氷龍の檻姫

氷龍の檻姫

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By:  酔夫人Updated just now
Language: Japanese
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名門政治家の娘・柊あやめは、父の政略で関東最大の極道組織「龍神会」の若き組長・神崎冬弥と政略結婚させられる。 冷酷無比と恐れられる冬弥に「お前は俺の“盾”だ」と告げられ、あやめは“人質”としての結婚生活を始める。 だが、冬弥の冷たさの裏にある“秘密”を知ったとき、あやめの心は揺れ始める。 「私はただの駒じゃない。あなたの“檻”を壊してみせる」

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Chapter 1

1

六月の終わり、梅雨の湿気が都心を包み込む午後だった。  

柊あやめは、父・柊謙一に呼び出された。  

重厚な扉を開けた瞬間、空気が変わった。

冷房の効いた部屋の中は、外の蒸し暑さとは別の意味で冷え切っていた。

 「よく来たな、座れ」

柊謙一は父親ではなく、報道で見る大臣の顔。

(この人の父親の顔を見たことはあったかしら)

そう考えて、あやめは苦笑した。

そんなものは、ない。

柊謙一の隣には、あやめが初めて見る男がひとり。

その長身痩躯にぴたりと合った黒のスーツに身を包み、無表情のまま立っている。  

その目が、あやめを射抜いた。

冷たい。

深い湖の底のような、静けさを湛えている目だった。

「紹介しよう。神崎冬弥君だ。龍神会の若き組長、と言えば分かるな」

龍神会。

その名を聞いた瞬間、あやめの背筋が凍った。  

龍神会は関東最大の極道組織。

その名は、政治家の娘として育ったあやめにとって、決して無縁ではなかった。  

だが、まさか柊謙一が、そんな人物を“紹介”するとは思っていなかった。

「あやめ、挨拶をしろ」

柊謙一の言葉に促され、あやめは無意識に頭を下げた。 

「柊あやめ、です」

「さくらの妹だ」

柊謙一の紹介に、あやめは表情筋に力を入れる。

笑え、と自分に念じる。

その華やかな美しさで評判の姉の菖蒲。

煌びやかな世界にしり込みするあやめと違い、姉のさくらは煌びやかな世界の中心で堂々と振舞う。

だから、柊謙一に限らずあやめの紹介は「さくらの妹」。

(私の娘、ではなく、ね)

自分は柊謙一にとってなんだろうか、と考えて苦笑した。

駒。

それだけだった。

「はじめまして」

あやめは気持ちを切り替えて挨拶を終えたが、神崎冬弥は微動だにせず、ただ一礼を返しただけだった。

 「お父様、何のご用件でしょうか」

あやめは、努めて冷静に声を出した。

だが、喉の奥が乾いている。  

柊謙一は、書類の束から一枚の紙を取り出し、机の上に置いた。

「婚姻届だ。お前と冬弥君のな」

時が止まったようだった。  

あやめは、目の前の紙を見つめた。

【婚姻届書】と確かに書いてある。  

初めて見る本物はまるでドラマの小物のようで、他人の人生を脇から覗き込んでいるような感覚にあやめは陥った。

「何かの、冗談?」

「冗談でこんなものを用意しない。これは必要な結婚だ。お前は、神崎家に嫁ぐ。それが柊家のため、神崎家のため、そして日本の未来のためだ」

あまりの目的の大きさにあやめは驚き、柊謙一の顔を見た。  

柊謙一の目には、情も迷いもなかった。

政治家としての顔――冷徹で、計算高い目だった。

「なぜ、私が……この方に?」

「朱雀会が動いている。関西からの進出は、もはや時間の問題だ。 だが、龍神会と柊家が婚姻関係を結べば、東京の裏と表は一枚岩になる。それが、奴らへの最大の牽制になる」

