婚約者の裏切りを知った夜 極道の組長に染められました

婚約者の裏切りを知った夜 極道の組長に染められました

last update最終更新日 : 2026-04-01
作家:  ひなた翠たった今更新されました
言語: Japanese
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概要

強いヒロイン

溺愛

ハッピーエンド

一途

おとなしい子

三角関係

NTR

因果応報

元キャバ嬢の彩葉は、婚約者・隆史に実家の旅館を売却され、「一生俺の奴隷だ」と嘲笑われる日々を送っていた。浮気、暴力、支配――全てに耐えてきた彩葉が限界を迎えて逃げ帰った実家の貸切風呂で、背中に龍の刺青を持つ男と出会う。 大企業の社長にして極道の組長・鷹峰彗。彼に初めて本当の快感を教えられた夜、囁かれた「一つ提案がある」という言葉が、彩葉の運命を変えていく。 旅館を取り戻すために隆史のもとへ戻った彩葉。愛のない男の隣で静かに復讐の時を待ちながら、鷹峰への想いだけが心の支えだった。 裏切った婚約者と浮気相手が転落していく痛快な「ざまあ」と、一途に想い続けた極道の純愛が交差する、復讐×溺愛のTLロマンス。

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第1話

第一話「龍の紋章が刻む背徳の湯煙」

 今日一日で、あまりにも多くのことが起きすぎた。

 心も身体もぐったりと疲れ果て、彩葉の頭の中はぐちゃぐちゃに絡まった糸のように、どうしても解けてはくれなかった。熱い湯にすべてを流してしまいたい――。追い詰められたような心地で、彩葉は実家の旅館にある貸切風呂へと足を向けた。

 夜も深い時間帯。予約が入っていないことは帳場で確認済みだった。木の香りが静かに漂う脱衣室で、急くように衣類を脱ぎ捨てる。白いタオルを胸の前で固く押さえ、吸い込まれるように浴室の引き戸を開けた。

 ふわりと柔らかな湯煙が顔を包み込み、硫黄と檜が混ざり合った温泉特有の匂いが鼻腔をくすぐる。

 だが、石畳に一歩を踏み出した瞬間、彩葉の身体は凍りついた。

 白く煙る視界の奥に、確かな人影があった。

 広い背中が湯船の縁に凭れるように見えている。その肩甲骨から腰の曲線にかけて、目を剥くような鮮やかな色彩が広がっていた。鱗の一枚一枚まで精密に彫り込まれた、龍の刺青。湯気に滲みながらも、それは圧倒的な威圧感と、逃れがたい存在感を放っている。

 彩葉は息を呑んだ。

 極道の人間が、なぜうちに――。その事実が脳裏を駆け抜けると同時に、彩葉は弾かれたように踵を返した。

「す、すみません! 先客がいらっしゃるとは知らなくて――」

 上ずった声が虚しく響く。焦りで足がもつれ、濡れた石畳に裸足を取られた。前のめりに転びかけた身体を、背後から伸びてきた逞しい腕が、逃さず支え止める。

「そう慌てなくていい。広い風呂だ、気にするな」

 低く、落ち着いた声が耳元で鳴った。二の腕を掴む太い指から、湯に温められた男性の熱い体温が直に伝わってくる。彩葉はタオルを握りしめたまま、恐る恐る振り返った。立ちのぼる湯煙がカーテンのように視界を遮り、男性の顔を隠している。

「入りにきたんだろう? また服を着るのも面倒だろう。せっかくだから、入ればいい」

 押しつけがましさのない、淡々とした口調だった。言葉の端々に滲む不思議な穏やかさが、彩葉の強張った肩から少しだけ毒を抜いてくれる。

「お、お言葉に甘えて……失礼します」

 身体を小さく縮めるようにして、湯船の端へ静かに足を沈めた。じわりと全身に熱が広がり、温泉の恵みが凝り固まった筋肉をゆっくりと解していく。肩まで浸かって長く息を吐くと、こめかみに張りつめていた緊張が、わずかずつ緩んでいくのがわかった。

 そのとき、一陣の夜風が吹き込み、浴室の湯煙をゆらりと揺らした。

 白い靄の隙間から、男性の横顔が一瞬だけ露わになる。切れ長の涼しい目元と、彫刻のようにすっと通った鼻筋。

 見覚えのある、端正な輪郭だった。記憶を辿り、昼間の出来事と照らし合わせた瞬間、彩葉の目は大きく見開かれた。

「え……? 鷹峰社長、が……どうしてここに」

 驚きのあまり勢いよく立ち上がってしまい、湯の中に隠していた身体が、肩から太腿にかけて一気に露わになった。湯が盛大に波打ち、ばしゃんと音を立てて溢れ出す。

 鷹峰は湯煙の向こうで、わずかに口角を持ち上げた。

「離れに宿泊している。この旅館が今後どうなるか、ご両親に説明しに来ていたんだ」

 落ち着き払ったその声に、彩葉はようやく自分の無防備な状態を思い出し、慌てて湯の中へ沈み込んだ。胸元まで浸かり直しても、喉元まで跳ね上がった鼓動は一向に収まってくれない。

