白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました

白い結婚を言い渡された聖女ですが、むしろ好都合なので神様に離婚届を出しました

last update最終更新日 : 2026-02-28
作家:  夢見叶連載中
言語: Japanese
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概要

異世界ファンタジー

溺愛

ハッピーエンド

聖女

ざまぁ

離婚

聖女リディアは王太子レオンハルトに『愛さない』と白い結婚を宣言され、別の令嬢を本命に据えた政略婚の飾りにされる。国と女神のためと言いながら利用宣言までされ、心も立場も詰みかけた――が、前世は契約書で戦った法務OL。女神と組んで祝福婚姻契約を改竄し、望めば即離縁・暴言は神前公開・次の伴侶は女神指名の最強条項を仕込む。公開処刑される王太子を尻目に、選ばれたのは彼女を密かに守ってきた腹黒宰相補佐セルジュ。溺愛と自由を手に入れる爽快ざまぁ恋愛譚。

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第1話

第1話 神前確認式は静かに燃える

氷室彩葉(ひむろ いろは)は力なくベッドに横たわり、冷たい器具が、鈍く痛む下腹部を滑っていく感触に耐えていた。

「赤ちゃんは……大丈夫ですか……?」震える声で尋ねると、医師は憐れむように溜息をついた。

「切迫流産です。残念ながら……お子さんの心音は、もう聞こえません」

その瞬間、彩葉はシーツを強く握りしめた。心臓が氷の手で鷲掴みにされたように、軋む。

「仮に心音が確認できたとしても、出産は推奨できませんでした。火災で大量の有毒煙を吸い込まれている。胎児への影響は計り知れません」

二時間前──氷室グループ傘下の新エネルギー研究室で火災が発生し、彩葉は開発中の最新チップを守るため、躊躇なく炎の中に飛び込んだ。

チップは守れたものの、彼女自身は濃い煙に巻かれて意識を失ったのだ。

救急室に運ばれた時、体は擦り傷だらけで、下半身からは血が流れ、目を覆いたくなるほどの惨状だったという。

家庭と仕事に昼夜を問わず奔走し、心身ともに疲れ果てていた彼女は、この時になって初めて、自分のお腹に新しい命が宿っていたこと──妊娠二ヶ月だったことを知った。

「あなたはまだ若い。きっとまた授かりますよ」

医師はそう慰めながら、「今は安静が第一です。ご主人に連絡して、付き添ってもらってください」と告げた。

身を起こすことすら億劫な体で、彩葉は夫である氷室蒼真(ひむろ そうま)に電話をかけるのを躊躇った。

二日前、彼は息子の氷室瞳真(ひむろ とうま)を連れてM国へ出張したばかりだ。

「プロジェクトの商談だ」と彼は言っていた。仕事中の彼が、邪魔をされることを何よりも嫌うことを、彩葉は知っていた。ここ二日間、彼からの連絡は一切ない。それほど忙しいのだろうか。

その時、携帯の短い振動が静寂を破った。

画面に表示されたのは、異母妹である林雫(はやし しずく)の名前。

震える指でメッセージを開いた彩葉は、息を呑んだ。

そこに添付されていたのは、一枚の写真。雫が息子の瞳真を抱きしめ、二人で笑顔のハートマークを作っている。そしてその隣には、眉目秀麗な夫・蒼真が静かに座っていた。

結婚写真すら「くだらない」と撮ろうとしなかった彼が、その写真の中では、薄い唇の端をわずかに上げ、滅多に見せない穏やかな笑みを浮かべていた。

その姿は、まるで幸せな三人家族そのものだった。

【お姉ちゃん、今ね、蒼真さんと瞳真くんとミュージカルを観てるの。「ナイチンゲールの歌」って、お姉ちゃんが一番好きな作品よね?お姉ちゃんの代わりに、私が先に観ちゃった!】

