ログイン元キャバ嬢の彩葉は、婚約者・隆史に実家の旅館を売却され、「一生俺の奴隷だ」と嘲笑われる日々を送っていた。浮気、暴力、支配――全てに耐えてきた彩葉が限界を迎えて逃げ帰った実家の貸切風呂で、背中に龍の刺青を持つ男と出会う。 大企業の社長にして極道の組長・鷹峰彗。彼に初めて本当の快感を教えられた夜、囁かれた「一つ提案がある」という言葉が、彩葉の運命を変えていく。 旅館を取り戻すために隆史のもとへ戻った彩葉。愛のない男の隣で静かに復讐の時を待ちながら、鷹峰への想いだけが心の支えだった。 裏切った婚約者と浮気相手が転落していく痛快な「ざまあ」と、一途に想い続けた極道の純愛が交差する、復讐×溺愛のTLロマンス。
もっと見る今日一日で、あまりにも多くのことが起きすぎた。
心も身体もぐったりと疲れ果て、彩葉の頭の中はぐちゃぐちゃに絡まった糸のように、どうしても解けてはくれなかった。熱い湯にすべてを流してしまいたい――。追い詰められたような心地で、彩葉は実家の旅館にある貸切風呂へと足を向けた。
夜も深い時間帯。予約が入っていないことは帳場で確認済みだった。木の香りが静かに漂う脱衣室で、急くように衣類を脱ぎ捨てる。白いタオルを胸の前で固く押さえ、吸い込まれるように浴室の引き戸を開けた。
ふわりと柔らかな湯煙が顔を包み込み、硫黄と檜が混ざり合った温泉特有の匂いが鼻腔をくすぐる。
だが、石畳に一歩を踏み出した瞬間、彩葉の身体は凍りついた。
白く煙る視界の奥に、確かな人影があった。
広い背中が湯船の縁に凭れるように見えている。その肩甲骨から腰の曲線にかけて、目を剥くような鮮やかな色彩が広がっていた。鱗の一枚一枚まで精密に彫り込まれた、龍の刺青。湯気に滲みながらも、それは圧倒的な威圧感と、逃れがたい存在感を放っている。
彩葉は息を呑んだ。
極道の人間が、なぜうちに――。その事実が脳裏を駆け抜けると同時に、彩葉は弾かれたように踵を返した。
「す、すみません! 先客がいらっしゃるとは知らなくて――」
上ずった声が虚しく響く。焦りで足がもつれ、濡れた石畳に裸足を取られた。前のめりに転びかけた身体を、背後から伸びてきた逞しい腕が、逃さず支え止める。
「そう慌てなくていい。広い風呂だ、気にするな」
低く、落ち着いた声が耳元で鳴った。二の腕を掴む太い指から、湯に温められた男性の熱い体温が直に伝わってくる。彩葉はタオルを握りしめたまま、恐る恐る振り返った。立ちのぼる湯煙がカーテンのように視界を遮り、男性の顔を隠している。
「入りにきたんだろう? また服を着るのも面倒だろう。せっかくだから、入ればいい」
押しつけがましさのない、淡々とした口調だった。言葉の端々に滲む不思議な穏やかさが、彩葉の強張った肩から少しだけ毒を抜いてくれる。
「お、お言葉に甘えて……失礼します」
身体を小さく縮めるようにして、湯船の端へ静かに足を沈めた。じわりと全身に熱が広がり、温泉の恵みが凝り固まった筋肉をゆっくりと解していく。肩まで浸かって長く息を吐くと、こめかみに張りつめていた緊張が、わずかずつ緩んでいくのがわかった。
そのとき、一陣の夜風が吹き込み、浴室の湯煙をゆらりと揺らした。
白い靄の隙間から、男性の横顔が一瞬だけ露わになる。切れ長の涼しい目元と、彫刻のようにすっと通った鼻筋。
見覚えのある、端正な輪郭だった。記憶を辿り、昼間の出来事と照らし合わせた瞬間、彩葉の目は大きく見開かれた。
