LOGIN施設育ちの和葉は、5年前の火災で恋人・九条唯人を救い、顔に火傷を負った。だが唯人は火災のショックで和葉の記憶を失い、別の女性・絵里奈と結婚してしまう 。 絶望の中、和葉に「絵里奈の身代わり」になる依頼が舞い込む。施設の危機を救うため、整形手術で絵里奈の顔を手に入れた和葉は、偽りの妻として唯人の元へ。しかし、再会した彼はかつての優しさを失い、冷酷なCEOへと変貌していた 。 「男なら誰でもいいんだろ」——。蔑みの言葉をぶつけられながらも、夜ごと激しく執着される日々。愛憎渦巻く同居生活の果てに、偽りの関係と失われた記憶の行方は…… 。
View More旅行鞄を握る手に、じわりと汗が滲んでいた。
九条邸の玄関前で、和葉は一度だけ深く息を吸い込んだ。住宅街に建つ一軒家は、整形手術を終えた和葉が初めて足を踏み入れる場所であり、今日からここが自分の居場所になるはずの場所だ。重い鞄を持ち直し、呼び鈴を押す指先に力を込めた。扉の奥にいる人間を想うだけで、胸の奥が鈍く締め付けられた。
金属製の扉が、内側から重々しく開いた。
九条唯人が、胸元のボタンを二つほど開けたワイシャツ姿で立っている。精悍な顔立ちは和葉の記憶の中にある彼と同じなのに、目が全く違った。かつてそこにあった柔らかな光はどこにも見当たらず、和葉を捉えた黒い瞳は、まるで冬の湖のように冷え切っていた。
五年という歳月が、唯人から何かを根こそぎ奪っていったのだと、和葉は全身でそれを感じ取った。唯人の視線の奥に、あの頃の面影を探したが、見つかりそうにない。
「今回は随分と長い家出だったな。気が済んだか?」
低く、水面に氷を落としたような声だった。視線が和葉の全身を値踏みするように、頭の天辺から足の爪先までゆっくりと移動していく。まるで路傍の石でも眺めるような目つきに、和葉の喉が引きつった。
「はい」
声が震えないよう、腹の底に力を込めて答えた。彼の妻である絵里奈として答えなければならない。その事実を頭の片隅に置きながら、和葉は唯人の視線を真っ向から受け止めた。
唯人は短く「来い」とだけ告げて、踵を返した。広い廊下を歩く後ろ姿についていきながら、和葉は重い旅行鞄を引きずるように歩みを進めた。一歩一歩が重く、足音が自分の耳に妙に大きく響いた。
荷物を置く間もないまま進んだ先は、二階の突き当たりにある夫婦の寝室だった。扉が開かれ、室内に踏み込むと、昼間の光が白いカーテン越しに差し込んでいた。中央には天蓋付きの大きなベッドがあり、整えられた白いシーツが静かに横たわっている。空気は暖かく、どこか閉塞的な気配が鼻をついた。
旅行鞄を足元に置こうと腰を屈めかけた、次の瞬間だった。腕を強く掴まれた。
「あっ――」
声を上げる間もなく、身体が軽々と浮いてダブルベッドへと投げ出された。旅行鞄が床に落ちて鈍い音を立て、和葉の身体は柔らかいマットレスへと深く沈み込んだ。
何が起きているのか理解が追いつく前に、唯人がベッドサイドに立ち、ワイシャツのボタンを無造作に外し始めた。指が一つ一つボタンを外していく様子を、和葉は瞬きも忘れて見上げた。引き締まった胸板が露わになり、脱ぎ捨てられたシャツが床に落ちると、唯人がベッドに膝をついて覆いかぶさってくる。鍛えられた筋肉の起伏が影を作り、威圧感が和葉を包み込んだ。
「何をすればいいかわかってるだろ?」
上から見下ろす声に、体温が一気に下がる感覚があった。和葉は震える指をブラウスのボタンにかけたが、指先が上手く動かない。もたついている和葉を見下ろす唯人の目が、隠すことなく苛立ちを宿していた。
「――な、何を」
「見せろ」
言葉が喉に詰まった。呼吸が浅くなり、指先の震えが増していく。懸命にボタンを外そうとする手が、恐怖で上手く機能しなかった。
「さっさと脱げ!」