「ごめんなさい。まさか、泊まっていらっしゃるなんて思わなくて……」

 肩を縮め、視線を湯面に落とした。ゆらゆらと揺れる水面に、自分の影が情けなく映っている。

「それより――」

 鷹峰の声色が変わった。低く、けれど鋭い硬さを帯びている。

「腕と腹にあるあざは、なんだ」

 彩葉の血の気が一気に引いた。

 立ち上がった刹那、彼の目にはすべてが映っていたのだ。二の腕の内側に残るどす黒い紫色の痣。腹部にまだらに散る、黄色く変色した古い打撲の痕。

 忌まわしい過去の痕跡をすべて見られたと悟り、彩葉は両腕で自分の身体を抱くようにして、さらに深く湯に沈んだ。

「ごめんなさい……こんな身体、見たくもないですよね」

 消え入りそうな声で呟き、膝を抱えて丸くなった。痣だらけの身体を誰かに晒すのは、恥辱以外の何ものでもなかった。惨めで、視界がじわりと滲んでいく。

 だがその時、背中に熱いものが触れた。

 太い腕が後ろから彩葉の肩を包み込み、力強く引き寄せられる。硬い胸板が背中に密着し、湯の温度とは違う、生き物の熱が皮膚越しに染み込んできた。鷹峰の体温は驚くほど高く、火照った彩葉の肌をさらに灼くように熱い。

「こんな身体? 本気でそう思っているのか」

 耳朶を震わせる低い囁きに、背筋を甘い痺れが駆け抜けた。

「あの……私、婚約者がいて……」

 振り絞るような拒絶を告げると、肩を抱く腕に込められた力が、わずかに強まった。

「知っている。相沢だろう」

「その――だから」

「身体のあざは、相沢のせいなんだな?」

 核心を突かれ、彩葉は言葉を失った。水滴が縁石に跳ねる音だけが、静まり返った浴室に響いている。

「私が……トロいから……っ」

 力なく紡いだ言い訳を、鷹峰は逃さなかった。

「彩葉が?」

 名前を呼ばれた衝撃で身体が跳ねた瞬間、鷹峰の指先が、彩葉の胸の先端を不意に掠めた。薄い皮膚の上を、硬い指の腹が擦り、ぞくりとした感覚が背骨を突き抜ける。

「んぅ……っ」

 思わず漏れた声に、自分自身が驚いた。口を押さえようと片手を持ち上げたところで、鷹峰の大きな手が、胸の膨らみをたっぷりと覆い、ゆっくりと揉みしだき始めた。

「だ、めぇ……」

 甘い拒絶の言葉とは裏腹に、身体は残酷なほど正直だった。温かい掌に包まれ、優しく形を変えられるたびに、奥底から熱いものが込み上げてくる。

 こんなふうに丁寧に、慈しむように触れられるのは、もうずっと長い間なかったことだった。婚約者である隆史の乱暴な手つきとは何もかもが違っていた。力加減も、指の動かし方もすべてが優しく、身体の芯が勝手に蕩けていくのを止められない。

 指先で先端を摘み、くりっと捻るように弾かれる。大きな嬌声が、浴室の壁に反響して返ってきた。

「あああっ……!」

 腰がびくんと跳ね、湯が大きく波打つ。密着した尻が鷹峰の身体に押しつけられ、腰の裏側に、硬く熱い「質量」が当たった。

 太く、猛り、存在を増した彼の剛直が、彩葉の腰に容赦なく押しつけられている。

 婚約者がいると頭では理解しているのに、身体は背後の男を狂おしいほど求めていた。肌が触れ合う面積が増えるたび、理性の糸が一本ずつ、ぷつりと切れていく。

 鷹峰の左手が胸を弄り続け、右手が湯の中を滑るように降りていった。太腿の内側を愛撫し、やがて熱を持った密口に触れる。

「ああっ。そこは、だめ……っ」

 反射的に足を閉じようとした彩葉の耳たぶを、鷹峰が甘く噛んだ。鋭い歯の感触と湿った吐息が同時に襲い、頭の中が真っ白に弾ける。

「本当に? このまま終わるか? 何もしなくていいのか」

 密口を撫でていた指が、ぬるりと割れ目をなぞった。

「ぬるぬるだぞ、彩葉」

 低く囁かれた言葉に、身体の奥がきゅうっと締まった。羞恥で涙が滲むのに、腰は彼の指を追うように小さく揺れている。拒みたいのに、やめてほしくない。矛盾した感情が渦を巻き、彩葉の唇から絞り出されたのは、あまりにも浅ましい本音だった。

「……入れて、ほしい……っ」

 自分の声だとは信じられないほど掠れた、小さな、けれど切実な懇願だった。

 鷹峰の腕が、ふっと彩葉を放した。急に温もりが失われ、夜風の冷たさと寂しさが同時に押し寄せてくる。

「風呂の縁に手をつけ。尻をこっちに向けろ」

 命令口調。だがその底には、隠しきれない情熱が滲んでいた。彩葉は言われるがままに湯の中で身体を転じ、石造りの縁に両手をついた。指先に冷たい石の感触が伝わり、背中を彼に向けた格好で腰を突き出す。

 太い手が、ぐいと腰を掴んだ。

 熱い先端が密口を捉え、押し広げられていく感覚に、彩葉の指が縁石を無意識に掻いた。

 一気に最奥まで貫かれると、背中が弓なりに反り返り、全身を稲妻のような快感が突き抜けた。

「ああっ……――!」

 叫び声が浴室の天井に響き渡る。挿入された瞬間に身体が激しく痙攣し、蜜筒が鷹峰を強く締めつけて離さない。内壁が脈打つように収縮を繰り返し、頭の中が白く飛んだ。

(大きい……こんなの、初めて……っ)