チケットは常に完売で、手に入れることすら困難な人気の演目。

いつか一緒に観に行きたい、と何度も蒼真に伝えたが、いつも冷たく突き放されるだけだった。

「今忙しいんだ。それに瞳真もまだ小さい。また今度だ」

……忙しいんじゃなかった。ただ、自分と行きたくなかっただけなんだ。

元々張り裂けそうだった胸に、鋭い杭を打ち込まれたような激痛が走る。

それでも諦めきれず、病室に戻った彩葉は腹部の痛みに耐えながら、蒼真に電話をかけた。

数回のコールの後、低く、それでいて芯のある冷ややかな声が鼓膜を揺らす。

「……どうした」

「蒼真……ごめんなさい、体調が悪くて、病院にいるの。少しだけ、早く帰ってきてもらえないかな……?」彼女の顔は蒼白で、声には力がなかった。

「こっちはまだ商談中だ。戻るのは二日後になる。家のことは山根に任せろ」蒼真の態度は、どこか冷めていた。

彩葉はスマホとを握りしめる。「……ねえ。もしかして、雫と一緒にいるの?」

その問いに、蒼真の声は露骨な苛立ちを滲ませた。「彩葉、そんな詮索に何の意味がある?もう五年だぞ。雫は妹のようなものだと何度も言ったはずだ。仮に一緒にいたとして、それがどうした。

最近のお前は、仮病まで使って同情を引こうとするようになったのか?」

「パパ、声大きいよ!僕と雫の邪魔しないでよ!」

電話の向こうから、瞳真の高い声が響いた。「もうママなんてほっときなよ!本当にうざいんだから!」

彩葉が何かを言う前に、通話は一方的に切られた。

ほんの少しの時間すら、彩葉のために割いてはくれない。

がらんとした病室で、彼女は布団を固く握りしめ、体の芯から冷えていくのを感じていた。

三日後、彩葉は無理を言って退院した。

研究開発部の仕事が、まだ山のように残っていたからだ。

特に今回の新製品発表会は、蒼真も期待を寄せている。そして自分にとっても、この二年間心血を注いできたプロジェクトを、成功させたかった。

夕方、疲れ切った体を引きずってブリリアージュ潮見の自宅に戻ると、リビングから楽しげな笑い声が聞こえてきた。

息子の瞳真と、雫の声だ。

胸がどきり、と嫌な音を立てる。彩葉はとっさに身を隠し、鉢植えの影からリビングの様子を窺った。

ソファには、氷室父子の間に座る雫の姿があった。テーブルの上には、バースデーケーキ。そして彼女の首には、赤いルビーのネックレスが輝いていた。それは某高級ブランドの世界限定品だ。

先月、ショーウィンドウで見かけて心惹かれたものの、目を見張るような値段に諦めた、あのネックレス。

それが今、雫の胸元を飾っている。

「蒼真さん、素敵なプレゼントをありがとう。すごく嬉しいわ」雫はペンダントに優しく触れ、潤んだ瞳で男の端整で凛々しい顔を見つめる。「でも、こんな高価なもの……これからは無理しないで。気持ちだけで十分嬉しいから」