怒声が室内に響いた。声の圧力だけで身体が竦み上がり、和葉は肩を縮める。唯人の目は冷たい怒りで光っていた。
「他の男に捨てられた妻を抱いてやるって言ってんだ。さっさとしろ」
胸に刃を突き立てるような言葉だった。唇の端を噛んで、和葉は視線を伏せた。悔しいわけではなかった。ただ、この人が自分のことを何も知らないまま言葉を投げてくることに、どうしようもない寂しさがあった。それでも、逃げないと決めていた。覚悟を決めてここに来たのだと、自分に言い聞かせる。脱ぎかけのまま止まっている和葉のスカートの裾から、唯人の手が滑り込んできた。太腿の内側を素手の指がなぞり、腰骨へと移動して、下着の生地を掴む。引き下ろされる感覚とともに、ひやりとした寝室の空気が肌に触れ、和葉は奥歯を噛み締め、目を閉じた。
唯人がズボンをくつろがせると、和葉の脚の間に強引に身体を割り込ませた。次の瞬間、熱杭が内側へと深く押し入ってきた。
「っ――!」
鋭い痛みが下腹部を貫いて、悲鳴が喉から飛び出した。上体を起こそうとすると肩を押さえつけられ、身動きが取れなくなる。全身に強張りが走り、息を吸う余裕もなかった。
「……っく、狭い」
顔を歪めながら唯人が漏らした言葉が、耳に届いた。それでも腰の動きは止まらない。刺すような痛みの中で、和葉は唇を強く噛んで声を堪えた。天井の一点を見つめ、唯人が果てるのをひたすら待つ。早く終わってほしいと願いながら、呼吸を繰り返すことだけに意識を集中させた。
「他の男とやりまくってたのに、随分と狭くなってるじゃないか」
苦しそうな声音に、冷たい皮肉が混じっていた。和葉は何も言わなかった。言葉を紡ぐ余裕が、痛みの中にはなかった。
腰の動きが激しくなり、乱れた吐息が頬にかかったと思った瞬間、唯人が最奥に深く押し込んできた。熱いものが内側へと吐き出されていく感覚が広がり、ようやく終わったと全身の力が抜けかけた。
安堵したのも、ほんの一瞬のことだった。
唯人の手が和葉の腰を掴んで、強引にうつ伏せへと向けた。脚の間に割り込まれる気配とともに、また深く押し入られてくる。さっきよりも激しい動きが始まると、肌と肌がぶつかり合う乾いた音が寝室に満ちていった。和葉は枕に顔を埋め、逃げることも叶わないまま、ただ身体を激しく揺らされ続けた。
痛みの中で、ゆっくりと変化が起きた。
吐き出された液体が内側を満たすにつれて、鋭さを帯びていた痛みがわずかに和らいでいく。動きが繰り返されるたびに摩擦の質が変わり、無意識に口の端から甘い吐息が漏れた。奥を擦られるたびに蜜口が収縮し、唇の間から抗えない喘ぎ声が出るようになっていく。
「気持ちいいか?」
髪を根元から掴まれ、強引に頭を引き上げられた。振り向くことはできず、唯人の荒い息が耳元にかかった。
「答えろ」
「……気持ちいいです」
絞り出すような声で答えた。羞恥で頬が熱くなるのを感じながら、それ以外に言葉が出てこなかった。
「お前はどうせ男なら、誰でもいいんだろ」
吐き捨てるような言葉とともに、腰の動きがいっそう力を増した。野獣のような荒い吐息が寝室に響き渡る。枕に顔を埋めたまま声を堪えることもだんだん難しくなっていき、和葉は唯人が満足するまで、言われるがままに脚を広げ続けた。
窓から差し込む光が、オレンジ色に染まり始めたころになって、ようやく唯人の動きが止まった。どれほどの時間が経ったのか、和葉には分からなかった。時間の感覚が曖昧になり、ただ事後の倦怠感だけが残っていた。長い息を吐いた唯人は、和葉から離れると床に落としていたシャツを拾い上げた。乱れたズボンを直し、ワイシャツに腕を通しながら、一言も発することなく寝室を出て行く。扉が閉まる音だけが、静かに寝室に残った。
しばらく、和葉は動けなかった。
