ログイン施設育ちの和葉は、5年前の火災で恋人・九条唯人を救い、顔に火傷を負った。だが唯人は火災のショックで和葉の記憶を失い、別の女性・絵里奈と結婚してしまう 。 絶望の中、和葉に「絵里奈の身代わり」になる依頼が舞い込む。施設の危機を救うため、整形手術で絵里奈の顔を手に入れた和葉は、偽りの妻として唯人の元へ。しかし、再会した彼はかつての優しさを失い、冷酷なCEOへと変貌していた 。 「男なら誰でもいいんだろ」——。蔑みの言葉をぶつけられながらも、夜ごと激しく執着される日々。愛憎渦巻く同居生活の果てに、偽りの関係と失われた記憶の行方は…… 。
もっと見る◆第四章:夜明けの檻に、不器用な熱を灯して 三月の風は、春の予感というにはあまりに冷酷で、湿った重みを帯びていた。 児童養護施設「ひだまり園」の廊下には、夕暮れのオレンジ色が不吉な影を長く引きずっている。事務作業に追われていた結衣の手が、不意に止まった。 エントランスの自動ドアが開く音とともに、あの、肺の奥を直接汚されるような――饐(す)えたアルコールと、安煙草の、そして「諦め」を煮詰めたような悪臭が漂ってきたからだ。「結衣。……やっと、見つけたぞ。こんなところに隠れやがって」 低く、粘りつくような声。 結衣の心臓が、肋骨の裏側を鋭く叩いた。早鐘のような鼓動は、恐怖というよりは生理的な拒絶反応だった。振り返った先にいたのは、三年前、結衣が命からがら逃げ出した夜から、一度も記憶から消えてくれなかった地獄そのものだ。 父親の顔は、かつてよりもさらに土気色を帯び、目つきは濁りきっていた。その瞳に映っているのは「娘」ではない。自分を潤すための「現金」という名の記号だ。「お父さん……なんで、ここが」「なんでじゃねえよ。お前が逃げたせいで、家はめちゃくちゃだ。母親もどこかの男と消えやがった。……なあ、結衣。お前は俺の娘だろ。親を養うのは当然の義務だろうが」 父親が一歩、踏み出す。その汚れた靴が、子供たちが裸足で駆ける清潔な床を汚していく。 結衣は逃げなければならないと分かっていても、足が床に縫い付けられたように動かなかった。幼い頃から刷り込まれた「服従」の呪いが、血管を流れる血液を鉛に変えていく。「さあ、帰るぞ。こんな偽善者の集まり、お前には似合わねえ。お前の中には、俺と同じ、泥水の血が流れてんだからよ」 父親の、節くれ立った大きな手が結衣の手首を掴んだ。 指先から伝わる、不潔な体温。結衣は反射的に胃の奥がせり上がり、吐き気を覚えた。「離して……! お願い、やめて!」「痛えのはこっちの台詞だ! 親を捨てて逃げた罪を、一生かけて体で返せよ!」 乱暴に引き摺られ、結衣の華奢な身体がエントランスの冷たい床に倒れ込みそうになった。父親の濁った笑みと、自分を連れ戻そうとする暴力的な力。結衣は絶望に目を閉じようとした。 その時。「――その薄汚ねえ手を離せよ。殺すぞ、おっさん」 低く、温度を完全に剥ぎ取られた声が、背後から突き刺さった。 事務室の扉
第三章:残光の檻、あるいは清廉な嘘 陽光が降り注ぐ昼下がりの児童養護施設は、子供たちの無邪気な笑い声と、埃の舞う穏やかな空気に満ちていた。 大学を卒業した結衣は、冬馬と同じこの施設に就職し、三年が経過していた。かつての地獄のような実家からは、冬馬の手によって物理的に切り離され、今は彼のアパートで同居生活を送っている。 結衣は廊下の窓から、園庭で子供たちとボールを追いかける冬馬の姿を眺めていた。「冬馬先生、こっち! パスして!」 子供たちの呼ぶ声に、冬馬が白い歯を見せて笑う。 その表情は、どこまでも明るく、健全で、慈愛に満ちていた。Tシャツの袖を捲り上げ、汗を拭いながら子供の頭を優しく撫でるその手は、夜に結衣の肌を這い、痣をなぞるあの手と同じものだとは到底信じられない。 昼間の彼は、誰もが信頼を寄せる「冬馬先生」だ。過去に荒れていた影など微塵も見せず、真っ直ぐに子供たちの未来を見つめている。 そんな彼の隣には、いつも決まって一人の女性がいた。「冬馬くん、休憩にしましょう。子供たちも喉が渇いているわ」 鈴を転がすような、清らかな声。