あやめは、言葉を失った。  

初対面の男とのこの結婚が政略結婚だとは、あやめにも分かる。

ただ、あやめにも秘書として、柊謙一の補佐をしてきた自負がある。

後継者になれるとは、あやめも思っていない。

望むわけがない。

それは長女の菖蒲に与えられるものだと言い聞かされて育った。

柊謙一をあやめが父親として慕ったことはない。

それを、期待したこともない。

でも、そんな柊謙一には、全ての欠点を補って余りある美点があった。

それは、柊謙一が妻、菖蒲とあやめの母親を心底愛していることだ。

柊謙一は妻を早くに亡くしたが、誰に再婚を勧められても柊謙一は首を縦に振らなかった。

その姿に、あやめは嬉しく、母親の代わりに柊謙一を支えようと政治家の秘書としてスキルを積んできた。

その自分を、二家を繋げるための楔扱い。

それならば、もっと相応しい人物がいるではないか。

あやめは、悔しかった。

 「私ではなく、お姉様のほうが……」

何もせず、ただ柊謙一の娘として生活しているだけの姉ならば、ここで望まれている“飾り”に相応しいのではないか。

それに、神崎冬弥は背が高く、細いが筋肉質なバランスのいい体を持ち、端正な顔立ち。姉、菖蒲の好みのど真ん中だ。

 「菖蒲を危険な目には合わせられん」

父の声は、冷たく響いた。  

「それは……」

(私ならばいいのか)

「俺も、望んでいるわけじゃない」

あやめが思ったことを口にしようとした瞬間、神崎冬弥が初めて口を開いた。

低く、抑えた声だった。  

だがその中に、確かな意志があった。

 「だが、必要だ。だから、結婚する。お前がここで拒めば、東と西で戦争になれば、神崎は痛手を追う。神崎の力が弱まれば、関東の均衡は一気に崩れる。大量の血が流れる。それは避けたい」

