Mag-log in聖女リディアは王太子レオンハルトに『愛さない』と白い結婚を宣言され、別の令嬢を本命に据えた政略婚の飾りにされる。国と女神のためと言いながら利用宣言までされ、心も立場も詰みかけた――が、前世は契約書で戦った法務OL。女神と組んで祝福婚姻契約を改竄し、望めば即離縁・暴言は神前公開・次の伴侶は女神指名の最強条項を仕込む。公開処刑される王太子を尻目に、選ばれたのは彼女を密かに守ってきた腹黒宰相補佐セルジュ。溺愛と自由を手に入れる爽快ざまぁ恋愛譚。
view more公正契約大神殿の天井には、過去の「大案件」の名前が刻まれている。
戦争終結条約、王位継承の調停、神殿と王家の和解。 その一番端に、空いたままの枠が一つ。(……たぶん、あそこに今日の案件が増えるんだろうな)
私は祭壇の前で、他人事みたいに思っていた。
白金の指輪が、左手の薬指でかすかに浮いている。サイズがわずかに合っていなくて、指を動かすたびに、きゅっと皮膚をこすった。《指輪、やっぱり半号大きいですねえ》
頭の内側で、聞き慣れた声が笑う。
公正契約の女神。今日の式の主催者であり、私の上司であり、この世界で一番、条文にうるさい存在。(今、そのツッコミいります? 女神様)
《大事ですよ? サイズが合ってない指輪って、だいたいこの案件、最初から微妙ですよってサインですから》
(縁起でもないことを、神様が言わないでください)
私は口元だけを上げて、外からは分からないように息を吐いた。
祭壇の背後には、光の板が何枚も重なって浮かんでいる。そこに王太子レオン殿下との婚約契約の条文が、ゆっくりスクロールしていた。「互いの名誉を守ること。王国と神殿の協力関係を維持すること。聖女としての務めを最優先すること……」
中央の神官が、祝詞のような調子で読み上げていく。
《はいはい、前置きの綺麗なところですね》
(女神様、声、被ってます)
《聞こえるのは聖女様だけですから。安心してツッコミどうぞ》
(……ツッコまないといけないんですか)
《心の健康のためにどうぞ》
そんなやり取りをしているあいだも、式は進んでいく。
高い柱には祈りの絵ではなく、細かな文字が刻み込まれている。壁の装飾も、天井のレリーフも、すべて条文の断片で埋め尽くされていた。(契約に特化した神殿、というか……巨大な契約書ですね、ここ)
《褒め言葉として受け取っておきます》
祭壇前の床には、円形の魔法陣ではなく、契約書レイアウトの線が描かれていた。見出しの位置、条文の欄、署名欄。
私と、その隣に立つレオン殿下は、署名欄にあたる場所に立っている。「……本日は、王太子殿下と聖女リディア殿との婚約契約の履行状況についても、神前にて確認し――」
神官が言いかけたところで、隣から低い声が割り込んだ。
「形式通りで構わない。その必要はないだろう」
レオン殿下の横顔は、絵画のように整っている。
「……殿下。『その必要はない』とは、どの部分についてでしょうか」
台本にはない問いが、つるりと口からこぼれた。
私は基本的に、波風を立てない聖女として教育されてきたのに。「実務の細かい確認などだ。ここは祝福の場だろう」
レオン殿下は、私ではなく前方を見たまま答えた。
「そうですね。ここは祝福の場です」
「ならば――」 「だからこそ、契約の履行状況は、女神様に正しく報告した方がいいと思います」正面を向いたまま、私は微笑みを崩さない。
殿下の視線が一瞬だけこちらに向き、すぐ前へ戻った。《……ログ的には、なかなか良いツッコミでした》
(褒めても何も出ませんよ)
《分かってますよ。ログが増えるだけです》
胸の奥には小さな棘が刺さったままだ。
今さら、細かい確認は不要。 三年間の自分の生活を、そう一言で片付けられた気がして。「聖女殿。……王太子殿下のご負担も大きい。式は円滑に進めたいのだ」
前列から、王様が穏やかな声を投げてくる。
「もちろん、陛下。私は、形式通りで構いません」
私は一礼し、定型の言葉を返した。
それが喉を通る間、掌の中で自分の爪が痛い。《……これは、あとで教材にしましょうか》
(教材?)
