氷龍の檻姫

氷龍の檻姫

last updateLast Updated : 2026-04-28
By:  酔夫人Updated just now
Language: Japanese
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名門政治家の娘・柊あやめは、父の政略で関東最大の極道組織「龍神会」の若き組長・神崎冬弥と政略結婚させられる。 冷酷無比と恐れられる冬弥に「お前は俺の“盾”だ」と告げられ、あやめは“人質”としての結婚生活を始める。 だが、冬弥の冷たさの裏にある“秘密”を知ったとき、あやめの心は揺れ始める。 「私はただの駒じゃない。あなたの“檻”を壊してみせる」

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Chapter 1

1-1

六月の終わり、梅雨の湿気が都心を包み込む午後だった。

ひいらぎあやめは、父親の柊謙一けんいちに呼び出された。

秘書経由で、時間だけ。場所は父親の議員事務所、伝言も「少し時間を取れ」という、用件も理由もない短いものだった。

(……珍しい)

謙一は無駄を嫌う人間だ。

いつだって、呼び出しには必ず明確な目的があった。

それなのに、今回にはそれがない。それに、仕事の話ならば事前に内容を把握するために資料が送られてくるはず。だから、あやめを秘書として呼ぶならば、こういう曖昧な呼び方はしないことになる。

(それなら“娘として”……?)

その可能性を考えた瞬間、あやめの胸の奥にわずかな違和感と、何か温かいものが生まれた。

だが、温かく感じたそれをあやめはすぐに打ち消された。

(……いいえ、それはない)

.

重厚な扉の前に立ったとき、あやめは手のひらにじっとりとした汗が滲んでいることに気づいた。

外気の湿気のせいだけではない、それ。緊張を、つばを飲み込んで自分の奥に隠し、あやめは拳を握った。

 コンコン。

ノックをして、返事を待つ。

「入れ」

低く返ってきた声は秘書として聞き慣れているはずなのに、秘書として呼ばれた気がしないからか、どこかよそよそしく響いた。

「失礼いたします」

扉を開けた瞬間、空気が変わった。

冷房の効いた部屋の中は、外の蒸し暑さとは別の意味で冷え切っていた。

温度ではなく、空気の密度が違った。

(……緊張、してはだめ)

理由が分からないまま呼び出されたことが、こんなにも感覚を鋭くさせているのか。あやめは内心で自嘲した。

「よく来たな、座れ」

謙一は“父親”ではなく、報道の中で見る“大臣”の顔をしていた。

その声音も、視線も、あやめ個人に向けられてはいるが、親しみは感じない。あくまでも秘書としてあやめを見ているのと、同じ目。

(この人の父親の顔を見たことはあったかしら)

そう考えて、あやめはかすかに苦笑した。

そんなものは、なかったからだ。

.

母親を早くに亡くしたあやめは、高校生の頃から父親のサポートをしてきた。

名門女子大に進学し、在学中から父親の秘書を務めていた。

幼い頃に「お父さん」と呼んだ記憶はある。だが、それがいつの間にか「大臣」と同義になった。

(ある意味では、お互い様なのかもしれないわね)

自分にとっては“父親”というよりも“大臣”。それならば、父親にとって自分は“娘”というよりも“秘書”であっても、ある意味釣り合いがとれる。

「あやめ」

父親に名前を呼ばれて、あやめは謙一の顔を見た。

そして、少しだけあやめの心臓が跳ねた。

いつもの、秘書としてのあやめに向ける目とは少し違く感じたからだ。

戸惑いつつも、察した。

今日のこれは、仕事の話のためではない。

これは、秘書としての呼び出しではない。

ならば残るのは――。

(……用事は、柊謙一の娘である私個人に対してのこと)

そこまで思考が至った瞬間、視界の端に「もう一人」の存在を意識した。

父親の隣にいる男は、あやめが初めて見る男だった。

その長身痩躯にぴたりと合った黒のスーツに身を包み、微動だにせず、無表情のまま立っている。壁の一部のように静かで、しかし、確実にこの部屋の異分子。

(……この人)

