All Chapters of 母の死を境に、私は愛という名の檻から逃げ出した: Chapter 1 - Chapter 7

7 Chapters

第1話

「離婚よ、アントニオ。書類にはもうサインしてあるわ」私は離婚協議書をアントニオのデスクの上に置いた。「ふざけるな」彼は私を一瞥もせず、視線を報告書に落としたまま言う。「今夜は接待がある。こんな遊びに付き合ってる暇はない」「ふざけてない」私は一語一語を噛みしめるように言う。「離婚したいの」彼はようやく顔を上げ、不機嫌そうに眉をひそめた。「こういう冗談は好きじゃない」数人の部下が空気を読んで部屋を出ていく。去り際、彼らが私に向けたのは、どこか憐れむような視線だった。「冗談じゃないわ」拳を握りしめ、無理やり彼の目をまっすぐ見据える。アントニオは立ち上がった。高い背が覆いかぶさるように迫り、香水と葉巻の匂いが混ざって、喉がきゅっと締めつけられる。「ベイビー」彼は私の腰を抱き寄せ、耳元に唇を寄せる。「お前の母親の薬、1錠1000ドルだ。1日6錠必要なんだろう?俺と別れて、彼女を死なせる気か?」歯がきしむほど、奥歯を噛み締めた。かつてはあれほど惹かれていた彼の強引さが、今は吐き気がするほど嫌いだ。「もうあなたの薬はいらない!」彼を突き飛ばし、ほとんど叫ぶ。「母は亡くなったの。だからサインして!」その瞬間、彼の目が陰った。「そんな理由で俺を騙すつもりか?今朝、エレナが『お前の母親が散歩してる動画』を見せてきたぞ」思わず目を見開き、否定しようとしたその時――扉の前に彼のコンシリエーレであるエレナが現れた。「ドン、そろそろお時間です」彼は即座に踵を返し、出ていく。投げ捨てるように言い残した。「くだらない真似はやめろ。戻ってから話す」話すはずがない。彼にとってこれは、私の「くだらない感情的な騒ぎ」のひとつにすぎない。どうせ四時間もしないうちに、私が折れて謝りに来ると思っている。実際、以前の私はそうだった。彼の機嫌を損ねて母の薬を止められるのが怖くて、どんな要求にも笑って頷いた。面と向かって「意気地なしみたいね」と嘲られても、聞こえないふりができた。でも、今回は違う。もし一週間前、彼があの電話で私の話を最後まで聞いてくれていたなら、私はまだ「これが愛だ」と自分を騙し続けていたかもしれない。けれど、あの時、私がやっとの思いで口を開いた瞬間、エレナに電話を奪われた。「奥様、また今季
Read more

第2話

電話を切ってから、まだ十分も経っていない。階下から、アントニオの足音が慌ただしく響いてきた。珍しいこともあるものだ。以前、私が四十度の高熱を出した時でさえ、彼はエレナに解熱剤を届けさせただけだったのに。やはり、エレナのことが絡まないと動かないらしい。彼はスーツも脱がないまま寝室に踏み込み、一直線に歩み寄ってくる。その目は冷たく沈んでいた。「俺からの電話を切る度胸があるとはな?」私は視線も上げず、淡々と服を畳む。「出たくなかっただけよ」次の瞬間、手首を強く掴まれ、無理やり顔を上げさせられる。「黙れと言ったからか?エレナは大口の契約をまとめたんだ。ドンとして幹部を連れて祝う、それの何が悪い?」彼の声は次第に荒くなり、怒気を帯びていく。「どれだけの人間が見ていたと思ってる?中には、あいつが俺の愛人だと噂する連中までいる!エレナは体面を重んじる。お前にあんな皮肉を言われて、その場で泣いて倒れたんだぞ!」「……ふーん」私は首を傾げた。何に怒っているのか、本気で分からなかった。「それ、私に何の関係があるの?私は彼女の保護者じゃないわ」彼は呆れたように、しかし苛立ちを含んだ笑みを漏らした。私はゆっくりと言葉を継ぐ。「みんなが彼女に忠告したのは、彼女の振る舞いに問題があるって思われてるからでしょ?」「いい加減にしろ!」突然の怒声に、廊下にいたボディガードたちでさえ一歩退く。「エレナはファミリーのコンシリエーレだ。彼女が日々扱う金額は、お前が一生で目にする額を軽く超えている。その庇護の下で贅沢な生活をしているくせに、俺の右腕を貶すのか?」その視線には、失望と非難がはっきりと浮かんでいた。「屋敷で何百人もの使用人に世話をされて、外で働く苦労も知らない。俺が甘やかしたせいで、嫉妬から、ずっとお前を世話してきたエレナを中傷するようになったんだな。次はない。次があれば――お前の母親の薬は止める」私は彼の見下ろす顔を見つめたまま、ふいに甲高い笑い声を上げた。「贅沢な生活?」彼は眉をひそめ、狂人でも見るような目を向けてくる。私は彼の手首を掴み、力任せに引きずってドレッシングルームへ連れて行った。そこには、豪奢な衣装がずらりと並んでいる。すべて、ガラスケースに鍵をかけられたまま。「これを見て!」鍵を
Read more