蒼真は淡然とした表情で言った。「金などどうでもいい。お前が喜んでくれるなら、それが一番だ」

「ねえねえ雫、お目々閉じて!」瞳真がはしゃいだ声で言った。

雫が素直に瞳を閉じると、瞳真は小さな手で、色とりどりのクリスタルが繋がれたブレスレットを彼女の腕に通した。

「もう開けていいよ!」

「わぁ、綺麗!」雫は驚きの表情を見せた。

瞳真はへへっと笑い、頭を掻く。「これね、僕が一つひとつ選んで、糸に通したんだ。雫への誕生日プレゼント!」

「ありがとう、瞳真くん。一生大切にするわ」雫が身をかがめて瞳真の額にキスをしようとした、その時。

瞳真は自ら顔を上げ、ちゅっ、と音を立てて雫の頬にキスをした。

瞳真は父親に似て、どこか冷めた子供だった。実の母親である彩葉にさえ、ほとんど懐こうとしなかったのに。

自分が喉から手が出るほど欲しかったものを、雫はこんなにもたやすく手に入れてしまう。

嫉妬と絶望で、胸の奥がキリキリと痛んだ。

瞳真はキラキラした目で雫を見つめ、真剣な顔で言う。「雫は体が弱いから、これからは僕とパパが守ってあげる。だから安心してね」

「ふふっ……ありがとう。頼りにしてるわね」雫は恥じらうように頬を染め、ちらりと隣の男に視線を送る。

蒼真は切れ長の瞳を細め、自らケーキを一切れ切り、雫の手に渡す。

血の気が、すうっと引いていく。立っていられなくなりそうだった。

全身全霊で愛した夫は、他の女の誕生日を祝い、命がけで産んだ息子は、母親からすべてを奪った女を守ると誓う。

彩葉は、赤く染まった目で静かに笑った。そして踵を返すと、五年もの間自分を縛り付けた結婚という名の牢獄から、毅然と歩み出した。

自宅の外は、冷たい雨が降っていた。

全身ずぶ濡れになりながら、彩葉は道端に立ち、久しぶりにかける番号を呼び出す。電話の向こうから、懐かしい声が聞こえた。

「お嬢!お久しぶり!元気か?」

「えぇ、元気よ」彼女は微笑んだ。その美しい瞳には、かつてないほど冷徹な光が宿っていた。

「離婚することにしたの。だからお願い、離婚協議書を用意してちょうだい。なるべく、早くね」
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第1話 神前確認式は静かに燃える
 公正契約大神殿の天井には、過去の「大案件」の名前が刻まれている。 戦争終結条約、王位継承の調停、神殿と王家の和解。 その一番端に、空いたままの枠が一つ。(……たぶん、あそこに今日の案件が増えるんだろうな) 私は祭壇の前で、他人事みたいに思っていた。 白金の指輪が、左手の薬指でかすかに浮いている。サイズがわずかに合っていなくて、指を動かすたびに、きゅっと皮膚をこすった。《指輪、やっぱり半号大きいですねえ》 頭の内側で、聞き慣れた声が笑う。 公正契約の女神。今日の式の主催者であり、私の上司であり、この世界で一番、条文にうるさい存在。(今、そのツッコミいります? 女神様)《大事ですよ? サイズが合ってない指輪って、だいたいこの案件、最初から微妙ですよってサインですから》(縁起でもないことを、神様が言わないでください) 私は口元だけを上げて、外からは分からないように息を吐いた。 祭壇の背後には、光の板が何枚も重なって浮かんでいる。そこに王太子レオン殿下との婚約契約の条文が、ゆっくりスクロールしていた。「互いの名誉を守ること。王国と神殿の協力関係を維持すること。聖女としての務めを最優先すること……」 中央の神官が、祝詞のような調子で読み上げていく。《はいはい、前置きの綺麗なところですね》(女神様、声、被ってます)《聞こえるのは聖女様だけですから。安心してツッコミどうぞ》(……ツッコまないといけないんですか)《心の健康のためにどうぞ》 そんなやり取りをしているあいだも、式は進んでいく。 高い柱には祈りの絵ではなく、細かな文字が刻み込まれている。壁の装飾も、天井のレリーフも、すべて条文の断片で埋め尽くされていた。(契約に特化した神殿、というか……巨大な契約書ですね、ここ)《褒め言葉として受け取っておきます》 祭壇前の床には、円形の魔法陣ではなく、契約書レイアウトの線が描かれていた。見出しの位置、条文の欄、署名欄。 私と、その隣に立つレオン殿下は、署名欄にあたる場所に立っている。「……本日は、王太子殿下と聖女リディア殿との婚約契約の履行状況についても、神前にて確認し――」 神官が言いかけたところで、隣から低い声が割り込んだ。「形式通りで構わない。その必要はないだろう」 レオン殿下の横顔は、絵画のように整っている。「…