四肢を投げ出したままベッドに沈み、天井を見つめる。全身がじんわりと汗ばんでいて、下腹部に熱い痛みがくすぶり続けていた。指先を動かすと、シーツを握りしめていた爪の跡が掌に残っている。涙が音もなく頬を伝い、こめかみへと流れていった。
痛みのせいなのか、それとも別の何かのせいなのか、涙が止まらなかった。あれだけ覚悟を決めてきたはずなのに、現実の重みがずっと想像を超えていた。
ゆっくりと上体を起こすと、白いシーツに視線が落ちた。赤い色と白濁した液体が、布地を汚していた。和葉は唇を噛んで、また涙が溢れた。眼球の奥が熱く痛み、視界がにじんでいく。
五年前の唯人は、こんな人ではなかった。
笑うと目尻に小さな皺が刻まれる、人懐こい顔の人だった。電話をかけてくるとき、必ず最初に「和葉、今大丈夫?」と確認してくれた。冬の寒い日に和葉の手を両手で包んで「冷たいな」と苦笑いしながら温めてくれた。和葉が悲しいとき、理由を聞かずにただ隣に座って肩を貸してくれた。優しくて温かい人だったのに、今日ここで会った男は、まるで別の人間のようだった。
どうして、あんなに変わってしまったのか。
――和葉、好きだよ。
耳の奥で、懐かしい声が響いた。大学院生だった頃の唯人の、少し低くて柔らかかった声。何度も夢で聞いて、目が覚めるたびに消えてしまう声。五年間、忘れようとして、忘れられなかった声だった。和葉が彼を庇って倒れたとき、顔の半分に火傷を負って病院のベッドで目が覚めたとき、あの病室の前で唯人と絵里奈が甘く笑い合っているのを見たとき——どんな瞬間にも、その声だけは耳の奥に残り続けた。
涙が顎を伝い、シーツに落ちて小さな染みを作る。
また彼のそばにいられる、それだけでいい——そう思って来た。絵里奈の名前を纏って、整形した顔で、偽りの妻として傍にいられるなら、それだけで十分だと思っていた。それなのに、現実は想像よりもずっと冷たかった。目の前に現れた唯人は、和葉が知っているあの人ではなかった。
「絵里奈、夕飯!」
廊下の奥から、唯人の声が届いた。さっきまでと同じ声なのに、温度が全く違う。まるで石壁に言葉を叩きつけるような冷たさで、それだけで胸の奥が締め付けられた。
「絵里奈!」
また呼ばれた。和葉は手の甲で乱暴に涙を拭い、ゆっくりと顔を上げた。
「すぐに作ります」
震えを抑えながら声を出し、気だるい身体に鞭を打ってベッドから足を下ろした。立ち上がった瞬間、下腹部に鈍い痛みが走り、膝に力が入らなかった。乱れた服を手で整えながら、一歩一歩床に体重をかけていく。痛みに顔が歪んでも、足を止めることはできなかった。
床に落ちたままの旅行鞄に視線を一瞬だけ向けてから、和葉はゆっくりと寝室を後にした。廊下に出ると、キッチンの方向から空調の音が聞こえてくる。身体の芯まで沁みこんだ痛みと、拭っても滲んでくる涙を、和葉は一歩ずつ前に進みながら飲み下していった。
玄関の扉が閉まった瞬間、乾いた金属音が静まり返った廊下に響いた。その音を合図にするように、唯人の逞しい腕が背後から和葉の身体を強く引き寄せた。 コートも脱がず、廊下の明かりをつけることさえ忘れて、二人は縋り付くように抱き合った。唯人の分厚い胸板に顔を埋めると、上質なスーツの生地越しに、彼自身の確かな温もりが肌に伝わってくる。微かに漂う、彼特有の清潔感のあるシトラスと、夜風が混じり合った香りに鼻腔をくすぐられ、和葉は深く息を吸い込んだ。 トクン、トクン、と規則正しく、それでいて力強い鼓動が和葉の耳に届く。(ここにいる。嘘じゃない。唯人さんが、私の腕の中にいる……) 和葉は安堵に震えながらそっと目を閉じた。唯人の大きな掌が、和葉の華奢な背中をゆっくりと、慈しむように上下に撫でる。そこには、彼女を追い詰めるような急かす動作も、取り繕うような虚飾の言葉も一切なかった。ただ、互いの存在を確かめ合うような抱擁が、和葉の強張った肩からじわりと余計な力を抜き去っていく。