氷龍の檻姫

氷龍の檻姫

last updateLast Updated : 2026-03-13
By:  酔夫人Updated just now
Language: Japanese
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名門政治家の娘・柊あやめは、父の政略で関東最大の極道組織「龍神会」の若き組長・神崎冬弥と政略結婚させられる。 冷酷無比と恐れられる冬弥に「お前は俺の“盾”だ」と告げられ、あやめは“人質”としての結婚生活を始める。 だが、冬弥の冷たさの裏にある“秘密”を知ったとき、あやめの心は揺れ始める。 「私はただの駒じゃない。あなたの“檻”を壊してみせる」

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Chapter 1

1

六月の終わり、梅雨の湿気が都心を包み込む午後だった。  

柊あやめは、父・柊謙一に呼び出された。  

重厚な扉を開けた瞬間、空気が変わった。

冷房の効いた部屋の中は、外の蒸し暑さとは別の意味で冷え切っていた。

「よく来たな、座れ」

父親は、“父親”ではなく、報道の中で見る“大臣”の顔をしている。

(この人の父親の顔を見たことはあったかしら)

そう考えて、あやめは苦笑した。

そんなものは、ない。

母親を早くに亡くしたあやめは、高校生の頃から父親のサポートをし、名門女子大に進学すると在学中から父親の秘書を務めていた。

だから、あやめは、父親にとって自分は“娘”というよりも“秘書”の存在であるのだろうと思っている。

父親の隣には、あやめが初めて見る男がいた。

その長身痩躯にぴたりと合った黒のスーツに身を包み、微動だにせず、無表情のまま立っている。  

その目が、あやめを射抜いた。

(……冷たい目)

深い湖の底のような、静けさを湛えている目だった。

「紹介しよう。神崎冬弥君だ」

(カンザキ、トウヤ……どこかで……)

「龍神会の若き組長、と言ったほうが分かりやすいな」

(龍神会っ!)

龍神会。

その名を聞いた瞬間、あやめの背筋が凍った。  

龍神会は関東最大の極道組織だ。

その名は、政治家の娘として育ち、秘書として父親の仕事を見てきたあやめにとって、決して無縁の存在ではなかった。

濁り過ぎてはいけないが、清らかすぎる政治は夢のまた夢。  

だが、まさか父親が、例えるなら”黙認”しているような人物をあやめに“紹介”するとは思っていなかった。

「あやめ、挨拶をしろ」

父親の言葉に、あやめは反射的に冬弥に頭を下げた。 

「柊あやめ、です」

「さくらの妹だ」

父親の紹介に、あやめは表情筋に力を入れる。

笑え、と自分に念じた。

あやめには二歳上に姉がいる。

名前は、さくら。

祖母に似たという華やかな美しさで、姉のさくらは評判がいい。

あやめの容姿は、父親に似たため貶されることはなかったが、その見た目に「あの姉の妹」と周囲が思っていることは分かっている。

あやめも、女だ。

それに対し、何も思わないことはない。

だからだろうか、昔からあやめは煌びやかな世界が好きではない。

むしろ、嫌いだ。

それも必要と思って顔を出す程度のことはするが、姉さくらのように愛想よく、その場の中心人物のように振る舞うことはできない。

年を重ねて、”適材適所”なのだとあやめは思うようになった。

そこかしこで「さくらの妹」と言われることも、あまり気にならなくなってきた。

(久しぶりに、効いたわ)

父親の口から出た、「さくらの妹」。

父親の紹介は、普段は「私の秘書」とすることが多い。

父親があやめを恥じ、あやめを隠そうとしているわけではないことは、父親のそのときの表情からあやめには分かっている。

真っ先に浮かぶイメージの問題。

「私の秘書」。

「さくらの妹」。

(お父様にとって私は、「私の娘」ではないのかもしれないわね)

自分は父親にとってなんだろうかと、あやめは考えて自嘲した。

答えは分かっている。

駒。

それだけを望まれてきたような親子関係だった。

 *

 

