Todos los capítulos de アヒルも数えられない僕は、愛されもしなかった: Capítulo 1 - Capítulo 10

10 Capítulos

第1話

両親と一緒にヨットで遊びに出かけたときのことだった。甲板の上で、お父さんの木村陽斗(きむら はると)がふいに僕に聞いた。「橋の下のあひるさんは、何羽いるのかな?」僕が口を開いて、童謡の続きを歌おうとした瞬間、お父さんは僕を蹴り飛ばして海に落とした。「こんな簡単な歌でもすぐ答えられないのか?お前、本当に頭ついてるのか!」冷たい海水が肺の中まで流れ込み、僕は必死に声を絞り出した。「お父さん、僕、泳げないんだ。助けて……」けれどお母さんの木村千夏(きむら ちなつ)は、そのままヨットを出すように命じた。「泳げないなら、そのまま水の中でもう少し浸かってなさい。極限状態になれば才能が開くものよ。案外、誰にも教わらなくても泳げるようになるかもしれないわ」僕は必死に両腕を振った。けれど恐怖で右足がつってしまった。そして最後には、遠ざかっていくヨットをただ見ていることしかできなかった。僕の魂はふわりと宙に浮かび、ようやくお父さんとお母さんのヨットに追いついた。橋の下にアヒルが何羽いるのか、もうわかったんだって、二人に伝えたかった。でも、もう僕の声は二度と届かなかった。……そのとき甲板では、お父さんがお母さんとグラスを合わせ、気楽そうな笑みを浮かべていた。「木村家には菜々ちゃん一人いれば十分だ。あの役立たずは、底辺で腐っていくのがお似合いだ」お父さんのそばに浮かびながら、その嫌悪に満ちた顔を見て、僕の胸はぎゅっと締め付けられた。お父さんの中では、僕はずっと前から価値のない存在だったんだ。お母さんは、あの白いグランドピアノの前に座っていた。すらりとした指が白と黒の鍵盤の上を跳ねる。流れ出したのは、リストの「愛の夢」一曲弾き終わると、お姉ちゃんの木村菜々子(きむら ななこ)が駆け寄って、お母さんの頬にちゅっとキスをした。「お母さんのピアノ、ほんとにきれい!慧、前は聞こえないっていつも言ってたけど、絶対あれ嘘だったよね。お母さんが私のこともかわいがるから、やきもち焼いてるだけだよ」お母さんは甘やかすようにお姉ちゃんの鼻をつまみ、やさしい目を向けた。「あの子は音感がひどいのよ。どうしようもないわ」僕はピアノのそばに立って、鍵盤に手を伸ばそうとした。僕には絶対音感がある。先生は、僕は天才だ
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第2話

「ヨットのスピードが出すぎていて、波も高くて……坊ちゃんを見失いました」お父さんはグラスを床に叩きつけた。赤ワインが飛び散り、ボディガードの顔にかかった。「役立たずどもが!見失ったなら探せ!そんなことまで俺が教えなきゃならないのか!」その騒ぎに気づいて、お母さんもこちらへやって来た。眉をきつく寄せている。「どうしたの?あのばか、まだ上がってきて謝ってないの?」お父さんは苛立たしげにネクタイを引っぱり、襟元のボタンを外した。「ボディガードが見失ったらしい。いま探してる」それを聞いても、お母さんは慌てるどころか、かえって冷たく笑った。その目には軽蔑があふれていた。「やっぱりね。どうせ浮き輪の陰にでも隠れて、わざと出てこないだけよ。そんなやり方で気を引こうっていうの?こういう子どもじみた芝居、あの子が今まで何回やったと思ってるの?この前だって、一日じゅうクローゼットに隠れて出てこなかったでしょう。ピアノの練習から逃げるために」僕はお母さんの目の前まで漂っていって、大声で叫んだ。声は泣きそうに震えていた。「違うよ、お母さん!あのときは耳が痛かったんだ!補聴器が壊れてて、音が針みたいに刺さって……痛くてたまらなかったから隠れたんだよ!」でも、お母さんには聞こえない。お母さんは上品にシャンパンをひと口含み、目に浮かぶのは侮蔑ばかりだった。「放っておきなさい。しばらくそのままにしておけばいいわ。海はあんなに冷たいんだもの、耐えられなくなったら勝手に這い上がってくるでしょ。すぐ嘘をついて、大げさに騒ぐような子は、甘やかしちゃだめなのよ」僕はお母さんの冷たい横顔を見つめながら、ぽろぽろ涙をこぼした。海の中、本当にすごく寒かったんだよ、お母さん。慧は、もう上がれない。もう二度と上がれないんだ。空はすっかり暗くなった。海は一面まっ黒で、ヨットのサーチライトだけがぽつんと明滅していた。潮風は骨にしみるほど冷たくなり、波もますます高くなっていた。船体に激しく打ちつけるたび、胸が縮み上がるような大きな音が響く。僕は甲板の隅で体を丸め、膝を抱えた。魂になった僕には寒さは感じないはずなのに、あの真っ黒な海を見ていると、生きていたころの恐怖がよみがえって、どうしても震えが止まらなかった。
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第3話