第3話

小さなスーツケースを引きずりながら、私はマーガレット教授のもとを訪ねた。教授は母の旧友だ。私が考古学の修士課程を諦め、アントニオと結婚すると決めた時、彼女だけが激しく反対した。結婚式の日、彼女は来なかった。代わりに、こんなメッセージを送ってきた。【イザベラが失うものは、得るものよりずっと多い。籠の鳥でいる日々に嫌気が差したら、険しくても自由な道があることを忘れないで】――まるで予言だった。結婚したばかりの頃、アントニオの支配欲はまだここまで強くなかった。彼は私を様々なパーティーに連れて行ってくれた。けれど、誰かがほんの少しでも私を長く見ただけで、彼の目が沈み――それ以降、二度と私を連れて行くことはなくなった。そしてエレナが「わたくしが面倒を見ます」と言い出してから、私は完全に自由を失った。ドアが開く。質素な私の姿を見て、教授の目に一瞬で理解の色が浮かんだ。「入りなさい、イザベラ」体を横にずらして道を開ける。「ちょうどコーヒーを淹れたところよ」その一言で、涙が一気に溢れ出した。私が落ち着くのを待ってから、教授はゆっくりと口を開く。「古城跡で新たな遺構が見つかったの。チームに助手が足りないわ」私は勢いよく顔を上げた。「それって……チャンスをくださるんですか?」「条件はひとつ。専門知識が錆びついていないこと。優雅な奥様を連れて発掘するつもりはないわよ」「できます!」思わず叫んでいた。「本当に、やれます!」教授はようやく微笑んだ。「いいわ。装備を受け取って。明日出発よ」……古城の太陽は、焼けつくように強烈だった。私は発掘現場で膝をつき、慎重に石畳の表面を削り出していく。額から流れ落ちる汗が、土埃と混ざって頬に張りつく。その時、背後から、甲高い声が響いた。「やだ、イザベラ?本当にあなたなの?」全身がこわばる。振り返ると、シャネルのスーツに身を包んだエレナが、スカーフで鼻を押さえながら、汚れた私を露骨に嫌悪の目で見ていた。「なるほどね。家出なんて大それたことをしたと思えば、こんな落ちぶれた場所で、死人の骨を掘る連中とつるんでたの?」チームの空気が一瞬で凍りつく。私は立ち上がり、仲間たちの前に出た。「エレナ、あんた犬なの?どこでも嗅ぎつけてついてくるのね」
Read more