「え……? 鷹峰社長、が……どうしてここに」
驚きのあまり勢いよく立ち上がってしまい、湯の中に隠していた身体が、肩から太腿にかけて一気に露わになった。湯が盛大に波打ち、ばしゃんと音を立てて溢れ出す。
鷹峰は湯煙の向こうで、わずかに口角を持ち上げた。
「離れに宿泊している。この旅館が今後どうなるか、ご両親に説明しに来ていたんだ」
落ち着き払ったその声に、彩葉はようやく自分の無防備な状態を思い出し、慌てて湯の中へ沈み込んだ。胸元まで浸かり直しても、喉元まで跳ね上がった鼓動は一向に収まってくれない。
「ごめんなさい。まさか、泊まっていらっしゃるなんて思わなくて……」
肩を縮め、視線を湯面に落とした。ゆらゆらと揺れる水面に、自分の影が情けなく映っている。
「それより――」
鷹峰の声色が変わった。低く、けれど鋭い硬さを帯びている。
「腕と腹にあるあざは、なんだ」
彩葉の血の気が一気に引いた。
立ち上がった刹那、彼の目にはすべてが映っていたのだ。二の腕の内側に残るどす黒い紫色の痣。腹部にまだらに散る、黄色く変色した古い打撲の痕。
忌まわしい過去の痕跡をすべて見られたと悟り、彩葉は両腕で自分の身体を抱くようにして、さらに深く湯に沈んだ。
「ごめんなさい……こんな身体、見たくもないですよね」
消え入りそうな声で呟き、膝を抱えて丸くなった。痣だらけの身体を誰かに晒すのは、恥辱以外の何ものでもなかった。惨めで、視界がじわりと滲んでいく。
だがその時、背中に熱いものが触れた。
太い腕が後ろから彩葉の肩を包み込み、力強く引き寄せられる。硬い胸板が背中に密着し、湯の温度とは違う、生き物の熱が皮膚越しに染み込んできた。鷹峰の体温は驚くほど高く、火照った彩葉の肌をさらに灼くように熱い。
「こんな身体? 本気でそう思っているのか」
耳朶を震わせる低い囁きに、背筋を甘い痺れが駆け抜けた。
「あの……私、婚約者がいて……」
振り絞るような拒絶を告げると、肩を抱く腕に込められた力が、わずかに強まった。
「知っている。相沢だろう」
「その――だから」
「身体のあざは、相沢のせいなんだな?」
核心を突かれ、彩葉は言葉を失った。水滴が縁石に跳ねる音だけが、静まり返った浴室に響いている。
「私が……トロいから……っ」
力なく紡いだ言い訳を、鷹峰は逃さなかった。
「彩葉が?」
名前を呼ばれた衝撃で身体が跳ねた瞬間、鷹峰の指先が、彩葉の胸の先端を不意に掠めた。薄い皮膚の上を、硬い指の腹が擦り、ぞくりとした感覚が背骨を突き抜ける。
「んぅ……っ」
思わず漏れた声に、自分自身が驚いた。口を押さえようと片手を持ち上げたところで、鷹峰の大きな手が、胸の膨らみをたっぷりと覆い、ゆっくりと揉みしだき始めた。
「だ、めぇ……」
甘い拒絶の言葉とは裏腹に、身体は残酷なほど正直だった。温かい掌に包まれ、優しく形を変えられるたびに、奥底から熱いものが込み上げてくる。
こんなふうに丁寧に、慈しむように触れられるのは、もうずっと長い間なかったことだった。婚約者である隆史の乱暴な手つきとは何もかもが違っていた。力加減も、指の動かし方もすべてが優しく、身体の芯が勝手に蕩けていくのを止められない。
指先で先端を摘み、くりっと捻るように弾かれる。大きな嬌声が、浴室の壁に反響して返ってきた。
「あああっ……!」
腰がびくんと跳ね、湯が大きく波打つ。密着した尻が鷹峰の身体に押しつけられ、腰の裏側に、硬く熱い「質量」が当たった。