「そんなこと、僕は一度も言ってないよ。アヒルを数えろって言ったのはお姉ちゃんのほうじゃないか。ちゃんと数えられたら、お父さんが抱っこしてくれるって、お姉ちゃんが言ったんだよ」お姉ちゃんには僕の姿が見えない。彼女はアイスの最後のひと口を食べ終えると、満足そうに唇をぺろりとなめて、甘ったるい笑みを浮かべた。「お父さん、もう心配しなくていいよ。慧ももう子どもじゃないんだから、そのうち帰ってくるって」お父さんはうなずき、上着を脱いでお姉ちゃんの肩にかけた。仕草はひどくやさしかった。「やっぱり菜々ちゃんは聞き分けがいいな。さあ、戻ってケーキを切ろう」三人は背を向け、そのままあたたかな船室へ入っていった。楽しそうな笑い声が、また中から聞こえてきた。分厚いガラス越しのその声は、あまりにも遠かった。僕だけが、扉の外に取り残されていた。ガラス越しに、三段重ねの大きなケーキが切り分けられるのが見えた。お姉ちゃんは最初のひと切れをお母さんに食べさせ、二つ目をお父さんに食べさせた。三人はあんなにも幸せそうに笑っていた。まぶしすぎて、目が痛かった。一家団欒の光景の中に、最初から僕の居場所なんてなかったんだ。僕は振り向いて、果てしない海を見た。遠くの海面に、何かが波に揺られながら浮かんでいるように見えた。あれは僕の体だった。たったひとりで波に流され、深い闇の底へ沈んでいきながら、魚に食われていた。「慧は海の中にいるよ。真っ暗で、冷たくて……誰か、慧をおうちに連れて帰って」僕は船室に向かって叫んだ。声が枯れても、血がにじむほど叫んでも、誰ひとり答えてくれなかった。返ってくるのは、波が船体を打つ音だけだった。お父さんはとうとう苛立ちを隠さなくなった。「ヨットを戻せ!あいつがどこへ行けるのか、見てやる!」ヨットは向きを変え、全速力で引き返した。僕は船尾の手すりにしがみつきながら、自分の体がある場所がどんどん遠ざかっていくのを見ていた。行かないで。お父さん、お母さん、行かないで。僕はまだ、そこにいるんだ。あなたたちのすぐ後ろの海の中にいるんだよ。ただ一度振り返ってくれれば、僕が見えるのに。お願いだから、一度でいいから振り返って。ヨットは岸に着いた。埠頭はひっそりとしていて、薄暗い
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第4話