あやめは、神崎冬弥の目を見た。  

「危険、なのでは?」

「危険だ。でも、俺の管理下であるならば、身の安全は保証しよう」

その奥にあるもの――冷たさの中に、かすかな痛みのようなものを感じた。

「檻の中に入れ、と?」

「檻か、上手い例えだな」

神崎冬弥の氷を思わせる冷たい無表情に、一瞬”諦観”が浮かぶのがあやめには見えた。

「あなたも?」

檻の中にいるのではないか。

あやめがそう匂わせれば、神崎冬弥の目がわずかに揺れた。  

だがすぐに、また冷め表情に戻る。

「安心しろ。居心地は悪くない檻を用意してやる」

あと、と神崎冬弥は口元を緩めた。

「檻の中なら自由にしてくれていい」

本人が意識した笑みとは違うようで、一瞬その人間らしい表情にあやめの心臓がとくっと跳ねた。

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六月の終わり、梅雨の湿気が都心を包み込む午後だった。 柊あやめは、父・柊謙一に呼び出された。 重厚な扉を開けた瞬間、空気が変わった。冷房の効いた部屋の中は、外の蒸し暑さとは別の意味で冷え切っていた。  「よく来たな、座れ」柊謙一は父親ではなく、報道で見る大臣の顔。(この人の父親の顔を見たことはあったかしら)そう考えて、あやめは苦笑した。そんなものは、ない。柊謙一の隣には、あやめが初めて見る男がひとり。その長身痩躯にぴたりと合った黒のスーツに身を包み、無表情のまま立っている。 その目が、あやめを射抜いた。冷たい。深い湖の底のような、静けさを湛えている目だった。「紹介しよう。神崎冬弥君だ。龍神会の若き組長、と言えば分かるな」龍神会。その名を聞いた瞬間、あやめの背筋が凍った。 龍神会は関東最大の極道組織。その名は、政治家の娘として育ったあやめにとって、決して無縁ではなかった。 だが、まさか柊謙一が、そんな人物を“紹介”するとは思っていなかった。「あやめ、挨拶をしろ」柊謙一の言葉に促され、あやめは無意識に頭を下げた。 「柊あやめ、です」「さくらの妹だ」柊謙一の紹介に、あやめは表情筋に力を入れる。笑え、と自分に念じる。その華やかな美しさで評判の姉の菖蒲。煌びやかな世界にしり込みするあやめと違い、姉のさくらは煌びやかな世界の中心で堂々と振舞う。だから、柊謙一に限らずあやめの紹介は「さくらの妹」。(私の娘、ではなく、ね)自分は柊謙一にとってなんだろうか、と考えて苦笑した。駒。それだけだった。 「はじめまして」あやめは気持ちを切り替えて挨拶を終えたが、神崎冬弥は微動だにせず、ただ一礼を返しただけだった。 「お父様、何のご用件でしょうか」あやめは、努めて冷静に声を出した。だが、喉の奥が乾いている。 柊謙一は、書類の束から一枚の紙を取り出し、机の上に置いた。「婚姻届だ。お前と冬弥君のな」時が止まったようだった。 あやめは、目の前の紙を見つめた。【婚姻届書】と確かに書いてある。 初めて見る本物はまるでドラマの小物のようで、他人の人生を脇から覗き込んでいるような感覚にあやめは陥った。「何かの、冗談?」「冗談でこんなものを用意しない。これは必要な結婚だ。お前は、神崎家に嫁ぐ。それが
last updateLast Updated : 2026-01-25
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(檻の中なら、自由にしてくれていい、か)あやめは神崎冬弥の言葉を反芻した。 それは、優しさではないだろう。「内側での自由を与える代わりに、勝手に外に出ることは許さない」という宣告だ。「私に、選択肢はないのですね」「ない」即答したのは、柊謙一だった。 その声に、あやめはわずかに肩をすくめた。 柊謙一という男はいつだって、こうだ。 情を見せない。迷いを見せない。 (だからこそ”政治家”としては優秀なのだろうけれど、父親としては――)「婚姻届は、明日に提出する。記者会見は来週だ」「分かりました。それでは予定の調整を……」「それはもうお前の仕事ではない。お前は今日から、神崎家の人間として振る舞うんだ」「承知、しました」いろいろなものを飲み込んで、反射的に開いていた厚い手帳をあやめは閉じて、静かに頭を下げた。それが、あやめにできる唯一の抵抗だった。 怒鳴らず、泣かず、そして拒絶もせず。 ただ、静かに従うことで、自分の意志を守る。これが、あやめのやり方だった。「では、冬弥君。あやめを頼む」「了解した」まるでロボットのような、短く、簡潔な返事。 その声は硬く、どこか軍人を思わせる規律のような音があった。 あやめは、柊謙一の隣から、自分の隣にきた神崎冬弥を見た。 神崎冬弥の横顔は、まるで彫刻のように整っていた。そこに“人間らしさ”はなかった。一瞬だけ人間らしい微笑を見たせいか、残念だとあやめは思った。「出るぞ」あやめの返事を聞く前に神崎冬弥は動き出し、先に立って部屋を出る。あやめは、柊謙一に一礼してからその背を追った。(そういえば)あやめの足が一瞬止まった。(結婚の挨拶、「お世話になりました」のような花嫁定番の挨拶はしなくていいのだろうか)「どうした?」気づけば、神崎冬弥が足を止めてあやめを見ていた。さっさと先を歩いて行ってしまうと思ったのに、神崎冬弥が足を止めて待っていたことが、あやめには意外だった。「いいえ、なんでもありません」(これも父にとっては”政治の仕事”なのだろう)それならば秘書らしく、一礼で柊謙一の前を去ろうとあやめは思った。---廊下に出た瞬間、あやめは深く息を吐いた。 冷房の効いた部屋の空気は、まるで氷のようだった。(冷房の設定温度が低すぎるのではないかし
