僕はもう、彼女と手を繋げない—— 数メートル先。——僕の彼女は、アイドルになった。 ステージに立ち、スポットライトの光を浴びている。その姿は、息を止めてしまうほど綺麗だった。眩いほどの笑顔。 僕と彼女の間には何もない。 それなのに、どれだけ願っても目は合わない。 近いのに、遠い距離。 会場に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。照明の熱、人の体温、スピーカーから響く低音。全部が混ざり合って、胸の奥を揺らしてくる。 僕は客席にいる。彼女は、ステージの上だ。 ペンライトの光が視界を埋める。 名前を呼ぶ声が、熱気に重なり波になる。 無数の光が、同時に跳ねる。 その輝きの中で、沙友里は笑っていた。 あの笑顔の癖も、もう僕だけのものではない。 いつも、一番近くにいてくれた。 ライトを浴びた彼女は、知っているはずの顔なのに、僕の知らない場所に立っているように見えた。 この場所で、僕だけが止まっていた。 恋人なのに、隣にいない。 恋人なのに、名前を呼べない。 恋人だからこそ——一番遠い。 曲の合間、沙友里は客席を見渡す。視線がゆっくりと流れていく。……今、目が合いそうだった。そんな気がしただけで、心臓が一拍遅れて跳ねた。 きっと気のせいだ。それでも、信じたかった。 遠いのは数メートルの距離じゃない。一度引かれた線は、簡単には消えてくれない。 僕は、膝の上で手を握りしめる。 あの手の感触をまだ覚えている。温度も、指の癖も、離すときの一瞬の迷いも。——それでも。今は伸ばせない。 伸ばした瞬間、彼女の未来を壊してしまうから。 僕はここにいる。最前じゃない、端の席で。ただの観客として彼女を見ている。 歌が終わり、拍手が響く。沙友里は深くお辞儀をして最後に笑った。僕に向けた笑顔じゃない。それでも、その笑顔を見逃さないように、目に焼きつける。 沙友里に伝えたい言葉がある。だが今夜も、その声は届かない。 暗転したステージを見つめながら、僕は静かに息を吐く。距離だけが、音もなく育っていく。 あの頃のように、もう手を伸ばすことはできない。 それでも—— 握りしめていた拳を、ゆっくりと開いた。 あの日、繋いだ沙友里の温度を——僕はまだ離していない。
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