それは腕時計じゃない。僕の手首だった。腕時計はきつく締まっていて、僕には外せなかった。そのまま僕はそれをつけたまま、少しずつ冷たい海の底へ沈んでいった。そして最後には、闇にすっかり飲み込まれた。「通報しろ」お父さんは苛立った様子で煙草を取り出して火をつけた。ライターは何度も空打ちして、ようやく火がついた。「海上保安庁に捜索させろ。あのガキを引きずり出してこい。今度こそ地下室に閉じ込めて三日三晩飢えさせる。そうしなきゃ気が済まん」ほどなくして、二隻の海上保安庁の巡視艇と一隻の捜索船が埠頭に到着した。隊を率いていた隊長は厳しい顔つきで、お父さんのスマホに表示された位置情報を見つめていた。「木村さん、最後に確認します。お子さんは腕時計を捨てただけで、ご本人はまだその位置にいるわけではない、と本当に断言できますか」お父さんは煙をひとつ吐き出した。立ちのぼる煙の向こうで、その目はわずかに泳いでいた。それでも口調だけは強かった。「間違いなく捨てたんだ。あいつなら泳げるだろうし、あんな場所にぼんやり留まってるほど馬鹿じゃない。近くの岩礁でも捜してくれ。それか、通りかかった船に拾われたのかもしれない」隊長は眉をひそめ、画面に表示された水深マイナス百メートルの数値を見た。さらに今夜の風と波のデータにも目を落とす。その表情は、いっそう重くなった。「木村さん、我々の経験から申し上げますと、投棄された物体なら、ここまで一定の速度で沈み続けることはあまりありません。それに、この深さにいるのが人だとすれば、生存の可能性はありません。現時点での任務は、捜索救助ではなく、収容へ切り替わる可能性があります」お父さんの、煙草を挟んだ手がぴくりと震えた。火の粉が手の甲に落ちて、赤い跡を作った。それでもお父さんは身じろぎもせず、目を見開いたまま、隊長を睨みつけた。「何だと?収容だと?うちの息子が死んだとでも言いたいのか!」お母さんも甲高い声を上げ、隊長に詰め寄って突き飛ばした。爪が隊長の腕に食い込む。「何を勝手なこと言ってるの!あの子はただ隠れてるだけよ!嘘つきでどうしようもない子なだけなんだから!」隊長は何も言わず、ただ黙って手を振った。数人の潜水士が酸素ボンベを背負い、真っ暗な海
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第5話

それは、僕の靴だった。おばあちゃんが市場で買ってくれたものだ。お母さんはそれを野暮ったいだの、安っぽいだのと嫌がって、何度もゴミ箱に捨てようとした。こんなものを履いて出歩いたら木村家の恥だ、と。でも僕は手放せなかった。あれは、僕がもらったたったひとつの誕生日プレゼントだったから。だからいつもきれいに磨いて、大事に笑顔の絵まで描いていた。「これ……慧の靴……」お母さんの声はひどく震えていた。手を伸ばしてその靴に触れようとして、けれどまた、怯えたように引っ込めた。「そんなはずない……どうして靴が脱げるの?」「きっと靴を脱いで泳いだのよ。少しでも速く泳ぐために……」お父さんはまだ認めまいとしていた。けれどその声にはもう泣き声が混じっていた。体も抑えきれないほど震えていた。「そ、そうだ。あいつ、裸足で走るのが好きだったからな。続けて捜せ!人を捜せ!こんなガラクタで俺を誤魔化すな!」僕は空中に漂いながら、そのぽつんと置かれた靴を見つめていた。お父さん、お母さん、靴が脱げたのは、僕があまりにも必死にもがいたからだよ。暗い潮の流れが押し寄せてきたとき、僕は夢中で足をばたつかせた。そのせいで、靴は流されてしまったんだ。あのとき、僕は本当に怖かった。助けてって叫びたかったのに、口の中にはしょっぱくて苦い海水がいっぱいだった。「報告!目標本体を発見しました!」無線から再び声が響いた。今度の声はひどく重かった。まるで弔鐘のように。「児童の遺体であることを確認。落水地点から三海里離れた潮流域です。これより収容作業に入ります」その言葉は、重い一撃となって、その場にいた全員の胸に叩きつけられた。お父さんの体がぐらりと揺れ、そのまま尻もちをつくように床へ崩れ落ちた。「遺体?どうして遺体なんだ?俺はただ蹴っただけだ……ほんの、軽く一蹴りしただけなのに……」お父さんは自分の右足を見つめた。目には虚ろな恐怖だけが浮かんでいた。お姉ちゃんは隅に縮こまり、怯えてぶるぶる震えていた。海の上では、引き揚げ用のネットがゆっくりと持ち上がっていく。海藻に絡まった小さな影が少しずつ水面から姿を現した。あれは、僕の体だった。ふやけて白くなり、ひどく膨れ上がって、何の命の気配もないまま
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第6話

