LOGIN両親と一緒にヨットで遊びに出かけたときのことだった。甲板の上で、お父さんの木村陽斗(きむら はると)がふいに僕に聞いた。 「橋の下のあひるさんは、何羽いるのかな?」 僕が口を開いて、童謡の続きを歌おうとした瞬間、お父さんは僕を蹴り飛ばして海に落とした。 「こんな簡単な歌でもすぐ答えられないのか?お前、本当に頭ついてるのか!」 冷たい海水が肺の中まで流れ込み、僕は必死に声を絞り出した。 「お父さん、僕、泳げないんだ。助けて……」 けれどお母さんの木村千夏(きむら ちなつ)は、そのままヨットを出すように命じた。 「泳げないなら、そのまま水の中でもう少し浸かってなさい。極限状態になれば才能が開くものよ。案外、誰にも教わらなくても泳げるようになるかもしれないわ」 僕は必死に両腕を振った。けれど恐怖で右足がつってしまった。 そして最後には、遠ざかっていくヨットをただ見ていることしかできなかった。 僕の魂はふわりと宙に浮かび、ようやくお父さんとお母さんのヨットに追いついた。 橋の下にアヒルが何羽いるのか、もうわかったんだって、二人に伝えたかった。 でも、もう僕の声は二度と届かなかった。
View More「慧、お母さんが悪かったの……お母さんが連れて帰るから……もう二度と、あれを習えとかこれを覚えろとか、無理やり言わないから……お願い、戻ってきて……」僕はお母さんの後ろに立って、そっと手を伸ばした。透きとおった手のひらを、お母さんの頭の上に重ねる。触れることはできなくても、最後に一度だけ、慰めてあげたかった。「お母さん、泣かないで。慧はもう痛くないよ。慧、これからほんもののアヒルを数えに行くんだ。向こうでは、慧、どんな音だってちゃんと聞こえるよ」僕の体は少しずつ透けていった。空から一本の光が差してくる。あたたかくて、やわらかな光だった。僕を迎えに来た光だ。僕は最後にもう一度、この世界を見た。一生消えない後悔を抱えたままのお父さんとお母さんを見た。もう、恨んでないよ。でも、もう二度と、あなたたちの子どもにはなりたくない。来世では、僕は自由なアヒルになりたい。橋の下を、すいすい泳ぎ回るアヒルに。誰にも、のろまだなんて言われない。誰にも、水の中へ蹴り落とされたりしない。あるのは楽しい歌声だけ。その歌が、いつまでも耳元で響いている。三年後。海辺の療養施設。潮の生臭い匂いが、そこらじゅうに漂っていた。死の匂いみたいだった。ひとりの女が、車椅子に座って海をぼんやり見つめていた。気が触れたようになってしまった女だった。あれはお母さんだった。お母さんは壊れてしまった。僕が死んでから、心を病んでしまったんだ。いつも、僕が死んだ日に着ていたあのドレスを着ている。もうぼろぼろなのに、落ちない染みまで残っているのに。その腕には、黄ばんだスニーカーをぎゅっと抱えていた。「一羽のアヒル、二羽のアヒル……」お母さんは何もない空間に向かって、数を数えていた。指先で宙をひとつずつ指していく。「慧、見て。お母さん、ちゃんと数えられたよ。お母さん、頭いいでしょ?早く褒めてよ、慧」そばにいた介護スタッフがため息をついて、毛布を肩にかけた。「千夏さん、風が出てきました。中へ戻りましょう」けれどお母さんは突然取り乱し、海を指さして叫び出した。目の奥は恐怖でいっぱいだった。「違う!慧が海の中にいる!あの子、プレゼントを届けに来たの!手を上げてるのよ!
監視映像はそのまま流れ続けた。それから三分ほど経って、僕はとうとう力尽きた。最後に沈んでいく直前、僕はカメラに向かって、ひとつ口の形を作った。それは読唇だった。お父さんとお母さんが、昔、僕に言葉を覚えさせるためにわざわざ教えたものだ。その口の動きは――「さようなら」画面が暗転した。取調室に、胸を引き裂くような泣き声が響いた。お父さんは自分の頭を机に何度も打ちつけ、自分ごと死のうとした。お母さんは泣きながら気を失った。警察官は画面を消し、その目に軽蔑と怒りをにじませた。「木村陽斗、木村千夏。あなた方には、過失致死および児童虐待の疑いがあります。それから娘の木村菜々子についても、十四歳未満のため刑事責任は限定されますが、その行為は到底看過できるものではありません」僕は空中に漂いながら、その一部始終を見届けていた。胸の奥にたまっていた恨みは、ようやく少しだけ薄れていった。全部、明らかになった。これでみんな、僕が役立たずなんかじゃなかったってわかったよね。僕は、ちゃんとしたいい子だったよね?僕の葬式はとても質素なものだった。不慮の死で、しかも未成年だったから、大きくはできなかった。おじいちゃんとおばあちゃんも駆けつけた。おばあちゃんは何度も泣き崩れて気を失い、お父さんとお母さんを指さして罵った。「孫を返しておくれ!あんなにいい子だったのに、どうしてあんたたちにこんな目に遭わされなきゃならなかったんだい!罰が当たるよ……木村家にはきっと報いが来るよ!」お父さんとお母さんは祭壇の前にひざまずいたまま、おばあちゃんに殴られても罵られても、じっと受けるだけだった。目はうつろで、もう何の生気もなかった。お姉ちゃんは更生施設へ送られ、心理ケアを受けることになった。中では毎晩悪夢を見ているらしい。海の中から僕が這い上がってきて、自分を迎えに来る夢だという。お姉ちゃんは壊れてしまった。誰彼かまわず、足をつかまないで、と叫ぶようになったそうだ。そこへ、特別な弔問客が一人やって来た。僕の音楽の先生だった。先生は何枚もの絵と、一台のレコーダーを手にしていた。「木村さん、奥様。これは、慧くんが生前、私のところに預けていたものです。あの子は本物の天才でした。絶対音感