「はじめまして」

あやめは気持ちを切り替え、微笑を浮かべて挨拶をする。

その挨拶に神崎冬弥は眉すら動かさず、ただ一礼を返しただけだった。

あやめは内心で肩を竦め、視線を冬弥から父親に向けた。

父親から感じた空気に、あやめは息を飲む。

「それで、何のご用件なのでしょうか」

あやめは、努めて冷静に声を出した。

だが、喉の奥が乾いている。

嫌な予感がしている。

父親は、書類の束から一枚の紙を取り出し、机の上に置いた。

「婚姻届だ。お前と冬弥君のな」

時が止まったようだった。  

あやめは、目の前の紙を信じられない思いで見つめた。

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あやめの目の前に置かれた紙には、【婚姻届書】と確かに書いてあった。ただ、初めて見る本物のそれは、あやめにはドラマの小道具のように見えた。いまこの瞬間、他人の人生を脇から覗き込んでいるような感覚にあやめは陥った。 「何かの、冗談、ですか?」「冗談でこんなものを用意しない」父親の、呆れているのか、硬く冷めた声。「桔梗、お前は神崎家に嫁にいくんだ」「お父様っ!」神崎家が、普通の家ならばあやめもここまで驚かなかった。神崎家は龍神会の総長家。その家主の妻となれば、清廉潔白である政治の世界とは完全に分かれることになる。政治家の娘として生まれたあやめにとって、”全て”を奪われる気がした。 「あやめ、この結婚は、柊家と神崎家、両家のために必要なだけのものではない」(じゃあ、なんのために……)「二人の結婚は、日本の安全のために必要な結婚なんだ」あまりの目的の大きさにあやめは驚き、父親の顔を見た。 父親の目には、情も迷いもなかった。政治家としての顔――冷徹で、計算高い目だった。「日本の、安全?」「朱雀会が動いている」朱雀会は関西を中心に規模の大きな組織。新興勢力だが海外との繋がりで一気に巨大化すると同時に、昔ながらの暗黙のルールに則らないため裏の世界でも持て余している存在だ。「朱雀会の関東への進出はもはや時間の問題だ。 だが、龍神会と柊家が婚姻関係を結べば、東京の裏と表は一枚岩になる。それが、奴らへの最大の牽制になる」あやめは、言葉を失った。 龍神会に朱雀会。近からずとも遠からずの任侠の世界が、音もなくあやめに近づき、突如その黒い口を開けた気がした。 (いつかは、何かのために結婚するとは思っていた)初対面の男との結婚に、抵抗がないわけではないが、あやめも覚悟はしていた。ただ、あやめにも、大臣・柊謙一の補佐をしてきた自負がある。あやめが父親として慕ったことはない父親だが、あやめにとって全ての欠点を補って余りある美点が彼にはあった。それは、父親が妻を、さくらとあやめたち姉妹の母親をいまも愛していることだ。母親は早くに亡くなり、当時まだ男盛りで、政治家としても熟しはじめた柊謙一は周りに再婚を勧められた。いまも、勧められていることも知っている。それでも、父親は一度も首を縦に振らなかった。その姿が、幼いあやめには嬉か
last updateLast Updated : 2026-01-28
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「法治国家日本の中心であり、要の東京。東京を中心とした関東の盤上には法律というルールがある。この盤上で、俺たち龍神会の駒が自由に動くのに必要なのが柊家の娘であるお前だ。お前がいる限り、俺たは自由に動くことができる。お前がいなければ、俺たちはルールに縛られ、多くの駒が討ち取られるだろう」冬弥の口調は、まるで盤上遊戯の話をするようだった。でも、内容は血なまぐさく、血や暴力とは縁のなかったあやめには時代劇を見ているような気分になった。(私も、自分のことは駒だと言うくせに)平坦な声で自分は駒だと言い切る冬弥に、あやめは自分の駒としての覚悟のなさを顕にされたような気がした。駒だと納得せず、「はいはい、駒なんでしょう」と割り切ったふりをして、ただ父親の気を引こうとしていたような児戯だと言われた気がした。  「お前がキングで、俺がクイーンだ」(私が?)「キングは、あなたなのでは?」「言っただろう? お前が取られたら、俺たちの負けだ」「負け、たら……」「龍神会が消えれば、関東の均衡は一気に崩れる。裏の世界はもちろんだが、政治や経済の世界でも朱雀会が暴れ回るだろう。日本の安全のため、そういうことだ」あやめは、冬弥の目を見た。「危ない、のでは?」冬弥はあやめを”キング”といった。つまり、朱雀会はあやめを狙う。「危ない」冬弥は、あやめの不安を否定しなかった。