謙一が紹介をしていないため、あやめは気づかない振りをしながら、秘書としての習慣で、まずは男の外見と所作を観察した。

無駄のない、重心がぶれない立ち姿。視線は一定の高さを保ち、周囲を警戒している様子はないのに、隙も見せていない。鍛えられている、それも、見せるためではなく、実用のための身体。

(官僚でも、企業の人間でもない。もっと別の――)

そのとき、不意に男と視線が合った。

男の目が、あやめを射抜いた。

(……冷たい目)

深い湖の底のような、静けさを湛えている目だった。

感情の揺れが見えない。だが、何も感じていないわけではないと分かる。ただ、表に出す必要がないだけだと分かる目。

(観られている……)

観察しているのはこちらのはずなのに、逆に測られている感覚があやめにはあった。

.

「紹介しよう。神崎かんざき冬弥とうや君だ」

(カンザキ、トウヤ……どこかで……)

あやめが記憶を探るより先に、謙一が言葉を続けた。

「龍神会の若き組長、と言ったほうが分かりやすいな」

(龍神会っ!)

龍神会。その名を聞いた瞬間、あやめの背筋が凍った。

龍神会は関東最大の極道組織。その名は、政治家の娘として育ち、秘書として父親の仕事を見てきたあやめにとって、決して無縁の存在ではなかった。

濁り過ぎてはいけないが、清らかすぎる政治は夢のまた夢。だからこそ、名前だけは知っている。距離を保ちながらも、確かに“関係している”存在として。だが―――。

(どうして、その人がここに)

そして、なぜ自分の前に立たされているのか。

――答えは、ひとつしかない。

(……まさか)

あやめは、わずかに視線を下げ、すぐに持ち直した。

動揺は見せない。それは秘書として身についた習慣でもあり、柊家の娘としての矜持でもある。

(……この人が、私の?)

口には出さず、心の中で呟く。父親が理由も告げずに呼び出した。

そして世間的に釣り合う年齢の男性を『紹介』された。

(この人は、それを知っていた)