「何だ?こいつ、何を盗んだんだ?やっぱりな、このガキは手癖が悪いと思ってたんだ」お父さんの目には、僕は役立たずなだけじゃなく、泥棒にまで見えていたんだ。検視官は眉をひそめ、お父さんの言い方にあからさまな不快感をにじませた。それでも専門の器具を使って、僕の指を一本ずつ慎重にこじ開けていった。かきん、と小さな音がした。外から力をかけられて、指の骨が外れたんだ。それは、死んだあとの僕の体が上げた、最後の抗議みたいだった。ようやく僕の手が開いた。その手のひらには、透明の小さな薬袋がきつく握られていた。おばあちゃんがいつも血圧の薬を入れていた、あの小さな袋だった。僕はそれを宝物みたいに大事にして、ずっとポケットの中に隠していた。検視官はそっと袋を開けた。中から取り出したのは、きちんと何度も折りたたまれたキャンディの包み紙だった。袋に守られていたおかげで、あれだけ長く海に沈んでいたのに、端が少し湿っているだけで、真ん中に書かれた文字はまだはっきり残っていた。そこには、クレヨンで描いた五線譜があった。音符は少しいびつに並んでいる。題名はこう書かれていた。【おかあさんにあげるうた】その下には、小さな字が添えられていた。【橋のしたにはあひるさん すいすいおよぐよぼくにはおうちがふたつあるおとうさんのおうちとおかあさんのおうちおかあさんおとうさん だいすきぼくのこと すきじゃなくても】お父さんの頭は真っ白になっていた。震える手で、その包み紙をつかもうとした。でも海風があまりにも強くて、指先の震えも止まらなかった。包み紙は指のあいだからするりと抜け、くるくる回りながら暗い海へ飛んでいった。「やめろ――!」お父さんは悲鳴のような声を上げ、手すりに身を乗り出してつかもうとした。でも、その手に残ったのは冷たい風だけだった。「慧が……俺にくれた手紙が……」お父さんは狂ったように自分の頬を張った。ばちん、ばちん、ばちん。どの一発にも容赦がなく、口元はたちまち切れて血がにじみ、頬は赤く腫れ上がった。「俺は何をした?俺はいったい、何をしたんだ?息子は、俺のために歌を書いてたんだ……俺のために書いてたんだ!」そのころ、お母さんも意識を取り戻していた。さっきの
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第7話

僕はそのそばに立って、二人が声を上げて泣きじゃくるのを見ていた。でも、僕の心はもう何ひとつ揺れなかった。ケーキも、もう食べたくなかった。ピアノだって、もう習いたくなかった。「ご遺族の方は、どうかお気持ちを強くお持ちください。まだこちらで詳しい確認が必要です」検視官が、両親の泣き崩れる声を遮った。聴診器とペンライトを取り出し、僕の目や耳や口を順に調べ始める。ペンライトの光が僕の耳の穴を照らした、そのときだった。検視官の手がふいに止まった。不思議そうに小さく声を漏らし、それからピンセットを取り出して、僕の耳の後ろから何かを外した。それは、無骨で古びた、肌色の耳かけ式補聴器チューブがイヤモールドにつながっていて、それが耳の奥まで深く差し込まれていた。本体の色は黄ばんで塗装も剥げ、電池ぶたはゆるんでいて、透明のテープで何重にもぐるぐる巻きにされていた。「この子、聴覚に障害があったんですか?」検視官はその古びた補聴器を持ち上げ、お父さんとお母さんに尋ねた。お父さんもお母さんも、きょとんとした顔をしていた。「そんなはずない。あいつ、耳は悪くなかったはずだ。普段だって呼べば聞こえていた。ただちょっと反応が鈍いだけで、何回か呼ばないと返事しないことはあったけど」検視官は冷たく笑い、その補聴器をトレーの上に置いた。硬い音が、乾いた響きを立てた。「問題ない?これは十数年前の旧式アナログ補聴器です。とっくに製造終了しています。こんなものを今どき使うのは、よほど困窮した家庭の高齢者くらいです。それに、この機械はもう壊れています」検視官は、ひび割れたチューブと、錆びついた電池接点を指さした。「少なくとも三か月以上はこの状態でしょう。こんな粗悪で故障した補聴器をつけていれば、ただ聞こえないだけでは済みません。ショートのせいで、常に強いノイズが耳の中で鳴り続けます。神経を絶えず削られるような苦痛です。この子がふだんあなた方と会話できていたのは、ほとんど推測と読唇だけでしょう」その言葉に、お父さんもお母さんもその場で凍りついた。「旧式で……生産終了していて……しかも壊れてた……」お父さんの唇がぶるぶると震えた。そして、思い出した。その補聴器は、三年前、おばあちゃんが僕を連れて作り
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第8話