心の中にあった氷のような塊が、彼の体温によってゆっくりと融解していくのがわかった。 しばらくして、どちらからともなく身体を離すと、二人はリビングのソファに並んで腰を下ろした。 暗がりに目が慣れてきた頃、唯人が静かに口を開いた。 絵里奈との形式ばかりだった婚姻生活の終焉、重荷となっていた会社の売却、そして自分を縛り付けていた実家との絶縁。一つひとつの事実を積み上げるように、彼は語った。失った記憶がところどころ戻ってきてはいるが、まだ完璧ではないこと。パズルのピースを紛失したかのように、記憶の断層にぽっかりと穴が空いたまま繋がらない部分が、今も彼を苦しめていること。 淡々とした、抑制の効いた声だった。しかし、語る唯人の指先は膝の上でわずかに震え、微かな迷いを見せている。和葉はその大きな手を見つめながら、相槌を打つことさえ忘れて、彼の魂の告白に耳を傾けた。「……君を、絵里奈そっくりに整形させてしまったこと。君の人生を歪めてしまった。本当に、申し訳なかった」 唯人の言葉が不自然に途切れた。苦悶の色を浮かべた彼の口元は固く引き結ばれ、罪悪感に苛まれているのが見て取れた。だが、和葉の心に後悔の念は一片もなかった。「いいえ。これは、私が自分で選んだことだから」 和葉はきっぱりと首を振った。逃げるように伏
赴任五日目の夜。駅前の喧騒に溶け込む居酒屋の暖簾をくぐると、そこには日常の延長線上にある、けれど和葉にとってはひどく居心地の悪い熱気が渦巻いていた。今夜は、前施設長の送別会と新施設長である唯人の歓迎会が同時に行われていた。 使い込まれた掘りごたつの長テーブルには、スタッフたちが隙間なく肩を寄せ合って並んでいた。天井から下がる裸電球の橙色の光が、グラスの中で弾ける琥珀色の飛沫を不自然なほど鮮やかに照らし出している。 和葉は、唯人から数席離れた、最も入り口に近い端の席に身を縮めるようにして座っていた。手元のグラスに満たされたウーロン茶は、氷が溶けて表面に薄い膜を張っている。彼女はその冷たい感触を両手で確かめるように包み込みながら、喧騒の向こう側で交わされる言葉の断片を、こぼさないように拾い集めていた。 テーブルの向こう端、そこは居酒屋の喧騒の中でもどこか空気が澄んでいるように見えた。その中心に、唯人がいる。彼は、自分を憧憬と好奇の目で見つめる若いスタッフたちに囲まれていた。「九条施設長、大企業の社長だったんですよね? 毎日こんな施設に詰めていていいんですか?」 スタッフの一人が、酔いに任せた遠慮のなさで問いかける。周囲の視線が一斉に唯人に集中した。 唯人は、手元のグラスを軽く揺らし、穏やかな、けれどどこか遠くを見つめるような瞳で答えた。「会社は海外の企業に売ったから。もう社長じゃないんだ。その時に手に入れたお金で、ここ……施設の運営資金にしてる」 一瞬の静寂の後、テーブルが波打つようにどよめいた。「えっ、売ったんですか」「なんでそんな、売ってまでこっちに……」 驚愕と困惑が入り混じった声が重なり合う。唯人は一拍置いてから、ふっと口元を綻ばせた。それは、和葉がよく知っている、けれど今の彼が持ち合わせているはずのない、懐かしい優しさを湛えた笑みだった。「昔ね、ちょっと約束してて」 和葉は、その一言に雷に打たれたような衝撃を受けた。掴んでいたグラスが指先で微かに鳴る。(約束……えっ?) 心臓が肋骨を突き破るのではないかと思うほど激しく脈打ち、喉の奥が引き絞られるように熱くなった。 数日前の面談の際、彼が静かに語った「所々思い出せている」という言葉が蘇る。記憶の全てが戻ったわけではない。断片的で、霧の向こう側にあるようなおぼろげな過去。それで