 身体の奥を無理やり押し広げられ、内臓まで届きそうなほど深く満たされている。隆史とは比べものにならない圧迫感が、彩葉の中に消えない存在を刻みつけていた。

「もうイッたのか。早いな」

 鷹峰の声に、大人の余裕が滲む。彩葉は湯の中で膝を震わせながら、必死に身体を支えていた。繋がったまま、彼の大きな手が下腹部に添えられ、内側から押すように圧力をかけてくる。

「ここに俺のがあるの……わかるか?」

「ああ、それ……だめぇ、っ」

 内臓越しに彼の熱が浮き彫りになる感覚に耐えきれず、腰がガクガクと震えて、また痙攣してしまった。蜜筒がぎゅっと締まり、全身に鳥肌が立つ。

「すごい感度だな。まだ入れただけだぞ」

「わからなっ……こんなの、初めて、だから……っ」

 涙混じりの声が漏れた。隆史との行為で感じたことなど、一度もなかった。痛みと義務感しかなかったはずの身体が、鷹峰に貫かれただけでこんなにも反応してしまう。その事実に、彩葉自身が一番戸惑っていた。

「俺がイく前に、イキすぎて気絶するなよ」

 低い警告のあとに、鷹峰がゆっくりと腰を引いた。抜けていく感覚に耐え難い物足りなさが生まれた途端、また深く、重く押し込まれる。出し入れが繰り返されるたびに、奥の壁を容赦なく擦り上げられ、彩葉の口からは止めどなく甘い吐息が溢れ出した。

(奥まで届く……無理、苦しい。すぐにイっちゃう……っ!)

 ぐっと腰を両手で掴み直され、鷹峰が一際深く突き上げた。最奥を叩かれた瞬間、視界が真っ白に弾け、彩葉は声にならない絶叫をあげて全身を痙攣させた。膝の力が一気に抜け落ち、湯の中に沈みかける。

「おっと。溺れるから、一度出るぞ」

 崩れ落ちそうになった彩葉の身体を、鷹峰が軽々と抱え上げた。湯から引き上げられると、夜風が火照った肌を撫でて鳥肌が立つ。力の入らない足ではまともに歩くこともできず、彩葉は彼の腕に支えられながら脱衣室へと移動した。

 畳の上に足をつくと、正面にある大きな姿見が目に入った。鷹峰が背後に立ち、彩葉の腰を抱き寄せるようにして身体を密着させてくる。

 鏡越しに二人の姿が映り、彩葉は思わず目を伏せた。自分の身体が泥のように力を失って、男に凭れかかっている。濡れた髪が白皙の肩に張りつき、頬は紅く上気していた。

 背後から、再び熱い先端が押し当てられた。

 ずるりと奥まで侵入してくる感覚に、彩葉の背中が再び反り返る。

「無理、すぐっ……いっ、あああっ!」

 挿入されただけで、身体が激しく波打った。蜜筒が収縮を繰り返し、全身がびくびくと震える。立っているのがやっとで、膝が笑い、鷹峰の逞しい腕にしがみつくことしかできない。

 絶頂の波に呑まれている最中に、耳元で低い声が降ってきた。

「鏡を見てみろ」

 言われるままに顔を上げると、姿見の中に、あまりにも淫らな光景が映し出されていた。背中に龍の刺青を纏った端正な顔の男と、一つに繋がったまま腰を震わせている自分。濡れた黒髪が肌に張りつき、半開きの唇から荒い息が漏れ、潤んだ瞳には涙の粒が光っている。

 恥ずかしさで顔を背けた途端、顎を掴まれて正面に戻された。鷹峰の指が顎の骨に食い込み、逃げることを許さない。鏡の中の自分と目が合い、羞恥で全身が熱くなった。

「俺が彩葉を抱いているんだ。ちゃんと覚えておけ」

 鷹峰が腰を揺すり、奥をゆっくりと抉るように突いてくる。鏡の中で、彩葉の表情がみるみる崩れていった。

「この快感を身体の奥底に刻み込め。これが俺とのセックスだ。気持ちいいだろう? 彩葉――」

「あっ、あっ、気持ち、いいっ……!」

 嘘偽りのない言葉が口をついて出た。隆史に抱かれているときは、いつも声を出すふりをして、感じている演技をしていた。痛みを快感だと思い込もうとしても、身体は正直で、いつも乾いたままだったのに。

「俺もだ、最高に気持ちいい」

 彼の声が耳朶を震わせた。大きな手が彩葉の腰骨を掴み、背後から激しく打ちつけてくる。肌と肌がぶつかり合う湿った音が脱衣室に響き渡り、男女の荒い呼吸が幾重にも重なり合った。

 身体の奥から、熱い塊がせり上がってくる。

 全身の快感が一点に集中していき、限界を超えた瞬間に破裂した。視界が真っ白に染まり、意識が遠くなっていく。絶叫にも似た声が自分の喉から迸ったのを最後に、彩葉の世界は眩い光の中に溶けていった。