《形式通りで構いませんと言っている人ほど、だいたい限界のログが溜まってるって話です》
(女神様、そういう本気の分析を式の最中にしないでください)
《仕事中なので》
光の板の端には、私の横顔が映っていた。理想的な角度で首を傾け、微笑む聖女の顔。
前の世界よりはずっとマシだ、と自分に言い聞かせてきた三年間の気配が、淡く胸に浮かんで消える。「聖女リディア」
名前を呼ばれ、私は意識を現在に戻した。
神官がこちらを向き、厳粛な声で告げる。「これより、公正契約の女神の御前にて、婚約契約の確認を行う。異議はあるか」
「異議は、ありません」
反射的にそう言いかけて、私は一瞬だけ言葉を飲み込んだ。
頭の奥で、女神が「おや」と小さくつぶやく。《一応、聞きますけどくらいのニュアンスでいいですよ?》
(……女神様。異議、出していいんですか)
《契約確認ですよ? 異議を出してはいけない契約確認って、すでに破綻してませんか》
(なるほど)
喉の奥で笑いを押し込む。
「……契約内容の確認、よろしくお願いいたします」
少しだけ言い回しを変えて、私は答えた。
神官がうなずき、祭壇に向き直る。《では、形式通り。ログの確認から入りましょうか》
女神の声が、頭上から本堂全体に染み込むように響いた。
光の板が一斉に切り替わる。王太子婚約契約・履行ログ。
淡い文字が浮かび上がり、過去三年間の記録が、薄い光の頁になって重なっていく。「ログ……?」
前列の重臣の誰かが、小さくつぶやいた。
隣でレオン殿下が、わずかに眉をひそめる。「本日の式は、祝福の再確認だけではありません」
女神の声が、静かに告げる。
《三年間のログをもとに、この契約をどう扱うかを確認する場でもあります》
(どう扱うか……)
《はい。続行するのか、条件を修正するのか、あるいは――》
女神は、そこで言葉を切った。
「女神よ」
王が、わずかに前のめりになって声を上げた。
「本日は、内外に向けて婚約を示す儀のはず。……その、ログとやらを読み上げる必要があるのか?」
《ありますよ、陛下》
女神は即答した。
《契約というのは、祝いたいところだけを拾っていても、公平とは言えませんから》
その言葉に、広い本堂の空気が、少しだけひやりと変わる。
王妃が、扇を持つ指先に力を込めたのが、ここからでも分かった。「では、まず三年前の、婚約締結当日のログから」
光の板の一枚が、すっと前にせり出す。
夜の回廊。高い窓から差し込む月光。 見覚えのある風景が、薄い光の中に浮かび上がる。(……ここから再生します?)
《もちろん。シリーズ的に、とても大事な一言がありますからね》
(女神様、その言い方やめてください)
《大丈夫です、まだ単語しか出しませんから》
女神が楽しそうに言う。
私の胃が、きゅっと縮む。《お前を――》
あの夜、彼が口にした、最初の二文字が、頭の内側でくっきりと蘇る。
でも、光の板の映像は、その瞬間でぷつりと切れた。《……と、いうところまでが、本日の事前ダイジェストです》
女神の声が、さらりとオチをつける。
本堂のあちこちから、安堵とも困惑ともつかない息が漏れた。「……続きは、読まないのか」
レオン殿下が、小さく問う。
彼の声には、わずかな苛立ちと、ほんの少しの不安が混じっていた。《本番は、もう少し後でまとめて読みましょう。今日はまず、この三年間が契約としてどう扱われるかの全体像からです》
女神は柔らかくかわす。
《聖女様》
(はい)
《三年前のあの夜のこと、少しだけ振り返っておきますか》
(……ここでですか)
《ええ。国のための契約に自分を合わせ続けた三年間の話ですから》
女神の声が、ほんの少しだけ真面目になる。
私は、わずかに顎を引いた。(分かりました。……では女神様。最初のログから、お願いします)
《承りました。では、あなたの朝にまだタイムカードも、私の声もなかった頃の話から、ゆっくり再生していきましょう》