太く、猛り、存在を増した彼の剛直が、彩葉の腰に容赦なく押しつけられている。
婚約者がいると頭では理解しているのに、身体は背後の男を狂おしいほど求めていた。肌が触れ合う面積が増えるたび、理性の糸が一本ずつ、ぷつりと切れていく。
鷹峰の左手が胸を弄り続け、右手が湯の中を滑るように降りていった。太腿の内側を愛撫し、やがて熱を持った密口に触れる。
「ああっ。そこは、だめ……っ」
反射的に足を閉じようとした彩葉の耳たぶを、鷹峰が甘く噛んだ。鋭い歯の感触と湿った吐息が同時に襲い、頭の中が真っ白に弾ける。
「本当に? このまま終わるか? 何もしなくていいのか」
密口を撫でていた指が、ぬるりと割れ目をなぞった。
「ぬるぬるだぞ、彩葉」
低く囁かれた言葉に、身体の奥がきゅうっと締まった。羞恥で涙が滲むのに、腰は彼の指を追うように小さく揺れている。拒みたいのに、やめてほしくない。矛盾した感情が渦を巻き、彩葉の唇から絞り出されたのは、あまりにも浅ましい本音だった。
「……入れて、ほしい……っ」
自分の声だとは信じられないほど掠れた、小さな、けれど切実な懇願だった。
鷹峰の腕が、ふっと彩葉を放した。急に温もりが失われ、夜風の冷たさと寂しさが同時に押し寄せてくる。
「風呂の縁に手をつけ。尻をこっちに向けろ」
命令口調。だがその底には、隠しきれない情熱が滲んでいた。彩葉は言われるがままに湯の中で身体を転じ、石造りの縁に両手をついた。指先に冷たい石の感触が伝わり、背中を彼に向けた格好で腰を突き出す。
太い手が、ぐいと腰を掴んだ。
熱い先端が密口を捉え、押し広げられていく感覚に、彩葉の指が縁石を無意識に掻いた。
一気に最奥まで貫かれると、背中が弓なりに反り返り、全身を稲妻のような快感が突き抜けた。
「ああっ……――!」
叫び声が浴室の天井に響き渡る。挿入された瞬間に身体が激しく痙攣し、蜜筒が鷹峰を強く締めつけて離さない。内壁が脈打つように収縮を繰り返し、頭の中が白く飛んだ。
(大きい……こんなの、初めて……っ)
身体の奥を無理やり押し広げられ、内臓まで届きそうなほど深く満たされている。隆史とは比べものにならない圧迫感が、彩葉の中に消えない存在を刻みつけていた。
「もうイッたのか。早いな」
鷹峰の声に、大人の余裕が滲む。彩葉は湯の中で膝を震わせながら、必死に身体を支えていた。繋がったまま、彼の大きな手が下腹部に添えられ、内側から押すように圧力をかけてくる。
「ここに俺のがあるの……わかるか?」
「ああ、それ……だめぇ、っ」
内臓越しに彼の熱が浮き彫りになる感覚に耐えきれず、腰がガクガクと震えて、また痙攣してしまった。蜜筒がぎゅっと締まり、全身に鳥肌が立つ。
「すごい感度だな。まだ入れただけだぞ」
「わからなっ……こんなの、初めて、だから……っ」
涙混じりの声が漏れた。隆史との行為で感じたことなど、一度もなかった。痛みと義務感しかなかったはずの身体が、鷹峰に貫かれただけでこんなにも反応してしまう。その事実に、彩葉自身が一番戸惑っていた。
「俺がイく前に、イキすぎて気絶するなよ」
低い警告のあとに、鷹峰がゆっくりと腰を引いた。抜けていく感覚に耐え難い物足りなさが生まれた途端、また深く、重く押し込まれる。出し入れが繰り返されるたびに、奥の壁を容赦なく擦り上げられ、彩葉の口からは止めどなく甘い吐息が溢れ出した。
(奥まで届く……無理、苦しい。すぐにイっちゃう……っ!)