神崎冬弥の視線は、熱や欲はないくせに、明らかにあやめを『対象』として見ていた。

状況証拠は十分すぎた。

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1-2
(ずいぶんと……大胆な縁談だこと)政治と極道。表と裏。それを繋ぐ“楔”として、自分が置かれていた。あやめはゆっくりと顔を上げ、改めて神崎冬弥を見た。(受け入れられるかどうか、ね)相手が自分を測るのなら、こちらも同じだ。冷たい目も、感情の読めない表情も、無駄のない立ち姿も先ほどとは変わらない。でも、あやめの見る目も変わった。あやめも『対象』として神崎冬弥を見始めた。だから……。(これの奥にあるものを見極めなければならない)危険な男か。利用価値のある男か。それとも――。(共存できる相手なのか)あやめは、静かに息を整えた。『娘』としても『秘書』としても、選択権はあやめにはない。ただ、どう思うかだけはあやめの自由。そしてそれは、一人の人間としての選択になる。その自覚だけが、胸の奥で確かに熱を帯びていた。.「あやめ」謙一の声に、あやめは反射的に冬弥に頭を下げた。一瞬でも遅れれば、それは“失態”になる。そういう場で生きてきたあやめの、無意識のうちの身体の反応だった。「柊あやめ、です」簡潔に、過不足なく。あやめの名乗りの所作に無駄はない。でも、女としては可愛げはない。それは、あやめも自覚していた。なぜなら――。「さくらの妹だ」謙一の言葉に、あやめはほんのわずか、表情筋に力を入れる。笑え、と自分に念じた。口角を、意識的に持ち上げる。.あやめには二歳上に姉がいる。名前は、さくら。祖母に似たという華やかな美しさで、姉のさくらは社交界でとても人気があった。人を惹きつける明るさ。そして、その場を掌握する女性らしい柔らかさ。さくらは、社交の場において自然と人の輪の中心に立つタイプだった。対して、あやめの容姿は謙一に似た。十分美人なのだが、どこか硬質で、近寄りがたい印象を与える容姿をしている。貶されることはない。だが、望まれるものを持たないため、賞賛されることはなかった。周囲はあやめを「あの姉の妹」と認識している。残念そうに。ときには馬鹿にするように。「あのさくらさんの妹なのに」と言われていた。望まれる姉。望まれない妹。それは、あやめ自身が一番よく分かっていた。.あやめも、女だ。女として足りないと言われることに対して、何も思わないことはない。幼い頃はいつも「柊謙一の娘たち」として並べられ、さくらと比較された。口に出された
last updateLast Updated : 2026-03-31
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1-3
あやめの目の前に置かれた紙には、【婚姻届書】と、確かに書かれていた。字は読める。だが、あやめにはそれが現実のものには見えなかった。白く、薄い紙。整然と並んだ記入欄。役所らしい見慣れているはずの書式なのに、どこか現実感がない。まるでドラマの小道具のようだった。(……嘘だわ)いまこの瞬間、あやめは自分の人生ではない何かを、少し離れた場所から覗き込んでいるような奇妙な感覚に陥った。神崎冬弥。目の前に立つこの男が、自分の結婚相手として紹介されているのだということは、理解していた。それこそ、最初から。神崎冬弥に挨拶するように言われる前から。それでも――「私ではない」と、あやめはそう思っていた。そう思えていた理由が、あやめにはあった。一つは、自分が政治家『柊謙一』の秘書であること。あやめは娘である前に、『柊謙一』の仕事を支える者としてこれまでやってきた。積み上げてきたものがある。任されてきた仕事であげた実績もある。政治の世界で、役に立っている。その自負が、誇りが、あやめに『自分ではない』と思わせていた。なぜなら、神崎家に嫁ぐということは、裏社会に足を踏み入れるということだ。それは同時に、いまの立場をすべて手放すことを意味する。(秘書として役に立っているって……)そう、信じていた。そう思われるように、努力もしてきた。だから、否定してほしかった。その願いが、あやめに『分からない振り』を続けさせた。「これは……何かの、冗談、ですか?」あやめは静かに問いかけた。それに対して、謙一の反応は『無』だった。呆れも、怒りも、なにもなく。「冗談でこんなものを用意しない」返ってきた声は、冷たく、揺るぎがなかった。逃げ道を断つ声音。「あやめ、お前は神崎家に嫁にいくんだ」そして、決定打。その一言で、あやめの中に残っていた曖昧な余地が、音を立てて崩れた。「お父様っ!」思わず抗る声が上がった。神崎家が、ただの名家であれば、あやめにここまでの動揺はなかっただろう。神崎家でなければ、柊の姓はなくなっても、政治の世界に関われるからだ。神崎家は龍神会の総長家だ。その家に嫁ぐということは、もう政治の世界に立つことは許されない。実態は清濁併せ吞んでいようと、表向きは清い水のみでいなければいけない。神崎家の嫁になるということは、政治家の娘として、表の世界に立っ