天井に刻まれた無数の契約名が、光に縁どられる。
空いていた最後の枠が、淡く輝いた気がした。三年前の、自分の選択。
それが今日、ここで「私のために終わらせる契約」に変わるかもしれないことを、このときの私は、まだ自覚していなかった。その朝、私は久しぶりに「計画通り」という言葉を信じていた。 公正契約大神殿の相談受付ホール。掲示板には、女神の羽ペンで書き換えられた新しい勤務表が貼られている。夜間対応は原則なし、臨時は申請制、休養日は確保。たった数行なのに、呼吸が軽い。「聖女様、本日の予約は……え、ええと、ちゃんと昼に収まってます!」 ティオが書類束を抱えたまま笑う。「うん。奇跡だね」「奇跡って言わないでくださいよ! 僕が昨夜、全部組み替えたんですから!」 そこへ、外がざわりとした。 駆け込んできた伝令の神官が、息を切らして言う。「隣国ウェルナの辺境で、原因不明の熱病が流行している、との噂が……! 旅の商人が……」 噂。たったそれだけの言葉で、前世の記憶が喉の奥に蘇る。増える数字、鳴りやまない連絡。 背筋が冷えた私の隣で、ティオは青ざめて未来を先に見てしまう。「患者の流入や難民が来たら……神殿の祝福、追いつきません……!」「まずは落ち着こう。正規の報告が来てから」 そう言ってくれたのは、いつの間にかホールに現れていたセルジュさんだった。黒い外套の裾が揺れて、空気がきゅっと締まる。 そして、締まった空気はそのまま、面倒の形に固まって運ばれてきた。「聖女殿! 緊急だ! 緊急事態だぞ!」 王都の有力貴族の集団。顔見知りの「祝福常連」たちが、これでもかと香水を漂わせて押し寄せる。 代表の男は、隣の者の肩を叩きながら大仰に宣言した。「疫病がこちらへ広がる前に、我が家の者たちの健康と屋敷を、夜通しかけて徹底的に祝福していただきたい!」 家の者と屋敷、事業所、夜通し。噂の段階で、まず自分たちを先に守れ、と。 ティオが胸に抱えた新フォーマットの紙が、心細そうに震えている。「え、ええと……夜間の祝福は、事前申請と緊急度の確認が必要に…
会議室の真ん中に浮かぶ光の板は、昨日のまま真っ赤だった。 祝福件数、相談件数、予定外対応、書類、移動。全部が「限界です」と叫んでいる。「……やっぱり、何度見ても、えげつないですね」 ティオが喉を鳴らす。「えげつない、で済ませるのは優しいですね」 セルジュは淡々と線を引き続けていた。いつもの丁寧な声。でも、ペン先がほんの少しだけ揺れている。 大神官長アグナスは、椅子に座ったまま沈黙していた。やがて彼は目を閉じ、ぽつりと呟く。「……似たような数字を、昔、1度見たことがある」 空気が少しだけ冷える。「10数年前、私がまだ若輩だったころ……仕えていた聖女がいた」 アグナスは自嘲気味に笑った。 「優しい方でな。誰も断らず、誰よりも早起きで、誰よりも遅くまで祈った。……そして、ある日倒れ、そのまま戻らなかった」 ティオが「そんな……」と声を漏らす。私は唇を噛んだ。数字が急に「人」になる。「当時の我々は言ったのだ。『聖女の奉仕は神意であり、止めるのは畏れ多い』と」 アグナスの指が、赤い棒グラフの頂点をなぞる。 「……神意を盾にして守っていたのは、聖女ではなく、私たちの責任の方だったのだろう」 胸の奥に、前世の空気がふっと刺さった。 『トップの号令だから』『会社のためだから』。便利な免罪符。誰かが倒れても、誰も自分の名前で止めないやつ。 アグナスが立ち上がり、私の前で膝をつきかけた。 「や、やめてください!」 私は慌てて立ち上がる。 それでもアグナスは深く頭を垂れた。 「リディア殿。私は、君の前任者を守れなかった。そして、君の契約書に手を入れることを、神意と前例のせいにして避けてきた」 言葉が重い。慰めるべきか迷って、でも私は、契約で守る側だと思い直す。「……過去は変えられません」 私はゆっくり息を吐いた。 「でも、『今からの前例』なら、私たちで作れます。頭を上げてください。責任者には、責任者の仕事をしてもらわないと困ります」