「お前のことは龍神会が、俺たちが、最大限の力をもってして守るつもりだ」(……正直な人だ)守る、とは言っていない。恐らくそれは、できない約束だから。でも「守るつもり」と冬弥は”守る”意思を見せてくれた。「私がとられたら、龍神会も終わりですものね」思ったよりも軽く出た言葉。しまったと感じたあやめが言葉を飾る前に、「そうだな」と冬弥が肯定する。「夫婦は一蓮托生だから、丁度いいじゃないか」「一連、托生」「俺はお前を守る、だからお前は俺に守られてほしい……意味は、分かるな」守られてほしい。守られる。あやめは、冬弥が守れる範囲内でのみ行動できる。つまり、結婚したらあやめには”自由”がなくなる、ということ。(それは、まるで……) 「物騒なプロポーズですね」あやめの言葉に、冬弥は目を軽く見張った。「物騒、か?」「ええ。あなたの言葉は、あなたが作った檻までのエスコートのよう
last updateLast Updated : 2026-01-28
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(檻の中なら、か)あやめは冬弥の言葉を反芻した。 冬弥のあの台詞は、快適にしてやるから檻から出るなという警告。そして、堂々とした監禁宣言。(やっぱり、物騒じゃないの)「私に、選択肢はないのですよね」「そうだ」冬弥への問い掛けだったが、隣にいた父親があやめの問いに答えた。迷いのないその声に、あやめはわずかに肩をすくめた。少々大袈裟に表現すれば、あやめはこれから戦地に行く。それなのに、父親は躊躇を見せずに、即答。(柊謙一という人はいつだって、こうだ) 彼は計算に、感情を入れない。そして答えに、迷いを見せない。 (だからこそ”政治家”としては優秀なのだろうけれど、父親としては――)「婚姻届は、明日に提出する。記者会見は来週だ」あやめが感傷に浸る間もなく、次の予定へと話がうつった。いつもの”仕事”と同じやりとり。あやめは苦笑する。「分かりました。それでは予定の調整を……」「それはもうお前の仕事ではない。お前には今日、このあと神崎家に行ってもらう。いまこの瞬間から、神崎家の人間として振る舞うんだ」「承知、しました」今日、お嫁入り。明日、入籍。ほんの一時間前まで想像していなかった自分の未来図に、あやめは色々なものをぐっと飲み込んで、反射的に開いていた厚い手帳をあやめは閉じた。些か大きな音を立てて手帳が閉じられ、それとは対照にあやめは静かに頭を下げた。それが、あやめにできる唯一の抵抗だった。 怒鳴らず、泣かず、そして拒絶もせず。 ただ、静かに従うことで、自分の意志を守る。これが、あやめのやり方だった。「冬弥君。あやめを頼む」「了解した」まるでロボットのような、短く、簡潔な返事。 その声は硬く、どこか軍人を思わせる規律のような音があった。 あやめは、父親の隣から、自分の隣にきた冬弥を見た。 冬弥の横顔は、まるで彫刻のように整っていた。そこに“人間らしさ”はなかった。一瞬だけ人間らしい微笑を見たせいか、残念だとあやめは思った。「出るぞ」あやめの返事を聞く前に冬弥は動き出し、先に立って部屋を出る。あやめは、父親で、雇い主だった柊謙一に一礼してから冬弥の背を追った。(これで、終わりか)あやめの足が一瞬止まった。「どうした?」気づけば、冬弥が足を止めてあやめを見ていた。さっさと先を歩いて
last updateLast Updated : 2026-01-25
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--やがて車は、都心から少し離れた高台の住宅街に入った。 「ここだ」その突き当たり、裏手は崖の場所に、神崎邸はあった。果てが見えない高い塀。監視カメラに、重厚な鉄の門。 檻、という言葉をあやめは実感した。「改めてみると、まさしく”檻”だな」冬弥が、ぽつりと呟いた。その自嘲めいた声音に、あやめは思わず冬弥を見た。 冬弥の横顔には、かすかな皮肉が浮かんでいた。鉄門が、重そうだけど滑らかに動いて開き、あやめたちが乗った車が中へと進んだ。 広い庭、整えられた植栽。歴史を感じるのに、古びたところが一切ない大きな建物。 屋敷の荘厳な美しさは、冷たさとなって、あやめの肌を刺した。「お帰りなさいませ、若様」玄関で出迎えたのは、年配の女性だった。 和装に身を包み、背筋をぴんっと伸ばして風格あるその姿は、まるで老舗旅館の女将のようだった。「柊あやめだ。明日、神崎あやめになる。伝えておいた通り、今日から彼女はここに住む。部屋は用意できているな」「勿論でございます。初めまして、奥様。