Semua Bab もう戻せない、過去のありふれた日常: Bab 1 - Bab 9

9 Bab

第1話

雲出眞一郎(くもで しんいちろう)が二十八歳の誕生日を迎えた日、私は彼の大好きなケーキを手作りした。彼の一番気に入っているスリップドレスに着替えた。肩紐はか細く、今にも切れそうなほどに結んでいる。画室へ向かうと、ドアは少し開いていた。押し開けると、濃厚なテレピンの匂いの中に、かすかに生臭い匂いが混ざっている。イーゼルの前では、ある若い女性が裸のまま、何かを迎え入れるような姿勢をとっていた。暖色のライトの下で、汗が女性の腰の窪みを伝わり、両脚の間に広がる深い影へと消えていく。眞一郎の指が、女性の裸の背中を、背骨に沿って、ゆっくりとなぞっていった。物音に気付いて彼は振り返ったが、少しも動じていない。筆を置くと、私の方へ歩み寄り、ドレスの肩紐を指でひっかけた。パチン!紐が彼に引きちぎられた。彼は一歩下がり、裸になった私の体をじっと見下ろした。「篠崎深雪(しのさき みゆき)、お前の体じゃ無理だ」彼は静かな口調で、ただ事実を述べているようにその言葉を投げつけた。そして彼は、あの女性の若い肉体を指さし、芸術家としての冷たい口調で言った。「この新鮮な肉体を見ろ。これこそがインスピレーション!」女性はイーゼルの後ろから立ち上がり、胸を張りながら、ゆっくりと私へと歩いてきた。彼女の視線が、私の開いた上着のその先で止まった。彼女は笑った。手を伸ばし、自分の引き締まった腹をゆっくりなぞり、指先が曖昧に下へ。「ねえ、ずっとこんな話を聞いてたんだけど」彼女の声は甘く、ねっとりとしていた。「男の人ってみんな、締まってるのが好きなのよ。指で摘んだら跡がついちゃうぐらいのがいいって」彼女はわざとらしく胸を張った。その若い体は、まるで熟しきっている桃のようだ。「あなたみたいにたるんじゃった体、もうとっくに飽きられてるんでしょ?」そう言い終えると、彼女は肩で私を強く突き飛ばし、裸足で大股に歩き去った。ケーキは床に落ち、ほこりまみれになり、汚れた雑巾のようだった。私はぼうっと眞一郎を見つめ、頭の中が真っ白になった。眞一郎はタバコに火をつけ、煙を私の顔に吹きかけた。彼はハンガーから上着をつかみ取り、私にぶつけるように渡した。「着ろ」彼の声には、隠そうともしない嫌悪に満ちていた
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第2話

写真の中で、眞一郎の目は驚くほど輝き、腕の中の女性を見つめていた。彼がインスピレーションを求めて、一時的に道を見失っているだけだろう……最後の望みを抱き、私は彼に電話をかけた。呼出音は長く鳴り続け、ようやく応答があった。背景はパーティーの声。彼の声は酒のせいでしわがれて、苛立ちが滲んでいた。「用事?」私の声は震えていた。「あのニュース……本当なの?」彼は軽く笑った。「当たり前でしょう?深雪、そんなに世間知らずでいるなよ」電話は切られた。翌日、私は画室に戻り、吐き気をこらえながら、昨夜の散らかりを掃除した。彼がかつて好きだった香りのルームスプレーをふり、彼にとって慣れ親しみ、安心できる環境を作ろうとした。彼はただ道に迷っているだけ。私が連れ戻さなくては。夕暮れ時、眞一郎は戻ってきた。空中に漂う香りを嗅いだ彼は、すぐに眉をひそめた。「誰が勝手に片付けろと言った?」埃ひとつない画室を見つめる彼の目には、煩わしさしかなかった。「この何も変わらない雰囲気が、すべてのインスピレーションを殺すって、わかってるのか?」涙が床に落ちた。私は子供のように無力だった。「芸術は涙を信じない。芝居はやめろ」眞一郎はタバコに火をつけ、うんざりしたように言った。私の心は冷めていく。涙を拭い、その場を去った。その日から彼は頻繁にモデルを替え始めた。最初はクラブのDJ、花柄のタトゥーに唇ピアスの女性だ。彼は眩いネオン管を使って幻惑的な色彩の絵を描いた。描き終えた後、彼は長い間キャンバスを見つめ、やがてイライラとナイフでそれを引き裂いた。「ちくしょう!これじゃない!」次は一流のバレリーナを呼び、その儚さと優雅さを描こうとした。彼女に冷たい画室の中で裸足のまま、足首が腫れるまで回転させ続けた。だが、出来上がった作品は空虚で、技巧ばかりが目立ち、魂の抜けた美しい抜け殻のようだった。またもや失敗。今度はイーゼルを蹴り倒し、高価な絵の具を床に散らした。ふと、彼が初めて私の全身像を描いた時のことを思い出した。私の両目の輝きを捉えられなくて、一週間も自分を責め続けたものだった。彼は言った。私に関することは全て、完璧でなくてはならない、と。後に彼はそれを成し遂げた。私に光をもた
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第3話

