Alle Kapitel von 婚約者の裏切りを知った夜 極道の組長に染められました: Kapitel 1 – Kapitel 10

13 Kapitel

第一話「龍の紋章が刻む背徳の湯煙」

 今日一日で、あまりにも多くのことが起きすぎた。 心も身体もぐったりと疲れ果て、彩葉の頭の中はぐちゃぐちゃに絡まった糸のように、どうしても解けてはくれなかった。熱い湯にすべてを流してしまいたい――。追い詰められたような心地で、彩葉は実家の旅館にある貸切風呂へと足を向けた。 夜も深い時間帯。予約が入っていないことは帳場で確認済みだった。木の香りが静かに漂う脱衣室で、急くように衣類を脱ぎ捨てる。白いタオルを胸の前で固く押さえ、吸い込まれるように浴室の引き戸を開けた。 ふわりと柔らかな湯煙が顔を包み込み、硫黄と檜が混ざり合った温泉特有の匂いが鼻腔をくすぐる。 だが、石畳に一歩を踏み出した瞬間、彩葉の身体は凍りついた。 白く煙る視界の奥に、確かな人影があった。 広い背中が湯船の縁に凭れるように見えている。その肩甲骨から腰の曲線にかけて、目を剥くような鮮やかな色彩が広がっていた。鱗の一枚一枚まで精密に彫り込まれた、龍の刺青。湯気に滲みながらも、それは圧倒的な威圧感と、逃れがたい存在感を放っている。 彩葉は息を呑んだ。 極道の人間が、なぜうちに――。その事実が脳裏を駆け抜けると同時に、彩葉は弾かれたように踵を返した。「す、すみません! 先客がいらっしゃるとは知らなくて――」 上ずった声が虚しく響く。焦りで足がもつれ、濡れた石畳に裸足を取られた。前のめりに転びかけた身体を、背後から伸びてきた逞しい腕が、逃さず支え止める。「そう慌てなくていい。広い風呂だ、気にするな」 低く、落ち着いた声が耳元で鳴った。二の腕を掴む太い指から、湯に温められた男性の熱い体温が直に伝わってくる。彩葉はタオルを握りしめたまま、恐る恐る振り返った。立ちのぼる湯煙がカーテンのように視界を遮り、男性の顔を隠している。「入りにきたんだろう? また服を着るのも面倒だろう。せっかくだから、入ればいい」 押しつけがましさのない、淡々とした口調だった。言葉の端々に滲む不思議な穏やかさが、彩葉の強張った肩から少しだけ毒を抜いてくれる。「お、お言葉に甘えて……失礼します」 身体を小さく縮めるようにして、湯船の端へ静かに足を沈めた。じわりと全身に熱が広がり、温泉の恵みが凝り固まった筋肉をゆっくりと解していく。肩まで浸かって長く息を吐くと、こめかみに張りつめていた緊張が、わずかずつ緩んでいくのが
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-03-24
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第二話「剥落する虚飾」

 ――遡ること、数日前。 窓から差し込む朝陽は、休日特有の穏やかさを孕んでいた。けれど、彩葉の手が止まることはない。 平日は隆史の経営する会社で雑務に追われ、どうしても後回しにしてしまう家事が、山のように積み上がっているからだ。洗濯機が低い唸りを上げる間に、キッチンの換気扇を念入りに磨き上げ、水回りの水滴を一つ残らず拭き取る。朝の七時から動き始めて、気がつけば三時間が経過していた。 心からありがたいと感じるのは、同棲している恋人の相沢隆史が、休日出勤で不在であることだった。 隆史と交際を始めてから三年、この部屋で共に暮らし始めてから二年半が過ぎる。燃え上がるような情熱に身を焦がした恋人同士でも、千日近い月日を重ねれば、避うことのできない温度差が生まれてしまうものなのだろうか。彩葉にとって、まともな交際経験は隆史だけだった。一般的な恋人たちが三年という歳月を経て、どのような信頼を築き、どのような距離感で慈しみ合うのか、比べる術を彼女は持たなかった。 隆史は、ひどく神経質な男だった。 休日は静寂の中で過ごすことを好むくせに、部屋がわずかでも散らかっているのは我慢がならないらしい。彼が家にいる日に、平日にできなかった家事をこなそうとすれば「うるさい」と苛立たしげな怒声が飛んでくる。かといって彼の機嫌を優先して後回しにすれば、今度は「片付けも満足にできないのか」と冷ややかな叱責が突き刺さる。 どちらの道を選んでも、結局は彼の逆鱗に触れてしまう。彩葉は、出口のない鏡の迷路に放り込まれたような、閉塞感の中にいた。 最近は、言葉の暴力だけでは済まなくなり、手をあげることも増えた。 うまく立ち回れない自分がいけないのだと、彩葉は頑なに自分を責め続けていた。彼の機嫌を損ねるたびに、次はどこから拳が飛んでくるのかと怯え、無意識に肩を竦める癖が、いつしか深く刻まれてしまっている。 だからこそ、彼が仕事で家を空けてくれる時間は、張り詰めていた心も身体もようやく緩めることができる、唯一の安息だった。 隆史は、若くして成功を収めた会社の経営者だ。 しがないキャバ嬢だった彩葉を深く愛し、夜の底から救い出してくれた恩人――少なくとも、彩葉はずっとそう信じて疑わなかった。 かつての彩葉は、苦しい家計のために大学を中退し、夜の街で稼いだ金を故郷の両親に仕送りする日々を送って
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-03-24
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第三話「跪く情欲」