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第2話 聖女の朝はタイムカードなし
 終電もなければタイムカードもない世界で、私の朝は鐘の音で始まる。 外はまだ夜の色だ。塔の鐘が低く鳴り、冷えた石床が膝に現実的な痛みを返す。女神像の足元でひざまずきながら、私は今日の「案件」を頭の中で並べていた。(今日も死者が出ませんように。変な契約が増えませんように。ついでに、睡眠時間が少しだけ伸びますように)《最後のだけ、だいぶ個人的ですね》 頭の内側で、軽い声が笑う。 公正契約の女神だ。(個人の願いも、契約にしてくれていいんですよ)《「聖女の睡眠時間は最低〇時間保証」ですか。世界契約にするには前例が足りませんね》 そんなやり取りをしながら、私は形式通りの祈りを終えた。 鐘が二度目に鳴る。ここからが、聖女の「勤務時間」だ。 祈祷室を出て廊下を急ぐと、すでに神官たちが書類を抱えて並んでいた。「聖女様、お時間のあるときにこちらの——」「こっちは至急で——」「優先度の高いものから順にお願いします」 笑顔でそう告げながら、私は心の中で勝手に分類する。(命に関わる案件、A。生活直撃がB。見栄と政治はC) 聖女執務室の扉を開けると、紙の山と、その陰から飛び出してくる若手神官が一人。「せ、聖女様、おはようございます!」 茶色の髪を慌てて撫でつけながら、ティオが立ち上がる。契約書庫所属の書記官で、今はほぼ私の専属助手だ。「おはよう、ティオ。朝から元気ね」「い、いえ! その……昨日も、灯りが消えたの、だいぶ遅くて……」「大丈夫よ。前の職場に比べたら、まだマシだから」 口が勝手に、いつもの言い訳をこぼす。「前の……?」「こっちに来る前に、ちょっとね。それより今日の予定表を」 話題を変えて紙を受け取ると、「祈祷・相談・視察・会議」とびっしり並んでいた。(はい、今日もサービス残業コース)《本日の予定件数、昨日より一割増ですね》(神様のくせに、残業予測をしないでください)《稼働時間のログ管理も、契約の一部ですよ》 扉がノックされる。「個別祈願のお客様を、お通ししてもよろしいでしょうか」 そこから先の午前中は、ほぼ3コマ漫画だった。 個別祈願室で貴族夫人の昇進祈願をこなし、隣室で怪我人を治しながら減免申請にサインをし、廊下では「ついでに」と奉仕活動の報告書を抱かされる。椅子と書類と祈りが、切り替わり続ける。《聖女業務、順
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第3話 奉仕は無限残業ですか?
 公正契約大神殿の会議室は、いつも少しだけ寒い。  窓が高すぎて、外の天気が分からないせいかもしれない。 長机がコの字に並び、その正面の席に大神官長アグナスが座っている。重そうな金刺繍の祭服、分厚い台帳、几帳面に揃えられた羽ペン。見ているだけで、背筋が勝手に伸びる。  その両脇には、白髪混じりの古参神官たち。対面側の端っこに、ぽつんと私。肩書だけは立派な聖女は、今日も会議室の隅で空気を読みながら座っている。(……できれば、執務室で溜まっている書類を片づけたいんだけど) 心の中で弱い抗議をしてみても、鐘は鳴らない。代わりに、別の声が返ってきた。《本日は神殿幹部会議、「奉仕契約」草案の見直しについて、ですね》 (実況中継ありがとうございます、女神様) 《大事な議題ですよ? だってこれ、聖女様の残業時間にも直結しますから》 そこは笑いごとではない。「それでは、本日の議題に移ろう」 アグナスが低い声で告げると、会議室の空気がきゅっと引き締まった。  若い書記神官が、緊張で肩をこわばらせながら立ち上がる。手には、新しい奉仕契約草案の束。「……失礼いたします。では、草案を読み上げます。  第1条。聖職者は、神と民に仕える者として、その身と時を惜しみなく捧げること。  第2条。聖職者は、祈りと祝福をもって、人々の平穏と繁栄に寄与すること。  第3条。聖職者は、信仰と奉仕の模範として、自ら進んで公的務めに当たること」 一見、きれいな言葉ばかりだ。  ここだけ切り取れば、反対する理由なんてどこにもない。(問題は、だいたいその後ろなんだけどね)「続けます。第4条。聖職者は、可能な範囲で奉仕活動に従事するものとする」 その一文が読み上げられた瞬間、胸のあたりで何かがぴくりと引っかかった。(出た、「可能な範囲」) 曖昧で、責任の所在がどこにあるのか分からない言葉。  前の世界の就業規則でも、さんざん見た単語だ。《ふむ。「可能な範囲」ですか》
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第4話 白い結婚の条件
