All Chapters of 冷酷なCEOは身代わり妻の身体に溺れる〜整形した元カノを逃さない〜: Chapter 21 - Chapter 30

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第二十一話「九条の枷を脱ぎ捨てて」

 実家の九条家のリビングは、唯人が子どもの頃から変わっていなかった。 重厚なマホガニーの家具と、外光を頑なに拒む厚手のベルベットのカーテン。磨き上げられたフローリングには、金縁の額装が等間隔に並び、歴代の家主たちの視線が突き刺さる。豪奢を極めているはずなのに、肺の奥がひりつくような、どこか息苦しい部屋だった。 唯人は深くソファに腰を沈め、向かいに座る父と後妻を一渡り見やった。「唯人、お前は一体何を考えている」 父の声が部屋の空気を震わせた。低く、威圧的で、唯人が幼少期から幾度となく刷り込まれてきた拒絶の色を帯びた声だ。父は眉間に深い皺を刻み、苛立ちを隠そうともせずテーブルに手をついている。 その後ろで、後妻は形だけ父に寄り添うように座りながら、その視線だけを忙しなく動かしていた。唯人はそんな二人を、温度の一切を抜き去った、まるで硝子玉のような目で見つめ返した。「離婚します。絵里奈とは弁護士を通じて手続きを進めています。有責はあちらにあるので、問題なく成立します」 唯人は淡々と述べた。その言葉に感情の揺らぎは一切混ぜなかった。業務上の報告事項を無機質に読み上げるような声で、そのまま続けた。「それと、会社を売りました」 父の眉が跳ね上がった。「会社を売るとはどういうことだ。貴様、正気か」「言葉通りの意味です。海外資本の企業に売却しました。従業員の雇用はそのまま継続される契約ですので、実害はありません。九条の名前を冠した会社ではなくなりましたが、中身は変わらず動き続けます」「ふざけるな! お前に会社を売る権限などない。俺の一存で――」「俺の会社です」 静かな、けれど有無を言わせぬ鋼のような声だった。唯人は視線を動かさず、父を正面から見据えた。「経営権は俺にありました。その権限を正当に行使して売却しました。法的な手続きも、全て完了しています」「お前は……!」「記憶を失った俺をいいように利用した人に、今さら経営の是非を問われたくないんですよ」 父の顔が瞬時に赤く染まった。屈辱に唇が震え、反論の言葉を探しているのが手に取るようにわかる。 大学院生の頃に脳を損傷してから、唯人の記憶の一部は、不自然な断絶を見せていた。その事実を知りながら、父は唯人に会社を継がせたのだ。欠けた記憶の隙間に都合のいい「現実」を刷り込み、意のままに動く駒として経営
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第二十二話「支配的な情熱の帰還」

 和葉が唯人の元を去ってから、五ヶ月という月日が流れていた。 季節は静かに巡り、施設の玄関を彩る花も、いつの間にか色鮮やかな春のものから、雨に濡れて輝く初夏の瑞々しい鉢植えへと入れ替わっている。窓の外を眺めれば、木々の葉は濃い緑へと色を変え、吹き抜ける風にはどこか湿り気を帯びた熱が混じり始めていた。 日々の業務を淡々とこなすうちに、時間だけが無情に積み重なっていく。 唯人のことを考えない日は一日たりともなかった。ふとした瞬間に、あの病室で交わした最後の言葉や、彼の瞳の冷たさと熱が蘇り、胸の奥が焼き付くような痛みに襲われる。けれど、考えたからといって、何かが変わるわけでもなく、止まった時計の針が動き出すわけでもない。和葉はただ、心の欠落を埋めるように目の前の仕事に没頭し続けた。 ゆったりとしたエプロンの下で、お腹の膨らみが日に日に存在感を増していくのが、時間の経過を何よりも雄弁に知らせていた。胎動を感じるたびに、この小さな命の重みを噛み締め、一人で生きていく決意を新たにするのが、和葉にとっての静かな日課となっていた。 その朝、出勤した和葉は、事務所内に漂う異様なざわめきに足を止めた。 スタッフが数人、輪になって深刻な面持ちで何かを話し合っている。廊下側から中を覗くと、冬馬がその輪の端で、どこか不服そうな、それでいて焦燥感を含んだ表情で立っているのが見えた。和葉は荷物を棚に置き、乱れた息を整えながら、冬馬に声をかけた。「どうしたの? 朝からみんな、何だか落ち着かないみたいだけど」「…&hellip
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第二十三話「お腹の中に宿る、愛しい人との絆」