last updateLast Updated : 2026-01-28
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1-4
「俺も、望んでいるわけじゃない」不意に、低い声が割り込んだ。あやめが視線を向けると、神崎冬弥が初めて口を開いていた。「随分と俺との結婚を嫌がっているようだが――これは両家にとって必要な結婚だ。俺の意思で決めたことでもない」淡々とした声音。感情を抑えた、事実だけを告げる言い方。それはまるで、聞き分けのない子どもに言い聞かせるような口調だった。あやめの頬が、かっと熱くなる。反論しようとしたけれど、言葉が出ず、悔しくもそのまま口をつぐんだ。「それに、俺の名誉のために言わせてもらうが、俺と結婚するからと言って死ぬわけではない」「それは……」「あやめ」謙一の声が、あやめの言葉を遮った。「この結婚は、柊家と神崎家、両家のためだけのものではない」(どういう、こと……?)スポーツや芸術の世界で大成しているならばともかく、あやめには柊家に付随するブランドしかない。思考が追いつかないまま、あやめは謙一の言葉を待つ。「二人の結婚は、日本の安全のために必要な結婚なんだ」日本の安全。あまりにも大きすぎる言葉に、あやめの思考が止まる。あやめは、謙一の顔を見た。そこにあったのは、完全に『政治家』の顔だった。情も、迷いもない。ただ、目的のために手段を選ぶ目。「朱雀会が動いている」その一言で、あやめは理解した。朱雀会。関西を拠点とする新興勢力。既存の秩序を無視し、急速に拡大している表でも裏でも異質な存在。「龍神会と柊家が婚姻関係を結べば、東京の裏と表は一枚岩になる。それが、奴らへの最大の牽制になる」あやめは、言葉を失った。それは、龍神会と朱雀会の間で起きる『抗争』への準備。遠いはずの世界が、急速に現実味を帯びて迫ってきた。音もなく、黒い口を開けて。(私は……)東京の裏と表は一枚岩にするための存在。つまりあやめは、龍神会と朱雀会の抗争の中心に、立たされる。(それに、これはもう『決定』している)それならば、逃げ場はもうどこにもない。.謙一に差し出された婚姻届に、冬弥が静かにペンを走らせていく。さらさら、と紙の上を滑るインクの音だけが、やけに大きく部屋に響いていた。少し右上がりの癖はあるが、整った筆致。無駄のない、迷いのない文字。裏社会の頂点に立つ男の字とは思えないほど、端正で――どこか、几帳面さすら感じさせた。その筆運びを、あやめはまるで他
last updateLast Updated : 2026-01-28
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1-5
「朱雀会はルール無視で戦争をしかけてくる。それに、ルールの範囲内で動いて対抗するのはもう限界だ」冬弥の声が、頭上から落ちてくる。「だから、結婚する。この盤上で、俺たち龍神会の駒が自由に動くのには、柊謙一の娘であるお前が必要だからだ」とん、と。冬弥の指が、婚姻届に書かれた【柊】の文字を軽く叩いた。その一文字が、まるで重石のように感じられる。「お前がこちらにいる限り、俺たちは自由に動くことができる。お前がいなければ、俺たちはルールに縛られることになり、多くの駒が討ち取られるだろう」駒。さらりと口にされるその言葉の裏に、どれほどの命が含まれているのか。想像した瞬間、喉の奥がひりついた。(……私も、自分のことを“駒”だなんて言っていたくせに)軽い覚悟で口にしていた言葉が、急に重みを持って胸に沈む。この男は、本気でそれを理解した上で言っている。逃げ場など最初からない場所に立っている人間の言葉だった。「私が、クイーンですか」かすかに皮肉を込めた問いだが――。「違う。お前はキングだ」即答に驚き、その内容にさらにあやめは驚いた。「……キングは、あなたなのでは?」「お前が取られたら、俺たちの負けだって言っただろう?」あまりにも合理的で、冷酷な説明。「負け、たら……」「龍神会が消える。関東の均衡も崩れる。