 王宮の謁見の間は、いつ来ても息が詰まる。 高い天井、真っ赤な絨毯、壁の紋章旗。大神殿の静けさとは違い、ここは「見せるための豪華さ」で満ちていた。 その絨毯の先端、玉座から数歩の位置に、私は立っている。聖女衣装の上に白いマント。「そのままで、聖女様」「ありがとうございます」 微笑んで礼を言いながら、こっそり深呼吸をする。 陛下への拝謁は仕事で何度も経験している。けれど今日は、「私個人の婚約」の話題だ。「グスタフ陛下、ご入場」 侍従の声と共に扉が開き、王と王妃、王太子レオン殿下が入ってくる。「頭をお上げなさい、聖女リディア」 穏やかな声に促され、私は顔を上げる。「聖女リディア」 玉座に腰掛けたグスタフ陛下が、よく通る声で言った。「そなたが神殿と国のために尽くしてきた働き、我は高く評価している。今日ここに、そなたと我が子レオンの婚約を、皆の前で宣言できることを嬉しく思う」 左右に並ぶ貴族たちが、ざわりとどよめく。「聖女と王太子の結婚は、アルシオン王国と公正契約大神殿との絆を、いよいよ確かなものとするだろう」 その言葉の中に、「私」という一人の人間の居場所はない。 国と神殿。その間をつなぐ部品としての「聖女」だけが、そこにいた。(……分かってはいたけれど) 胸の奥でそうつぶやきながら、私は頭を下げる。 玉座の隣から、王妃が一歩前へ出た。「皆さま、どうか安心なさって」 澄んだ声が、謁見の間いっぱいに広がった。「これは情熱の炎ではなく、白い結婚でございますの」 白い結婚。その言葉に、私は思わずまばたきをする。「恋の熱に振り回されることなく、お互いの役目と責任を尊重し合う、清らかで落ち着いた結びつき。国と神殿のために、ふさわしい形だと考えております」 あちこちから、小さな安堵のため息が漏れた。「まあ、白い結婚ですって」「熱ではな
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第5話 お前を愛するつもりはない
 王宮の大広間の扉が、背後で重く閉まった。 さっきまで耳を満たしていた楽の音も拍手も、石造りの回廊に一歩踏み出した途端、遠い別世界みたいに薄れていく。残るのは、私と隣を歩く王太子レオン殿下の足音だけだ。「今日はご苦労だった、聖女リディア」 殿下は、宴の最中と変わらない、公務用の笑みのまま言った。「陛下や客人の前で、聖女としての役目を果たしてくれて感謝する」「身に余るお言葉です、殿下。本日の婚約発表も、滞りなく済みましたね」 口から出るのは、訓練された模範解答だ。 でも胸の奥では、別の言葉が渋滞している。 ──これから、私はこの人と暮らすのだ。 聖女としてだけでなく、王太子妃としても。 人払いされた回廊には、他に誰もいない。護衛騎士たちでさえ、少し離れた場所に控えているだけだ。 だから、今なら。少しくらいなら、仕事以外の話をしてもいいはず。「殿下。あの……これからの生活について、少し伺ってもよろしいでしょうか」「生活?」 殿下の足取りが、わずかに緩む。「はい。聖女としての務めは、これまで通り大神殿中心で構いません。ただ、王宮との行き来や私の居室のこと、休息の時間の取り方など、事前に取り決めをしておけたらと」 なるべく感情を込めないように、項目だけ並べる。これは恋の相談じゃない。案件のすり合わせ。そう自分に言い聞かせながら。「細かいことは侍従に任せればいい。必要な段取りは整えさせる」 レオン殿下は、窓の外の塔を見たまま、視線をこちらへ戻さない。「君の負担は、王宮として可能な限り減らそう。だが、国難の折には、聖女も王太子妃も休むわけにはいかない」 国難。 前の世界の上司も、よくその言葉を使っていた。「今月は非常事態だから」「ここだけは踏ん張りどきだから」。 けれどここは、もうあの会社ではない。私はひとつ息を吐いて、喉まで出かかった毒を飲み込む。「国難の際に働くのは当然です。私が
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第6話 タイムカードのない三年間