 施設長の部屋を借りて、職員との面談を一人ずつ進めていた。 テーブルを挟んでソファに向かい合い、業務の状況や要望を聞いていく。経営者として施設に関わってきたが、現場のスタッフと直接話すのは初めてだった。それぞれの顔と名前を頭に入れながら、唯人は淡々と面談をこなしていった。誰もが多少の緊張を帯びた顔で入ってきて、話を終えると少しだけ肩の力が抜けた様子で出ていく。その繰り返しの中で、何人目かになって、扉がノックされた。「失礼します」 入ってきた女性を見て、唯人は書類に落としていた視線を上げた。 次は和葉の番だとわかっていた。扉が開いた瞬間、唯人の思考が一瞬止まった。動揺を表情には出さないまま、和葉が近づいてくるのを見ていた。部屋に入るまでの数歩で、唯人は気づいた。 お腹が、大きかった。 服の上からでも明らかにわかる膨らみで、エプロンをしていても隠せていなかった。唯人は書類に目を落とし、眉間に力を込めた。乱れそうになる呼吸を、意識的に整える。「桐島和葉さんですね」「——はい」「どうぞ」 ソファに手を差し出すと、和葉は居心地悪そうに、ちょこんと浅く腰かけた。背中が丸く、膝を揃えて、視線がテーブルの表面に落ちている。唯人はページをめくった。出産予定の欄に、三ヶ月後という日付が記されていた。 逆算すれば、妊娠七ヶ月になる。 七ヶ月前、和葉はまだ九条邸にいた。あの頃の唯人は、ほぼ毎晩のように和葉を求めていた。毎朝隣で目が覚めたとき、その温もりを離したくなかった。子どもを作りたいと口にしたこともあった。和葉が微かに顔を赤らめながら頷いたのを、今でも覚えている。あれだけ求め合っていて、妊娠していないほうが不自然だった。それでも、今この場で感情を表に出すわけにはいかない。唯人は静かに息を吸い直し、施設長としての声を出した。「新しく施設長に就任した九条唯人です。よろしくお願いします」「……よろしくお願いします」 声が小さかった。視線を合わせることなく、両手を膝の上で固く組んでいた。唯人は少し声の調子を変えた。「桐島さん、大丈夫ですよ。緊張しないで。今は上司と部下として接しますから」「……はい」 和葉がぎゅっと拳を握るのが見えた。そして顔を上げた。真っ直ぐに、唯人を見てきた。意志の強い目だった。五ヶ月前と変わらない、どんな状況でも最後には正面から立ち向
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第二十四話「遠回りの果てに」

 赴任五日目の夜。駅前の喧騒に溶け込む居酒屋の暖簾をくぐると、そこには日常の延長線上にある、けれど和葉にとってはひどく居心地の悪い熱気が渦巻いていた。今夜は、前施設長の送別会と新施設長である唯人の歓迎会が同時に行われていた。 使い込まれた掘りごたつの長テーブルには、スタッフたちが隙間なく肩を寄せ合って並んでいた。天井から下がる裸電球の橙色の光が、グラスの中で弾ける琥珀色の飛沫を不自然なほど鮮やかに照らし出している。 和葉は、唯人から数席離れた、最も入り口に近い端の席に身を縮めるようにして座っていた。手元のグラスに満たされたウーロン茶は、氷が溶けて表面に薄い膜を張っている。彼女はその冷たい感触を両手で確かめるように包み込みながら、喧騒の向こう側で交わされる言葉の断片を、こぼさないように拾い集めていた。 テーブルの向こう端、そこは居酒屋の喧騒の中でもどこか空気が澄んでいるように見えた。その中心に、唯人がいる。彼は、自分を憧憬と好奇の目で見つめる若いスタッフたちに囲まれていた。「九条施設長、大企業の社長だったんですよね? 毎日こんな施設に詰めていていいんですか?」 スタッフの一人が、酔いに任せた遠慮のなさで問いかける。周囲の視線が一斉に唯人に集中した。 唯人は、手元のグラスを軽く揺らし、穏やかな、けれどどこか遠くを見つめるような瞳で答えた。「会社は海外の企業に売ったから。もう社長じゃないんだ。その時に手に入れたお金で、ここ……施設の運営資金にしてる」 一瞬の静寂の後、テーブルが波打つようにどよめいた。「えっ、売ったんですか」「なんでそんな、売ってまでこっちに……」 驚愕と困惑が入り混じった声が重なり合う。唯人は一拍置いてから、ふっと口元を綻ばせた。それは、和葉がよく知っている、けれど今の彼が持ち合わせているはずのない、懐かしい優しさを湛えた笑みだった。「昔ね、ちょっと約束してて」 和葉は、その一言に雷に打たれたような衝撃を受けた。掴んでいたグラスが指先で微かに鳴る。(約束……えっ?) 心臓が肋骨を突き破るのではないかと思うほど激しく脈打ち、喉の奥が引き絞られるように熱くなった。 数日前の面談の際、彼が静かに語った「所々思い出せている」という言葉が蘇る。記憶の全てが戻ったわけではない。断片的で、霧の向こう側にあるようなおぼろげな過去。それで
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第二十五話「空白を埋める温度」

