《冷酷なCEOは身代わり妻の身体に溺れる〜整形した元カノを逃さない〜》全部章節:第 21 章 - 第 25 章

25 章節

第二十一話「九条の枷を脱ぎ捨てて」

 実家の九条家のリビングは、唯人が子どもの頃から変わっていなかった。 重厚なマホガニーの家具と、外光を頑なに拒む厚手のベルベットのカーテン。磨き上げられたフローリングには、金縁の額装が等間隔に並び、歴代の家主たちの視線が突き刺さる。豪奢を極めているはずなのに、肺の奥がひりつくような、どこか息苦しい部屋だった。 唯人は深くソファに腰を沈め、向かいに座る父と後妻を一渡り見やった。「唯人、お前は一体何を考えている」 父の声が部屋の空気を震わせた。低く、威圧的で、唯人が幼少期から幾度となく刷り込まれてきた拒絶の色を帯びた声だ。父は眉間に深い皺を刻み、苛立ちを隠そうともせずテーブルに手をついている。 その後ろで、後妻は形だけ父に寄り添うように座りながら、その視線だけを忙しなく動かしていた。唯人はそんな二人を、温度の一切を抜き去った、まるで硝子玉のような目で見つめ返した。「離婚します。絵里奈とは弁護士を通じて手続きを進めています。有責はあちらにあるので、問題なく成立します」 唯人は淡々と述べた。その言葉に感情の揺らぎは一切混ぜなかった。業務上の報告事項を無機質に読み上げるような声で、そのまま続けた。「それと、会社を売りました」 父の眉が跳ね上がった。「会社を売るとはどういうことだ。貴様、正気か」「言葉通りの意味です。海外資本の企業に売却しました。従業員の雇用はそのまま継続される契約ですので、実害はありません。九条の名前を冠した会社ではなくなりましたが、中身は変わらず動き続けます」「ふざけるな! お前に会社を売る権限などない。俺の一存で――」「俺の会社です」 静かな、けれど有無を言わせぬ鋼のような声だった。唯人は視線を動かさず、父を正面から見据えた。「経営権は俺にありました。その権限を正当に行使して売却しました。法的な手続きも、全て完了しています」「お前は……!」「記憶を失った俺をいいように利用した人に、今さら経営の是非を問われたくないんですよ」 父の顔が瞬時に赤く染まった。屈辱に唇が震え、反論の言葉を探しているのが手に取るようにわかる。 大学院生の頃に脳を損傷してから、唯人の記憶の一部は、不自然な断絶を見せていた。その事実を知りながら、父は唯人に会社を継がせたのだ。欠けた記憶の隙間に都合のいい「現実」を刷り込み、意のままに動く駒として経営
last update最後更新 : 2026-05-02
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第二十二話「支配的な情熱の帰還」

 和葉が唯人の元を去ってから、五ヶ月という月日が流れていた。 季節は静かに巡り、施設の玄関を彩る花も、いつの間にか色鮮やかな春のものから、雨に濡れて輝く初夏の瑞々しい鉢植えへと入れ替わっている。窓の外を眺めれば、木々の葉は濃い緑へと色を変え、吹き抜ける風にはどこか湿り気を帯びた熱が混じり始めていた。 日々の業務を淡々とこなすうちに、時間だけが無情に積み重なっていく。 唯人のことを考えない日は一日たりともなかった。ふとした瞬間に、あの病室で交わした最後の言葉や、彼の瞳の冷たさと熱が蘇り、胸の奥が焼き付くような痛みに襲われる。けれど、考えたからといって、何かが変わるわけでもなく、止まった時計の針が動き出すわけでもない。和葉はただ、心の欠落を埋めるように目の前の仕事に没頭し続けた。 ゆったりとしたエプロンの下で、お腹の膨らみが日に日に存在感を増していくのが、時間の経過を何よりも雄弁に知らせていた。胎動を感じるたびに、この小さな命の重みを噛み締め、一人で生きていく決意を新たにするのが、和葉にとっての静かな日課となっていた。 その朝、出勤した和葉は、事務所内に漂う異様なざわめきに足を止めた。 スタッフが数人、輪になって深刻な面持ちで何かを話し合っている。廊下側から中を覗くと、冬馬がその輪の端で、どこか不服そうな、それでいて焦燥感を含んだ表情で立っているのが見えた。和葉は荷物を棚に置き、乱れた息を整えながら、冬馬に声をかけた。「どうしたの? 朝からみんな、何だか落ち着かないみたいだけど」「…&hellip
last update最後更新 : 2026-05-03
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第二十三話「お腹の中に宿る、愛しい人との絆」