 あの夜から三年分のログが、静かに、でも容赦なく積み上がっていった。《聖女様の稼働ログ、現在一〇九五日連続稼働ですね。記録的です》(記録って、本来はうれしい方向で更新したいんだけど) 頭の中で女神様にツッコミを返しながら、私は机の予定表をめくる。 この世界にはタイムカードはない。その代わり、公正契約の女神が、私の働いた時間と案件を、黙々とログに変えていく。 日付がめくられるたびに、その裏で、見えない稼働ログの束が厚くなっていく。 季節と案件だけが、静かに入れ替わる。 春には祭祀の準備と祝福予約。 夏には災害と病と、不作の相談。 秋には収穫祭と税・地代の契約見直し。 冬には貧しい人たちへの救済と、寒波対策の祈祷。 カレンダーは変わっても、私の予定表の埋まり方は、ほとんど変わらなかった。     ◇ 春。大神殿前の広場は、儀礼の練習をする神官たちと、参拝客の列であふれていた。「安全祈願は列に沿ってお願いします。寄進の契約書は、あちらの机にどうぞ」 私は進行表を片手に、もう片方の手で契約書をめくる。 安全祈願の祝福。寄進に紐づく契約。万一の事故の責任所在。《祭りの成功条件、だいたい全部『聖女が倒れないこと』で埋まってますね》(条件の書き方、おかしくないですか) やがて王家の馬車が広場に入ってきた。「この度の祭祀における聖女の働きに、王太子として感謝する」 祭壇の前で、レオン殿下がそう告げる。 視線は、私ではなく、民衆の方へ向いていた。(……名前じゃなくて、役職に向かって話しかけてる感じ)「恐れ入ります。皆さまの祈りがあるからこそ、務めを果たせております」 私は教科書通りに頭を下げる。《はい、『聖女として感謝する』ログ、春祭バージョン一件登録っと》(女神様、バージョン管理しないで)     ◇ 夏。豪雨と土砂崩れ
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第7話 崩れる見習い聖女
 白い息が、夜の路地に溶けていく。 冬の施しの列がようやく途切れて、私は空になった大釜から手を離した。指先は痺れ、足先の感覚も薄い。「本日の分は以上です。みなさん、ゆっくり温まってくださいね」 そう告げると、毛布を抱えた人々が、何度も頭を下げながら夜の路地に散っていった。 今日もなんとか、誰も凍え死なせずに済んだ。 そう思いかけて、私は昨日までの自分の言葉を思い出す。『前の世界と、何が違うんだろう。 少なくとも今は、誰も死んでいない』 その自己暗示を、また口にするのはやめた。今は、まだ。ここまでは。「片付けが終わった者から寮に戻りなさい。明日も奉仕はある」 担当神官の声に、見習いたちが一斉に「はい」と答える。「聖女様、本日もお疲れさまでした」 荷車を押していた見習いの少女が、目の下に薄い影を浮かべたまま、笑顔で頭を下げた。今日もずっと動き回っていた子だ。 この子は、本当によく頑張っている。前の世界でも、こういう子を止めきれなかったなと苦く思う。 神殿へ戻る廊下は静かで、塔の鐘ももう鳴りやんでいた。     ◇ 神殿の廊下に入ると、ほとんどの部屋は暗い。夜番の神官が数人、静かに歩き回っているだけだ。 その中で、奥の一室だけが、まだ暖かな光を漏らしていた。「……誰か、残っている?」 扉の隙間から覗くと、毛布を畳む小さな背中が見える。さきほどの見習い聖女の子だった。 部屋の中には、今日配った毛布の山、救済対象の名簿、洗い場へ運ぶ前の器の塔。誰の担当とも書かれていない雑務が、床いっぱいに散らばっている。「こんな時間まで残っていたんですか」 扉を軽く叩いて声をかけると、少女はびくっと振り向き、慌てて頭を下げた。「せ、聖女様! すみません、もうすぐ終わります!」 立ち上がろうとして足元の毛布に引っかかり、よろける。私はあわてて部屋に入り、机に手をついて彼女を支えた。
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第8話 終電のない世界で
 見習い聖女が倒れてから、まだ数日しか経っていない。 貧民救済の片付けも、祈祷室での追加の祈りも終わったのに、胸のざわつきは収まらなかった。 だから私は、夜の大神殿を、書類の束を抱えて歩いている。(眠れないなら、せめて──次に誰かが倒れる前に、止められる条文を見つけないと) 地下の契約書庫は、夜になると小さな灯りだけが揺れている。扉を開けると、羊皮紙とインクの匂いが冷たい空気に混じった。 世界中の奉仕契約が積み上がる棚の片隅で、私は『健康条項メモ』の小さな束を抱え、こっそり増築工事を続けていた。「……今日は、『可能な範囲で』の洗い出しからですね」 自分に言い聞かせるように呟き、「奉仕契約草案」と書かれた羊皮紙の束を引き寄せる。     ◇「聖女様、こんな時間まで……!」 入口から飛び込んできた声に顔を上げると、ティオが息を切らせて立っていた。両腕には書類の山。「片付けは?」「終わりました。でも、聖女様まで残っていたら、誰も帰れないです」 机の上を見て、彼女の顔色がさらに青くなる。「これ、全部読むんですか?」「全部は無理です。三年分のログを読ませて、まとめて休暇申請するのが理想なんですけど」「きゅ、休暇……本当に取れるんですか?」 真剣な目で聞かれると、胸の奥が痛む。(そこは、女神様次第) 喉まで出かかった本音を飲み込み、私は笑って首を振った。「今は、誰かが倒れる前に、止められそうな条文を探しているだけです」「……聖女様のほうこそ、倒れないでくださいね」 ティオは、ぎゅっと書類の端を握りしめる。「少ししたら、本当に寝ますから」「約束ですよ?」 何度も振り返りながら、ティオは書庫を出ていった。 私は深く息を吐き、羊皮紙を一枚ずつめくっていく。 「可能な範囲で