施設で長く働く先輩の和葉だ。 彼女が差し出した麦茶のコップを、冬馬が親しげに受け取る。二人が視線を交わし、微笑み合うその光景は、まるで完成された絵画のように美しい。 結衣は窓枠を掴む指先に力を込めた。胸の奥が、冷たい針で刺されたように疼く。(冬馬くんがあんなふうに笑うのは、和葉さんの前だけだ……) 和葉は、結衣がどれほど願っても手に入らない「光」の象徴だった。冬馬が決して汚そうとせず、大切に、敬意を持って見つめ続ける聖域。 和葉を汚さないために、彼は夜、結衣を抱く。 結衣は彼が和葉に抱いている「清潔な恋心」の掃き溜めであり、彼の澱んだ本能を引き受けるための器なのだ。 その事実を再確認するたび、結衣の内面はどろどろとした自己嫌悪と、言葉にできない嫉妬に焼き尽くされそうになる。 ◇◇◇ 深夜。アパートの室内は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。 窓の外では冷たい雨が降り始め、ガラスを叩く規則的な音が、密室の孤独を強調している。 普段、二人は別々に眠る。冬馬はベッドで、結衣は床に敷いた布団で。それが、いつの間にか定着した彼らの距離感だった。 だが、冬馬が「それ」を求める夜だけは、結衣は彼の
第二章:烙印の行方、あるいは泥濘の出口 冬の夜気は、冷たい刃となって結衣の喉元を撫でる。 大学の卒業を目前に控えた一月。結衣は凍える指先をコートのポケットに押し込み、逃げるように自宅の扉を開けた。卒業論文の最終確認と実習報告、そして「土日のバイト」という名目で冬馬の部屋に通い、その腕の中で身を削る日々。疲労はすでに限界を超えていたが、冬馬の部屋のシーツから移った、あの清潔でどこか他人行儀な石鹸の香りが、彼女を辛うじて正気の側に繋ぎ止めていた。 だが、玄関の重い扉を閉めた瞬間、その安らぎは無残に切り裂かれる。 鼻を突く生ごみの腐敗臭。安酒の饐(す)えた匂い。そして、澱んだ空気の中に混じる、父親の不吉な気配。「遅かったじゃねえか、結衣」 リビングの薄暗がり、へたったソファに沈み込んだ影が、低く濁った声を出した。 テーブルの上には、安酒の瓶が数本、骸のように転がっている。灰皿からは吸い殻が溢れ、床にはギャンブルの出走表が散乱していた。母親の姿はない。またどこかの男の家で、媚を売りながら金を無心しているのだろう。 結衣は心臓が早鐘を打つのを感じながらも、動悸を悟られないよう、努めて平然を装って靴を脱いだ。「……授業が長引いたの。明日は早いから、もう寝るね」「待てよ、こら。大事な話があるだろうが」 父親がのっそりと立ち上がった。その一歩一歩が床を軋ませ、結衣の防衛本能を鋭く刺激する。「今月の『上納金』、足りねえんだよ。パチンコも競馬もさっぱりだ。お前、キャバクラの時給上がったんじゃねえのか? 店長に掛け合えって言ったよな」「これ以上は無理だよ。学費も、生活費も、奨学金の返済だってあるんだから……」「大学だあ? そんなもん何の役に立つ。お前みたいな女は、体売って稼ぐのが一番効率がいいんだよ。あのババア(母親)だってまだ体で稼いでるだろ? いいから出せ。隠してんだろ」 結衣が階段へ逃げようとしたとき、背後から荒々しい足音が迫り、逃げ場を塞がれた。 次の瞬間、結衣の長い髪が、節くれ立った大きな手で力任せに掴み上げられる。「痛っ……! 離して!」「誰に口答えしてんだ、ええ? 誰のおかげで今まで生きてこられたと思ってんだ!」 無理やり振り向かされた衝撃で、コートのボタンが弾け飛んだ。襟元が大きく乱れ、隠していた肌が剥き出しになる。その時、父親の血
