LOGIN名門政治家の娘・柊あやめは、父の政略で関東最大の極道組織「龍神会」の若き組長・神崎冬弥と政略結婚させられる。 冷酷無比と恐れられる冬弥に「お前は俺の“盾”だ」と告げられ、あやめは“人質”としての結婚生活を始める。 だが、冬弥の冷たさの裏にある“秘密”を知ったとき、あやめの心は揺れ始める。 「私はただの駒じゃない。あなたの“檻”を壊してみせる」
View More六月の終わり、梅雨の湿気が都心を包み込む午後だった。
柊あやめは、父・柊謙一に呼び出された。
重厚な扉を開けた瞬間、空気が変わった。
冷房の効いた部屋の中は、外の蒸し暑さとは別の意味で冷え切っていた。
「よく来たな、座れ」
父親は、“父親”ではなく、報道の中で見る“大臣”の顔をしている。
(この人の父親の顔を見たことはあったかしら)
そう考えて、あやめは苦笑した。
そんなものは、ない。
母親を早くに亡くしたあやめは、高校生の頃から父親のサポートをし、名門女子大に進学すると在学中から父親の秘書を務めていた。
だから、あやめは、父親にとって自分は“娘”というよりも“秘書”の存在であるのだろうと思っている。
父親の隣には、あやめが初めて見る男がいた。
その長身痩躯にぴたりと合った黒のスーツに身を包み、微動だにせず、無表情のまま立っている。
その目が、あやめを射抜いた。
(……冷たい目)
深い湖の底のような、静けさを湛えている目だった。
「紹介しよう。神崎冬弥君だ」
(カンザキ、トウヤ……どこかで……)
「龍神会の若き組長、と言ったほうが分かりやすいな」
(龍神会っ!)
龍神会。
その名を聞いた瞬間、あやめの背筋が凍った。
龍神会は関東最大の極道組織だ。
その名は、政治家の娘として育ち、秘書として父親の仕事を見てきたあやめにとって、決して無縁の存在ではなかった。
濁り過ぎてはいけないが、清らかすぎる政治は夢のまた夢。
だが、まさか父親が、例えるなら”黙認”しているような人物をあやめに“紹介”するとは思っていなかった。
「あやめ、挨拶をしろ」
父親の言葉に、あやめは反射的に冬弥に頭を下げた。
「柊あやめ、です」
「さくらの妹だ」
父親の紹介に、あやめは表情筋に力を入れる。
笑え、と自分に念じた。
あやめには二歳上に姉がいる。
名前は、さくら。
祖母に似たという華やかな美しさで、姉のさくらは評判がいい。
あやめの容姿は、父親に似たため貶されることはなかったが、その見た目に「あの姉の妹」と周囲が思っていることは分かっている。
あやめも、女だ。
それに対し、何も思わないことはない。
だからだろうか、昔からあやめは煌びやかな世界が好きではない。
むしろ、嫌いだ。
それも必要と思って顔を出す程度のことはするが、姉さくらのように愛想よく、その場の中心人物のように振る舞うことはできない。
年を重ねて、”適材適所”なのだとあやめは思うようになった。
そこかしこで「さくらの妹」と言われることも、あまり気にならなくなってきた。
(久しぶりに、効いたわ)
父親の口から出た、「さくらの妹」。
父親の紹介は、普段は「私の秘書」とすることが多い。
父親があやめを恥じ、あやめを隠そうとしているわけではないことは、父親のそのときの表情からあやめには分かっている。
真っ先に浮かぶイメージの問題。
「私の秘書」。
「さくらの妹」。
(お父様にとって私は、「私の娘」ではないのかもしれないわね)
自分は父親にとってなんだろうかと、あやめは考えて自嘲した。
答えは分かっている。
駒。
それだけを望まれてきたような親子関係だった。
*「はじめまして」
あやめは気持ちを切り替え、微笑を浮かべて挨拶をする。
その挨拶に神崎冬弥は眉すら動かさず、ただ一礼を返しただけだった。
あやめは内心で肩を竦め、視線を冬弥から父親に向けた。
父親から感じた空気に、あやめは息を飲む。
「それで、何のご用件なのでしょうか」
あやめは、努めて冷静に声を出した。
だが、喉の奥が乾いている。
嫌な予感がしている。
父親は、書類の束から一枚の紙を取り出し、机の上に置いた。
「婚姻届だ。お前と冬弥君のな」
時が止まったようだった。
あやめは、目の前の紙を信じられない思いで見つめた。