ぐっと腰を両手で掴み直され、鷹峰が一際深く突き上げた。最奥を叩かれた瞬間、視界が真っ白に弾け、彩葉は声にならない絶叫をあげて全身を痙攣させた。膝の力が一気に抜け落ち、湯の中に沈みかける。
「おっと。溺れるから、一度出るぞ」
崩れ落ちそうになった彩葉の身体を、鷹峰が軽々と抱え上げた。湯から引き上げられると、夜風が火照った肌を撫でて鳥肌が立つ。力の入らない足ではまともに歩くこともできず、彩葉は彼の腕に支えられながら脱衣室へと移動した。
畳の上に足をつくと、正面にある大きな姿見が目に入った。鷹峰が背後に立ち、彩葉の腰を抱き寄せるようにして身体を密着させてくる。
鏡越しに二人の姿が映り、彩葉は思わず目を伏せた。自分の身体が泥のように力を失って、男に凭れかかっている。濡れた髪が白皙の肩に張りつき、頬は紅く上気していた。
背後から、再び熱い先端が押し当てられた。
ずるりと奥まで侵入してくる感覚に、彩葉の背中が再び反り返る。
「無理、すぐっ……いっ、あああっ!」
挿入されただけで、身体が激しく波打った。蜜筒が収縮を繰り返し、全身がびくびくと震える。立っているのがやっとで、膝が笑い、鷹峰の逞しい腕にしがみつくことしかできない。
絶頂の波に呑まれている最中に、耳元で低い声が降ってきた。
「鏡を見てみろ」
言われるままに顔を上げると、姿見の中に、あまりにも淫らな光景が映し出されていた。背中に龍の刺青を纏った端正な顔の男と、一つに繋がったまま腰を震わせている自分。濡れた黒髪が肌に張りつき、半開きの唇から荒い息が漏れ、潤んだ瞳には涙の粒が光っている。
恥ずかしさで顔を背けた途端、顎を掴まれて正面に戻された。鷹峰の指が顎の骨に食い込み、逃げることを許さない。鏡の中の自分と目が合い、羞恥で全身が熱くなった。
「俺が彩葉を抱いているんだ。ちゃんと覚えておけ」
鷹峰が腰を揺すり、奥をゆっくりと抉るように突いてくる。鏡の中で、彩葉の表情がみるみる崩れていった。
「この快感を身体の奥底に刻み込め。これが俺とのセックスだ。気持ちいいだろう? 彩葉――」
「あっ、あっ、気持ち、いいっ……!」
嘘偽りのない言葉が口をついて出た。隆史に抱かれているときは、いつも声を出すふりをして、感じている演技をしていた。痛みを快感だと思い込もうとしても、身体は正直で、いつも乾いたままだったのに。
「俺もだ、最高に気持ちいい」
彼の声が耳朶を震わせた。大きな手が彩葉の腰骨を掴み、背後から激しく打ちつけてくる。肌と肌がぶつかり合う湿った音が脱衣室に響き渡り、男女の荒い呼吸が幾重にも重なり合った。
身体の奥から、熱い塊がせり上がってくる。
全身の快感が一点に集中していき、限界を超えた瞬間に破裂した。視界が真っ白に染まり、意識が遠くなっていく。絶叫にも似た声が自分の喉から迸ったのを最後に、彩葉の世界は眩い光の中に溶けていった。
朝から鷹峰の元へ呼び出されていた隆史が、昼を過ぎた頃にようやく姿を現した。 エレベーターの扉が開くなり、力なく肩を落とした彼が総務課に顔を出し、「彩葉」と掠れた声で呼ぶ。頬はげっそりとこけ、目の下の隈は死人のように色濃い。鷹峰からどのような宣告を受けたのか、彼の額には嫌な脂汗が滲んでいた。「コーヒー、淹れてくるわね」 彩葉が席を立つと、隆史は迷子の子どものようにすぐ後をついてきた。 狭い給湯室でコーヒーメーカーに手を伸ばした瞬間、背後から強引に腰を掴まれ、振り返らされる。逃げる間もなく、熱を帯びた唇で塞がれた。「ん……っ」 顎を掬い上げられ、何度も角度を変えて深く、執拗に重なる唇。かつての支配的な乱暴さは消え、そこにあるのは崩れゆく自分を繋ぎ止めようとする、無様に縋り付くような感触だった。「……コーヒーが淹れられないわ」 やんわりと胸を押して距離を置こうとしたが、隆史は飢えた獣のように再び腕を伸ばし、彩葉を抱き寄せた。「彩葉……キスしたい。もっと……」 甘ったるく、駄々をこねるような声。数ヶ月前まで「トロい」と罵倒し、彩葉を家畜のように扱っていた男と同一人物とは思えない変貌ぶりだった。