額が甲板に何度も打ちつけられ、血がべったりと広がっていく。お父さんは、壊れた粗悪な補聴器を見つめたまま、目の焦点を失っていた。「だからか……だから慧、さっきヨットの上で、ずっと俺の口元を見ていたのか……必死で俺の言葉を聞き取ろうとしてたのに……俺は、慧を蹴り落とした……俺が息子を殺した!この手で、いや、この足で、俺が息子を殺したんだ!」お父さんは突然、腰に差していたナイフを引き抜いた。ケーキを切るためのものだった。その刃をためらいもなく、自分の右足へ突き立てる。「この足だ……この足だ!こいつを蹴ったのは、この足だ!切り落としてやる!切り落としてやる!」血が一気に噴き出した。「木村さん!」警察官と検視官がぎょっとして、あわてて駆け寄り、刃物を取り上げようとした。けれどお父さんは痛みなんて感じていないみたいに、泣きながら笑い、血まみれの顔で喚き続けた。「痛いか?こんな痛みが何だっていうんだ!慧は海の中で、もっともっと痛かったんだぞ!俺も慧のところへ行く……海へ行くんだ……一緒にアヒルを数えるんだ!」僕は狂ったようになったお父さんとお母さんを見つめて、そっとため息をついた。今になって、やっと痛みがわかったの?でもあのときの慧はこんなのより、何万倍も痛かったんだよ。警察は錯乱したお父さんを取り押さえ、応急処置で傷の手当てをした。お母さんは僕の遺体を抱きしめたまま、どうしても離そうとせず、誰かが触れようとすると噛みついた。結局、二人には鎮静剤が打たれた。ヨットは差し押さえられ、その場にいた全員が事情聴取のため警察署へ連行された。当時の状況を再現するため、警察はヨットの監視カメラ映像を回収した。取調室では、お父さんとお母さんが椅子に手錠でつながれていた。二人とも顔色はひどく、目は真っ赤に腫れ、泣きすぎて声まで枯れていた。やがて、画面にあのときの映像が流れ始める。映像の中で、痩せた小さな僕は、手すりのそばに立っていた。お父さんのあの一蹴りはあまりにも強く、あまりにも迷いがなかった。僕が宙に飛ばされた瞬間、顔は恐怖で引きつっていた。海に落ちてからも、僕は必死にもがいていた。ただ、あの手だけは何度も海面の上へ突き出そうとしていた。その手には、小さな薬袋がぎゅ
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第9話