 社長室の前に辿り着き、彩葉は一度、手にしたスーツバッグを持ち替えた。空いた手をドアノブに伸ばし、指先が冷たい金属に触れた、その瞬間だった。 彩葉の動きが、撥ねられたように止まる。 密閉されているはずの扉の向こうから、女性の甘く高い声が漏れ聞こえてきたのだ。それは、肺から空気を無理やり押し出すような、細く切れ切れの喘ぎ声だった。「ほらっ、ここがいいんだろ……?」 聞き紛うはずのない、隆史の声だった。けれど、普段彩葉に向けられる不機嫌な語気とはまるで異なる、厭らしく湿った低い囁き。その見知らぬ男のような声の響きに、彩葉の背筋を氷の刃でなぞられたような悪寒が駆け上がった。「あんっ……奥さんが、来ちゃうんじゃ、ない……?」 喘ぎの合間に紡がれた女の言葉に、彩葉の心臓がぎゅっと、壊れるほどに締めつけられた。ドアノブに添えたままの指先が、目に見えて震え始める。「まだあいつは妻じゃねえし、そんなすぐに来やしねえよ。……トロいからな」 トロいから。 隆史が笑い混じりに吐き捨てたその一言は、扉越しにはっきりと、残酷な明瞭さで彩葉の鼓膜を貫いた。胸の奥を鋭利なナイフで抉られたような痛みが走り、肺が酸素を拒絶するように呼吸が浅くなる。ドアノブに触れていた指先から力が失せ、だらりと体側に落ちた。 足が、動かなかった。 今すぐにでもここから逃げ出したいのに、身体は石化したように重く、廊下のリノリウムに縫いつけられたように一歩も踏み出せない。 扉の向こう側では、男女の吐息がさらに獣じみた荒さを増していく。乾いた肌と肌が激しく打ち合う律動的な音が室内に響き、ソファのスプリングが軋む嫌な音が重なった。やがて女の嬌声が、ひときわ甲高く、悦びに弾ける。 視界が、ふっと暗転した。 目の前が真っ暗になったような錯覚に襲われ、彩葉は縋り付くようにスーツバッグを胸に抱きしめた。指が厚い布地に食い込み、爪が白く変色するほどに力を込める。 今の今まで、隆史の不貞を疑ったことは一度もなかった。 何ヶ月も肌の触れ合いが途絶えていたのなら、どこかの時点で不信の芽が育っていたかもしれない。けれど、昨晩も隆史に求められてその身体を預けたし、今朝出勤する前にも、儀式のような短い行為があった。扉の向こうから響いてくるような、魂を削り合うような激しさとは程遠かったが、それでも「愛されている」と
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-03-24
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第四話「綻びた隷属」