彩葉は冷めた心を隠し、聖母のような微笑を湛えて彼の肩をそっと押し戻した。「社長室に戻っていて。すぐに持っていくから」 隆史が名残惜しそうに去っていくのを見届け、彩葉は丁寧にコーヒーを二杯淹れた。香ばしくも苦い豆の匂いが立ち込め、カップから揺らめく白い湯気が、無機質な蛍光灯の光に透けて消えていく。 トレイを手に社長室の扉をノックし、返事を待たずに開けた。その瞬間、目に飛び込んできたのは、ソファに座る隆史の腿の上に、ゆかりが跨ろうとしている卑猥な光景だった。「ゆかり、最近すっごく寂しいんですぅ……」 粘りつくような声をあげ、ゆかりがブラウスのボタンを上から順に外していく。はだけた襟元から、繊細なレースの下着に縁取られた柔らかな胸が溢れ出し、隆史の眼前で挑発的に揺れていた。「――やめてくれ」 隆史がゆかりの腰を掴み、拒絶するように押し返した。彩葉がこの会社で過ごしてきた三年間、彼が秘書の誘惑を退ける姿など一度も見たことがない。「いいじゃないですかぁ」 ゆかりは構わずに次のボタンを外し、さらに身を乗り出す。隆史は逃れるように彼女をソファへ押し倒すと、弾
鷹峰と二人きりになった後の社長室からは、厚い木製の扉越しにも伝わるほどの圧を孕んだ声が響いていた。 低く抑えられた声音は、怒鳴り散らすよりもかえって凄みを増し、廊下に佇む彩葉の背筋を冷たい指先でなぞられるような戦慄が走り抜ける。隆史がどのような表情でその断罪を受けていたのか、知る由もない。だが、しばらくして部屋から這い出してきた彼の顔面蒼白な有様は、これまでの傲慢さを微塵も感じさせないほど無惨なものだった。 あの日を境に、隆史の世界は音を立てて崩壊し始めた。 かつての自信家な面影は消え、寝る間も惜しんで事業のリカバリーに奔走する日々が続く。朝から晩まで受話器に縋りつき、血走った目で取引先を回り、新たな提携先を求めて泥を這うように走り回る。食事を摂る暇すら惜しみ、深夜過ぎに帰宅しては、ネクタイを解く力も残っていないままソファに倒れ込む。そんな夜が幾度も繰り返された。 だが、動けば動くほど、底なしの泥沼に足を取られていくようだった。 提携していた子会社は次々と他社に買収され、積み上げてきた契約は紙屑同然の不履行となる。新事業のために投じた巨額の資金は回収の目処が立たず、あちこちで負債の火の手が上がった。地に落ちた信用を拾い集めようと必死に電話をかけても、繋がる相手は日に日に減っていく。焦って手を打つたびに、状況は最悪の坂道を転げ落ちていった。 夜の静寂さえも、彼にとっては拷問に等しかった。 ベッドに入っても眠りの淵に沈むことができず、浅い眠りの中でうなされては、喉を詰まらせて跳ね起きる。隣で横たわる彩葉が、その異変に気づかないはずはなかった。シーツを白くなるまで握りしめ、奥歯をギリリと鳴らして耐える隆史の横顔を、彼女は暗闇の中で幾度も冷めた目で見つめていた。 整髪料で固める余裕を失った茶髪は、艶をなくして額にぼさぼさと垂れ下がり、こけた頬には死人のような隈が深く刻まれている。数週間前まで、彩葉を「奴隷」と呼び、勝ち誇ったように胸を張っていた男の矜持は、もうどこにも残っていなかった。 ◇◇◇ それは、重苦しい湿気を含んだある夜のことだった。 深夜に帰宅した隆史が、シャワーも浴びずにベッドへ潜り込み、背後から彩葉の身体を強く抱きしめてきた。パジャマ越しに伝わる体温は病的なまでに高く、肌がじっとりと汗ばんでいるのが分かる。「彩葉……っ」
「どういうことだ!」 社長室の重厚な扉を突き抜け、隆史の怒声が廊下にまで響き渡っていた。 手に持ったコーヒーカップの縁が、微かな振動で揺れる。彩葉は扉の前で足を止めた。中からは受話器を叩きつける硬い衝撃音が響き、続いて忌々しげな舌打ちの音が漏れ聞こえてくる。 意を決して扉を開けると、デスクの前で立ち上がった隆史が、受話器を握りしめたまま顔を真っ赤に紅潮させていた。まともな会話にもならないまま一方的に電話を切られたらしく、額には青筋が浮かび、薄い唇を強く噛みしめている。朝からこの調子で、同じような絶望的な報せが何度も繰り返されているようだった。 