 玄関の扉が閉まった瞬間、乾いた金属音が静まり返った廊下に響いた。その音を合図にするように、唯人の逞しい腕が背後から和葉の身体を強く引き寄せた。 コートも脱がず、廊下の明かりをつけることさえ忘れて、二人は縋り付くように抱き合った。唯人の分厚い胸板に顔を埋めると、上質なスーツの生地越しに、彼自身の確かな温もりが肌に伝わってくる。微かに漂う、彼特有の清潔感のあるシトラスと、夜風が混じり合った香りに鼻腔をくすぐられ、和葉は深く息を吸い込んだ。 トクン、トクン、と規則正しく、それでいて力強い鼓動が和葉の耳に届く。(ここにいる。嘘じゃない。唯人さんが、私の腕の中にいる……) 和葉は安堵に震えながらそっと目を閉じた。唯人の大きな掌が、和葉の華奢な背中をゆっくりと、慈しむように上下に撫でる。そこには、彼女を追い詰めるような急かす動作も、取り繕うような虚飾の言葉も一切なかった。ただ、互いの存在を確かめ合うような抱擁が、和葉の強張った肩からじわりと余計な力を抜き去っていく。心の中にあった氷のような塊が、彼の体温によってゆっくりと融解していくのがわかった。 しばらくして、どちらからともなく身体を離すと、二人はリビングのソファに並んで腰を下ろした。 暗がりに目が慣れてきた頃、唯人が静かに口を開いた。 絵里奈との形式ばかりだった婚姻生活の終焉、重荷となっていた会社の売却、そして自分を縛り付けていた実家との絶縁。一つひとつの事実を積み上げるように、彼は語った。失った記憶がところどころ戻ってきてはいるが、まだ完璧ではないこと。パズルのピースを紛失したかのように、記憶の断層にぽっかりと穴が空いたまま繋がらない部分が、今も彼を苦しめていること。 淡々とした、抑制の効いた声だった。しかし、語る唯人の指先は膝の上でわずかに震え、微かな迷いを見せている。和葉はその大きな手を見つめながら、相槌を打つことさえ忘れて、彼の魂の告白に耳を傾けた。「……君を、絵里奈そっくりに整形させてしまったこと。君の人生を歪めてしまった。本当に、申し訳なかった」 唯人の言葉が不自然に途切れた。苦悶の色を浮かべた彼の口元は固く引き結ばれ、罪悪感に苛まれているのが見て取れた。だが、和葉の心に後悔の念は一片もなかった。「いいえ。これは、私が自分で選んだことだから」 和葉はきっぱりと首を振った。逃げるように伏
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第二十六話「暴かれた虚飾の執愛」