 夕方の六時を過ぎた頃、静まり返った玄関に、鍵が乱暴に回される硬い音が響いた。 叩きつけるようにドアが開き、脱ぎ捨てられた革靴が床を滑って壁にぶつかる。廊下を突き進んでくる足音の荒さだけで、隆史の機嫌が最悪の極致にあることは、容易に察せられた。 彩葉はキッチンに立ったまま、逃げ場のない小動物のように身を固くした。カウンター越しにリビングを見渡せば、仕事鞄をソファへ叩きつける隆史の姿が嫌でも目に入る。整髪料で固められていた茶髪は見る影もなく乱れ、ネクタイは無様に緩んだまま、彼の首に力なくぶら下がっていた。「……おかえりなさい。夕飯、できてるから」「あ?」 鋭利な刃物のような一言が、彩葉の言葉を撥ねつけた。隆史がゆっくりと振り返り、充血した眼で彼女を射抜く。頬の紅潮は怒りゆえか、あるいは帰りがけにどこかで煽ってきた酒のせいか。リビングの空気までを侵食するように、不快なアルコールの匂いが漂い始めた。「お前のせいで、会議の前に着替えられなかった。おまけに……精液臭いとまで言われたんだぞ、俺は!」 剥き出しの歯の隙間から吐き捨てられた罵声に、彩葉の背筋に冷たい震えが走った。精液臭い――あの社長室で鷹峰が放った、冷徹なまでの事実。隆史は自らが秘書と情事に耽っていた事実を棚に上げ、その醜態を暴かれた屈辱のすべてを、彩葉へと転嫁しようとしている。「ごめんなさい」 反射的に、謝罪が唇から零れた。自分は一分一秒を惜しんで奔走したというのに、この男の前では条件反射のように頭を下げてしまう。身体の芯まで染みついたこの従順さが、彩葉は自分でも厭でたまらなかった。「すぐ持ってこいと言っただろうが。お前がトロいから、俺が恥をかいたんだよ。……使えない女だ」 隆史はダイニングチェアを乱暴に引き、呻くような音を立てて腰を下ろした。テーブルに並べられた彩り豊かな料理には目もくれず、腕を組んで天井を睨みつけている。不満げに歪められた口元からは、絶えず毒々しい溜息が漏れていた。 彩葉は動くこともできず、ただ嵐が過ぎ去るのを待った。こういう時の彼は、言葉を重ねれば重ねるほどに火を噴く。余計な気配を消し、彼の視界から消えることこそが、この三年の同棲生活で身につけた唯一の護身術だった。 しばらく、苛立たしげな舌打ちが室内に満ちていた。けれど、ふいに隆史がくぐもった笑い声を立てた。 
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-03-25
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第五話「邂逅の残り香」

 終電に間に合うよう、彩葉は夜の街を無我夢中で駆けた。 ボストンバッグの細い紐が肩の肉に食い込み、革靴の薄い底を通して、固いアスファルトの無機質な感触がダイレクトに足裏へ伝わってくる。七月の夜気はねっとりと肌に纏わりつくように蒸し暑く、走るうちに額と首筋には、じっとりとした汗が滲んでいった。駅のホームに滑り込んできた電車のドアが閉まる直前、彩葉は滑り込むように飛び乗り、空いた座席に深く身を沈めて荒い息を整えた。 車窓を流れていく街の灯りが、時間を追うごとにまばらになっていく。都心の密集したビル群が郊外の住宅地に変わり、やがてそれさえも、底知れぬ暗い田畑の風景へと溶けて消えた。乗り換えのターミナル駅で降り、最終の路線バスを待つ間、彩葉は古びたベンチに腰を下ろして夜空を仰いだ。東京の空を覆っていた光の塵はなく、そこには吸い込まれるような闇と、ぽつぽつと遠慮がちに散る星々があった。 バスに揺られること四十分ほどで、見慣れた停留所へ辿り着いた。ステップを降りた瞬間、湿った土と深い木々の匂いが肺をいっぱいに満たす。都会のコンクリートが放つ熱とはまるで異なる、山あいの温泉街特有の、冷ややかで柔らかい空気。硫黄の匂いが微かに混じった夜風が火照った頬を撫で、彩葉の強張っていた肩から、ようやく幾分かの力が抜けていった。 街灯もまばらな心細い坂道を登れば、暗がりの奥に、見覚えのある旅館の屋根が輪郭を現した。『藤宮』と白く染め抜かれた暖簾が、玄関の灯りに照らされて静かに揺れている。幼い頃から当たり前のように見慣れてきたはずのその布が、今夜に限っては、眼に痛いほど眩しく感じられた。 玄関の引き戸を、音を忍ばせて開ける。帳場で帳簿をつけていた母・由紀が、音に気づいて顔を上げた。五十二歳の丸い顔に驚愕が走り、彼女は読書用の老眼鏡を額の上へと押し上げて、娘の姿を凝視した。「彩葉? どうしたの、こんな夜更けに……」 母の声に呼応するように、奥の調理場から父・健一が姿を見せた。割烹着を纏ったままのその姿は、翌朝の仕込みの最中だったのだろう。五十五歳の日焼けした顔に、母と同じ当惑の色が浮かんでいる。「……ただいま」 絞り出した声が、自分でも驚くほど震えた。平静を装い、いつもの自分を見せようとしたはずなのに。愛する両親の顔を見た途端、喉の奥が熱い塊で塞がれ、視界が急激に滲んでいく。ボ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-03-26
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第六話「隷属の終止符」