私は不安を抱えながら、郊外にある廃工場へと足を踏み入れた。工場の中、眞一郎が作業員にスポットライトの設置を指示している。彼の目は輝き、これまで見たことのない笑顔を浮かべている。まるで本当に新生したかのようだった。そして私は、彼が生まれ変わったきっかけとなった女性の姿を目にした。洗われて色あせたTシャツを着た彼女は、作業員に水を渡している。気が強そうな横顔には、まだ未熟さを残していた。彼女の名前は園田綾子(そのだ あやこ)。近くのレストランで働くウェイトレスだ。その横顔は、七年前、画室で眞一郎の筆を洗っていた私によく似ていた。眞一郎は私を見つけると、目を輝かせ、興奮しながら手を振った。彼は私の手を引っ張り、綾子を指さし、神の啓示を得たかのような口調で言った。「深雪、彼女に会った瞬間、俺の魂が、ようやく帰る場所を見つけた。俺に必要なのは、新しい色なんかじゃない。素朴さなんだ!最初のあの素朴さだって、やっと分かったよ!」私の心が見えない手でぎゅっと握りつぶされるような痛みが走り、息もできない。ようやく悟った。彼は新しい何かを探していたわけではない。彼は新しい「私」を探していたんだ。歳月に削られていない、あの頃の私を探していたんだ。彼は工場の壁全体をキャンバスに見立てていた。私たちが始めた頃、よく使った木炭画のタッチで、一連の壁画を描き上げている。シリーズ名は『再生』。どの絵の主役も、すべて綾子だった。どの絵も、私と彼の過去の経験をなぞるように描かれている。巨大な壁画の一つには、二人が誰もいない雪原で抱きしめ合い、体を温め合っていた。記憶は一瞬、五年前の冬に引き戻された。私たちは山へ出かけ、山中で道に迷ってしまった。夜が深まり、辺りは真っ白な雪。私は高熱を出し、体が熱く、うわごとを言い続けていた。彼は自分が着ていたたった一枚の厚手の上着を脱ぎ、私に巻きつけた。自分は薄いセーター一枚で、震え続けていたが、彼は私を強く抱きしめ、自分の体で寒さから守ってくれた。あの一夜、彼は独りで、雪から私を守り通した。しかし今、この絵の中で、彼が腕を回しているのは綾子だった。彼は自ら、展覧会の招待状を私に手渡した。黒いVIPカードだった。彼は微笑みながら言った。「
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第4話

私はまるで傷も悲しみも何も感じられなかった。振り返りもせずに会場を後にした。だが、私自身だけが知っている。心の底には、人を見る目がなかったことと、青春を無駄にしたことへの悲しみでいっぱいだった。七年。七ヶ月でも、七日でもない。忘れるというのは、簡単にできることではない。スマホを見つめる。画面には、展覧会に対するコメントが次々と目に飛び込む。芸術と純粋さの完璧的な結晶だと。眞一郎と綾子の愛は尊いと。私の名前は、記事の片隅でほんの少し触れられるだけ。元カノ、昔の恋人。ただの捨てられた過去に過ぎない。スマホを置いたその時、見知らぬ番号からの着信が入った。眞一郎の新しい秘書だった。声は機械のように冷たい。「篠崎さん。雲出さんは、あなたに関わる作品をすべて封印することを決めました」スマホを握る指の関節が白くなる。「それらの絵は純粋さに欠け、世俗的なものが多くて、新シリーズの価値を損なう、と。それと、雲出さんからのお願いですが、今日中に現在のお住まいからお引越しいただきたいとのことです」電話を切り、私は倉庫に足を向けた。ここには私の青春の全て、彼との共有した過去が詰まっている。七年の間、彼が私のために描いた絵が、すべてここにある。壁にかかった最初の肖像画。それは二十歳の私だ。瞳は澄み、憧れに満ちていた。描き終えた時、彼は私の頬を両手で包み、興奮しながら言った。「お前の美しさを、世界中に伝えてみせる」その横に積まれたスケッチは、古いアパートでの日々を描いたものだ。机でうたた寝をする私の肩には、彼の唯一の上着が掛けられた。薄暗い灯りの下で、彼は静かに私を描いていた。隅に置かれた一番大きな油絵は、海辺で手を繋いだ二人を描いている。暖かいオレンジ色の光の中、二人の指はしっかりと絡み合っていた。私は手を伸ばし、絵の中の絡み合った手をそっと撫でた。するとまた、スマホが鳴った。今度は、眞一郎だった。繋いたが、私は何も言わない。「荷物の方はどうなっている?」彼は淡々と聞く。私は沈黙を続ける。彼は舌打ち一つして、声を冷たくした。「今夜、綾子を連れて帰るから。早くしてくれ。何も残すな。彼女の気分を害したくない」電話は切られた。部屋中には、私の笑顔、涙そして愛が、散
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第5話