監視映像はそのまま流れ続けた。それから三分ほど経って、僕はとうとう力尽きた。最後に沈んでいく直前、僕はカメラに向かって、ひとつ口の形を作った。それは読唇だった。お父さんとお母さんが、昔、僕に言葉を覚えさせるためにわざわざ教えたものだ。その口の動きは――「さようなら」画面が暗転した。取調室に、胸を引き裂くような泣き声が響いた。お父さんは自分の頭を机に何度も打ちつけ、自分ごと死のうとした。お母さんは泣きながら気を失った。警察官は画面を消し、その目に軽蔑と怒りをにじませた。「木村陽斗、木村千夏。あなた方には、過失致死および児童虐待の疑いがあります。それから娘の木村菜々子についても、十四歳未満のため刑事責任は限定されますが、その行為は到底看過できるものではありません」僕は空中に漂いながら、その一部始終を見届けていた。胸の奥にたまっていた恨みは、ようやく少しだけ薄れていった。全部、明らかになった。これでみんな、僕が役立たずなんかじゃなかったってわかったよね。僕は、ちゃんとしたいい子だったよね?僕の葬式はとても質素なものだった。不慮の死で、しかも未成年だったから、大きくはできなかった。おじいちゃんとおばあちゃんも駆けつけた。おばあちゃんは何度も泣き崩れて気を失い、お父さんとお母さんを指さして罵った。「孫を返しておくれ!あんなにいい子だったのに、どうしてあんたたちにこんな目に遭わされなきゃならなかったんだい!罰が当たるよ……木村家にはきっと報いが来るよ!」お父さんとお母さんは祭壇の前にひざまずいたまま、おばあちゃんに殴られても罵られても、じっと受けるだけだった。目はうつろで、もう何の生気もなかった。お姉ちゃんは更生施設へ送られ、心理ケアを受けることになった。中では毎晩悪夢を見ているらしい。海の中から僕が這い上がってきて、自分を迎えに来る夢だという。お姉ちゃんは壊れてしまった。誰彼かまわず、足をつかまないで、と叫ぶようになったそうだ。そこへ、特別な弔問客が一人やって来た。僕の音楽の先生だった。先生は何枚もの絵と、一台のレコーダーを手にしていた。「木村さん、奥様。これは、慧くんが生前、私のところに預けていたものです。あの子は本物の天才でした。絶対音感
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第10話

「慧、お母さんが悪かったの……お母さんが連れて帰るから……もう二度と、あれを習えとかこれを覚えろとか、無理やり言わないから……お願い、戻ってきて……」僕はお母さんの後ろに立って、そっと手を伸ばした。透きとおった手のひらを、お母さんの頭の上に重ねる。触れることはできなくても、最後に一度だけ、慰めてあげたかった。「お母さん、泣かないで。慧はもう痛くないよ。慧、これからほんもののアヒルを数えに行くんだ。向こうでは、慧、どんな音だってちゃんと聞こえるよ」僕の体は少しずつ透けていった。空から一本の光が差してくる。あたたかくて、やわらかな光だった。僕を迎えに来た光だ。僕は最後にもう一度、この世界を見た。一生消えない後悔を抱えたままのお父さんとお母さんを見た。もう、恨んでないよ。でも、もう二度と、あなたたちの子どもにはなりたくない。来世では、僕は自由なアヒルになりたい。橋の下を、すいすい泳ぎ回るアヒルに。誰にも、のろまだなんて言われない。誰にも、水の中へ蹴り落とされたりしない。あるのは楽しい歌声だけ。その歌が、いつまでも耳元で響いている。三年後。海辺の療養施設。潮の生臭い匂いが、そこらじゅうに漂っていた。死の匂いみたいだった。ひとりの女が、車椅子に座って海をぼんやり見つめていた。気が触れたようになってしまった女だった。あれはお母さんだった。お母さんは壊れてしまった。僕が死んでから、心を病んでしまったんだ。いつも、僕が死んだ日に着ていたあのドレスを着ている。もうぼろぼろなのに、落ちない染みまで残っているのに。その腕には、黄ばんだスニーカーをぎゅっと抱えていた。「一羽のアヒル、二羽のアヒル……」お母さんは何もない空間に向かって、数を数えていた。指先で宙をひとつずつ指していく。「慧、見て。お母さん、ちゃんと数えられたよ。お母さん、頭いいでしょ?早く褒めてよ、慧」そばにいた介護スタッフがため息をついて、毛布を肩にかけた。「千夏さん、風が出てきました。中へ戻りましょう」けれどお母さんは突然取り乱し、海を指さして叫び出した。目の奥は恐怖でいっぱいだった。「違う!慧が海の中にいる!あの子、プレゼントを届けに来たの!手を上げてるのよ!
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