 朝の光が障子を透かして、和室を淡い白で満たしていた。 鳥のさえずりが遠くから聞こえ、ゆっくりと意識が浮上してくる。重たい瞼をこじ開けるように目を開けた彩葉は、見慣れない天井の木目をしばらく見つめてから、ここが離れの部屋だということを思い出した。 隣に手を伸ばすと、そこには誰の体温も残っていなかった。 掛け布団がめくれた痕跡だけが、つい先ほどまでそこに人がいた証として、虚しく残されている。鼻をくすぐる微かな煙草の残り香が、鷹峰がここにいたことを示す唯一の名残だった。紫煙の香りを肺いっぱいに吸い込むと、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような、切ない寂しさが広がっていく。 身体を起こそうとして、彩葉は全身を走る鈍い痛みに顔を歪めた。 腰が重く、太腿の内側が引きつるように痛む。腕に力を込めて上半身を持ち上げると、筋肉という筋肉が悲鳴を上げているのがわかった。こんな、芯から搾り取られたような疲労感を味わったのは、生まれて初めてのことだった。 浴衣の合わせ目が大きくはだけ、胸元から腹部にかけてが露わになっている。鏡を見ずとも、自分の肌の状態は察せられた。鎖骨の下、胸の谷間、腰骨の上、そして太腿の内側――目に入る肌のあちこちに、赤紫色の生々しい痕がくっきりと刻まれている。鷹峰が唇を押しつけ、歯を立て、激しく吸い上げた徴の数々が、身体の地図のように散らばっていた。 羞恥で、全身がかっと熱くなった。 婚約者がいる身でありながら、自分から「抱いて」と口にしたのだ。「男の誘い方が下手だと言われた」などと自虐的に呟きながら、彼の腰に脚を巻きつけて強請った。隆史に対しては三年間、ただ従順に身体を差し出すだけだった自分が、鷹峰の前では、飢えた獣のように貪欲になっていた。 恥ずかしさに耐えきれず、再び布団に倒れ込んだ。その瞬間、右手の指先がぐっしょりと濡れたものに触れた。ぬるりとした、粘り気のある感触に「ひっ」と小さく悲鳴を上げ、反射的に手を引っ込める。 身体を起こして確認すると、シーツの上に大きなシミがいくつも、無惨に広がっていた。どこもかしこもぐちょぐちょに濡れていて、畳にまで染み込んでいる部分すらある。昨夜、何度も何度も噴き出した熱い液体が布団を浸し、乾ききらないまま朝を迎えていたのだ。 自分の身体から溢れ出たものだと理解した途端、顔だけでなく首筋まで灼けるような熱さ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-03-27
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第七話「籠の中の変革」

 朝はまだ薄暗いうちに、彩葉は隆史よりも先にベッドから抜け出した。 隣で仰向けになり、無防備に喉を晒して眠る隆史の規則正しい寝息を確認してから、羽毛が擦れる音すら立てないよう、慎重に足を床につける。フローリングの刺すような冷たさが素足の裏から心臓へと伝わり、微睡んでいた意識が一気に覚醒した。遮光カーテンの僅かな隙間から差し込む、夜明け前の白々と濁った光を頼りに、彼女は忍び足で寝室を脱出し、静まり返ったリビングへと向かった。 ウォークインクローゼットの扉を開くと、そこには昨日までの絶望を拭い去ったかのような、鮮やかな光景が広がっていた。 かつてここを占領していた、紺色や黒ばかりの地味な服――隆史の好みを押し付けられ、彼の所有物であることを象徴するかのような衣装たちは、東京に戻ったその足ですべて処分した。代わりに新しくハンガーに並んでいるのは、彩葉自身が自分のために選んだ、春の陽だまりを思わせる洋服たちだ。 ふわりとしたシフォン素材のワンピース、繊細なレースがあしらわれたブラウス、風にそよぐプリーツスカート。どの一着も淡い色彩で統一されており、クローゼットの中はまるで花が咲いたように明るい。 今日は、膝丈の純白のワンピースを選んだ。頭から被るように袖を通すと、柔らかな生地が肌に張り付くように身体を包み込み、裾がひらりと膝の上で軽やかに躍った。桃色の薄手のカーディガンを肩に羽織り、袖口から覗く細い手首に、お気に入りのアンクレットを留める。仕上げに、ゴールドの小さな揺れるピアスを耳たぶに通した。首を僅かに傾けるたび、朝の光を捉えた金細工がキラキラと繊細な火花を弾き、鏡の中の自分の顔まわりで小さな星が瞬くようだった。 化粧ポーチを開き、アイシャドウのパレットに指を伸ばす。隆史の前では決して許されなかった、艶やかな色彩。薄化粧を装いつつも、アイラインは目尻を強調するように引き、マスカラで睫毛の一本一本を丁寧に扇状に広げる。カーディガンの色に合わせた珊瑚色の口紅を唇に引くと、そこには隆史が求めた「従順な人形」ではなく、彩葉が渇望していた「意志を持つ女」が映し出されていた。      ◇◇◇ 身なりを整え、武装を終えると、彩葉はまずモップを手に取った。 リビングから廊下に至るまで、床の隅々まで執拗なほど丁寧に磨き上げる。不浄な記憶を拭い去る儀式のように床を輝かせ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-03-27
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第八話「二人の支配者の蜜に濡れる執着」