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さゆりに案内されたあやめの部屋は、広く、美しかった。そして、洋風の部屋だった。外観が老舗旅館を思わせる日本家屋だから、あやめは意外だと思った。(でも、とても素敵だわ)白を基調とした内装に、淡い藤色のカーテン。窓の外には、手入れの行き届いた日本庭園が広がっている。 ただ、どこか“整いすぎている”気もした。まるで、誰かのために誂えられたような空間。なんとなく、あやめは居心地の悪さを覚えた。「お気に召しますと、よろしいのですが」早苗が微笑む。 その笑顔は初めのものより柔らかいが、訓練されたもの。 (鷹見さんといい、早苗さんといい……政略だから、仕方がないわね)あやめを値踏みするほどではないが、早苗の目はあやめを測るような探るような目。でも、己の領分から出ることはない、“役割”を果たす彼らにあやめは好感を抱いた。「ありがとうございます。とても綺麗なお部屋です」あやめもまた笑顔を返す。測られているの分かるから尚さら、完璧な微笑みを返す。 表に立たずとも、あやめも“柊家の娘”。柊家の娘として長年身につけてきた仮面は、こういうときに役立った。「お食事の時間になりましたら、お呼びいたします。ご不明な点があれば、何なりとお申し付けください」(及第点、かな)早苗が去ると、部屋に静寂が戻った。あやめは、ベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。 「結婚、か」まさかという思いを多分に込めた呟きは、誰にも届かない。 窓の外、雨が降り始めていた。 梅雨の雨は、まるでこの屋敷の空気そのもののように、重く、静かだった。---夕食は、神崎冬弥とあやめの、二人きりだった。 長いダイニングテーブルの端と端に座らされ、まるで外交会談のような距離感。 料理は豪華だったが、味がしなかった。「何か、不満でも?」「この生活、ずっと続くんですか?」「この生活、とは?」食後の紅茶が運ばれたあと、あやめは笑った。「私、“妻”になるのは初めてですが、この距離感は嫌だと感じています」神崎冬弥が、ダイニングテーブルの手前から、あやめのほうを見る。(そういう距離じゃないのだけれど)あやめの言葉をちゃんと受け取ってくれたことは嬉しいが、やや斜めに理解する神崎冬弥にあやめの肩から力が抜けた。力が抜けて、自分も“距離”を取っていることに気づい
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夕食後、あやめは部屋に戻った。  早苗が用意してくれた浴衣に着替え、窓辺のソファに腰を下ろす。  雨はまだ降り続いていた。  しとしとと、まるで誰かの泣き声のように。 部屋の隅には、開かれたスーツケースが置かれていた。  中には、あやめの私物がきちんと収められている。  自宅に置いていたはずの本、お気に入りの香水、母の形見のブローチまで。(いつの間に……誰が“私に必要なもの”を理解していたのだろう)「ありがとう」あやめの呟いた声が、部屋に吸い込まれていった。  この屋敷は、檻として完璧すぎた。何もかもが整っていて、何もかもが“用意されている”。それは、自由のなさの裏返し。あやめはわざとブローチはジュエリーボックスにしまわずむき出しにしてドレッサーの上に置き、読みかけの本は途中のページを開きっぱなしにしてベッドサイドのテーブルに置いた。完璧が崩れた気がして、あやめは満足した。 ノックの音がした。  あやめが「どうぞ」と答えると、扉が静かに開いた。「……失礼する」現れたのは、神崎冬弥だった。  黒のシャツに着替え、ネクタイを外していたが、その姿は相変わらず隙がなかった。 「何か、不便はないか」「ありません。すべて、整っていましたから」「そうか」短いやりとり。だが、冬弥はすぐには帰ろうとしなかった。  あやめは、少しだけ首を傾げた。「何か、他に?」神崎冬弥は、しばらく黙っていた。  やがて、低い声で言った。「この部屋は、母が使っていた部屋
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あやめは神崎冬弥とふたり並んで壇上に立った。二人の背後には、柊謙一と、龍神会の幹部と思われる男たち。でも、あやめの視界には、神崎冬弥の横顔しか映っていなかった。 「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」会場に柊謙一の声が響く。その口調は、いつもの演説と変わらない。だが、今日は“家”の話だ。“国家”ではなく、“柊家”と“神崎家”の未来の話。 「このたび、私の娘・柊あやめと、神崎冬弥氏が婚約いたしました。両家の結びつきは、今後の社会に寄与するものと確信しております」拍手。  だが、その音はどこか空虚だった。  誰もが知っている。  これは“愛”の結婚ではない。  “力”と“利害”の結婚だ。---質疑応答が始まった。  「おふたりは、どのような経緯で知り合われたのですか?」記者たちの質問は、予想通りだった。あやめが答えようとしたとき、神崎冬弥が先に口を開いた。「柊謙一氏にご令嬢を紹介されたのが始まりです。最初は驚きましたが、彼女の聡明さと芯の強さに惹かれました」あやめは、思わず神崎冬弥を見た。  その言葉に、嘘はなかった。  前半は真実、それなら後半は……それが真実かと測りたくなる気持ちがあやめに湧いた。「あやめ」初めて神崎冬弥に名前を呼ばれ、あやめの心臓が跳ねた。ただ神崎冬弥の冷静な目に、これが必要だったからだと理解して、あやめは深呼吸をする。「私は、彼の誠実さと、静かな優しさ
