六月の終わり、梅雨の湿気が都心を包み込む午後だった。 柊あやめは、父・柊謙一に呼び出された。 重厚な扉を開けた瞬間、空気が変わった。冷房の効いた部屋の中は、外の蒸し暑さとは別の意味で冷え切っていた。 「よく来たな、座れ」柊謙一は父親ではなく、報道で見る大臣の顔。(この人の父親の顔を見たことはあったかしら)そう考えて、あやめは苦笑した。そんなものは、ない。柊謙一の隣には、あやめが初めて見る男がひとり。その長身痩躯にぴたりと合った黒のスーツに身を包み、無表情のまま立っている。 その目が、あやめを射抜いた。冷たい。深い湖の底のような、静けさを湛えている目だった。「紹介しよう。神崎冬弥君だ。龍神会の若き組長、と言えば分かるな」龍神会。その名を聞いた瞬間、あやめの背筋が凍った。 龍神会は関東最大の極道組織。その名は、政治家の娘として育ったあやめにとって、決して無縁ではなかった。 だが、まさか柊謙一が、そんな人物を“紹介”するとは思っていなかった。「あやめ、挨拶をしろ」柊謙一の言葉に促され、あやめは無意識に頭を下げた。 「柊あやめ、です」「さくらの妹だ」柊謙一の紹介に、あやめは表情筋に力を入れる。笑え、と自分に念じる。その華やかな美しさで評判の姉の菖蒲。煌びやかな世界にしり込みするあやめと違い、姉のさくらは煌びやかな世界の中心で堂々と振舞う。だから、柊謙一に限らずあやめの紹介は「さくらの妹」。(私の娘、ではなく、ね)自分は柊謙一にとってなんだろうか、と考えて苦笑した。駒。それだけだった。 「はじめまして」あやめは気持ちを切り替えて挨拶を終えたが、神崎冬弥は微動だにせず、ただ一礼を返しただけだった。 「お父様、何のご用件でしょうか」あやめは、努めて冷静に声を出した。だが、喉の奥が乾いている。 柊謙一は、書類の束から一枚の紙を取り出し、机の上に置いた。「婚姻届だ。お前と冬弥君のな」時が止まったようだった。 あやめは、目の前の紙を見つめた。【婚姻届書】と確かに書いてある。 初めて見る本物はまるでドラマの小物のようで、他人の人生を脇から覗き込んでいるような感覚にあやめは陥った。「何かの、冗談?」「冗談でこんなものを用意しない。これは必要な結婚だ。お前は、神崎家に嫁ぐ。それが
最終更新日 : 2026-01-25 続きを読む