私はこの屋敷の家政頭で”早苗”と申します。何かありましたら、この早苗にお申しつけください」「柊あやめです。よろしくお願いいたします」あやめは、軽く頭を下げた。 早苗は、あやめに微笑みかけた。その微笑みは、最初に向けられた余所行きの硬さがなかった。檻の入口を潜った、あやめはそんな感じがした。「どうぞ、こちらへ。奥様のお部屋へご案内いたします」あやめは冬弥の顔を一度見た。冬弥が頷いたので、許可は得られたと判断して早苗の後を追った。(檻の中では自由にしてもいい、か)父親の部屋を出てからずっと冬弥は離れずにあやめの傍にいたのに、家に入れば簡単に離れた。(ここが、檻の中)そんなことを考えていたため、冬弥の視線がずっとあやめの背中を追っていることに、あやめが気づくことはなかった。   *  「こちらです」早苗に案内されたあやめの部屋は、玄関からとても遠かった。出入りに不便ではないかと思ったとき、あやめはキングだといった冬弥の言葉を思い出した。 「どうぞ」入口の襖を開け、一歩入ってあやめは驚いた。足元が畳でなく、床板を踏んだ違和感に驚いたのだった。(洋間?)広く、美しい部屋だが、ベッドがあり、窓は障子ではなくカーテンがかかってい
last updateLast Updated : 2026-01-25
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夕食だといってダイニングに案内されたが、大きなダイニングテーブルに用意された食事は冬弥とあやめの二人分だけだった。長いダイニングテーブルの端と端に座らされ、まるで外交会談のような距離感だった。 料理は豪華だったが、柊家とは違う味付けにあやめは違和感を持った。(これが、結婚……これが……)あやめは、冬弥を見た。視線を感じたのか冬弥が顔をあげ、二人の目が合った。「何か、不満でも? 味付けが気に入らないか?」(細やかな気遣いもできるのね)「この生活、ずっと続くのですよね?」「結婚生活のことか? まあ、世に言う”死が分かつまで”だろうな」(他人事のよう……私も一緒だけど) 食後の紅茶が運ばれたあと、あやめは口を開いた。「嫌なことは言え、といいましたよね?」「言っていない。好き勝手にして構わないと言っただけだ」「それでは言わせてもらいますが、私はこの距離感が嫌です」「距離……」冬弥が、ダイニングテーブルの手前から、あやめのほうを見る。「テーブルをもう少し小さいものにするか?」(距離感であって、そういう距離じゃないのだけれど)あやめの言葉をちゃんと受け取ってくれたものの、やや斜めに解釈した冬弥にあやめの肩から力が抜けた。力が抜けて、自分も“距離感”があったことに気づいた。 「あの……」(そう言えば……)「冬弥さん、とお呼びしてもよろしいですか?)あやめは、冬弥を呼んだこともないことに気づいた。構わないというように冬弥が頷いたので、あやめは紅茶を一口飲んでから、静かに言った。「冬弥さんはおいくつなんですか?」「今年三十になる……なんだ、いきなり」「結婚が突然なので、基本的なことすら知らないと気づいたのです」冬弥が眉間にしわを寄せる。「それは、必要か?」「自己紹介のことですか? 経験則ですが、互いのことを知っていたほうがコミュニケーションをとる上でストレスが減ると私は思っています」「コミュニケーションは必要か?」「必要か、ですか」あやめは、カップを見つめた。 白磁の縁に、薄く赤い口紅が残っていた。真っ白で無機質な白磁に、赤い異質な存在。(冬弥さんにとって私はこれ、そして私にとっても冬弥さんはこれ)価値観が違う場合は、すり合わせるしかない。これも、あやめの経験則による結論だった。 「冬弥
last updateLast Updated : 2026-01-26
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夕食がすむと、あやめは部屋に戻った。部屋にもどりながら、早苗が説明してくれる屋敷の構造を覚える。 この広い屋敷は、正門から見て手前が龍神会の本拠地。その奥に、組長家族である神崎家のプライベートエリアがある。扉があるわけではなく、先ほど食事していたダイニングルームがなんとなく境になっているという。「組員の半分ほどは、建物の東側にある、寮のように思ってください、そちらで生活しています」早苗の指さした先、建物の向こうに灯りが見えた。「私や鷹見は別に家もありますが、本邸にも部屋をいただいております」「早苗さんに、お休みはないのですか?」「カレンダー通りとはいきませんが、基本週休二日でいただいております。