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あやめがサインを終えた婚姻届は、鷹見の手を経て役所の窓口に提出された。  区役所の戸籍課の職員は仰々しい様子に怯みつつも、第三者が差し出しただけで、夫と妻の両名が同席している以上は問題ないため、書類をいつも通り確認し、問題ないので受理印を押した。あやめの名前は「柊あやめ」から「神崎あやめ」へと変わった。しかし、それにしてもあやめ自身には何の実感もなかった。 指輪もなければ、誓いの言葉もない。形だけの婚礼で、記録上で名前が書き換えられただけ。   「おめでとうございます、奥様」立会人として同行してくれた神崎家の家政頭である早苗が丁寧に寿いだ。祝いごとなので早苗の言葉は正しいのだろう。しかし、他人の人生を遠くから眺めているような感覚に陥っているあやめに”おめでとう”の実感はなかった。実感のなさを、戸惑いと感じたのだろうか。早苗は「姐さんのほうが良かったですか」とあやめに尋ねた。「“姐さん”って、私のことですか?」「はい。神崎冬弥の奥方は龍神会の“姐さん”でいらっしゃいますから」あやめは、思わず苦笑した。  極道の世界では当たり前の言葉だろうが、今までのあやめには縁のなかった言葉。自分が“姐さん”と呼ばれる日が来るとは思っていなかった。  だが、ここではそれが“役割”なのだ。「慣れるまでは、時間がかかりそうですね」「皆、それは心得ておりますよ。どうかご無理なさらず、ご自分のペースで”神崎の女”であることにお慣れくださいませ」早苗は「慣れなくてもいい」とは言わなかった。その厳しさが、慣れることができるだろうという早苗のあやめに対する信頼が、あやめには嬉しかった。あやめは早苗を真っ直ぐ見た。「ええ、そうするわ」気負わない。自然体の、受け答え。早苗の瞳には、年
last updateLast Updated : 2026-01-26
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神崎芸能の会議室は、重苦しい空気に包まれていた。広報部長、今回スキャンダルを起こしたという俳優のマネージャー、法務担当者。彼らが揃って冬弥の前にひれ伏すように並ぶ。あやめは冬弥の彼の斜め後ろで、控えるように座っていた。「週刊『真実』が来週号で例の件、狩野が未成年と飲酒、その後に性交渉までいたった件で記事を出すそうです」広報部長が、青ざめた顔で報告した。 俳優の狩野は、神崎芸能が今もっとも推している若手俳優だ。来月にはゴールデンタイムのドラマ主演が決まっており、スポンサーも大手企業が並んでいた。「証拠は、何かあるんだな」冬弥の言葉に、あやめは神崎冬弥が証拠がない前提でうやむやにしようとしていたことが分かった。(苛立ちが、分かる)冬弥の声は低く、冷静だったが、声から感じる音が、第三者的にこの馬にいるあやめの肝も冷やした。「こちらです」プリントアウトされた写真、おそらくその一部は雑誌に載るだろう写真だろう。未成年らしき女性と一緒に飲んでいる写真、女性に狩野が大胆に触れる写真、ホテルに入っていく写真。(あら……)「これは?」「おい……」見るなどでも言うように冬弥が制止するようあやめに声をかけたが、あやめは手で制した。写真は、シャワーを浴びたあとと思われる狩野の姿と、いわばハメ撮りと言われる行為中の写真。「この写真ですが、こちらの性交渉中の写真は狩野が撮影したのですか?」「そうです」「データのやりとりは? メッセージアプリなどの履歴はありませんか?」狩野の担当マネージャーが、該当するメッセージのやり取りを印刷したものをあやめに渡した。「メッセージのやり取りはこれで全てですか?」「はい。狩野本人の画面も確認しました」(それなら……)「この相手の女性は狩野の熱狂的なファンであり、年齢を偽って狩野に接触したことにしましょう。この性行為中の写真は彼女が記念として撮ったことにし、狩野からデータを送っている件は思い出の共有、狩野が彼女に送ると約束することにしましょう」「相手の女性がSNSで、性的関係を強要されたと匂わせる投稿をしておりますが」「放っておきましょう、その手のことに証拠はありませんもの」あやめの口封じ策は、狩野が強要したなら被害女性を追い込むことになる非道の手口だ。それを虫も殺せないような穏やかな表情であっけら
last updateLast Updated : 2026-01-26