額が甲板に何度も打ちつけられ、血がべったりと広がっていく。お父さんは、壊れた粗悪な補聴器を見つめたまま、目の焦点を失っていた。「だからか……だから慧、さっきヨットの上で、ずっと俺の口元を見ていたのか……必死で俺の言葉を聞き取ろうとしてたのに……俺は、慧を蹴り落とした……俺が息子を殺した!この手で、いや、この足で、俺が息子を殺したんだ!」お父さんは突然、腰に差していたナイフを引き抜いた。ケーキを切るためのものだった。その刃をためらいもなく、自分の右足へ突き立てる。「この足だ……この足だ!こいつを蹴ったのは、この足だ!切り落としてやる!切り落としてやる!」血が一気に噴き出した。「木村さん!」警察官と検視官がぎょっとして、あわてて駆け寄り、刃物を取り上げようとした。けれどお父さんは痛みなんて感じていないみたいに、泣きながら笑い、血まみれの顔で喚き続けた。「痛いか?こんな痛みが何だっていうんだ!慧は海の中で、もっともっと痛かったんだぞ!俺も慧のところへ行く……海へ行くんだ……一緒にアヒルを数えるんだ!」僕は狂ったようになったお父さんとお母さんを見つめて、そっとため息をついた。今になって、やっと痛みがわかったの?でもあのときの慧はこんなのより、何万倍も痛かったんだよ。警察は錯乱したお父さんを取り押さえ、応急処置で傷の手当てをした。お母さんは僕の遺体を抱きしめたまま、どうしても離そうとせず、誰かが触れようとすると噛みついた。結局、二人には鎮静剤が打たれた。ヨットは差し押さえられ、その場にいた全員が事情聴取のため警察署へ連行された。当時の状況を再現するため、警察はヨットの監視カメラ映像を回収した。取調室では、お父さんとお母さんが椅子に手錠でつながれていた。二人とも顔色はひどく、目は真っ赤に腫れ、泣きすぎて声まで枯れていた。やがて、画面にあのときの映像が流れ始める。映像の中で、痩せた小さな僕は、手すりのそばに立っていた。お父さんのあの一蹴りはあまりにも強く、あまりにも迷いがなかった。僕が宙に飛ばされた瞬間、顔は恐怖で引きつっていた。海に落ちてからも、僕は必死にもがいていた。ただ、あの手だけは何度も海面の上へ突き出そうとしていた。その手には、小さな薬袋がぎゅ
僕はそのそばに立って、二人が声を上げて泣きじゃくるのを見ていた。でも、僕の心はもう何ひとつ揺れなかった。ケーキも、もう食べたくなかった。ピアノだって、もう習いたくなかった。「ご遺族の方は、どうかお気持ちを強くお持ちください。まだこちらで詳しい確認が必要です」検視官が、両親の泣き崩れる声を遮った。聴診器とペンライトを取り出し、僕の目や耳や口を順に調べ始める。ペンライトの光が僕の耳の穴を照らした、そのときだった。検視官の手がふいに止まった。不思議そうに小さく声を漏らし、それからピンセットを取り出して、僕の耳の後ろから何かを外した。それは、無骨で古びた、肌色の耳かけ式補聴器チューブがイヤモールドにつながっていて、それが耳の奥まで深く差し込まれていた。本体の色は黄ばんで塗装も剥げ、電池ぶたはゆるんでいて、透明のテープで何重にもぐるぐる巻きにされていた。「この子、聴覚に障害があったんですか?」検視官はその古びた補聴器を持ち上げ、お父さんとお母さんに尋ねた。お父さんもお母さんも、きょとんとした顔をしていた。「そんなはずない。あいつ、耳は悪くなかったはずだ。普段だって呼べば聞こえていた。ただちょっと反応が鈍いだけで、何回か呼ばないと返事しないことはあったけど」検視官は冷たく笑い、その補聴器をトレーの上に置いた。硬い音が、乾いた響きを立てた。「問題ない?これは十数年前の旧式アナログ補聴器です。とっくに製造終了しています。こんなものを今どき使うのは、よほど困窮した家庭の高齢者くらいです。それに、この機械はもう壊れています」検視官は、ひび割れたチューブと、錆びついた電池接点を指さした。「少なくとも三か月以上はこの状態でしょう。こんな粗悪で故障した補聴器をつけていれば、ただ聞こえないだけでは済みません。ショートのせいで、常に強いノイズが耳の中で鳴り続けます。神経を絶えず削られるような苦痛です。この子がふだんあなた方と会話できていたのは、ほとんど推測と読唇だけでしょう」その言葉に、お父さんもお母さんもその場で凍りついた。「旧式で……生産終了していて……しかも壊れてた……」お父さんの唇がぶるぶると震えた。そして、思い出した。その補聴器は、三年前、おばあちゃんが僕を連れて作り
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