LOGIN「僕はもう、彼女と手を繋げない——」 中学入学直後、桐谷直哉は一人の女の子と出会った。 結城沙友里。笑うと少しだけ目を細める、その笑顔に直哉は恋をした。 手を繋いで歩いた放課後。花火の下で交わしたキス。六人で過ごした夏の海。触れることが当たり前だった、あの頃——。 やがて沙友里はアイドルの道へ踏み出す。スポットライトの中で輝く彼女に、直哉はもう触れられない。隣に立てない。名前も呼べない。 恋人なのに——だからこそ、一番遠い。 触れられなくなっても、それでも僕は彼女を見ている。 輝きの中で笑う君を、ただの観客として—— アイドルになった彼女と、僕の物語。
View More僕はもう、彼女と手を繋げない——
数メートル先。
——僕の彼女は、アイドルになった。
ステージに立ち、スポットライトの光を浴びている。その姿は、息を止めてしまうほど綺麗だった。眩いほどの笑顔。
僕と彼女の間には何もない。
それなのに、どれだけ願っても目は合わない。
近いのに、遠い距離。
会場に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。照明の熱、人の体温、スピーカーから響く低音。全部が混ざり合って、胸の奥を揺らしてくる。
僕は客席にいる。彼女は、ステージの上だ。
ペンライトの光が視界を埋める。
名前を呼ぶ声が、熱気に重なり波になる。
無数の光が、同時に跳ねる。
その輝きの中で、
あの笑顔の癖も、もう僕だけのものではない。
いつも、一番近くにいてくれた。
ライトを浴びた彼女は、知っているはずの顔なのに、僕の知らない場所に立っているように見えた。
この場所で、僕だけが止まっていた。
恋人なのに、隣にいない。
恋人なのに、名前を呼べない。
恋人だからこそ——一番遠い。
曲の合間、沙友里は客席を見渡す。視線がゆっくりと流れていく。
……今、目が合いそうだった。そんな気がしただけで、心臓が一拍遅れて跳ねた。
きっと気のせいだ。それでも、信じたかった。
遠いのは数メートルの距離じゃない。一度引かれた線は、簡単には消えてくれない。
僕は、膝の上で手を握りしめる。
あの手の感触をまだ覚えている。温度も、指の癖も、離すときの一瞬の迷いも。
——それでも。今は伸ばせない。
伸ばした瞬間、彼女の未来を壊してしまうから。
僕はここにいる。最前じゃない、端の席で。ただの観客として彼女を見ている。
歌が終わり、拍手が響く。沙友里は深くお辞儀をして最後に笑った。僕に向けた笑顔じゃない。それでも、その笑顔を見逃さないように、目に焼きつける。
沙友里に伝えたい言葉がある。だが今夜も、その声は届かない。
暗転したステージを見つめながら、僕は静かに息を吐く。距離だけが、音もなく育っていく。
あの頃のように、もう手を伸ばすことはできない。
それでも——
握りしめていた拳を、ゆっくりと開いた。
あの日、繋いだ沙友里の温度を——僕はまだ離していない。
第十六幕 それぞれの立つ場所 同じ夢を追いながらも、歩く道は少しずつ違う—— レッスン場には、さっきまでとは違う空気が広がっていく。実演の熱気が引いた後の、静かな緊張だった。 城ヶ崎さんは、手元の資料をゆっくりと閉じた。「ポジションの発表の前に、一つ皆さんにお知らせがあります」 みんなの準備を待つように、少しだけ間を置いた。「このグループの名前が決まりました。今日から皆さんは——」 物音ひとつしないレッスン場に声が響いた。「祈理55(いのりフィフティファイブ)として、活動してもらいます」 僕たちは静かに、その言葉を受け止めた。 だが、次の瞬間——「可愛い名前!」 春宮さんが、真っ先に声を上げた。 それをきっかけに、大きな歓声と拍手に包まれる。 沙友里も神楽さんと、手をとり喜びあっていた。「本当に、アイドルなんだ……」 隣で高瀬さんが、声を漏らした。 名前がついた瞬間、沙友里たちの活動が、急に現実味を帯びたように見えた。(祈理55……) 僕はその名前を噛み締める。 祈るように、理想を追う——そんな名前だと思った。 鳴り止まない拍手の中、城ヶ崎さんは表情を引き締める。 みんなを視界に収め、決して大きくないがよく通る声で宣言した。「それでは、続いてポジションを発表します」 その言葉が、その場の空気を変えた。 あれほど歓声を上げていたメンバーたちの顔から、笑顔が消えていた。 見ているだけの僕ですら、喉の渇きを覚える。「発表は、後列、中列、フロントの順で行います。名前を呼ばれたら、向こうにフォーメーション通りに並んでください」 メンバーが返事をするのを確認して、城ヶ崎さんは頷いた。「それでは、始めます。まずは後列——」 一人、また一