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第9話 女神と深夜の条文会議(1)
 終電もタイムカードもない世界で、私の次の夜は、静かな足音から始まった。《深夜の泉行き、単独残業コースですね》(残業というなら、手当の条文も用意してください)《それを考えるための会議ですよ。ここから逃げる契約の、0回目打ち合わせ》《ようこそ、深夜の条文会議会場へ》「ずいぶん本格的な会議仕様ですね」《本日は残業面談拡大版ですから。議題は1件、ここからどう逃げるか》 逃げる、という単語に、胸の奥がきゅっと痛んだ。 見習い聖女が倒れた夜。白い手が床に落ちた音。医師の「よくあることですよ」という声。誰も悪意を持っていないのに、誰も止めてくれなかった現場。(もう、誰かが倒れるのを見たくない) 前の世界で口にした言葉が、また喉の奥で形になる。《座ってください。身体を冷やすのは、契約的にもよくありません》「契約的に、ですか」《聖女が風邪を引くと、ログが荒れますからね》 私は苦笑しながらマントを整え、石のベンチに腰を下ろした。冷たさが伝わってきたところで、泉から吹く光の風が少しだけ和らげてくれる。「それで、具体的には何を」《まずは状況整理から》 女神様が指先を弾いた。水面に輪が広がり、その中心から薄い板のような光がふわりと浮かび上がる。 1枚、2枚、3枚。 光の書類が、泉の上に並んだ。「……契約書」《はい。現在、あなたを主に縛っている契約を、ざっとまとめてみました》 左端には「聖女奉仕契約」。中央には「公正契約大神殿 聖職者労働規程」。右端には「アルシオン王国 王太子婚約契約書の写し」。 見慣れたタイトルが並んだだけで、胃が重くなる。条文が細かい字でぎっしり並んでいる。そのレイアウトは、前の世界で読み続けた契約書とほとんど同じだった。《だいたい、この3枚であなたの現在の生活は説明できます》「人生を3枚でまとめないでください」《では補遺として
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第10話 女神と深夜の条文会議(2)離婚か再契約か
 女神様が羽ペンをくるりと回すと、泉の上に浮かぶ光の書類が、また静かに並び替えられた。 左に聖女奉仕契約。真ん中に聖職者労働規程。そして、右端には、見慣れてしまったはずの婚約契約書。《では、ここからは王太子殿下との婚約契約について、条文ごとに確認していきましょうか》「……逃げるための契約、でしたよね」《ええ。逃げるか、書き換えるか。その判断材料をそろえるのが、今夜の残業です》 残業という単語に、思わず口元が引きつる。 透明な板のような羊皮紙が、泉の水面からすっと立ち上がった。王家の紋章と神殿の紋が金の線で飾り枠になっていて、一見しただけなら、祝福そのものに見える書類だ。 けれど、その一行目を目で追った瞬間、胸の奥がひやりと冷えた。「聖女リディアは、王太子レオンの婚約者として、その身と祈りを国と王家のために捧げることを約する」《この一文だけで、だいたいの雰囲気は伝わりますね》「……良くも悪くも」 前の世界で、会社のロゴがど真ん中に入った採用通知を思い出す。お祝いの紙の顔をしていながら、その裏には、終電と休日を溶かす条文が隠れていた。 水面の上では、「国の安定」と刻まれたタグだけが濃く光り、「聖女本人の安全」「休息」といった言葉は、淡く霞んでいた。(やっぱり、私自身は、ここにはいない) 小さく息を吐いた瞬間、女神様の羽ペンの先が、書類の左上をこつりと叩く。《では、第1条から。紙の上の綺麗ごとと、ログを照らし合わせていきましょう》     ◇《第1条。双方は互いの名誉と信頼を損なう行為を避け、常に尊敬をもって接すること》 女神様が読み上げると同時に、泉の上に、もうひとつの画面がふわりと開いた。 王宮の回廊。夜風。硬い革靴の音。 「お前を愛するつもりはない」と告げられた、あの夜の景色だ。《名誉と信頼を守る、ですね》「……守られていた感じは、正直、一
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