別に奥様担当の家政婦がおりますので、休みの日は彼女にお申しつけください。後日紹介いたします」 (説明を受けただけだけど、堅牢な檻だわ) 早苗が用意してくれた浴衣に着替え、窓辺のソファに腰を下ろす。 雨はまだ降り続いていた。 整えられすぎたこの洋間で聞く雨の音は、シトシトとまるで誰かの泣き声のようだった。「任侠物はまだしも、ホラーは苦手なんだけど……」何か気を紛らわせるものをと部屋を見回したとき、部屋の隅にはスーツケースが置かれていた。あやめのスーツケースだった。 中には、あやめの私物がきちんと収められていた。 自宅に置いていたはずの本、お気に入りの香水、母の形見のブローチまで。(いつの間に……誰が“私に必要なもの”を理解していたのだろう)あやめは、読みかけの本をベッドサイドに置いた。少し考えて、本を開きっ放しにする。 整えられ過ぎていた部屋を壊せた気がして、あやめは肩の力を抜いた。  コンコンノックの音にあやめが「どうぞ」と答えると、扉が静かに開いた。「……失礼する」現れたのは、冬弥だった。 ネクタイを外していたが、まだスーツを着たままの冬弥の姿は相変わらず隙がなかった。「何か、不便はないか」「ありません」「そうか」短いやりとりだが、この先は続かなかった。冬弥の用事は終わったようだと、あやめは感じた。しかし、冬弥はすぐには部屋を出ていこうとしなかった。 あやめは、少しだけ首を傾げた。「何か、他に?」冬弥は、しばらく黙っていた。 やがて、低い声で言った。「この部屋は、俺の母が使
last updateLast Updated : 2026-01-28
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翌朝、あやめは目覚まし時計が鳴るより早く目を覚ました。 眠った気がしなかった。 夢を見た気もするが、何も思い出せなかった。カーテンの隙間から差し込む朝の光は白々しく、現実を突きつけてきて、夢心地をさっと払う。「私は今日、”神崎あやめ”になる」 あやめの身支度は、早苗と、冬弥が手配した美容スタッフによって整えられた。 白地に金糸の入った上品なドレス。髪はゆるく巻かれ、パールの髪飾りが添えられた。 舞台に立つ女優のように整えられつつも、あまりに至れり尽くせりの状況にあやめは自分が道化になった感じがした。「どうですか?」早苗の質問にあやめは戸惑った。「完璧、ですね」冬弥が早苗に要求したのは”完璧”だろうと思い、これが最適解だと、あやめは早苗に応えながら、鏡の中の自分に微笑んだ。 何も気にしない。何を言われても、気にならない。その微笑が、あやめの”戦闘用の顔”だった。 「五分後に迎えの車が来ます、そろそろ参りましょう」早苗の声に頷き、あやめは立ち上がった。 この一歩が、もう戻れない道の始まり。分単位で管理される檻での生活の始まりだと、あやめは覚悟を決めた。   *  護衛の車に挟まれて向かったのは記者会見の会場、都内の高級ホテルだった。松風の間には報道陣が詰めかけ、撮りそこなうことがないようにカメラマンが最終チェックするストロボの光が会場のあちこちで瞬いていた。「冬弥さん」それを舞台袖から見つける冬弥にあやめは声をかけた。「来たな。こちらへ」冬弥が、あやめの手を取った。 (誉め言葉は期待していなかったけれど、予想以上に硬い顔)冬弥の手は、冷たい。緊張していることがあやめには分かる。しかし、力強い。あやめは、安心して力を抜き、冬弥の手に自分の手を委ねた。(大丈夫、この人は私を守ろうとしてくれる) あやめは冬弥とふたり並んで壇上に立った。二人の背後には、柊謙一と、龍神会の幹部と思われる男たちが続く。でも、あやめの視界には、冬弥の横顔しか映っていなかった。 「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」あやめは煌びやかな天井を見ながら、会場に父親の声が響くのを聞いていた。父親の声、口調、いつもの演説と変わらない。これが、国家のための結婚なのだと強く意識させられる。「このたび
last updateLast Updated : 2026-01-26