夜明け前の大神殿は、石の床まで眠そうな顔をしている。私が祈祷室へ向かう回廊の窓には、まだ朝の色が薄い。 そこへ、足音がきっちりと等間隔で重なった。「おはようございます、聖女殿。本日一日、業務量を記録します。……差し支えない範囲で」 セルジュさんは書類バインダーを抱え、もう片方の手には、妙に立派な砂時計を持っていた。 砂時計。神殿で? と口の中でつぶやく前に、ティオがわなわな震えながら叫ぶ。「さ、砂時計まで用意してるんですか!? 宰相補佐さま、そこまで本気なんですか!」「記録は武器ですから」 淡々と言い切るのが、また怖い。私は苦笑して肩をすくめた。「差し支えない範囲がどこまでかは、業務の後で一緒に考えましょう。たぶん、今日一日で境界線が消えます」「承知しました。消えた境界線は、条文で引き直します」 頼もしさと同時に、背筋が寒いほどの宣言だった。 ◇ 聖女執務室に入った瞬間、ティオが今日の予定表を広げる。 赤。赤。赤。余白のはずの紙が、血のような赤で埋まっている。「午前は貴族家の家族祈願、午後は神殿幹部用の祝福、その合間に定例相談が……」「その合間がもう合間じゃないね」「はい……え?」 ティオが顔を上げたところで、扉が叩かれる。叩かれる、というより、叩き続けられる。「聖女様! 妻が今朝から咳が止まらず」「聖女様! 旅の一行が通りがかったついでに祝福を!」「聖女様! うちの息子の試験が今日で、念のため!」 雪崩だ。予定表が紙一枚で受け止められる量じゃない。 ティオは半泣きで私を見た。「聖女さま、今日も予定外が山ほど……」「予定外が常態化しているなら、それはもう予定ですね」「言い方が冷たい!」 ツッコミながらも、セルジュさんが小さく笑った。笑うと、余計に怖い。
翌朝、王宮の小会議室は寝不足の匂いがした。 窓の外には、まだ薄く、空に残像みたいな神託文字が漂っている。昨日、大聖堂の天井いっぱいに現れたあの一文。 【聖女労働契約:重大違反を検出】 あれを見た瞬間のざわめきが、今も壁に染みついている気がした。「聖女殿。こちらへ」 呼ばれた席は、なぜか末席寄り。形式上、私は当事者で、原因でもあるらしい。 テーブルの上には巻物が山。重い。前例という名の重石が、こうして物理で置かれる世界だ。 グスタフ王は額を押さえ、クロード宰相は咳払いで時間を稼ぎ、大神官長アグナスは硬い笑みを貼りつけている。 セルジュだけが、いつも通りの無表情で私の隣に立っていた。目が合うと、ほんの少しだけ、安心したようにまぶたが緩む。「まずは状況整理を――」 宰相が口を開いた、その瞬間。天井が白く瞬いた。 ドン。 落ちてきたのは光ではなく、分厚い本だった。机が震え、インクの匂いが立つ。 表紙に、黒々と刻まれている。 『聖女奉仕契約(現行版)』 室内が凍った。 そして、頭の中にだけ、あのゆるい声が響く。『原本、持ってきました。前世のシステムで言うと仕様書ですね』「……女神、さま」 アグナスが反射でひれ伏した。慣れた動きが、むしろ痛々しい。 王が椅子から半歩だけ立ち上がり、すぐに座り直した。王様でも神相手だと挙動が忙しい。『昨日の稼働停止、あれは嫌がらせじゃなくて安全装置です。今日は原因究明。はい、会議、続けてどうぞ』 女神はさらっと丸投げしてくる。私は喉の奥で、笑いかけた息を飲み込んだ。笑えない仕様書が来たからだ。「セルジュ、読み上げを」 王の命令に、セルジュが一歩前へ出る。 彼がページをめくった瞬間、黒インクの文字がじわり、と滲んだ。 まるで紙が汗をかくみたいに。「第12条。聖女は疲労を理由に祝福を拒否できない」 言葉が落ちるたび、文字の周りから黒い煙のようなものが立ち上る。