「どういうことだ!」 社長室の重厚な扉を突き抜け、隆史の怒声が廊下にまで響き渡っていた。 手に持ったコーヒーカップの縁が、微かな振動で揺れる。彩葉は扉の前で足を止めた。中からは受話器を叩きつける硬い衝撃音が響き、続いて忌々しげな舌打ちの音が漏れ聞こえてくる。 意を決して扉を開けると、デスクの前で立ち上がった隆史が、受話器を握りしめたまま顔を真っ赤に紅潮させていた。まともな会話にもならないまま一方的に電話を切られたらしく、額には青筋が浮かび、薄い唇を強く噛みしめている。朝からこの調子で、同じような絶望的な報せが何度も繰り返されているようだった。 部屋の隅のソファでは、秘書のゆかりが右手に爪やすりを持ち、優雅にネイルの手入れをしていた。社長が隣で狂わんばかりに怒鳴り散らしているというのに、気にする様子は微塵もない。やすりが爪の表面を削る、しゃりしゃりという乾いた音が、隆史の荒い呼吸に混じって規則正しく響いていた。「隆史、どうしたの?」 コーヒーカップをローテーブルに置きながら声をかけると、隆史が血走った目で弾かれたように振り返った。「うるさい!」 ぶつけられた怒声の風圧に、彩葉の肩が小さく跳ねる。数ヶ月前まで日常だったモラハラの記憶が、冷たい水のように背筋を駆け抜け、反射的に「ごめんなさい」と口が動きかける。だが、彼女は奥歯をぐっと噛んでそれを堪えた。もう、怯えて条件反射で謝るだけの自分には戻らない。そう心に誓っていた。「なんでだ。どうしてこんなことに……」 隆史はぶつぶつと力のない独り言を吐き出しながら、デスクと窓の間を落ち着きなく行き来している。綺麗にセットされていた茶髪はぐしゃぐしゃに掻きむしられ、ネクタイは緩み、上質なはずのシャツの襟元も見窄らしく崩れていた。今の隆史に何を問いかけたところで、まともな答えが返ってくるとは思えない。暴力に発展する前にその場を退こうと踵を返しかけた時、ソファから場違いに明るい声が飛んできた。「買収されたみたいよ」 ゆかりの口調は、今日のランチの献立でも話すかのように素っ気なかった。爪やすりを動かす手も止めず、視線すら上げない。「買収?」 彩葉が聞き返すと、ゆかりは爪先に溜まった白い粉をふっと息で吹き飛ばした。「そう。なんかー、よく知らないけど、新事業で提携していった会社が次々と他社に買収されちゃって、
Dernière mise à jour : 2026-03-30 Read More