眞一郎は打ち上げの会場で、周囲からの賞賛に包まれていた。傍らでは、綾子がおとなしく寄り添っている。火事のことを知った時、彼はただ煩わしそうに眉をひそめただけだった。「篠崎さんがまだ中にいるかもしれません」と、震える声で秘書が告げるまで、彼の笑顔は固まったままであった。現場に駆けつけた彼の目に映ったのは、真っ黒に焼け焦げた廃墟と、担架で運ばれていく私の姿だけだった。白い布に滲んだ鮮やかな赤が、彼の目を刺した。病院で、マスクを外した医師が厳しい表情で彼を見つめた。「出血多量によるショック状態でしたが、現在は危険を脱しています。ただ、お腹の子は……残念ながら助かりませんでした。妊娠七週目です。ご家族の方は、気づかれなかったのですか?」眞一郎はその場に立ち尽くし、魂が抜けたようだった。お腹の子?彼はその存在さえ、知らなかった。目を覚ました私は、彼との面会を拒んだ。彼が過去のすべてを葬ったのなら、私は未来のすべてを拒絶する。彼は狂ったように病室へ押し入ろうとしたが、私が手配した弁護士と警備員に阻まれた。私は二度と彼を見ようとはしなかった。退院の日、弁護士がすべての手続きを済ませてくれた。私は自分の分の財産を手に、この街から完全に消えた。その後、眞一郎は引き続きかつての感覚を取り戻そうとしている。彼は綾子を再びキャンバスの前に立たせ、かつての私と同じポーズを取らせた。筆を手にしたが、彼はもう何も描けなくなっていることに気づいた。キャンバスに広がるのは、ただ真っ白な虚無だけだった。私によく似た綾子の顔を見つめても、彼の目に映るのは、火の中で振り返った私の決然とした眼差しばかりだった。綾子が私を真似れば真似るほど、彼は苛立っていった。彼はようやく悟った――失ったのは、焼け落ちたあの画たちではない。何の価値もない画家から頂点へと彼を導いてきた、あの魂そのものだと。初めから、私こそが彼にとって真のミューズだったのだ。彼は綾子を解雇し、金を渡して彼女を追い払った。そして、ありとあらゆるコネを使って、狂ったように世界中を探し回り始めた。彼は私の実家まで追うが、目にしたのはほこりを被った古い家だけだった。銀行を通じて、私のクレジットカードの利用履歴を突き止めた。F国の小
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第6話