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第一話「龍の紋章が刻む背徳の湯煙」
 今日一日で、あまりにも多くのことが起きすぎた。 心も身体もぐったりと疲れ果て、彩葉の頭の中はぐちゃぐちゃに絡まった糸のように、どうしても解けてはくれなかった。熱い湯にすべてを流してしまいたい――。追い詰められたような心地で、彩葉は実家の旅館にある貸切風呂へと足を向けた。 夜も深い時間帯。予約が入っていないことは帳場で確認済みだった。木の香りが静かに漂う脱衣室で、急くように衣類を脱ぎ捨てる。白いタオルを胸の前で固く押さえ、吸い込まれるように浴室の引き戸を開けた。 ふわりと柔らかな湯煙が顔を包み込み、硫黄と檜が混ざり合った温泉特有の匂いが鼻腔をくすぐる。 だが、石畳に一歩を踏み出した瞬間、彩葉の身体は凍りついた。 白く煙る視界の奥に、確かな人影があった。 広い背中が湯船の縁に凭れるように見えている。その肩甲骨から腰の曲線にかけて、目を剥くような鮮やかな色彩が広がっていた。鱗の一枚一枚まで精密に彫り込まれた、龍の刺青。湯気に滲みながらも、それは圧倒的な威圧感と、逃れがたい存在感を放っている。 彩葉は息を呑んだ。 極道の人間が、なぜうちに――。その事実が脳裏を駆け抜けると同時に、彩葉は弾かれたように踵を返した。「す、すみません! 先客がいらっしゃるとは知らなくて――」 上ずった声が虚しく響く。焦りで足がもつれ、濡れた石畳に裸足を取られた。前のめりに転びかけた身体を、背後から伸びてきた逞しい腕が、逃さず支え止める。「そう慌てなくていい。広い風呂だ、気にするな」 低く、落ち着いた声が耳元で鳴った。二の腕を掴む太い指から、湯に温められた男性の熱い体温が直に伝わってくる。彩葉はタオルを握りしめたまま、恐る恐る振り返った。立ちのぼる湯煙がカーテンのように視界を遮り、男性の顔を隠している。「入りにきたんだろう? また服を着るのも面倒だろう。せっかくだから、入ればいい」 押しつけがましさのない、淡々とした口調だった。言葉の端々に滲む不思議な穏やかさが、彩葉の強張った肩から少しだけ毒を抜いてくれる。「お、お言葉に甘えて……失礼します」 身体を小さく縮めるようにして、湯船の端へ静かに足を沈めた。じわりと全身に熱が広がり、温泉の恵みが凝り固まった筋肉をゆっくりと解していく。肩まで浸かって長く息を吐くと、こめかみに張りつめていた緊張が、わずかずつ緩んでいくのが
last update最終更新日 : 2026-03-24
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第二話「剥落する虚飾」
 ――遡ること、数日前。 窓から差し込む朝陽は、休日特有の穏やかさを孕んでいた。けれど、彩葉の手が止まることはない。 平日は隆史の経営する会社で雑務に追われ、どうしても後回しにしてしまう家事が、山のように積み上がっているからだ。洗濯機が低い唸りを上げる間に、キッチンの換気扇を念入りに磨き上げ、水回りの水滴を一つ残らず拭き取る。朝の七時から動き始めて、気がつけば三時間が経過していた。 心からありがたいと感じるのは、同棲している恋人の相沢隆史が、休日出勤で不在であることだった。 隆史と交際を始めてから三年、この部屋で共に暮らし始めてから二年半が過ぎる。燃え上がるような情熱に身を焦がした恋人同士でも、千日近い月日を重ねれば、避うことのできない温度差が生まれてしまうものなのだろうか。彩葉にとって、まともな交際経験は隆史だけだった。一般的な恋人たちが三年という歳月を経て、どのような信頼を築き、どのような距離感で慈しみ合うのか、比べる術を彼女は持たなかった。 隆史は、ひどく神経質な男だった。 休日は静寂の中で過ごすことを好むくせに、部屋がわずかでも散らかっているのは我慢がならないらしい。彼が家にいる日に、平日にできなかった家事をこなそうとすれば「うるさい」と苛立たしげな怒声が飛んでくる。かといって彼の機嫌を優先して後回しにすれば、今度は「片付けも満足にできないのか」と冷ややかな叱責が突き刺さる。 どちらの道を選んでも、結局は彼の逆鱗に触れてしまう。彩葉は、出口のない鏡の迷路に放り込まれたような、閉塞感の中にいた。 最近は、言葉の暴力だけでは済まなくなり、手をあげることも増えた。 うまく立ち回れない自分がいけないのだと、彩葉は頑なに自分を責め続けていた。彼の機嫌を損ねるたびに、次はどこから拳が飛んでくるのかと怯え、無意識に肩を竦める癖が、いつしか深く刻まれてしまっている。 だからこそ、彼が仕事で家を空けてくれる時間は、張り詰めていた心も身体もようやく緩めることができる、唯一の安息だった。 隆史は、若くして成功を収めた会社の経営者だ。 しがないキャバ嬢だった彩葉を深く愛し、夜の底から救い出してくれた恩人――少なくとも、彩葉はずっとそう信じて疑わなかった。 かつての彩葉は、苦しい家計のために大学を中退し、夜の街で稼いだ金を故郷の両親に仕送りする日々を送って
last update最終更新日 : 2026-03-24