 施設長の部屋を借りて、職員との面談を一人ずつ進めていた。 テーブルを挟んでソファに向かい合い、業務の状況や要望を聞いていく。経営者として施設に関わってきたが、現場のスタッフと直接話すのは初めてだった。それぞれの顔と名前を頭に入れながら、唯人は淡々と面談をこなしていった。誰もが多少の緊張を帯びた顔で入ってきて、話を終えると少しだけ肩の力が抜けた様子で出ていく。その繰り返しの中で、何人目かになって、扉がノックされた。「失礼します」 入ってきた女性を見て、唯人は書類に落としていた視線を上げた。 次は和葉の番だとわかっていた。扉が開いた瞬間、唯人の思考が一瞬止まった。動揺を表情には出さないまま、和葉が近づいてくるのを見ていた。部屋に入るまでの数歩で、唯人は気づいた。 お腹が、大きかった。 服の上からでも明らかにわかる膨らみで、エプロンをしていても隠せていなかった。唯人は書類に目を落とし、眉間に力を込めた。乱れそうになる呼吸を、意識的に整える。「桐島和葉さんですね」「——はい」「どうぞ」 ソファに手を差し出すと、和葉は居心地悪そうに、ちょこんと浅く腰かけた。背中が丸く、膝を揃えて、視線がテーブルの表面に落ちている。唯人はページをめくった。出産予定の欄に、三ヶ月後という日付が記されていた。 逆算すれば、妊娠七ヶ月になる。 七ヶ月前、和葉はまだ九条邸にいた。あの頃の唯人は、ほぼ毎晩のように和葉を求めていた。毎朝隣で目が覚めたとき、その温もりを離したくなかった。子どもを作りたいと口にしたこともあった。和葉が微かに顔を赤らめながら頷いたのを、今でも覚えている。あれだけ求め合っていて、妊娠していないほうが不自然だった。それでも、今この場で感情を表に出すわけにはいかない。唯人は静かに息を吸い直し、施設長としての声を出した。「新しく施設長に就任した九条唯人です。よろしくお願いします」「……よろしくお願いします」 声が小さかった。視線を合わせることなく、両手を膝の上で固く組んでいた。唯人は少し声の調子を変えた。「桐島さん、大丈夫ですよ。緊張しないで。今は上司と部下として接しますから」「……はい」 和葉がぎゅっと拳を握るのが見えた。そして顔を上げた。真っ直ぐに、唯人を見てきた。意志の強い目だった。五ヶ月前と変わらない、どんな状況でも最後には正面から立ち向
last update最後更新 : 2026-05-05
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第二十四話「遠回りの果てに」