アルプスの麓にある精神療養施設は、世界の果てのように静かだった。私は自室に閉じこもり、外のすべてに怯えていた。窓の外には美しい雪山が広がっているが、私はそれを見る勇気もなかった。心理カウンセラーのハンナという女性を含め、誰とも口をきこうとしなかった。彼女は優しい女性で、毎日ただ黙って私の傍らに座り、ただ一緒に時間を過ごしてくれる。ある日、彼女は小声で言った。「深雪さん、あれはあなたのせいじゃないです」その瞬間、涙が止まらなくなった。悪夢にうなされる日々が始まった。毎晩、あの夜が繰り返される。燃え上がる炎、焦げた絵、そして失ったあの子。叫び声をあげて飛び起きると、パジャマは冷や汗でぐっしょりだった。ある日、感情が完全に崩壊し、コップを割ってガラスの破片を握りしめ、手首に力をこめて当てた。血が流れ出す前に、ハンナが駆け込んできて、背後からぎゅっと抱きしめてくれた。叱るでもなく、ただ破片を取り上げ、傷の手当をしてくれた。次の日、彼女はそのことを蒸し返さず、代わりに大きな世界地図を広げて見せた。地図を指さしながら、尋ねてくる。「深雪さん、外の世界を見てみたいですか?違う景色を見て、違う人に会いに行くんです」地図を見つめながら、私は知らない町の名を指でなぞっていた。昔、何度も眞一郎と旅行の計画を立てたことを思い出した。海の波の音を聞きたい。雪山の景色を眺めたい。南国のぬくもりを感じたい。眞一郎はいつも困ったように首を振った。「ごめん、深雪。今は忙しくて……時間ができたら、必ず行こう」結局、計画は紙の上だけのものに終わった。私の迷いを見て取ったハンナは、背中を押してくれた。「誰かのためでも、誰かを忘れるためでもなくて。ただあなた自身のために、あなただけの道を歩んでみませんか」それから一週間後、窓辺で小鳥が枝の積雪を振り払い、青空へと力強く飛び立つのを見た。その瞬間、私はようやく決心した。ここを離れよう。息苦しいすべてから離れて、自分の道を歩もう。その頃、眞一郎はようやくここを見つけ出していた。彼は疲れ切った様子で、目は充血し、憔悴し狂ったように見えた。私に会いたがったが、ハンナに「患者には静養が必要です」という理由でばっさり断られた。仕
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第7話

私はとある辺境の西の町へやって来た。ここの空は一片の濁りもない青さで、風には草の香りが混じっている。遥か彼方から吹いてくる風なのに、その彼方よりもさらに遠く感じられる。私は当地の民族衣装に身を包んだが、心の扉は相変わらず固く閉ざしたままだった。毎日ただ一人、黙って人々の間を抜け、山を登っては日出と日没を眺めていた。ある夕暮れ、遠くの雪山をぼんやりと見つめていたとき、背後でシャッター音がした。振り返ると、背の高い男が古いフィルムカメラを手に立っていた。私が気づいても、彼は逃げるどころか、むしろ微笑んでくれた。彼の名は川原大輔(かわはら だいすけ)。ドキュメンタリー写真家だ。彼は私を邪魔することなく、少し離れた場所で静かに風景を撮っていた。後日、彼は私にも一枚撮らせてほしいと頼んできた。私はとっさに顔を手で覆い、逃げ出そうとした。レンズが、眞一郎の絵筆のように私を剥き出しにするのではないかと怖かったのだ。大輔はカメラを下ろし、私に言った。「怖がらないで。僕のレンズはいわゆる『美』を探さない。真実と物語だけを記録するんだ」彼の目には、底抜けに青い空が映っていた。賑やかな市場で、私はしゃがみ込み、可愛い子供をあやしていた。子供はケタケタ笑い、私の指をつかんだ。その感触は柔らかく温かかった。一瞬、私はすべてを忘れ、久しぶりに自然な微笑みを浮かべていた。シャッ大輔がその一瞬を捉えていた。彼は写真を私に見せてくれた。写っている私の顔には、まだ消えきらなかった疲れの影、目元には小さな傷跡さえあった。でも、私の笑顔は本物だった。心の底から滲み出るような真実の笑顔だった。その日から私たちは一緒に行動するようになった。彼は風景を撮り、そして風景の中の私も撮った。彼のレンズを通して、私は少しずつ、自分の傷跡や目の疲れを気にしなくなっていった。完璧ではない自分を受け入れ始めていた。私たちは地元の小学校の祭りに参加した。私は子供たちと焚き火を囲み、調子外れな歌を歌い、草原で転げながら大笑いした。大輔がその様子を撮った。写真の中の私の目には、再び光が灯っていた。内側から透き通ってくるような、生き生きとした輝きだ。その頃、遥か遠くでは、眞一郎が彼の『再生』シリーズの展
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第8話

