私、夏目萌衣(なつめ めい)には、人の顔を判別することができない――相貌失認という障害がある。あの土砂降りの雨の夜。私は一人の男を救った。彼の名前には確か、「あきし」という響きがあった。「恩返しがしたい」と乞う彼を前に、私は頭をよぎる現実を数えた。滞納したままの家賃と、芽の出ないイラストレーターとしての私。私はふっと自嘲気味に笑って、こう返した。「それなら、一生お金に困らず、安心して絵を描いていられる生活をさせて」彼は真剣な眼差しで、私の目を見つめて言った。「分かった。必ず君を迎えに行く」……お湯を運んでいる最中に不注意でお客さんにぶつかってしまった時、私は血の気が引くのを感じた。その場ですぐに土下座でもして、許してもらえるまで謝り倒したい気分だった。これから院長のところへ、給料の前借りを頼みに行こうとしていた矢先のことだったのだ。家主からは半月も家賃を催促されており、今日がその最終期限。今ここでクレームを食らったら終わりだ。家賃が払えなくなって、住む場所さえ失ってしまう。けれど、その男性の方は私以上に緊張しているのか、体を強張らせて微動だにしない。隣に立つ奥様は、彼の母親だろうか。その方は私の顔を見るなり目を見開き、ひどく驚いた様子だった。あろうことかスタッフ番号と名前まで控えられ――万事休すだ。やはりクレームは避けられないらしい。案の定、すぐに院長から事務室に来るよう呼び出しがかかった。「あんたがさっきぶつかったのは、安藤グループの会長と社長よ」同僚からそう聞かされた時は、同情の入り混じった声で「きっとクビね」と言われた。院長室のドアに手をかけながら、心臓が潰れそうなほど重い。中に入ったらすぐに土下座して、泣きながら許しを請うべきだろうか。実際のところ、今の美容クリニックでのアルバイト代だけでは、生活費さえままならない。けれど、一枚の絵も売れない無名のイラストレーターにとって、私に選択の余地はなかった。私には相貌失認がある。髪型や服装、あるいは痣といった特徴でしか人を判別できない。そんな私を雇ってくれる職場など、どこにもなかった。このクリニックで茶出しの雑用をさせてもらっているのも、院長が私を不憫に思って施しのようなものだった。覚悟を決めて中に入るしか
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