施設長の部屋を借りて、職員との面談を一人ずつ進めていた。 テーブルを挟んでソファに向かい合い、業務の状況や要望を聞いていく。経営者として施設に関わってきたが、現場のスタッフと直接話すのは初めてだった。それぞれの顔と名前を頭に入れながら、唯人は淡々と面談をこなしていった。誰もが多少の緊張を帯びた顔で入ってきて、話を終えると少しだけ肩の力が抜けた様子で出ていく。その繰り返しの中で、何人目かになって、扉がノックされた。「失礼します」 入ってきた女性を見て、唯人は書類に落としていた視線を上げた。 次は和葉の番だとわかっていた。扉が開いた瞬間、唯人の思考が一瞬止まった。動揺を表情には出さないまま、和葉が近づいてくるのを見ていた。部屋に入るまでの数歩で、唯人は気づいた。 お腹が、大きかった。 服の上からでも明らかにわかる膨らみで、エプロンをしていても隠せていなかった。唯人は書類に目を落とし、眉間に力を込めた。乱れそうになる呼吸を、意識的に整える。「桐島和葉さんですね」「——はい」「どうぞ」 ソファに手を差し出すと、和葉は居心地悪そうに、ちょこんと浅く腰かけた。背中が丸く、膝を揃えて、視線がテーブルの表面に落ちている。唯人はページをめくった。出産予定の欄に、三ヶ月後という日付が記されていた。 逆算すれば、妊娠七ヶ月になる。 七ヶ月前、和葉はまだ九条邸にいた。あの頃の唯人は、ほぼ毎晩のように和葉を求めていた。毎朝隣で目が覚めたとき、その温もりを離したくなかった。子どもを作りたいと口にしたこともあった。和葉が微かに顔を赤らめながら頷いたのを、今でも覚えている。あれだけ求め合っていて、妊娠していないほうが不自然だった。それでも、今この場で感情を表に出すわけにはいかない。唯人は静かに息を吸い直し、施設長としての声を出した。「新しく施設長に就任した九条唯人です。よろしくお願いします」「……よろしくお願いします」 声が小さかった。視線を合わせることなく、両手を膝の上で固く組んでいた。唯人は少し声の調子を変えた。「桐島さん、大丈夫ですよ。緊張しないで。今は上司と部下として接しますから」「……はい」 和葉がぎゅっと拳を握るのが見えた。そして顔を上げた。真っ直ぐに、唯人を見てきた。意志の強い目だった。五ヶ月前と変わらない、どんな状況でも最後には正面から立ち向
和葉が唯人の元を去ってから、五ヶ月という月日が流れていた。 季節は静かに巡り、施設の玄関を彩る花も、いつの間にか色鮮やかな春のものから、雨に濡れて輝く初夏の瑞々しい鉢植えへと入れ替わっている。窓の外を眺めれば、木々の葉は濃い緑へと色を変え、吹き抜ける風にはどこか湿り気を帯びた熱が混じり始めていた。 日々の業務を淡々とこなすうちに、時間だけが無情に積み重なっていく。 唯人のことを考えない日は一日たりともなかった。ふとした瞬間に、あの病室で交わした最後の言葉や、彼の瞳の冷たさと熱が蘇り、胸の奥が焼き付くような痛みに襲われる。けれど、考えたからといって、何かが変わるわけでもなく、止まった時計の針が動き出すわけでもない。和葉はただ、心の欠落を埋めるように目の前の仕事に没頭し続けた。 ゆったりとしたエプロンの下で、お腹の膨らみが日に日に存在感を増していくのが、時間の経過を何よりも雄弁に知らせていた。胎動を感じるたびに、この小さな命の重みを噛み締め、一人で生きていく決意を新たにするのが、和葉にとっての静かな日課となっていた。 その朝、出勤した和葉は、事務所内に漂う異様なざわめきに足を止めた。 スタッフが数人、輪になって深刻な面持ちで何かを話し合っている。廊下側から中を覗くと、冬馬がその輪の端で、どこか不服そうな、それでいて焦燥感を含んだ表情で立っているのが見えた。和葉は荷物を棚に置き、乱れた息を整えながら、冬馬に声をかけた。「どうしたの? 朝からみんな、何だか落ち着かないみたいだけど」「…&hellip