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第三話「跪く情欲」
 社長室の前に辿り着き、彩葉は一度、手にしたスーツバッグを持ち替えた。空いた手をドアノブに伸ばし、指先が冷たい金属に触れた、その瞬間だった。 彩葉の動きが、撥ねられたように止まる。 密閉されているはずの扉の向こうから、女性の甘く高い声が漏れ聞こえてきたのだ。それは、肺から空気を無理やり押し出すような、細く切れ切れの喘ぎ声だった。「ほらっ、ここがいいんだろ……?」 聞き紛うはずのない、隆史の声だった。けれど、普段彩葉に向けられる不機嫌な語気とはまるで異なる、厭らしく湿った低い囁き。その見知らぬ男のような声の響きに、彩葉の背筋を氷の刃でなぞられたような悪寒が駆け上がった。「あんっ……奥さんが、来ちゃうんじゃ、ない……?」 喘ぎの合間に紡がれた女の言葉に、彩葉の心臓がぎゅっと、壊れるほどに締めつけられた。ドアノブに添えたままの指先が、目に見えて震え始める。「まだあいつは妻じゃねえし、そんなすぐに来やしねえよ。……トロいからな」 トロいから。 隆史が笑い混じりに吐き捨てたその一言は、扉越しにはっきりと、残酷な明瞭さで彩葉の鼓膜を貫いた。胸の奥を鋭利なナイフで抉られたような痛みが走り、肺が酸素を拒絶するように呼吸が浅くなる。ドアノブに触れていた指先から力が失せ、だらりと体側に落ちた。 足が、動かなかった。 今すぐにでもここから逃げ出したいのに、身体は石化したように重く、廊下のリノリウムに縫いつけられたように一歩も踏み出せない。 扉の向こう側では、男女の吐息がさらに獣じみた荒さを増していく。乾いた肌と肌が激しく打ち合う律動的な音が室内に響き、ソファのスプリングが軋む嫌な音が重なった。やがて女の嬌声が、ひときわ甲高く、悦びに弾ける。 視界が、ふっと暗転した。 目の前が真っ暗になったような錯覚に襲われ、彩葉は縋り付くようにスーツバッグを胸に抱きしめた。指が厚い布地に食い込み、爪が白く変色するほどに力を込める。 今の今まで、隆史の不貞を疑ったことは一度もなかった。 何ヶ月も肌の触れ合いが途絶えていたのなら、どこかの時点で不信の芽が育っていたかもしれない。けれど、昨晩も隆史に求められてその身体を預けたし、今朝出勤する前にも、儀式のような短い行為があった。扉の向こうから響いてくるような、魂を削り合うような激しさとは程遠かったが、それでも「愛されている」と
last update最終更新日 : 2026-03-24
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第四話「綻びた隷属」
 夕方の六時を過ぎた頃、静まり返った玄関に、鍵が乱暴に回される硬い音が響いた。 叩きつけるようにドアが開き、脱ぎ捨てられた革靴が床を滑って壁にぶつかる。廊下を突き進んでくる足音の荒さだけで、隆史の機嫌が最悪の極致にあることは、容易に察せられた。 彩葉はキッチンに立ったまま、逃げ場のない小動物のように身を固くした。カウンター越しにリビングを見渡せば、仕事鞄をソファへ叩きつける隆史の姿が嫌でも目に入る。整髪料で固められていた茶髪は見る影もなく乱れ、ネクタイは無様に緩んだまま、彼の首に力なくぶら下がっていた。「……おかえりなさい。夕飯、できてるから」「あ?」 鋭利な刃物のような一言が、彩葉の言葉を撥ねつけた。隆史がゆっくりと振り返り、充血した眼で彼女を射抜く。頬の紅潮は怒りゆえか、あるいは帰りがけにどこかで煽ってきた酒のせいか。リビングの空気までを侵食するように、不快なアルコールの匂いが漂い始めた。「お前のせいで、会議の前に着替えられなかった。おまけに……精液臭いとまで言われたんだぞ、俺は!」 剥き出しの歯の隙間から吐き捨てられた罵声に、彩葉の背筋に冷たい震えが走った。精液臭い――あの社長室で鷹峰が放った、冷徹なまでの事実。隆史は自らが秘書と情事に耽っていた事実を棚に上げ、その醜態を暴かれた屈辱のすべてを、彩葉へと転嫁しようとしている。「ごめんなさい」 反射的に、謝罪が唇から零れた。自分は一分一秒を惜しんで奔走したというのに、この男の前では条件反射のように頭を下げてしまう。身体の芯まで染みついたこの従順さが、彩葉は自分でも厭でたまらなかった。「すぐ持ってこいと言っただろうが。お前がトロいから、俺が恥をかいたんだよ。……使えない女だ」 隆史はダイニングチェアを乱暴に引き、呻くような音を立てて腰を下ろした。テーブルに並べられた彩り豊かな料理には目もくれず、腕を組んで天井を睨みつけている。不満げに歪められた口元からは、絶えず毒々しい溜息が漏れていた。 彩葉は動くこともできず、ただ嵐が過ぎ去るのを待った。こういう時の彼は、言葉を重ねれば重ねるほどに火を噴く。余計な気配を消し、彼の視界から消えることこそが、この三年の同棲生活で身につけた唯一の護身術だった。 しばらく、苛立たしげな舌打ちが室内に満ちていた。けれど、ふいに隆史がくぐもった笑い声を立てた。 
last update最終更新日 : 2026-03-25
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第五話「邂逅の残り香」