「お帰りなさい」にこやかに出迎えたあやめに、冬弥はため息を吐き、その華奢な体を抱きしめた。「……疲れた」「お疲れ様です」“何で”疲れたのか分かっているくせに、分からない振りをするあやめに冬弥は苦笑する。「楓は?」「よく眠っています」あやめの髪ごしに、周りを見た冬弥は早苗がこの場にいないことに苦笑する。「楓に、早苗をつけたのか」冬弥の肩越しに、あやめは後ろの二人を見る。苦笑する樹と、渋々であることを隠さない迅。「必要だと思ったので」「それでお前が安心できるならいい……樹、迅を連れていけ」冬弥の言葉に肩を竦めた樹が、先導する形で迅を客間のある方角に先導する。勝手知ったる屋敷なので迅も客間の場所を把握していたが、迅も黙って案内された。いまの屋敷の管理人はあやめ。ここはもう、勝手知ったるではないことを迅は遅ればせながらも理解しつつあった。(いや、理解させられたというほうが正しいか)「……いいのか?」冬弥の問いに、あやめは笑う。「私を害しても、今宮さんに何の得もないですからね」あやめの言う通りだ。あやめを害しても、沈んでいくあやめに引き摺られて龍神会全てが沈んでいくことになる。「それに、今宮さんは宿なしですからね」「……そうだな」しばらく滞在する予定だったホテルから、館内設備の故障を理由に追い出された迅。その後、どこのホテルを予約しようとしても断られた。大臣経験もある政治家の娘であるあやめは、手際よく都内の一流と言われるホテルに手を回していた。「ビジネスホテルまでは、手を回していませんよ?」「ビジネスホテルの泊まるのは、負けたような気がするらしい」「注目される立場は大変ですね」くすくす笑うあやめに、冬弥は苦笑して抱きしめる腕の力を強める。そんな冬弥の腕を、あやめはポンポンと叩いた。「いい加減に放してください」「嫌だ」あやめは少しだけ困ったように笑った。「疲れているのは分かりますが、いつまでも玄関でこうしているのもどうかと思いますよ」「問題はない。俺たちは夫婦だ」冬弥は顔をあやめの肩に埋める。「しばらく、帰ってこられなかった」「そうですね」「塩沢からの文句が煩い」「存じております」「全部お前のせいだ」「あら、私なんかに何ができますの?」私なんか。それは自分を卑下する言葉なのに、あやめに
「馬鹿、とは……辛辣ですね」「忠義をはき違えてしまっているでしょう?」迅が神様とした先代組長はすでに亡くなっており、彼が亡くなったとき、迅はその歩みを止めている。その時代から変わらず良いものはある。でも、変化が必要なものは絶対にある。(時代は変わっているのに、先代組長が遺した形に固執してしまっている)そして、先代組長が遺した最大の失態は……。「どいつも、こいつも……」「あ、姐さん?」あやめのすごんだ呟きに、水原壮一は腰を引いた。逃げたい、と全力で思った。「……いつになったら“違う”を理解してくれるのかしら」龍神会に巣くうのは、先代夫人であり冬弥の母親である神崎美鶴が残した不信。檻の中で一生を終えることを嫌がるに違いない。過去にあったことからそう思い込み、あやめまでをそう見ている。だから、あやめに何があっても被害が最小ですむように、いまも冬弥に愛人をすすめている。愛人で組を強化する。愛人の子を産ませることで、組を補強する。「信じろと口で言っても理解できないとは分かっていますが、流石にここまで来ると……ムカつくわね」「姐さんのことを舐めてますよね、あの三馬鹿」「さ、早苗」火に油を注ぐどころか、風まで送ってどうするのかと水原壮一は慌てる。「どうします? お仕置き兼ねて、三馬鹿全員のクレジットカードを止めてしまいますか?」「それも面白そうだけれど……鷹見さんが、たかられそうね」「大丈夫ですよ、あいつ、金は持っているんで」(それでいいのかしら……)あやめは淡々と、ため息を吐く。「信じ込まないこと、疑心はある程度は大事ではあると、私は思っています」信じすぎれば、裏切られたときに立ち直れなくなる。だから、信じ過ぎないようにする。心に保険を掛ける。(私だって、愛人のことで冬弥さんのことを信じきれてはいないし、信じ切ることはない)でも、あやめは『冬弥のやったこと』で判断している。それなのにあやめは、過去の神崎の女がそうだったからで判断されてしまっている。そう、思い込まれている。「私が何をしようと、信じられないというのなら……仕方がないのでしょうね」「姐さん、それは……」水原壮一の躊躇う声に、あやめは苦笑した。そんなことはないと、表面上のおべっかを使わない水原壮一のこういうところをあやめは評価して