大輔と別れた後、私はあの地獄のような眞一郎の住む街に戻らなかった。温かな南の小さな町に庭付きの古い家を借りて定居した。そして、今までの経歴と気持ちを、ゆっくりと書き留めてみることにした。庭先を流れる川のように、日々は静かに過ぎていった。ある日、眞一郎が何の前触れもなく私の庭先に現れた。彼はかなり痩せ、目は落ちくぼみ、全身に疲れ切った様子と後悔の色だった。彼は私を見つけ出したのだ。彼はまず、限度額のないブラックカードを取り出し、私に押し付けようとした。「深雪、これで何も償えないのは分かっている。でも、受け取ってくれ。俺からの償い」私はそのカードを見て、静かに首を振り、拒絶した。「眞一郎、今の私には何も不自由ないの。これ以上、何もいらない」彼の目の光が暗くなった。二度目、彼は恋愛ドラマのような古ぼけた方法を使った。私の家の庭先で、百本以上のキャンドルで巨大なハート形を作り、夜に灯したのだ。近所の人々が好奇の目を向けている。私は窓辺まで歩くと、無表情のままカーテンを引いた。二度と外には目を向けなかった。数日後、大輔から小包が届いた。彼の最新の写真集だ。中には一枚、私が町の書店で本を読んでいる姿を捉えた写真が入っていた。光が私の横顔を優しく照らし、空気にはキャラメルのような甘い香りが漂っているようだった。私は再び、人生の中の甘さを取り戻した。眞一郎の三度目の試みは、自分を犠牲にするようなやり方だった。私が雪山観光地へのチケットを一枚持っていることを調べ、昔を思い出しに行くのだと思い込んだらしい。彼は先回りし、あの時二人が閉じ込められた山で、三日三晩飲まず食わずに、私を待ち続けた。凍えきって意識がもうろうとする頃、私が結局行かなかったことを知った。私はそのチケットを友人に譲り、別の友人たちと海辺の町へ気分転換に出かけていたのだった。彼は狂ったように海辺まで追ってきて、砂浜で私を引き止めた。彼は目を赤くし、絶望した獣のように、私に向かって吠えた。「なぜだ?深雪、なぜここまで冷たい?俺はここまでやってるのに!」私は彼を見た。初めて、これほど平静に彼の暴走と向き合うことができた。胸の中には少しの揺らぎもなかった。「眞一郎、あなたがしていることは全て、自己中だけだ。
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第9話

私の初めての紀行文集『光へ向かって』がついに出版された。本には、大輔が撮ってくれた写真が載っている。北国の雪山から、南方の小さな町の路地裏まで。私は自分の絶望と新生を読者に分かち合った。この個人的な癒しの記録の本が、まさかこれほど大きな反響を呼ぶことになるとは。温かく癒やされる文章と、生命力に満ちた写真が、私と同じように闇の中にいた多くの人々の心を動かした。出版記念サイン会では、長い列ができた。私は笑顔で、一人ひとりに丁寧にサインをした。もう誰かのミューズなんかじゃない。私は私だ。大輔との関係も、ごく自然に進んでいった。彼は私の旅に同行し、共に創作する。静かで幸せな日々が続く。一方、眞一郎は、訴訟問題で信用を失い、破産した。巨額の違約金を支払うため、画室も全ての不動産も手放さざるを得なかった。結局、彼は私たちが最初に借りていた、薄暗く湿った古いアパートに戻ることになった。彼は部屋に閉じこもり、酒に耽った。ある日、彼は再び筆を取ろうとした。記憶の中の私を描きたかったのだ。だが、その手は、直線すら引けないほど震えていた。酔いに紛れたある日、ふと、白いドレスをまとった私が、微笑みながらゆっくりと近づいてくる幻影を見た。それは彼が幾度となく思い描いていた、二人の婚礼の姿だった。そのころ、遠く離れた海辺の町で、私は簡素な白いワンピースを身にまとい、大輔とささやかな結婚式を挙げていた。マスコミもフラッシュもなく、親しい友人だけが集まった。潮風がベールを揺らし、皆の顔には心からの幸せな笑みが浮かんでいた。古いアパートで、眞一郎は、幻の花嫁に触れようと手を伸ばした。その瞬間、心臓に激痛が走り、彼はばったりと床に倒れた。周りには、何も描かれていない真っ白なキャンバスが床に転がっていた。翌日、芸術界のニュース欄に、その記事が掲載されていた。【天才画家・雲出眞一郎氏、アパートにて急性アルコール中毒により急死。享年三十歳】そのとき、私は大輔との新婚旅行の途中だった。名前も知らない小さな島で、その記事を目にした。私はほんの一瞬、沈黙した。そして、スマホの電源を切った。顔を上げ、大輔と並んで、水平線に昇り始めた輝かしい太陽を、ただ静かに見つめた。それから数年、私は少し
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