 終電に間に合うよう、彩葉は夜の街を無我夢中で駆けた。 ボストンバッグの細い紐が肩の肉に食い込み、革靴の薄い底を通して、固いアスファルトの無機質な感触がダイレクトに足裏へ伝わってくる。七月の夜気はねっとりと肌に纏わりつくように蒸し暑く、走るうちに額と首筋には、じっとりとした汗が滲んでいった。駅のホームに滑り込んできた電車のドアが閉まる直前、彩葉は滑り込むように飛び乗り、空いた座席に深く身を沈めて荒い息を整えた。 車窓を流れていく街の灯りが、時間を追うごとにまばらになっていく。都心の密集したビル群が郊外の住宅地に変わり、やがてそれさえも、底知れぬ暗い田畑の風景へと溶けて消えた。乗り換えのターミナル駅で降り、最終の路線バスを待つ間、彩葉は古びたベンチに腰を下ろして夜空を仰いだ。東京の空を覆っていた光の塵はなく、そこには吸い込まれるような闇と、ぽつぽつと遠慮がちに散る星々があった。 バスに揺られること四十分ほどで、見慣れた停留所へ辿り着いた。ステップを降りた瞬間、湿った土と深い木々の匂いが肺をいっぱいに満たす。都会のコンクリートが放つ熱とはまるで異なる、山あいの温泉街特有の、冷ややかで柔らかい空気。硫黄の匂いが微かに混じった夜風が火照った頬を撫で、彩葉の強張っていた肩から、ようやく幾分かの力が抜けていった。 街灯もまばらな心細い坂道を登れば、暗がりの奥に、見覚えのある旅館の屋根が輪郭を現した。『藤宮』と白く染め抜かれた暖簾が、玄関の灯りに照らされて静かに揺れている。幼い頃から当たり前のように見慣れてきたはずのその布が、今夜に限っては、眼に痛いほど眩しく感じられた。 玄関の引き戸を、音を忍ばせて開ける。帳場で帳簿をつけていた母・由紀が、音に気づいて顔を上げた。五十二歳の丸い顔に驚愕が走り、彼女は読書用の老眼鏡を額の上へと押し上げて、娘の姿を凝視した。「彩葉? どうしたの、こんな夜更けに……」 母の声に呼応するように、奥の調理場から父・健一が姿を見せた。割烹着を纏ったままのその姿は、翌朝の仕込みの最中だったのだろう。五十五歳の日焼けした顔に、母と同じ当惑の色が浮かんでいる。「……ただいま」 絞り出した声が、自分でも驚くほど震えた。平静を装い、いつもの自分を見せようとしたはずなのに。愛する両親の顔を見た途端、喉の奥が熱い塊で塞がれ、視界が急激に滲んでいく。ボ
last update最終更新日 : 2026-03-26
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第六話「隷属の終止符」
 朝の光が障子を透かして、和室を淡い白で満たしていた。 鳥のさえずりが遠くから聞こえ、ゆっくりと意識が浮上してくる。重たい瞼をこじ開けるように目を開けた彩葉は、見慣れない天井の木目をしばらく見つめてから、ここが離れの部屋だということを思い出した。 隣に手を伸ばすと、そこには誰の体温も残っていなかった。 掛け布団がめくれた痕跡だけが、つい先ほどまでそこに人がいた証として、虚しく残されている。鼻をくすぐる微かな煙草の残り香が、鷹峰がここにいたことを示す唯一の名残だった。紫煙の香りを肺いっぱいに吸い込むと、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような、切ない寂しさが広がっていく。 身体を起こそうとして、彩葉は全身を走る鈍い痛みに顔を歪めた。 腰が重く、太腿の内側が引きつるように痛む。腕に力を込めて上半身を持ち上げると、筋肉という筋肉が悲鳴を上げているのがわかった。こんな、芯から搾り取られたような疲労感を味わったのは、生まれて初めてのことだった。 浴衣の合わせ目が大きくはだけ、胸元から腹部にかけてが露わになっている。鏡を見ずとも、自分の肌の状態は察せられた。鎖骨の下、胸の谷間、腰骨の上、そして太腿の内側――目に入る肌のあちこちに、赤紫色の生々しい痕がくっきりと刻まれている。鷹峰が唇を押しつけ、歯を立て、激しく吸い上げた徴の数々が、身体の地図のように散らばっていた。 羞恥で、全身がかっと熱くなった。 婚約者がいる身でありながら、自分から「抱いて」と口にしたのだ。「男の誘い方が下手だと言われた」などと自虐的に呟きながら、彼の腰に脚を巻きつけて強請った。隆史に対しては三年間、ただ従順に身体を差し出すだけだった自分が、鷹峰の前では、飢えた獣のように貪欲になっていた。 恥ずかしさに耐えきれず、再び布団に倒れ込んだ。その瞬間、右手の指先がぐっしょりと濡れたものに触れた。ぬるりとした、粘り気のある感触に「ひっ」と小さく悲鳴を上げ、反射的に手を引っ込める。 身体を起こして確認すると、シーツの上に大きなシミがいくつも、無惨に広がっていた。どこもかしこもぐちょぐちょに濡れていて、畳にまで染み込んでいる部分すらある。昨夜、何度も何度も噴き出した熱い液体が布団を浸し、乾ききらないまま朝を迎えていたのだ。 自分の身体から溢れ出たものだと理解した途端、顔だけでなく首筋まで灼けるような熱さ
last update最終更新日 : 2026-03-27