(私って、この会社の何なんだろう……?) 大型コピー機が吐き出す、規則正しい駆動音と熱を帯びた紙の匂いの中で、彩葉はふと虚空を見つめた。 トレイに吸い込まれていく真っ白な紙、ガラス面の下で走る青白いスキャナの光。その単調な繰り返しに合わせるように、彼女は機械的に指を動かす。原稿をセットし、部数を入力し、印刷ボタンを押す。その指先には、もはや何の感情も宿っていない。 キャバ嬢という華やかな、けれど空虚な世界を辞めた後、流されるままに足を踏み入れたのは隆史が経営するこの会社だった。 総務課のフロアの片隅、窓際から遠く離れた場所に彼女のデスクはある。支給された名刺には「総務部」という立派な肩書きが躍っているが、実態は名ばかりのものだ。 彩葉が日々こなしているのは、各部署から押し付けられる膨大なコピー取りや、山のような書類のファイリングといった、誰にでもできる雑務ばかり。時折、来客の取り次ぎを頼まれることもあるが、隆史には有能な専属秘書が別にいる。彩葉の立ち位置は、組織図のどこにも分類できない、名前すらつけようのない曖昧な「何か」でしかなかった。 そして、この会社で働き始めてから一度として、給料という形の実感を手にしたことはない。「お前の給料は、責任を持ってご両親に全額送っている。それがお前の望みだろう?」 隆史は事あるごとにそう恩着せがましく告げるが、実際にいくらの金額が実家に届いているのか、あるいは本当に届いているのかさえ、今の彩葉には確かめる術がない。日々の食費も、わずかな生活備品も、すべては隆史から渡された家族カードで決済される。自分の労働が対価としてどこへ消えていくのか――。自分がこの会社に正式な社員として籍を置いているのかすら、不透明な霧の中にあった。「藤宮さん、コピーありがとうございます。助かりました」 営業課の若い男性社員が、総務のエリアにひょっこりと顔を出し、爽やかな声をかけてきた。彩葉が微かな微笑を浮かべて会釈を返すと、彼は少し照れたように鼻の頭を掻き、小さく手を振って去っていく。 再びコピー機と向き合い、次の束をセットしようとした、その時だった。「……藤宮さんって、最近、随分と雰囲気が変わりましたよね」 背後からかけられた声に、彩葉の肩が小さく揺れた。振り返ると、先ほどの男性社員が、今度は片手にアイスティーのペットボトルを握
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-03-27
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第九話「爪痕と奪われた熱の行方」