 施設長室で書類の確認作業をしていた唯人は、不意に廊下から響いてきた場違いな声に、握っていた万年筆を止めた。 それは、耳の奥にこびりついて離れない、あの不快なほどに甲高い女の声だった。「唯人を返して! あなたのせいでしょう!」 遊戯室で遊んでいる子どもたちの賑やかな笑い声を切り裂くように、一際大きな怒鳴り声が廊下を突き抜けてくる。唯人は眉を寄せ、静かに書類を机に置くと、重い腰を上げた。 扉を開け、廊下の先へ視線を向けると、そこにはあまりにもこの場に不釣り合いな光景が広がっていた。 派手な色調のブランドもののコートを羽織り、踵の高いヒールを鳴らして施設に乗り込んできた絵里奈が、遊戯室の前で和葉に向かって顔を赤くして怒鳴り散らしている。 子どもたちは突然の乱入者に怯え、足を止めて困惑した表情で二人を見上げていた。和葉は、子どもたちの不安を察してその背を庇うように立ち、周囲への影響を最小限に抑えようと必死に落ち着いた態度で絵里奈を宥めている。(……すんなり引き下がるとは思っていなかったが、ここまで品性を欠く真似を平気でするとはな) 神聖であるべき子どもたちの居場所に土足で踏み込み、感情のままに声を荒らげる元妻。その姿に、唯人の胸の奥で、冷たく鋭い怒りが静かに、けれど確実に湧き起こった。 唯人はスラックスのポケットの中に忍ばせた、小型のボイスレコーダーの硬い感触を指先で確認してから、ゆっくりと廊下へ踏み出した。「絵里奈。場所を変えよう。こっちで話をしようか」 低く、けれど拒絶を許さない声に、絵里奈が弾かれたように振り返った。 唯人の姿を認めた瞬間、彼女の表情は劇的に変化した。先ほどまで和葉に向けていた狂気じみた怒りは霧散し、代わりに縋り付くような、何か甘い期待を抱いた女の顔へと塗り替えられる。(まだ、何もわかっていないんだな) 唯人はその身勝手な期待を一瞥で切り捨てると、和葉へと視線を向けた。彼女の瞳には隠しきれない不安が揺れていたが、唯人は安心させるように一度だけ深く頷いて見せる。「大丈夫だ。ここは俺が引き受けるから、君は仕事に戻っていてくれ」 和葉が小さく、けれど信頼を込めて頷くのを見届けてから、唯人は施設長室の扉を大きく開け、目で絵里奈を促した。絵里奈は勝ち誇ったような足取りで部屋へ入り、唯人がその後に続く。重厚な木製の扉が閉まる音が
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第二十七話「蹂躙される強欲」

 朝から施設長室の方向が騒がしかった。 廊下を歩くたびに、重厚な壁越しに男女の激しい言い合いが漏れてくる。怒鳴り声が混じっていて、通り過ぎる保育士たちは一様に顔を見合わせ、不安げに歩を早めていた。和葉も足を止めて耳を澄ませたが、厚い扉に阻まれて内容までは聞き取れなかった。「どうしたんだろう。あんなに大きな声を出して」「他のスタッフの話だと、成金っぽい夫婦が施設長を怒鳴りまくってるらしいよ。朝一番から乗り込んできたんだって」 隣に並んだ冬馬が、周囲を窺いながら小声で教えてくれた。お茶を持って入ったスタッフによれば、夫婦は施設長に向かって無遠慮に怒鳴り散らしていたかと思えば、今度は夫婦同士で責任をなすりつけ合うような言い合いを始め、施設長が呆然と立ち尽くしていたとのことだった。 その言葉を聞いた瞬間、和葉の胸の奥が微かにざわめいた。絵里奈との一件があってから、彼女の中で常に拭いきれない嫌な予感が大きく膨らんでいく。怒鳴り込んでくる傲慢な夫婦、この施設に何らかの執着を持つ人物。考えれば考えるほど、和葉の脳裏には不吉な二人の顔が浮かび上がった。(まさか……あの人たちなの?)「和葉、やっぱり気になる?」 冬馬が覗き込むようにして、にこっと笑った。和葉が施設長室の方向に不安げな視線を向けながら「うん、まあ——」と答えかけた、その瞬間だった。 廊下の奥で、重々しいドアが勢いよく開かれた。 現れたのは唯人だった。その顔は、氷のように冷酷な無表情を貫いている。 九条邸で初めて会ったとき、和葉を凍りつかせたあの表情と同じだった。一切の感情を削ぎ落とし、温度をなくし、何もかもを無価値なゴミのように見下ろす冷徹な双眸。唯人の逞しい両手は、それぞれ男女の首根っこを、獲物を捕らえるかのように無造作に掴んでいた。まるで重い荷物でも運ぶかのように、ずるずると廊下を引きずっていく。その光景に、和葉は息を飲んだ。 唯人は施設の出入り口まで二人を連れていくと、何の躊躇もなく外へと押し出した。二人は抵抗する間もなく、勢いのまま玄関前の地面に無様に転がった。(あの人たち……やっぱり) 泥にまみれて倒れ込んだ二人の顔を見て、和葉の胸に確信が走った。絵里奈の両親だった。冬馬が「行こう」と低く促し、二人は柱の陰に身を寄せながら、息を潜めてその様子を追った。「言いたいことは言い終えた
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第二十八話「優しい嘘と愛情の基準」