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第七話「籠の中の変革」
 朝はまだ薄暗いうちに、彩葉は隆史よりも先にベッドから抜け出した。 隣で仰向けになり、無防備に喉を晒して眠る隆史の規則正しい寝息を確認してから、羽毛が擦れる音すら立てないよう、慎重に足を床につける。フローリングの刺すような冷たさが素足の裏から心臓へと伝わり、微睡んでいた意識が一気に覚醒した。遮光カーテンの僅かな隙間から差し込む、夜明け前の白々と濁った光を頼りに、彼女は忍び足で寝室を脱出し、静まり返ったリビングへと向かった。 ウォークインクローゼットの扉を開くと、そこには昨日までの絶望を拭い去ったかのような、鮮やかな光景が広がっていた。 かつてここを占領していた、紺色や黒ばかりの地味な服――隆史の好みを押し付けられ、彼の所有物であることを象徴するかのような衣装たちは、東京に戻ったその足ですべて処分した。代わりに新しくハンガーに並んでいるのは、彩葉自身が自分のために選んだ、春の陽だまりを思わせる洋服たちだ。 ふわりとしたシフォン素材のワンピース、繊細なレースがあしらわれたブラウス、風にそよぐプリーツスカート。どの一着も淡い色彩で統一されており、クローゼットの中はまるで花が咲いたように明るい。 今日は、膝丈の純白のワンピースを選んだ。頭から被るように袖を通すと、柔らかな生地が肌に張り付くように身体を包み込み、裾がひらりと膝の上で軽やかに躍った。桃色の薄手のカーディガンを肩に羽織り、袖口から覗く細い手首に、お気に入りのアンクレットを留める。仕上げに、ゴールドの小さな揺れるピアスを耳たぶに通した。首を僅かに傾けるたび、朝の光を捉えた金細工がキラキラと繊細な火花を弾き、鏡の中の自分の顔まわりで小さな星が瞬くようだった。 化粧ポーチを開き、アイシャドウのパレットに指を伸ばす。隆史の前では決して許されなかった、艶やかな色彩。薄化粧を装いつつも、アイラインは目尻を強調するように引き、マスカラで睫毛の一本一本を丁寧に扇状に広げる。カーディガンの色に合わせた珊瑚色の口紅を唇に引くと、そこには隆史が求めた「従順な人形」ではなく、彩葉が渇望していた「意志を持つ女」が映し出されていた。      ◇◇◇ 身なりを整え、武装を終えると、彩葉はまずモップを手に取った。 リビングから廊下に至るまで、床の隅々まで執拗なほど丁寧に磨き上げる。不浄な記憶を拭い去る儀式のように床を輝かせ
last update最終更新日 : 2026-03-27
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第八話「二人の支配者の蜜に濡れる執着」
(私って、この会社の何なんだろう……?) 大型コピー機が吐き出す、規則正しい駆動音と熱を帯びた紙の匂いの中で、彩葉はふと虚空を見つめた。 トレイに吸い込まれていく真っ白な紙、ガラス面の下で走る青白いスキャナの光。その単調な繰り返しに合わせるように、彼女は機械的に指を動かす。原稿をセットし、部数を入力し、印刷ボタンを押す。その指先には、もはや何の感情も宿っていない。 キャバ嬢という華やかな、けれど空虚な世界を辞めた後、流されるままに足を踏み入れたのは隆史が経営するこの会社だった。 総務課のフロアの片隅、窓際から遠く離れた場所に彼女のデスクはある。支給された名刺には「総務部」という立派な肩書きが躍っているが、実態は名ばかりのものだ。 彩葉が日々こなしているのは、各部署から押し付けられる膨大なコピー取りや、山のような書類のファイリングといった、誰にでもできる雑務ばかり。時折、来客の取り次ぎを頼まれることもあるが、隆史には有能な専属秘書が別にいる。彩葉の立ち位置は、組織図のどこにも分類できない、名前すらつけようのない曖昧な「何か」でしかなかった。 そして、この会社で働き始めてから一度として、給料という形の実感を手にしたことはない。「お前の給料は、責任を持ってご両親に全額送っている。それがお前の望みだろう?」 隆史は事あるごとにそう恩着せがましく告げるが、実際にいくらの金額が実家に届いているのか、あるいは本当に届いているのかさえ、今の彩葉には確かめる術がない。日々の食費も、わずかな生活備品も、すべては隆史から渡された家族カードで決済される。自分の労働が対価としてどこへ消えていくのか――。自分がこの会社に正式な社員として籍を置いているのかすら、不透明な霧の中にあった。「藤宮さん、コピーありがとうございます。助かりました」 営業課の若い男性社員が、総務のエリアにひょっこりと顔を出し、爽やかな声をかけてきた。彩葉が微かな微笑を浮かべて会釈を返すと、彼は少し照れたように鼻の頭を掻き、小さく手を振って去っていく。 再びコピー機と向き合い、次の束をセットしようとした、その時だった。「……藤宮さんって、最近、随分と雰囲気が変わりましたよね」 背後からかけられた声に、彩葉の肩が小さく揺れた。振り返ると、先ほどの男性社員が、今度は片手にアイスティーのペットボトルを握
last update最終更新日 : 2026-03-27
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第九話「爪痕と奪われた熱の行方」