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「姐さん、今日は“ご挨拶”に行っていただきます」あやめの朝食が終わる頃、ダイニングにやってきた鷹見がそう告げた。あやめの生活面は早苗があれこれやってくれるが、神崎の女としての仕事は鷹見があれこれやってくれるのだと、あやめは理解していた。“ご挨拶”――その言葉の意味を、あやめはすぐに理解した。龍神会の幹部たちの妻たちに、龍神会組長の妻として正式に顔を見せること。形式的なものとはいえ、裏社会における“序列”を確認する重要な儀式だった。 「神崎家の着物をお召しください」「ご用意しております、奥様」早苗に案内された和室、飾られていたのは深い藍色の訪問着。控えめな金糸の刺繍が、品のある光を放っていた。 着付けを終えたあやめは、鏡の前に立った。  髪はきっちりと結い上げられ、耳元には真珠の簪が揺れている。  見慣れない和装ということもあって、まるで別人のようだとあやめは思った。「馬子にも衣装、ね」思わず漏れたあやめの本音に、早苗が微笑んだ。「姐さん、極道の世界では美しさなど二の次とは言いませんが、その身に覚悟を宿したものがとっても美しく見えます。大事なものは、目の奥にあるものです」その言葉に、あやめはわずかに目を伏せた。  “美しさ”――それは、姉・さくらの代名詞。どこへ行っても、どんなときも、姉さくらはその美しさで注目を集めた。よい縁組には美しさが必要。それが姉さくらの身上だった。美しさが必要な世界では、あやめはさくらの影にいた。だが、今のあやめは、さくらの“影”ではない。  いまいる世界では、美しさを必要としていない。---顔合わせの会場は、神崎家の最も広い和室だった。  広い部屋に煌びやかな女性たちが、キレイな配列で並
last updateLast Updated : 2026-01-27
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人間は、環境に慣れる。  それがどれほど理不尽であっても、どれほど不自由であっても、時間が経てば、心も身体も順応してしまう。 あやめは、神崎邸の中庭に面した縁側に腰を下ろし、雨上がりの空を見上げていた。梅雨は明け、空は夏らしく蒼かった。「暑くなってきたわね」誰にともなく呟いたあやめの声は、庭の緑に吸い込まれていった。冬弥に初めて会ったのは梅雨の最中。いまは夏。この屋敷に来てから、時は経っている。そして、この環境にすでに順応しているわが身にあやめは呆れる。自分は意外と図太い人間だったのだ、と。この結婚を、あやめは最初は檻に例えた。自由を奪われ、名前を変えられ、知らない男の妻にされた、いわば被害者のような心境で、この結婚は、あやめにとって“人生の終わり”のようにも思えた。だが今、こうして静かな庭を眺めながら、あやめはふと、思うのだった。私は、もともと檻の中にいたのかもしれない、と。―― 価値観、という名の檻。 これまでのあやめは、柊謙一の娘としての人生を送っていた。  それは、常に“正しさ”を求められる日々だった。  言葉遣い、姿勢、交友関係、服装、表情、全てにおいて「正しくあれ」と躾けられた。(正しいとは、何だったのだろうか)  あの頃の「正しい」は、柊家が基準だっただけ。あの世界で求められるものを体現してこそ、「正しい」と認められた。あやめの姉のさくらは、その基準を完璧に体現していた。穏やかな言葉遣い。指の先まで神経が通ったような仕草。父の望む交友関係を築き、はやりの服にその身を包む。美しく、社交的で、誰からも愛される存在の姉さくら。将来は政略結婚であっても、最も良い家に嫁ぐことが当然とされていた存在。
last updateLast Updated : 2026-01-27
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神崎邸で「神崎」の姓をもつのは冬弥とあやめだけだが、神崎邸には龍神会の組員たちや住み込みの家政婦など大勢の人間がいる。広い神崎邸は「神崎」のプライベート空間と、その他のエリアがある。あやめは毎朝身支度を整えると、「神崎」のプライベート空間から出てダイニングに向かう。廊下に差し込む光は柔らかく、庭の緑はよく手入れされていて、空気は澄んでいる。何もかもが整っていて、何もかもが満たされている――はずだった。しかし、最近のあやめの胸の奥には、言葉にできない“空白”がある。---「おはようございます、奥様」早苗さんがあやめの朝食の準備を整えながら、いつものように声をかけてくる。  「おはようございます」あやめは微笑んで答え、いつもの自分の席に着いた。目の前のテーブルには、栄養バランスの取れた和食が並んでいる。味噌汁の湯気が立ちのぼり、焼き魚の香ばしい匂いが漂っていた。「早苗さん、冬弥さんは?」「本日は撮影現場の視察に行くそうで、早朝に出られました。午後には神崎芸能本社に戻られる予定です」「そう。ありがとう」あやめは箸を取ったが、食欲が出なかった。口に運んだ味噌汁の味が、妙に薄く感じられる。 あやめと冬弥は寝室が別だ。白い結婚――それが、あやめと冬弥の関係を表す言葉だった。政略結婚の形式だけの夫婦が、別の寝室を使うことは珍しいことではない。互いに干渉せず、あるときに”夫婦の役割”を果たす。ただ、あやめはその”役割”を果たしていない。正直なところ、最初はそうであることにあやめは安堵していた。  知らない男と暮らすことにあやめは警戒していたからだ。この屋敷にきた夜も、入籍したあとのいわゆる初夜も、冬弥が離れていってホッとしていた。けれど、今―
last updateLast Updated : 2026-01-27
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