂の空気が、ざわ、と揺れる。《続いて、第五条。聖女の健康と安全を守るため、王太子および王家は、その負担を適切に調整すること》 スクロールした条文のそこには、「聖女の健康と安全」という言葉が並んでいる。けれど、その周囲のタグは薄くかすれ、ほとんど光を持っていなかった。《こちらは……そもそも実
last update最終更新日 : 2026-02-05
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第17話 聖女に与えられた選択肢

 祭壇の上に浮かぶ光の契約書には、まだ二行の選択肢が揺れていた。 ① 改善案つきで再契約 ② 解消(神前離婚) 女神様の羽ペンが、その二行の間をくるりとなぞる。本堂を満たしていたざわめきが、ぴたりと止まった。《……なお、本件の最終決定権は、聖女リディア様にあります》 静かな声が、高い天井に届いて反射する。 最終決定権。私に。 3年間、「国のため」「王家のため」と言われ続けてきた。 何かを決める時、私の名前が主語になったことは一度もない。《本契約の主要当事者は、王太子レオンハルト殿下、公正契約大神殿、そして聖女リディア様》《ですが、日々の稼働時間と祝福負担の大半を担ってきたのは、どなたでしょう》 女神様が指先を弾くと、祭壇の横に光のログが一瞬だけ早送りで流れた。 祈願、奉仕、残業。タグが、私の名前の横にだけ、山のように積み上がっていく。(演出が容赦ないです、女神様)《事実を可視化しているだけですよ》《よって、本件については、まず聖女の意思を確認するのが公正かと存じます》 その一言で、壇上も王族席も傍聴席も、視線の向きをそろえた。 矢の束みたいな視線が、まとめて私に突き刺さる。(ここで「国のために」と笑えば、きっと全部丸く収まるように見える) 国王陛下の安堵した顔。王妃のほっとした吐息。神殿幹部たちの、「やはり再契約で」という表情。 その未来が、一瞬で思い浮かんだ。《時間が必要であれば、儀式の進行を一時停止することも可能です》《あなたが本当に望む条文を、ゆっくり言葉にしてくださって構いません》 女神様の声が、少しだけ柔らかくなる。 時間が必要なら、と言われた瞬間、私は悟った。(時間をもらえたら、私はまた「あとで」と先送りにする) 前の世界の会議室。「この件は次回に」と棚上げされる議題。終わらない残業。 あの癖を、ここにも持ち込んではいけない。
last update最終更新日 : 2026-02-06
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第18話 神前離婚

 「この契約を継続するつもりはありません」 そう言い切ったあと、本堂は痛いほど静かになった。高い天井の聖句も、床の文様も、全部が呼吸を止めているみたいだ。《当事者の意思を確認しましたので、婚約契約を解消する儀礼を開始します。 内容確認、同意の再確認、象徴物の返還、祝福の再調整。 順を追って進めます》 女神様の声が、澄んだ水音みたいに広がる。 その「形式通り」が、今日は初めて、私を守るほうに向いている。 王族席がざわめき、王様が立ち上がりかけた。「ま、待て。神よ、そのような儀礼は――」《この式は、契約の確認の場です。 当事者の合意がそろった以上、止められるのは当事者自身だけですよ》 視線が集まる先で、私の隣に立つ王太子レオン殿下が、蒼白な顔で拳を握りしめている。唇をかみしめ、しかし何も言わない。 国のため。自分は駒でいい。 その言葉を繰り返してきたのは殿下自身だ。今、殿下を縛っているのも、その言葉なのだと思う。《では、内容の最終確認を》 祭壇の上に、光の契約書が展開された。 聖女リディアは、王太子レオンの婚約者として、その身と祈りを国と王家のために捧げることを約する。《この契約は、三年間の発言ログと実態により、破綻が確認されています。 当事者の一人は継続を望まず、もう一人は、これ以上続けろとは言えないと表明しました》 女神様が淡々とまとめる。光の羽ペンが末尾をなぞり、文字列がかすかに揺れた。《同意の再確認に移ります。 王太子レオンハルト》「……何だ」《聖女リディアによる解消の申し出に、異議はありますか》 短い沈黙のあと、殿下はゆっくりとこちらを見た。「俺は、国のためなら、どんな契約でも受け入れるつもりだった」 乾いた声。いつもの定型句。「だがこれは、最初から俺一人の犠牲で済んでいなかった。お前をまともに守ることもできなかった。
last update最終更新日 : 2026-02-11
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第19話 最低限の取り決め