部屋の隅のソファでは、秘書のゆかりが右手に爪やすりを持ち、優雅にネイルの手入れをしていた。社長が隣で狂わんばかりに怒鳴り散らしているというのに、気にする様子は微塵もない。やすりが爪の表面を削る、しゃりしゃりという乾いた音が、隆史の荒い呼吸に混じって規則正しく響いていた。「隆史、どうしたの?」 コーヒーカップをローテーブルに置きながら声をかけると、隆史が血走った目で弾かれたように振り返った。「うるさい!」 ぶつけられた怒声の風圧に、彩葉の肩が小さく跳ねる。数ヶ月前まで日常だったモラハラの記憶が、冷たい水のように背筋を駆け抜け、反射的に「ごめんなさい」と口が動きかける。だが、彼女は奥歯をぐっと噛んでそれを堪えた。もう、怯えて条件反射で謝るだけの自分には戻らない。そう心に誓っていた。「なんでだ。どうしてこんなことに……」 隆史はぶつぶつと力のない独り言を吐き出しながら、デスクと窓の間を落ち着きなく行き来している。綺麗にセットされていた茶髪はぐしゃぐしゃに掻きむしられ、ネクタイは緩み、上質なはずのシャツの襟元も見窄らしく崩れていた。今の隆史に何を問いかけたところで、まともな答えが返ってくるとは思えない。暴力に発展する前にその場を退こうと踵を返しかけた時、ソファから場違いに明るい声が飛んできた。「買収されたみたいよ」 ゆかりの口調は、今日のランチの献立でも話すかのように素っ気なかった。爪やすりを動かす手も止めず、視線すら上げない。「買収?」 彩葉が聞き返すと、ゆかりは爪先に溜まった白い粉をふっと息で吹き飛ばした。「そう。なんかー、よく知らないけど、新事業で提携していった会社が次々と他社に買収されちゃって、
自身が後ろ暗い悦びに身を委ねている者ほど、恋人の僅かな変化に敏感になるものらしい。どこかで耳にした警句が、今、目の前で残酷な現実として形を成していた。 リビングのソファに深く腰を下ろした隆史の手の中で、彩葉のスマートフォンが玩具のように弄ばれている。「出張」という名の秘書との情事から四日ぶりに帰宅した彼は、荷物を解くよりも先に彩葉の私物を検閲し始めた。新事業の商談の合間に、異国のような解放感を楽しんできたのだろう。日焼けした逞しい腕には、成功を誇示するような真新しい高級腕時計が鈍く光っている。 隆史がどこで誰と肌を重ねていようと、もはや彩葉の心は波立つことさえなかった。彼への情愛は、砂漠に零した水のようにとうに枯れ果てている。あの契約の日、社長室のソファで強引に組み敷かれて以来、彼の指が触れるたびに全身の産毛が逆立つような拒絶反応に襲われるようになった。愛のない屋根の下で、求められれば物言わぬ人形のように応じる日々。それは感情という機能を殺さなければ、到底耐えられるものではなかった。「……メッセージアプリも、通話履歴も。殊更、怪しい点は見当たらないな」 一通りの検分を終えた隆史が、彩葉のスマートフォンを硝子のテーブルへ放り出した。画面を上にして置かれた端末に、天井の冷ややかな照明が歪んで映り込む。チェックを終えた安堵など微塵もなく、むしろ「獲物」を見逃したような不満げな表情で、隆史は彩葉を凝視した。 地味な装いだった婚約者が、最近になって急に装いを整え、微かな色香を纏い始めた。そこに男の影が一切見当たらないことが、彼には不可解でならないのだろう。彩葉の変容を、彼は「裏切り」の兆候だと疑っている。隆史の苛立ちの根源が、彩葉には手に取るように分かってしまった。「俺が不在だった四日間、何をしていた?」「仕事を終え、夜は家で静かに過ごしておりました」(――私のすべて知っているくせに) 喉元まで出かかった言葉を、彩葉は冷えた紅茶と共に飲み込んだ。 隆史が家を空けている間、探偵紛いの人間を雇って彩葉の行動を監視させていたことは、既に聞き及んでいた。先日、事務的な用件で会社に連絡を寄越した鷲尾が、世間話の合間に「相沢社長は随分と心配性のようですな」と、さりげなく、だが確実にその事実を伝えてくれたのだ。 鷲尾の警告を受け、改めて住み慣れたはずの室内を見渡し