第十五幕 新しい春 新しい春は、知らない君を連れてくる—— 四月、始業式の朝。 昇降口の前には、クラス分けを確認しようとする生徒たちが集まっていた。 人混みが苦手な僕は、少し離れた場所から掲示板を眺めていた。「直哉、同じクラスだぞ!」 相沢守が、僕より先に桐谷直哉の名前を見つけてくれた。 少しだけ肩の力を抜くことができた。 僕も掲示板へ目を走らせた。 真っ先に見つけたのは、結城沙友里の名前だった。 僕は胸を撫で下ろした。 さらに追っていくと—— 神楽麻衣、黒崎修司、高瀬梢。 その下には、春宮里奈と、神前七瀬の名前も並んでいた。「全員一緒じゃねぇか!」 守が歓声を上げた。 後からやってきた沙友里と春宮さんが、掲示板を見て飛び上がった。「やったね、直哉! これ運命?」 「あ、私もみんなと一緒だ! 運命だね!」 「偶然よ」 浮かれまくっている沙友里たちと対照的に、神楽さんが冷静に返事をした。しかし、その表情は柔らかい。「……私の名前もある」 すぐ後ろから声が聞こえて、僕の肩が跳ねた。 振り向くと、神前さんが立っていた。「同じクラスなんだから、あるに決まってるでしょ……」 神前さんにも、神楽さんはちゃんと突っ込んだ。 僕と沙友里は、顔を見合わせて笑い合った。 沙友里たちの輪の中に、僕もいる。そう考えるだけで、足取りが軽くなった。 僕たちは教室に入ると、それぞれの席を確認する。 新しい教室には、床のワックスの香りが残っていた。 席についてカバンをおろすと、周りを見渡してみる。 沙友里の席は離れていて、廊下側の一番後ろだった。「俺の席から、
第十四幕 ありがとうを返す日 ありがとうを、どう返せばいいのか—— 「ホワイトデーのお返し、俺たちも手作りで返そうぜ!」 守が、突然思いついたように言い出した。「……守は、お菓子作りしたことあるの?」 「ない!」 「じゃあ、無理だよ……」 僕も考えなかったわけじゃない。だが、お菓子作りどころか、僕は料理にもまったく自信がない。この様子だと、守も同じだと思った。 だけど——「いいね、やろう」 黒崎くんが、普通に賛成した。 肩を落としていた守の顔が、一気に輝き出した。「黒崎、できるのか?」 「うん、俺は結構得意だよ」 「俺は信じてたぞ!」 そう言いながら守は、黒崎くんを抱きしめた。さすがの黒崎くんも、本気の抵抗を見せる。「なら、何とかなるかも……守、やろうよ」 「それでこそ直哉だ! 場所は直哉の家な」 「うん、大丈夫だと思うよ」 手作りは諦めていたけど、黒崎くんのおかげで何とかなるかもしれない。黒崎くん頼みになるのは申し訳ないけど、僕は急にやる気が出てきた。「相沢……とりあえず、離れてくれないかな」 運良くホワイトデーの前日に、三人で集まることができた。 場所は、僕の家。守と黒崎くんを連れていくと、母さんが驚いた顔をしていた。 早速、台所でお菓子作りを始めた。 守はやる気だけは、誰より高かった。 最初の五分で、小麦粉を盛大にぶちまけていた。「料理って、こんな難しかったか?」 「とりあえず守は、黒崎くんの指示に従って」 クッキーを作ることが、こんなに難しいとは思っていなかった。守の影響で、手間が増えている点を考慮しても、大変なのは間違いない。「相沢は、一旦落ち着いて。桐谷は、丁寧でいいね」 僕は黒崎くんに確認しながら、慎重に型を抜いた。(|
彼女の世界は、どこまでも広がっていく—— 芸能コースが動き出し、一ヶ月が経った。 放課後になれば、沙友里たちはレッスン場へ向かうのが当たり前になっていた。 ダンス、ボイトレ、基礎体力、ストレッチ。気がつけば、放課後の予定は毎日埋まっている。 帰り道、沙友里は少し疲れた顔をしていた。でも——目は輝いていた。「毎日、大変だけど……楽しいよ」 「疲れてない?」 「大丈夫! 夢に近づいている感じがするから」 僕には、心配することしかできない。でも、沙友里の顔を見ていると、この疲れも夢へ向かう一歩なんだと思えた。 二月十四日が近づいてきた。 付き合ってから初めてのバレンタインデー。何だか意識してしまう。男子たちも、どこか落ち着かなかった。 漫研の部室で、スケッチブックを開いていると、守が隣に座った。「なぁ、直哉……さゆりんは、チョコくれると思うか?」 「……なんで僕に聞くの?」 「お前の彼女だから」 それはそうだけど。「分からない……だけど、もらえたら嬉しい」 「素直だな」 守がニヤけた。「ちなみに俺は、十個くらいはもらえると——」 「思わない」 「最後まで聞けよ!」 この日も、沙友里が終わるのを待って一緒に帰った。 僕たちは今日も、手を繋いでいた。「最近ようやく、里奈と七瀬と仲良くなってきたよ」 「……同じ一年生の?」 「そう! 一般応募で入ってきた、貴重な同い年だからね」 確かに、沙友里は最近よくその二人の話をしていた。「里奈も七瀬もすごいよ。どんどんダンスが上達してる」 「元々の運動神経がいいんじゃない?」 「それはあるね。里奈は身体を大きく動かすし、七瀬は何か雰囲気のあるダンスするんだよ」 沙友里は、空いている腕を大きく動かしながら、二
第一幕 繋いだ手 僕たちが中学三年だったあの頃、放課後はいつも騒がしかった。 通っていたのは、大和中学校。そこで僕が所属していたのは漫画研究部——通称漫研。沙友里はダンス部だ。部活帰りの声、下駄箱の音、夕方に近づく校舎の匂い。でもその日、僕たちだけ
序幕 プロローグ 僕の彼女は——アイドルになった。 ステージに立ち、スポットライトの光を浴びている。その姿は、息を止めてしまうほど綺麗だった。眩いほどの笑顔。 僕
第三幕 デビュー 高校に入って、まだ春の匂いが残っている頃。新しい制服にも、ようやく慣れ始めたばかりの時期。 グループとしてのデビューが決まったと聞かされたのは、いつもの帰り道だった。
第二幕 レッスンの日々 それからの日々は、立ち止まる暇もなく流れていった。 沙友里は本格的なレッスンが始まり、徐々に忙しくなっていく。レッスンがある日は、スタジオまでの送迎だけになった。それ以上は、何もできなかったし、しなかった。