 控室の扉が閉じた瞬間、膝から力が抜けた。私はそのまま椅子に腰を落とす。 本堂いっぱいのざわめきも視線も、分厚い扉の向こうに遠のいていく。重たい式服の襟元を指先で少しだけ緩め、左手の薬指を見下ろした。 細い輪の跡が残っている。三年間、「王太子妃候補」という名札と一緒に私を縛っていた印だ。 所有物の刻印みたいだったその輪は女神様の光にほどけて消えたのに、肌だけまだ、じんと熱い。《三年分のログ、きちんと送り出されましたよ。改めて、お疲れさまでした、リディア》 頭の中に、よく知った女神様の声が降ってくる。「……ありがとうございます」 声に出す余裕はなく、心の中だけで答えた。《なかなか大変なログでしたね》 私は背もたれに体を預け、ゆっくり息を吐いた。《では、次はあなたを守る契約ですが――》「その単語を今出されると、脳が溶けるので後ほどにしてください。今だけは契約ゼロの休憩時間で」《了解です》 女神様の気配が、少し遠のいた。 机の上の白い板には、まだ一行も書かれていない。目を閉じかけたところで、控えめなノックの音がした。「失礼いたします。宰相補佐のセルジュ・ラグランジュです。入室してもよろしいでしょうか」 早い、と思うより先に、口が動く。「どうぞ」 立ち上がるべきか一瞬迷う。けれど膝がはっきり反対意見を出してきたので、私は座ったまま返事をした。 扉が開き、黒髪をきちんと束ねた男が入ってくる。礼服姿、片手には薄い書類束。 灰色の瞳が私をひと目見て、ほんの一瞬だけ、眉を僅かに寄せた。「ご気分はいかがですか。立ってお迎えいただく必要はありません。ここでは、形式よりもお身体の方が優先です」「……正直に申し上げるなら、燃え尽きたが一番近いです」「でしょうね」 セルジュ様は淡々と答え、机の端に書類を置くと、少し距離を取った位置に椅子を移して腰を下ろした。
last update最終更新日 : 2026-02-13
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第20話 橋を渡る人

 西の空が赤紫に沈みかけていた。 契約大橋の石畳には、紙吹雪と花びらの残骸が、湿った色のまま張りついている。さっきまで祝祭だった場所が、今は片付け途中の舞台みたいに静かだ。 遠くの広場からは、まだ人々の声が風に乗って届いてくる。 断片的な噂と、屋台を畳む音が、まだ風に乗って届く。今日一日で「契約」という単語を何度聞いたか分からない。 橋のたもとに立つ私の隣で、低い声がする。「本日の移動経路は、簡易支援契約第3条に基づき、私と護衛隊がご一緒します」 礼服から簡素な外套に着替えたセルジュ様が、いつもの事務的な口調で告げた。少し後ろには、女性騎士と平服の護衛が数名。「……私を一人にしない、条文でしたね」 さっき署名したばかりの文言を、私は口の中でなぞる。 聖女の安全確保のため、原則として単独移動を禁止する。 最低限と呼ぶには、少しばかり手厚い内容だ。(最低限の意味、やっぱりおかしい) 心の中だけでツッコミを入れる。《リディア、稼働状況の確認です》 女神様の声が頭の奥に降ってきた。《本日の精神負荷、平常時比でおよそ5倍。歩行可能ですが、急なイベントは控えましょう》「診断がざっくりしています」 足元を見ると、石畳の一部に古い文字が刻まれている。国と神殿の条文が、何十年も前からここにあるのだろう。夕焼けを受けて、その一行一行がうっすらと光っていた。《契約大橋は、もともと国と神殿の約束を刻んだ場所です。 最近は、個人のログも、少しずつここを通るようになりましたが》「私の三年間分のログも、今日ここを通ったんでしょうか」《ええ。ブラック寄りのやつが、どっさり》 背筋に、ひやりとしたものが走る。 国のため。王家のため。誰かのため。 その言葉で塗りつぶしてきた三年間が、光の粒になって橋の下へ流れていったところを想像してしまう。「……行きましょう」
last update最終更新日 : 2026-02-14
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