 赴任五日目の夜。駅前の喧騒に溶け込む居酒屋の暖簾をくぐると、そこには日常の延長線上にある、けれど和葉にとってはひどく居心地の悪い熱気が渦巻いていた。今夜は、前施設長の送別会と新施設長である唯人の歓迎会が同時に行われていた。 使い込まれた掘りごたつの長テーブルには、スタッフたちが隙間なく肩を寄せ合って並んでいた。天井から下がる裸電球の橙色の光が、グラスの中で弾ける琥珀色の飛沫を不自然なほど鮮やかに照らし出している。 和葉は、唯人から数席離れた、最も入り口に近い端の席に身を縮めるようにして座っていた。手元のグラスに満たされたウーロン茶は、氷が溶けて表面に薄い膜を張っている。彼女はその冷たい感触を両手で確かめるように包み込みながら、喧騒の向こう側で交わされる言葉の断片を、こぼさないように拾い集めていた。 テーブルの向こう端、そこは居酒屋の喧騒の中でもどこか空気が澄んでいるように見えた。その中心に、唯人がいる。彼は、自分を憧憬と好奇の目で見つめる若いスタッフたちに囲まれていた。「九条施設長、大企業の社長だったんですよね? 毎日こんな施設に詰めていていいんですか?」 スタッフの一人が、酔いに任せた遠慮のなさで問いかける。周囲の視線が一斉に唯人に集中した。 唯人は、手元のグラスを軽く揺らし、穏やかな、けれどどこか遠くを見つめるような瞳で答えた。「会社は海外の企業に売ったから。もう社長じゃないんだ。その時に手に入れたお金で、ここ……施設の運営資金にしてる」 一瞬の静寂の後、テーブルが波打つようにどよめいた。「えっ、売ったんですか」「なんでそんな、売ってまでこっちに……」 驚愕と困惑が入り混じった声が重なり合う。唯人は一拍置いてから、ふっと口元を綻ばせた。それは、和葉がよく知っている、けれど今の彼が持ち合わせているはずのない、懐かしい優しさを湛えた笑みだった。「昔ね、ちょっと約束してて」 和葉は、その一言に雷に打たれたような衝撃を受けた。掴んでいたグラスが指先で微かに鳴る。(約束……えっ?) 心臓が肋骨を突き破るのではないかと思うほど激しく脈打ち、喉の奥が引き絞られるように熱くなった。 数日前の面談の際、彼が静かに語った「所々思い出せている」という言葉が蘇る。記憶の全てが戻ったわけではない。断片的で、霧の向こう側にあるようなおぼろげな過去。それで
last update最後更新 : 2026-05-06
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第二十五話「空白を埋める温度」

 玄関の扉が閉まった瞬間、乾いた金属音が静まり返った廊下に響いた。その音を合図にするように、唯人の逞しい腕が背後から和葉の身体を強く引き寄せた。 コートも脱がず、廊下の明かりをつけることさえ忘れて、二人は縋り付くように抱き合った。唯人の分厚い胸板に顔を埋めると、上質なスーツの生地越しに、彼自身の確かな温もりが肌に伝わってくる。微かに漂う、彼特有の清潔感のあるシトラスと、夜風が混じり合った香りに鼻腔をくすぐられ、和葉は深く息を吸い込んだ。 トクン、トクン、と規則正しく、それでいて力強い鼓動が和葉の耳に届く。(ここにいる。嘘じゃない。唯人さんが、私の腕の中にいる……) 和葉は安堵に震えながらそっと目を閉じた。唯人の大きな掌が、和葉の華奢な背中をゆっくりと、慈しむように上下に撫でる。そこには、彼女を追い詰めるような急かす動作も、取り繕うような虚飾の言葉も一切なかった。ただ、互いの存在を確かめ合うような抱擁が、和葉の強張った肩からじわりと余計な力を抜き去っていく。心の中にあった氷のような塊が、彼の体温によってゆっくりと融解していくのがわかった。 しばらくして、どちらからともなく身体を離すと、二人はリビングのソファに並んで腰を下ろした。 暗がりに目が慣れてきた頃、唯人が静かに口を開いた。 絵里奈との形式ばかりだった婚姻生活の終焉、重荷となっていた会社の売却、そして自分を縛り付けていた実家との絶縁。一つひとつの事実を積み上げるように、彼は語った。失った記憶がところどころ戻ってきてはいるが、まだ完璧ではないこと。パズルのピースを紛失したかのように、記憶の断層にぽっかりと穴が空いたまま繋がらない部分が、今も彼を苦しめていること。 淡々とした、抑制の効いた声だった。しかし、語る唯人の指先は膝の上でわずかに震え、微かな迷いを見せている。和葉はその大きな手を見つめながら、相槌を打つことさえ忘れて、彼の魂の告白に耳を傾けた。「……君を、絵里奈そっくりに整形させてしまったこと。君の人生を歪めてしまった。本当に、申し訳なかった」 唯人の言葉が不自然に途切れた。苦悶の色を浮かべた彼の口元は固く引き結ばれ、罪悪感に苛まれているのが見て取れた。だが、和葉の心に後悔の念は一片もなかった。「いいえ。これは、私が自分で選んだことだから」 和葉はきっぱりと首を振った。逃げるように伏
last update最後更新 : 2026-05-08
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