 仕事を終えて、和葉は唯人と一緒に自宅へと帰宅した。それぞれ馴染みの部屋着に着替えると、どちらからともなくキッチンに立って夕飯の準備に取り掛かる。トントントンと軽快な包丁の音と、鍋の中でコトコトと何かが煮える音が重なり、換気扇の回る音が静かな室内に響いた。キッチンには、食欲をそそる温かい匂いが満ちていた。 ふと、和葉は手を止めて隣の唯人を見上げた。胸の奥に澱のように溜まっていた問いが、熱を帯びて口をついて出る。「唯人さん、聞いていいですか」「なに?」 唯人は野菜を洗う手を止めずに、優しく聞き返した。和葉は、その落ち着いた横顔をじっと見つめる。「絵里奈さんのご両親が来たときに……火事のこと、知っていましたよね? 記憶が、もしかして――」 唯人が少し間を置いた。問われたことに真摯に向き合うように、彼の整った眉がわずかに動く。彼は濡れた手を拭うと、和葉の方へと身体を向けた。「全部がクリアになったわけじゃないよ。火事については――絵里奈が帰ってきた日に、俺が倒れただろ?」 唯人の問いかけに、和葉は小さく頷いた。あの日の不安な光景が、昨日のことのように脳裏をかすめる。「あの夜、帰宅したとき――玄関で絵里奈が一方的に怒鳴っているのが聞こえたから。何かあったときに証拠になればいいと思って、ボイスレコーダーで録音をしていたんだ。それで、俺が倒れたあとの二人のやりとりを、病室で聞いた。そこで初めて火事のことを知ったんだ。それに和葉が……俺と付き合っていたんだってことも」 和葉の胸が、じわりと熱を持った。唯人が病室で一人、録音を再生した場面を想像すると、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。和葉が身を引くようにして去ったあとの、あの静かな病室で。唯人はたった一人で、残酷な真実と、失われた愛の記憶の断片をすべて聞いたのだ。「初めて、何も覚えていない自分が憎らしいと思ったよ。和葉は俺のことをずっと知っていて、それでも何も言わずにそばに居てくれたのに。俺は和葉との大切な時間を、何一つ覚えていないんだから」 唯人の声が少し低くなった。感情を抑えているのがわかる、静かで、それでいて深い痛みを湛えた目をしていた。その静けさが、かえって言葉の重さを和葉に伝えてくる。和葉の料理する手が固まった。まな板の上で、包丁を持ったまま動けなかった。「――そうだったんですね」「ああ」 和
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エピローグ「遠回りの果てに、愛を知る」