第一章:聖域に濁る、毒と甘露 その夜の光景は、網膜の裏側にどろりとした澱(おり)のように焼き付いて離れない。 一年前の金曜日。街は極彩色のネオンに毒され、嬌声と排気音が幾重にも重なって、暴力的なまでの喧騒を奏でていた。 大学の実習を終えたばかりの解放感は、キャバ嬢としての「仕事着」を纏った瞬間に霧散していた。胸元が大きく開いた、肉感的なラインを強調するドレス。若さを武器に塗り固めたような、隙のない厚い化粧。夜の女を演じる結衣は、店から客を見送るために歩道に出たその瞬間、一人の男と視線がぶつかった。 長年、胸の奥で大切に、それこそ誰も触れられない聖域のように守り続けてきた憧れの人――冬馬だった。「てか、お前――なんでこんなとこにいんの?」 冬馬の鋼のような瞳が、冷徹に、そして残酷なまでに鮮明に結衣の姿を射抜く。 軽蔑だろうか、それとも呆れだろうか。最愛の人にだけは、この泥濘(でいねい)の中にいる自分を知られたくなかった。惨めさと羞恥で内臓がせり上がるような感覚を覚え、結衣は酸素の乏しい水底に沈められたように、呼吸の仕方を忘れて立ち尽くした。 それが、二人の関係が歪に形を変えた、地獄のような再会の夜だった。 ◇◇◇ それから一年が経った現在。 冬馬のワンルームマンションの室内は、逃げ場のない熱を孕んで重く澱んでいた。 窓の外からは、喉を掻き切るような蝉の声が絶え間なく降り注ぎ、午後の静寂をかき乱している。開け放たれたカーテンの隙間からは真夏の強烈な陽光が床に淡い光の帯を作り、部屋の隅に溜まった埃さえも無慈悲なほど鮮明に浮かび上がらせていた。 肌と肌がぶつかり合う乾いた音。つながり合う場所から漏れる卑猥な水音。それらが静かな室内に、心臓の鼓動を追い詰めるような速さで響き渡る。 結衣は、自身の肺の奥まで侵食してくる汗の匂いと、冬馬から漂う微かな石鹸の香りに眩暈(めまい)を覚えていた。「――あっ、イク……」 激しく腰を打ちつけて、冬馬が結衣の上で達した。 繋がりを解くと、冬馬は酷く事務的な手つきで行為の残骸を処理し、ゴミ箱へと捨てる。その一連の動作には、恋人同士のような愛おしむ余韻など微塵もなかった。 二人はぐったりとうつ伏せでベッドに倒れ込み、荒い呼吸を整える。シーツの感触が、汗ばんだ肌にじっとりと吸い付いた。「冬馬くん、クー
午後二時を少し過ぎた頃。 駅前のカフェに入った和葉を、午後の柔らかな光が迎えた。大きな窓から差し込む陽光が、年季の入った木のテーブルの上に斜めの帯を描いている。平日の昼下がり、店内は静寂に包まれていた。遠くの席でノートパソコンを叩く客が一人いるだけで、微かな空調の音だけが耳に届く。 運ばれてきたアイスティーのグラスには、早くも細かな結露が滲み、テーブルに薄く儚い水の輪を作っていた
深い夜の静寂が、寝室を重く満たしていた。深夜、唯人は弾かれたように目を覚ました。全身にじっとりとした嫌な汗が滲み、喉が何かに強く圧迫されているような、ひどい息苦しさが消えない。しばらくの間、彼は天井を見つめたまま、指先一つ動かすことができなかった。早鐘を打つ心臓の音が、鼓膜のすぐ裏側でやけに大きく、暴力的なまでに響き続けている。 また、あの夢を見ていた。 視界を埋め尽くすような、
帰路に就いたのは、夕闇が街を包み込み始めた午後五時半を過ぎた頃だった。 駅から自宅へと続く見慣れた道の途中に、一軒のスーパーがある。その前を通りかかったとき、入り口付近に佇む二つの人影が唯人の目に留まった。一人は見間違えるはずもない、自分の妻だ。唯人は無意識に足を止めていた。 その隣に立っているのは、長身の若い男だった。唯人よりは頭一つ分ほど低いが、すらりとしたしなやかな体格をしている。男は妻と向き合い、親しげに何かを話していた。 何より唯人の胸を抉ったのは、妻の表情だった。彼女は、心の底から楽しそうに声を上げて笑っていたのだ。(誰だ、あいつは……) 唯人は、妻があんなふうに無邪
呼び鈴が鳴ったのは、午後の陽が傾きかけた頃だった。 和葉はキッチンで夕食の下準備をしていたが、料理の手を止めて玄関へと向かった。扉を開けると、そこには懐かしい顔の女性が立っている。 仕立てのよさそうな濃紺のジャケットに、控えめな真珠のネックレス。年相応の品のある装いをした女性だったが、和葉の姿を認めた瞬間にその目の温度が変わった。値踏みするような鋭い視線が、和葉の顔をゆっくりと舐めるように流れる。「お義母さん」 和葉が声をかけると、女性は不快そうに目を細めた。「向こうのご両親から事情は全て聞いているの。私をお義母さんと呼ばないでちょうだい。穢らわしい女」 低く、抑揚のない平坦な