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(……やっぱり)四阿の中にいたのは、冬弥だった。眠る前だったのだろうか。藍色の浴衣を着流して、縁側に腰を下ろして煙草をくゆらせている。「眠れないんですか?」あやめの声に、冬弥はあやめに顔を向けた。驚いた様子はなかった。あやめが近づいてきたことに気づいていたようだ。冬弥は自分の隣を指さした。「座れよ。今日は夜風が気持ちいい」あやめは、少し迷ってから隣に腰を下ろした。 梅雨の夜らしく空気は湿気っていたが、吹いてくる夜風は冬弥の言う通り気持ちよかった。昼間の緊張が少しだけ和らいだ。ふわりと漂う煙草の香り。お嬢様高校から名門女子大へと進んだあやめにとって、煙草は未知のものではないが、馴染みのないもの。父親の方針で喫煙は好まない振りはしていたけれど、確かに昔の映像みたいに狭い会議室に煙が立ち込めるほど煙草を吸うのはどうかと思うけれど、マナーを守って吸うならば”個人の嗜好”でいいではないかとあやめは思っていた。(不快ではない。自分が吸おうとは思わないけれど、この匂いは嫌いではないわ)「悪い、煙たいな」あやめが匂いを嗅ごうと鼻を鳴らしたのを、冬弥は誤解したようだった。「いいえ。意外と、いい匂いなんだなと思っています」「意外とって……まあ、政治家のお嬢さんだからな。周りに喫煙者なんていないか」冬弥の口ぶりだと、冬弥の周りにはゴロゴロと喫煙者がいるように聞こえるが、冬弥の手には携帯灰皿がある。それも珍しくて、あやめは繁々と見てしまった。「お前、変なところで箱入り娘なんだな」「変なところって……」「朱雀会の奴らに、飴玉やるって言われてもついていくなよ」「ついていきませんよ」冬弥はクッと笑うと、煙草を口にくわえて、大きく息を吸う。そして、空に向かって紫煙を吐き出す。冬弥は背が高い。吐き出された煙草の煙はあやめの髪の一筋も揺らすことなく、空に昇っていった。「今日は、ありがとうございました」「何がだ」「……服とか、メイクさんとか?」「何で疑問形」神崎冬弥は、煙草を携帯灰皿に押しつけた。あやめが見る冬弥の横顔は、少し緩んでいるように見えた。「似合っていた」冬弥はあやめのほうを見ずに言った。あやめは驚いて目を見開いたが、冬弥の横顔は、どこか遠くを見ていた。その目には、迷いと後悔があった。 「あなたは、私をどう
last updateLast Updated : 2026-01-28
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あやめがサインを終えた婚姻届は、鷹見の手を経て役所の窓口に提出された。 区役所の戸籍課の職員は仰々しい様子に怯みつつ、受け取る。第三者が差し出しただけで、夫と妻の両名が同席している以上は問題ないと判断したのか、職員は書類をいつも通り確認し、「問題はありません」と一言添えて受理印を押した。この瞬間、あやめの名前は「神崎あやめ」へと変わった。(不思議なくらい、実感がないわ)  「おめでとうございます、奥様」立会人として同行してくれた早苗が丁寧に寿いでくれた。祝いごとなので早苗の言葉は正しいのだろう。しかし、他人の人生を遠くから眺めているような感覚に陥っているあやめに”おめでとう”の実感はなかった。実感のなさを、戸惑いと感じたのだろうか。「やはり、姐さんのほうがよかったですか?」早苗の問い掛けに、あやめはギョッとした。「“姐さん”って、私のことですか?」「はい。奥様は神崎冬弥の奥方です。神崎の女は、龍神会の“姐さん”でいらっしゃいます」「姐、さん」あやめは、思わず苦笑した。 極道の世界では当たり前の言葉だろうが、今までのあやめには縁のなかった言葉。自分が“姐さん”と呼ばれる日が来るとは思っていなかった。 だが、ここではそれが“役割”なのだ。そしてそれは――。「皆さんの好きなように呼んでください」「分かりました、奥様」早苗の返答に、あやめは内心苦笑する。 極道の世界は、あやめが思っていたものと違った。体育会系のクラブのように上下関係がしっかり決まっていて、下は上に逆らわない。それには上が”上に立つ者”としてふさわしい態度をみせなければいけない。暴力や金で従わせるわけではない、風格で下の者を率いていく。庭番と呼ばれる庭を警備している若い組員たちは、冬弥を兄のように慕っている。冬弥は鷹見に対して上の者の態度であるが、冬弥の態度や話し方には鷹見を”叔父”のように見ている気配がある。でも、全員に血のつながりはない。血の繋がったものが一族である、年功で上下が決まる柊家で生まれ育ったあやめには慣れない感覚だった。 いまのあやめは、法律で冬弥の妻になっただけ。早苗の『奥様』は、あやめを「神崎冬弥の妻」とは認めるが、「神崎の女」や「龍神会の姐さん」とは認めていないと言っているということ。「神崎の女」や「龍神会の姐
last updateLast Updated : 2026-01-26
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