「それで、教育の方向性というのは?」「若い連中には、組の仕事を教えつつも、普通に社会と接点を持たせたいと思っています」「いいと思いますよ」あやめは、紅茶を一口飲んだ。「いいのですか?」「黒と白を知らなければ、灰色が理解できませんからね」裏の世界だ、白のままではいられない。でも、この時代、黒だけでは必ず詰む。慎重に灰色を踏み続けなければ、長くもたない。「龍神会として、予算を組んでみましょうか」「よいのですか?」「ええ。“龍神会の未来”として扱うべきという意見には賛成ですもの」あやめは手元の書類をペラペラとめくり、一枚を水原壮一の前に出す。「これは……」差し出された紙にかかれたのは、教育費に関わる融資の条件。組の者として労働をし、合間の時間で通信教育で学ぶ。結果は、最高評価しか認めないというもの。「必要と思って事前に準備しておきました。水原組長が目をかけている者へ、援助を希望するならばこれを出すように言ってください」「最高評価、ですか……厳しくはありませんか?」「ボランティアではありませんので、頑張る意志をみせていただかないと“誰にでも”とするほどの余裕はありませんわ」あやめの言葉に納得をしつつ、最後まで読み切った水原壮一の眉間に皺が寄った。「姐さん、年齢制限がないのは……」「むしろ、上の人間のほうが教育が必要だからです」あやめの笑顔に、怒りを感じた水原壮一。誰がやらかしたのかと考え、最近派手に帰国した男を思い出した。「迅のこと、ですか」(迅……)親し気というよりも、庇護対象を呼ぶような水原壮一の声にあやめは気づいた。「今宮さんのことを、よくご存知のようですね」あやめの言葉に、水原壮一は軽く瞬きをした。「それなり、に……」水原壮一は少し迷うように早苗を見た。早苗はそれに何の反応も示さず、でもそれは水原壮一の判断を尊重するという意志でもあった。「不思議に思ったかもしれませんね」水原壮一は一度深く息を吐いた。「迅は、神崎冬弥を慕ってはいますが、あそこまで盲目的になっているのは龍神会に対してです」あやめは黙って耳を傾ける。水原壮一は静かに話し始めた。「ヒーローに妄信するようなものでしょうかね。迅は、育った家庭環境が最悪でした」龍神会にいる者全員がそうではないが、家庭に恵まれなかった者は多い。あや
神崎邸の応接室は、午前のやわらかな光に満ちていた。庭の木々の間を抜けた風が、薄く開いた窓から静かに入り込み、白いレースのカーテンを揺らす。あやめはソファに腰掛け、テーブルの上の資料に目を落としていた。「こちらに置いておきます」「ありがとう、早苗さん」早苗が淹れたばかりの紅茶から、ほのかな香りが立ちのぼった。やがて廊下の奥から、足音が近づいてきた。 コンコン「どうぞ」「失礼します」自ら扉を開けて入ってきたのは、蛟組の組長である水原壮一だった。早苗という護衛はいるものの、鷹見と大迫が先導せずにあやめのもとまで来られる者は限られている。これは、あやめが水原壮一を信頼している証だった。「お久しぶりです」背の高い体をわずかに縮めるようにして、水原壮一は頭を下げる。生来の性格からか粗野な振る舞いはしない男だったが、娘の玲奈を冬弥に添わせようという考えからあやめに対して多少の敵意を見せてはいた水原壮一。朱雀会との抗争の中で、あやめとは一種の和解の形をとり、藤堂結衣に言わせると“あやめに躾けられて”あやめに対しても従順になった。「お元気でしたか?」あやめがソファに座るように微笑んで促す。水原は「失礼します」と言ってソファの端に腰を下ろした。その様子を見て、早苗がくすりと笑い、水原壮一はバツが悪そうに苦笑する。「早苗、笑いたければ笑え」「まあ、なんて心優しいお言葉。数年前の水原組長からは想像もできない言葉が出てきましたわ、感激でございます」そう揶揄いながら、早苗は静かに紅茶を差し出した。「ありがとう」「あらま、感謝の言葉まで」早苗はわざとらしく、窓から空を見た。「槍が降ってきますかね」「……姐さんが丁寧に接する相手に、俺が粗野な振る舞いなんてできるわけがないだろう」水原壮一は咳ばらいをし、ソーサーごとカップを持ちあげて紅茶を飲む。その所作は丁寧かつ優雅で、紳士的だった。「今日はどういったご用件で?」あやめが穏やかに尋ねると、水原壮一は少しだけ表情を引き締めた。「辰組の若い連中のことで……」あやめは頷いた。辰組は現在、若手を大勢失って実質的に空洞化している。「ご協力、ありがとうございます」「いや、あの組のことはちょっと気になってもいたので」辰組は、龍神会の筆頭分家としての歴史と、その自負がある。それは悪いこ