裏だけじゃない。政治も経済も巻き込んで、朱雀会が暴れるだろう」静かな声のまま、冬弥は続ける。「日本の安全のため。この結婚の意味は、そういうことだ」あやめは、ゆっくりと顔を上げた。そして、冬弥の目を見る。底の見えない、冷たい黒。だがそこには、揺るぎない現実があった。「……危ない、のですよね?」あやめは、掠れた声で尋ねた。キング。それはつまり、最も守るべき存在であり、同時に最も狙われる存在。「ああ、危ない」否定はなかった。一瞬の迷いもなく、肯定された。「お前のことは龍神会が、俺たちが、最大限の力をもってして守るつもりだ」(……正直な人だ)“守る”とは言わないのは、言えないからだ。約束できないことは、決して口にしない。けれど――“守るつもりだ”と、意思だけは示してくれた。その不完全さが、逆に現実的で、あやめは妙に信じられる気がした。あやめは、体から力が抜けるのを感じた。「私がとられたら、龍神会も終わりですものね」思った
last updateLast Updated : 2026-03-31
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1-6
  『広くて快適な檻を用意する』  『檻の中でなら自由にしていい』それら冬弥の言葉は、耳触りのいい部分だけを拾えば穏やかなものだった。けれど、その実――“そこから出るな”という、逃げ道を完全に塞ぐ宣告に他ならない。(やはり、物騒ね)あやめは内心で小さく息をついた。『柊謙一の娘』というだけでも、十分に標的になり得る立場。そこへ『神崎冬弥の妻』という肩書きが重なる。危険は足し算ではなく、掛け算で膨れ上がることは簡単に予測できる。(できるものなら、ごめん願いたい状況だけれど……)だが、それが叶わないことも、もう分かっている。逃げ場はない。あやめを逃がす気が、誰にもない。「私に、選択肢はないのですよね」問いかけた先は冬弥だった。けれど、答えたのは――隣に座る父、謙一だった。「そうだ」一切の間を置かない、即答。あやめは軽く肩を竦めた。謙一の声音には、迷いも、逡巡も、情もない。まるで、すでに答えが決まっている設問に対する確認のような声音だった。(少し大袈裟に言えば、私はこれから行く先は戦地だというのに)それなのに、謙一は「行け」と迷わず言う。それが、彼が一番に思う日本のためだからだ。(『柊謙一』という政治家は、いつだってこうだわ)あらゆる選択を、損得と合理で裁断する。そこに感情が入り込む余地はない。そして一度出した答えに、決して揺らぐことはない。(だからこそ優秀なのだろうけれど……)  『父親としては』その言葉は、胸の奥に沈んだまま、口には出さなかった。.「婚姻届は明日に提出する。記者会見は来週だ。準備しておきなさい」あやめが何かを感じ取る前に、話はもう次の段階へと進んでいた。まるで、通常業務の延長のようなやりとりだった。「分かりました。それでは予定の調整を――」反射的に口をついて出た言葉。だが、謙一はその続きを手で制して止めた。「それはもうお前の仕事ではない」いままでの行動を躊躇いなく遮られたことに、あやめはを口を噤んだ。「お前には今日、このあと神崎家に行ってもらう。いまこの瞬間から、神崎家の人間として振る舞うんだ」  『いまこの瞬間から』。その言葉が、静かに、しかし確実に、あやめの立場を切り替えた。「……承知、しました」入籍は明日。だから、正確には明日なのだが、今この瞬間にあやめは神崎家に嫁いだ。(お嫁入
last updateLast Updated : 2026-01-25
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1-7
廊下に出た瞬間、あやめは小さく、しかし深く息を吐き出した。胸の奥に溜まっていたものを、少しでも外に逃がすように。官邸の空気はよく管理されているはずなのに、先ほどまでいた部屋の冷気は、やけに肌に刺さるものだった。(冷房の設定温度が低すぎるのではないかしら……クールビズはどこにいったの?)わざと軽口のように、あやめは思考を転がしてみる。けれど、そんな冗談めいた考えでは、胸の奥に広がる冷えはまったく和らがなかった。むしろ、笑えない自分を突きつけられるだけ。「車を回してある」落ちてきた冬弥の声は、相変わらず温度を感じさせない。(……この冷たさは、この人のせいでもあるかもしれないわね)何も言うことなく、あやめは小さく頷いた。.冬弥に続いて官邸の裏口へ出ると、そこには黒塗りの車が静かに待機していた。