 大型コピー機が規則正しく吐き出す、熱を帯びた紙の匂い。その無機質な駆動音の中に、彩葉は自らの乱れた呼吸を隠すようにして立ち尽くしていた。 やりかけだった事務作業を、震える手でどうにか終わらせる。トレイに積まれた書類を整える指先さえ、自分のものとは思えないほど感覚が乏しい。 逃げ込むように向かった給湯室で、彼女は冷え切ったステンレスのシンクを支えに、どうにか身体を保っていた。ガラスのコップに注いだ氷水を、一気に喉へと流し込む。火照りきった身体を内側から無理やり冷やすように、喉を通り、胃の腑へと落ちていく冷水の鋭い感触に、彩葉は必死に意識を集中させた。(……下着が、濡れてる) 水を飲み干しても、身体の芯を焦がすような熱は一向に引かなかった。それどころか、意識すればするほど、太腿の内側をじっとりと湿らせる不快な重みが、羞恥を伴って存在を主張してくる。 歩くたびに、繊細なレースの布地が吸い付くように肌に張り付く。それが、自らの身体が犯した「裏切り」をこれでもかと突きつけてきた。 彩葉は周囲を気にするように廊下を窺うと、デスクに戻るふりをして鞄からおりものシートを一枚抜き取った。握りしめた拳の中にそれを隠し、小走りで化粧室へと向かう。ハイヒールの踵が、逃亡者のようにせわしなく床を叩いた。 化粧室の重い扉を閉め、個室の鍵をかける。その小さな金属音が、今の彼女には世界から隔離してくれる唯一の救いのように聞こえた。 滑らかな生地のスカートを捲り上げ、純白のショーツを膝まで下ろす。露わになった股布の部分には、隠しようのないほど濃い蜜のシミが、無残に広がっていた。 鷹峰に首筋を吸われ、背中のファスナーを引き上げてもらった――。 たったそれだけのことだった。暴力的な隆史のそれとは違い、ただ服を整えられただけだというのに、彩葉の身体はあられもないほどに反応し、耐えきれず絶頂を迎え、その証を溢れさせていた。 頬が再び、燃えるような熱を持つ。鷹峰の腕の中で感じた、吸い込まれるような絶対的な体温。上質なスーツ越しに伝わってきた、岩のように硬く逞しい胸板の厚み。それらを思い出すだけで、項から背筋にかけて、ぞくりと甘い戦慄が奔流となって駆け抜けた。(ずるいなぁ……。あんなの、抗えるはずがない) 隆史に乱暴に襟元を広げられ、尊厳を土足で踏みにじられた時は、泥を塗られたよう
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-03-28
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第十話「陥落の鳥籠」

 自身が後ろ暗い悦びに身を委ねている者ほど、恋人の僅かな変化に敏感になるものらしい。どこかで耳にした警句が、今、目の前で残酷な現実として形を成していた。 リビングのソファに深く腰を下ろした隆史の手の中で、彩葉のスマートフォンが玩具のように弄ばれている。「出張」という名の秘書との情事から四日ぶりに帰宅した彼は、荷物を解くよりも先に彩葉の私物を検閲し始めた。新事業の商談の合間に、異国のような解放感を楽しんできたのだろう。日焼けした逞しい腕には、成功を誇示するような真新しい高級腕時計が鈍く光っている。 隆史がどこで誰と肌を重ねていようと、もはや彩葉の心は波立つことさえなかった。彼への情愛は、砂漠に零した水のようにとうに枯れ果てている。あの契約の日、社長室のソファで強引に組み敷かれて以来、彼の指が触れるたびに全身の産毛が逆立つような拒絶反応に襲われるようになった。愛のない屋根の下で、求められれば物言わぬ人形のように応じる日々。それは感情という機能を殺さなければ、到底耐えられるものではなかった。「……メッセージアプリも、通話履歴も。殊更、怪しい点は見当たらないな」 一通りの検分を終えた隆史が、彩葉のスマートフォンを硝子のテーブルへ放り出した。画面を上にして置かれた端末に、天井の冷ややかな照明が歪んで映り込む。チェックを終えた安堵など微塵もなく、むしろ「獲物」を見逃したような不満げな表情で、隆史は彩葉を凝視した。 地味な装いだった婚約者が、最近になって急に装いを整え、微かな色香を纏い始めた。そこに男の影が一切見当たらないことが、彼には不可解でならないのだろう。彩葉の変容を、彼は「裏切り」の兆候だと疑っている。隆史の苛立ちの根源が、彩葉には手に取るように分かってしまった。「俺が不在だった四日間、何をしていた?」「仕事を終え、夜は家で静かに過ごしておりました」(――私のすべて知っているくせに) 喉元まで出かかった言葉を、彩葉は冷えた紅茶と共に飲み込んだ。 隆史が家を空けている間、探偵紛いの人間を雇って彩葉の行動を監視させていたことは、既に聞き及んでいた。先日、事務的な用件で会社に連絡を寄越した鷲尾が、世間話の合間に「相沢社長は随分と心配性のようですな」と、さりげなく、だが確実にその事実を伝えてくれたのだ。 鷲尾の警告を受け、改めて住み慣れたはずの室内を見渡し
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-03-29
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