 産休に入る最後の出勤日の朝、施設の玄関先はいつもより少し賑やかだった。 唯人が経営を立て直してからというもの、大学との連携が驚くほどスムーズに進み、今日から二週間、福祉系の大学から実習生を受け入れることになっていたのだ。記念すべき第一期生たちが、緊張に肩を強張らせた面持ちで玄関に並んでいる。和葉はお腹を慈しむようにそっと手を当てながら、少し離れた場所からその初々しい様子を見守っていた。 静かな朝の空気の中、挨拶が始まった。施設長である唯人が、実習生たち一人ひとりの目を見て、力強くも温かい言葉をかけている。その厳かな時間の最中、廊下の奥から不意に冬馬の驚いたような声が響いた。「え、まじで?」 実習生の列の中の一人、黒髪の女子学生が、冬馬の姿を捉えた瞬間に目を丸くして固まっていた。「冬馬くんっ! え? すごい! 偶然!」 静かだった廊下に、甲高い歓喜の声が木霊した。どうやら高校の同級生らしい。女子学生は弾かれたように駆け寄ると、冬馬の腕を迷いなく掴んだ。「あの作文を読んで、私、この道に進もうって決めたんですよ! 本当に嬉しい、また会えたなんて……」 彼女は鼻息を荒くして、溢れ出す想いを語りながら冬馬に抱きついた。これには流石の冬馬も、ぎょっとした顔でたじろぐしかない。「え? あぁ、うん……ちょ、ちょっと待てって」(冬馬くんがあんなにあわててる) 口元に手を当てて、和葉は込み上げてくる笑いを必死にこらえた。横に立つスタッフも肩を震わせており、廊下はたちまち和やかな笑い声に包まれていく。冬馬は耳まで真っ赤に染め上げながら、「落ち着けって」と女子学生の肩を必死に押し返していた。 冬馬があそこまで余裕を失い、慌てふためく姿を見るのは初めてのことだった。(冬馬くんが書いたものが、誰かの人生を動かしたんだ) 一編の文章を読んで自らの道を見定め、迷うことなくこの場所へと辿り着いた女子学生。その眩しいほどの決断力と真っ直ぐな瞳は、和葉の目にはとても貴く映った。自分にはない強さを持っている彼女に、心からの敬意を抱かずにはいられない。 実習生たちが各現場へと散り、産休前最後となる挨拶も滞りなく終えると、和葉は私物の詰まった荷物を抱えて静まり返った廊下を歩いた。施設長室の重厚なドアを軽くノックして、顔を出す。「私、もう帰るけど……唯人はどうする?」「俺も
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特典短編:それでも恋と呼べるのだろうか?①

第一章:聖域に濁る、毒と甘露 その夜の光景は、網膜の裏側にどろりとした澱(おり)のように焼き付いて離れない。 一年前の金曜日。街は極彩色のネオンに毒され、嬌声と排気音が幾重にも重なって、暴力的なまでの喧騒を奏でていた。 大学の実習を終えたばかりの解放感は、キャバ嬢としての「仕事着」を纏った瞬間に霧散していた。胸元が大きく開いた、肉感的なラインを強調するドレス。若さを武器に塗り固めたような、隙のない厚い化粧。夜の女を演じる結衣は、店から客を見送るために歩道に出たその瞬間、一人の男と視線がぶつかった。 長年、胸の奥で大切に、それこそ誰も触れられない聖域のように守り続けてきた憧れの人――冬馬だった。「てか、お前――なんでこんなとこにいんの?」 冬馬の鋼のような瞳が、冷徹に、そして残酷なまでに鮮明に結衣の姿を射抜く。 軽蔑だろうか、それとも呆れだろうか。最愛の人にだけは、この泥濘(でいねい)の中にいる自分を知られたくなかった。惨めさと羞恥で内臓がせり上がるような感覚を覚え、結衣は酸素の乏しい水底に沈められたように、呼吸の仕方を忘れて立ち尽くした。 それが、二人の関係が歪に形を変えた、地獄のような再会の夜だった。     ◇◇◇ それから一年が経った現在。 冬馬のワンルームマンションの室内は、逃げ場のない熱を孕んで重く澱んでいた。 窓の外からは、喉を掻き切るような蝉の声が絶え間なく降り注ぎ、午後の静寂をかき乱している。開け放たれたカーテンの隙間からは真夏の強烈な陽光が床に淡い光の帯を作り、部屋の隅に溜まった埃さえも無慈悲なほど鮮明に浮かび上がらせていた。 肌と肌がぶつかり合う乾いた音。つながり合う場所から漏れる卑猥な水音。それらが静かな室内に、心臓の鼓動を追い詰めるような速さで響き渡る。 結衣は、自身の肺の奥まで侵食してくる汗の匂いと、冬馬から漂う微かな石鹸の香りに眩暈(めまい)を覚えていた。「――あっ、イク……」 激しく腰を打ちつけて、冬馬が結衣の上で達した。 繋がりを解くと、冬馬は酷く事務的な手つきで行為の残骸を処理し、ゴミ箱へと捨てる。その一連の動作には、恋人同士のような愛おしむ余韻など微塵もなかった。 二人はぐったりとうつ伏せでベッドに倒れ込み、荒い呼吸を整える。シーツの感触が、汗ばんだ肌にじっとりと吸い付いた。「冬馬くん、クー
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