 大型コピー機が規則正しく吐き出す、熱を帯びた紙の匂い。その無機質な駆動音の中に、彩葉は自らの乱れた呼吸を隠すようにして立ち尽くしていた。 やりかけだった事務作業を、震える手でどうにか終わらせる。トレイに積まれた書類を整える指先さえ、自分のものとは思えないほど感覚が乏しい。 逃げ込むように向かった給湯室で、彼女は冷え切ったステンレスのシンクを支えに、どうにか身体を保っていた。ガラスのコップに注いだ氷水を、一気に喉へと流し込む。火照りきった身体を内側から無理やり冷やすように、喉を通り、胃の腑へと落ちていく冷水の鋭い感触に、彩葉は必死に意識を集中させた。(……下着が、濡れてる) 水を飲み干しても、身体の芯を焦がすような熱は一向に引かなかった。それどころか、意識すればするほど、太腿の内側をじっとりと湿らせる不快な重みが、羞恥を伴って存在を主張してくる。 歩くたびに、繊細なレースの布地が吸い付くように肌に張り付く。それが、自らの身体が犯した「裏切り」をこれでもかと突きつけてきた。 彩葉は周囲を気にするように廊下を窺うと、デスクに戻るふりをして鞄からおりものシートを一枚抜き取った。握りしめた拳の中にそれを隠し、小走りで化粧室へと向かう。ハイヒールの踵が、逃亡者のようにせわしなく床を叩いた。 化粧室の重い扉を閉め、個室の鍵をかける。その小さな金属音が、今の彼女には世界から隔離してくれる唯一の救いのように聞こえた。 滑らかな生地のスカートを捲り上げ、純白のショーツを膝まで下ろす。露わになった股布の部分には、隠しようのないほど濃い蜜のシミが、無残に広がっていた。 鷹峰に首筋を吸われ、背中のファスナーを引き上げてもらった――。 たったそれだけのことだった。暴力的な隆史のそれとは違い、ただ服を整えられただけだというのに、彩葉の身体はあられもないほどに反応し、耐えきれず絶頂を迎え、その証を溢れさせていた。 頬が再び、燃えるような熱を持つ。鷹峰の腕の中で感じた、吸い込まれるような絶対的な体温。上質なスーツ越しに伝わってきた、岩のように硬く逞しい胸板の厚み。それらを思い出すだけで、項から背筋にかけて、ぞくりと甘い戦慄が奔流となって駆け抜けた。(ずるいなぁ……。あんなの、抗えるはずがない) 隆史に乱暴に襟元を広げられ、尊厳を土足で踏みにじられた時は、泥を塗られたよう
last update最終更新日 : 2026-03-28
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第十話「陥落の鳥籠」
 自身が後ろ暗い悦びに身を委ねている者ほど、恋人の僅かな変化に敏感になるものらしい。どこかで耳にした警句が、今、目の前で残酷な現実として形を成していた。 リビングのソファに深く腰を下ろした隆史の手の中で、彩葉のスマートフォンが玩具のように弄ばれている。「出張」という名の秘書との情事から四日ぶりに帰宅した彼は、荷物を解くよりも先に彩葉の私物を検閲し始めた。新事業の商談の合間に、異国のような解放感を楽しんできたのだろう。日焼けした逞しい腕には、成功を誇示するような真新しい高級腕時計が鈍く光っている。 隆史がどこで誰と肌を重ねていようと、もはや彩葉の心は波立つことさえなかった。彼への情愛は、砂漠に零した水のようにとうに枯れ果てている。あの契約の日、社長室のソファで強引に組み敷かれて以来、彼の指が触れるたびに全身の産毛が逆立つような拒絶反応に襲われるようになった。愛のない屋根の下で、求められれば物言わぬ人形のように応じる日々。それは感情という機能を殺さなければ、到底耐えられるものではなかった。「……メッセージアプリも、通話履歴も。殊更、怪しい点は見当たらないな」 一通りの検分を終えた隆史が、彩葉のスマートフォンを硝子のテーブルへ放り出した。画面を上にして置かれた端末に、天井の冷ややかな照明が歪んで映り込む。チェックを終えた安堵など微塵もなく、むしろ「獲物」を見逃したような不満げな表情で、隆史は彩葉を凝視した。 地味な装いだった婚約者が、最近になって急に装いを整え、微かな色香を纏い始めた。そこに男の影が一切見当たらないことが、彼には不可解でならないのだろう。彩葉の変容を、彼は「裏切り」の兆候だと疑っている。隆史の苛立ちの根源が、彩葉には手に取るように分かってしまった。「俺が不在だった四日間、何をしていた?」「仕事を終え、夜は家で静かに過ごしておりました」(――私のすべて知っているくせに) 喉元まで出かかった言葉を、彩葉は冷えた紅茶と共に飲み込んだ。 隆史が家を空けている間、探偵紛いの人間を雇って彩葉の行動を監視させていたことは、既に聞き及んでいた。先日、事務的な用件で会社に連絡を寄越した鷲尾が、世間話の合間に「相沢社長は随分と心配性のようですな」と、さりげなく、だが確実にその事実を伝えてくれたのだ。 鷲尾の警告を受け、改めて住み慣れたはずの室内を見渡し
last update最終更新日 : 2026-03-29
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