無駄な主張を一切しない、けれど見る者が見れば分かる類の高級車。艶のあるボディに、周囲の景色が歪んで映り込んでいた。 ジャリッ冬弥の履いた革靴がアスファルトの上の砂利を踏んだ音がしたと同時に、運転席にいた男が素早く降りてきて、無言で後部座席のドアを開けた。男のその動きに一切の無駄がない。(慣れている……)男はあやめに車に乗るように促す。そしてあやめが車内に乗り込むと、男は戸口で短く頭を下げた。「鷹見と申します、以後お見知りおきを」低く落ち着いた声。名乗りもまた簡潔だった。.扉が外から閉められると同時に、あやめは腰を浮かせて運転席側に移動した。そして、あやめが一息ついたとき――。「え……?」真横のドアが開く音がして、あやめは顔を上げる。目の前に立っていたのは、当然ながら冬弥。「なぜ、ここにいる?」「……車に乗るように言ったのではなかったのですか?」自分の勘違いだったらしい。そう思ったあやめは、わずかに体を浮かせて反対側にいこうとした。一人分のスペースが開いたところで、冬弥が乗り込んでくる。「そっちに座っていろ」「……え?」「そもそも、なんでこっちにいた?」無意識に、いつもの癖で運転席側へ移ろうとしていただけ。何も考えずにした行動だったから、あやめは答えに困った。冬弥がため息を吐く。「これから、お前は常にそちらに座ってもらう」短く、しかしはっきりとした指示。「でも……」言いかけて、あやめは口をつぐむ。
last updateLast Updated : 2026-03-31
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1-8
やがて車は都心から少し離れた高台の住宅街へと入り、奥へと進んでいった。人の気配が次第に遠のき、窓の外からは生活のざわめきが消えていく。整然と並んでいた家々もいつの間にか間隔を広げ、やがて背後へと置き去りにされた。「ここだ」高級住宅街の突き当たり。それ以上先へは進ませないとでも言うように、道は途切れ、視界を塞ぐようにそれは佇んでいた。奥に見える、建物の裏手は崖。逃げ道を断ち切るように切り立ったその地形は、まるで最初からこの場所が“閉じる”ために選ばれたかのようだった。そんな場所に、神崎邸はあった。果てが見えない高い塀。空を切り取るように聳え、外界との境界を明確に拒絶している。監視カメラが各所にあり、無機質な黒いレンズが、瞬きひとつせずこちらを見下ろしている。その視線は来た者に対して歓迎のしるしはなく、測り、値踏みし、そして逃がさないものだった。鉄の門は重厚だった。黒く鈍い光を放つその表面は、長い年月を経てなお傷ひとつ許さぬ硬質さを湛え、触れれば体温さえ奪われそうな冷たさを想像させた。『檻』という言葉をあやめが実感した。胸の奥が、ひたりと冷えた。ここに一度入れば、自分の意思では外へ出られない。そんな確信にも似た感覚が、理由もなく込み上げた。.「見慣れた家だが、こうして改めて見ると、まさしく“檻”だな」あやめの隣に座る冬弥が、ぽつりと呟いた。その自嘲めいた声音に、あやめは思わず冬弥の顔を見る。冬弥の横顔には、かすかな皮肉が浮かんでいた。それは、笑い飛ばすような軽さではなく、長くそこに囚われてきた者だけが持つ、乾いた諦観の色を帯びていた。 ギッ。重さを感じさせる音をたてながら、鉄門がゆっくりと動き始めた。軋む音は低く鈍く、耳の奥に残る。まるで巨大な何かが目を覚まし、口を開くようだった。動き出せばあとは早く、屋敷の口は滑らかに開いていった。逃げ場を与えぬまま、ただ飲み込むために。完全に開いたところで、あやめたちが乗った車が中へと進んでいった。門をくぐった瞬間、外の空気が切り離された気がした。背後で門が閉じる。隔離された。そんな錯覚に、あやめは無意識に息を詰めた。.車が進む横は、広い庭だった。計算され、きれいに整えられた植栽。一分の隙もなく整えられたその美しさは自然の息遣いを感じさせず、むしろ人の手によ
last updateLast Updated : 2026-01-25
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1-9
「奥様のお部屋は、こちらです」早苗の声は親しみを感じられるほど柔らかくも、よく通る声は命令に慣れているようにあやめには感じられた。先導する早苗。その後ろ姿を見ながら、あやめは隣の気配が消えたことに足を止めた。そして、振り返る。「奥様?」あやめの視線の先には、少し離れたところで立つ冬弥。冬弥は黙っており、どうしたのかと尋ねたのは早苗だった。冬弥は何も言わず、ただ静かにあやめを見ていた。あやめは、その視線を受け止めるように立つ。許可を求めるような、無言の確認。すると冬弥は、小さく頷いた。それだけで十分だった。「ごめんなさい。案内を続けてもらえますか?」あやめは冬弥から目をそらし、再び前を向くと早苗の後を追った。.(なるほど檻の中では、自由にしていいということね)柊謙一の執務室を出てからここに至るまで、冬弥は一度もあやめの傍を離れなかった。まるで監視するように、あるいは守るように。それなのに、この屋敷の奥に足を踏み入れた途端、冬弥はあっさりとあやめから距離を取った。ここが、“檻の中”だからだ。そう考えれば、妙に納得がいく。逃げ場のない場所では、見張る必要すらない。その思考に囚われていたため、背後から静かに、しかし途切れることなく注がれていた冬弥の視線に、あやめは気づかなかった。. * .長い廊下だとあやめは感じた。磨き上げられた床板は、足音をほとんど立てない。壁に掛けられた掛け軸や調度品はどれも品がよく、主張しすぎないのに確かな価値を感じさせる。曲がり角をいくつも越え、いくつも襖を通り過ぎて――早苗が足を止めた。「こちらです」あやめは、来た道を振り返る。(……玄関から、ずいぶん遠いわね)来客を迎えるには不便な場所だ、と一瞬思い――あやめは思い出す。“お前がキングだ”と、冬弥は言った、その意味を。(……なるほど)チェスの盤上で、守るべきキングの駒は、盤の奥深くに置かれる。そう考えれば、この距離は“隔離”ではなく“配置”なのだ。.「どうぞ」そう言って早苗が襖を開ける。あやめは一歩、部屋の中に足を踏み入れる。――その瞬間。「……っ」あやめの足が、わずかに止まった。畳ではない。足裏に伝わったのは、ひんやりとした木の感触。(洋間?)意外だった。外観は典型的な日本家屋だったから、てっき
last updateLast Updated : 2026-03-31
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1-10
夕食だと告げられ、早苗によってあやめはダイニングへと案内された。重厚な扉をくぐった先に広がっていたのは、想像以上に広い空間だった。天井は高く、間接照明が柔らかく落ちている。中央に据えられたダイニングテーブルは長く――あまりに長い。まるで食事のための家具というよりも、仕事のための机。適度な距離を保ち、身の安全を測る。そのための長さ。そして、その長いテーブルに用意されていたのは。「……二人分?」ぽつりと、あやめは心の中で呟く。二人分だということは、これまでの流れから冬弥との夕食になる。(意外だわ)今日会ったばかりであることを考えれば、和気藹々とした食事風景にはならない。そもそも政略結婚。和気藹々とはもちろん、食事という時間を共にする義理も義務もない。.「こちらへ」早苗以外の使用人の声に、他にも使用人がいることに気づく。礼儀正しいが、雰囲気に険がある。にじみ出る極道の雰囲気だが、あやめは気にしなかった。極道であることは分かっていたのだ。むしろ、思ったよりも普通だと思っていた。「ありがとうございます」あやめの礼に、使用人は一瞬戸惑いつつも、あやめを席に案内する。扉から遠い、上座の席だった。.「遅れてすまない」しばらくすると冬弥がやってきて、あやめの向かい側に座った。自然と視線が交わるには遠すぎて、声を交わすには微妙に距離がある。(……まるで外交会談ね)不本意な言葉を言質として取られないようにするような、警戒感。あやめは内心で苦笑する。夫婦の食卓にしては、少々息苦しい。和気藹々は、自分も得意ではない。冬弥も得意そうではない。(でも、食事をした気がしないわ)あやめは、食べることが好きだった。忙しい日々の中で唯一気が抜ける瞬間。唯一自分らしい時間。それが食事の時間であり、食べることはあやめにとって趣味だった。その点、神崎邸の食事に文句は一切ない。運ばれてくる料理は、どれも美しく、そして贅沢だった。素材も、盛り付けも、申し分ない。けれど――。(……息が詰まるわ)息苦しさに、口の中にいる時間が長い料理の味付けに違和感も感じ始める。不味いわけではない。ほんの僅かな違和感。柊家で慣れ親しんだ味付けとは、方向性が異なる味付けというだけ。濃すぎるわけでも、薄すぎるわけでもない。文句ではない。
last updateLast Updated : 2026-01-26
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