第4話

ルカの声は、次第に小さくなっていった。「その時は……エレナ様ご自身が死亡証明を提出して、ドンは最近ご機嫌が悪いから、この件は報告不要だと……奥様に関することは、これまでずっと彼女が取り仕切っていて……」アントニオは勢いよく振り向き、エレナを射抜くように睨みつけた。「そんな指示を出した覚えはないが?」エレナの顔から血の気が引く。それでも必死に平静を装う。「ドン、その頃は提携の件でお忙しくて……気を煩わせたくなかったのです」「黙れ!」アントニオは怒鳴りつけた。「携帯を寄こせ。彼女の母親の本当のカルテを確認する」エレナは激しく首を振り、後ずさる。彼は容赦なく彼女のバッグをひったくり、中からスマートフォンを取り出した。そこに並んでいたのは、隠されていた危篤通知。私の名義で申請されていながら、すべてエレナの口座に流れていた金。そして、表向きは丁寧でも、その実は悪意に満ちた数々のやり取り。彼の右手が、無意識に腰の銃へと伸びる。その目は、見る者を凍りつかせるほど冷たく、恐ろしいものへと変わっていた。「やめて……お願い……」エレナは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら縋る。私は背を向け、テントへと歩き出した。数歩も進まないうちに――「パンッ!」と銃声が響いた。背後から、エレナの絶叫が上がる。「いやあああっ……!手が……私の手がぁ!」なのに私は、何の快感も感じなかった。……深夜。テントの外の足音で目が覚めた。ジッパーを開けると、月明かりの中にアントニオが立っていた。その顔には、はっきりと疲労が浮かんでいる。「ベラ……」低く、かすれた声。「エレナは……ファミリーから追放した」――ベラ。ずいぶん久しぶりに聞く呼び方だった。「……そう」私は短く返し、ジッパーを閉めようとする。だが彼はすぐに手を伸ばし、それを遮った。「お母さんの件は、本当に知らなかった……埋め合わせをさせてくれ」埋め合わせ?思わず、笑いが漏れた。「アントニオ」私は静かに言う。「私たちの問題が、『エレナのことだけ』だと思ってるの?」彼は戸惑ったように眉を寄せる。「他に何がある?金か?もう口座の制限は解除した……」「もういい!」私は遮った。「あなた、まだ分かってない!何度も言ったわよね?あの承認制度はおかしいって。それに、
Read more

第5話

アントニオはスーツ姿のままだったが、目の下の隈は隠しきれていない。背後のオフロード車には、新しい装備がぎっしり積まれていた。「考古学プロジェクトは支援するべきだと思ってな。三百万ユーロ分の機材だ。ほんの気持ちだが」その表情は真剣だった。整った顔には、まだ平手打ちの痕が残っている。断ろうとした瞬間、隊員たちはすでに新しい機材に群がっていた。「ベラ」アントニオは私に歩み寄り、保温容器を両手で差し出す。蓋を開けた瞬間、濃厚な魚介類の香りが広がった。胃がひっくり返る。彼は期待に満ちた目で私を見る。「三時間かけてここまで運ばせた。前はこれが一番好きだっただろ?食べてみてくれ」私は手を伸ばさず、淡々と告げた。「私、甲殻類アレルギーなの。触れるだけで発疹が出る」アントニオの手が震え、容器を落としかける。「……でも、お前、よくこれを作ってただろう」「あなたが好きだって言ったから」私は視線を逸らす。「頻繁に作れって」ひどい時は、料理のあと両腕が赤い発疹で埋まった。痛くて、痒くて、それでも彼に気を遣わせたくなくて、我慢した。後になって知った。これはエレナの大好物、彼女の故郷の味だと。文句を言ったこともある。でも彼は軽く流した。「エレナは胃が弱い。ようやく食べられるものなんだ。少しくらい作ってやれ。彼女はお前の面倒を見てるんだぞ。文句を言うな」今思えば、笑える話だ。自分よりも、私はこの男を愛していた。アントニオの笑みが固まる。彼も思い出したのだろう。何か言い訳しようとしたが、結局乾いた声で一言だけ。「……すまない」「結構よ」私は背を向け、車列へ向かう。「あなたの謝罪は、あなた自身と同じで、私にはアレルギーなの」これだけはっきり拒絶しても、彼は諦めなかった。考古隊が行く先々に、必ず現れる。送りつけられる物資は、車両三台分。限定品だけど、私の嫌いな色の宝石。豪華だけど、サイズの合わないドレス。また「偶然の再会」を装って現れた時、私はとうとう堪忍袋の緒が切れた。彼の袖を掴み、外へ引きずり出す。「アントニオ・リカルド!人の話が理解できないの?」彼の目に、かすかな傷ついた色が浮かんだ。「俺は……妻を取り戻したいだけだ」そう言いながら、懐から小さな箱を取り出す。「今度こそ、お前が好
Read more

第6話

離婚協議書の手続きは、拍子抜けするほどあっさり進んだ。アントニオは姿を見せず、新しいコンシリエーレを寄こして書類を届けさせただけだった。「奥様、ドンから――」コンシリエーレは言い淀む。「イザベラでいいわ」私は遮り、迷いなく署名した。コンシリエーレは分厚いファイルを差し出してくる。「別荘は奥様に譲渡されました。それからドン名義の最上階ペントハウスも、名義変更済みです。こちらのカードには五百万ユーロ。奥様専用の口座です。暗証番号は、お誕生日になります」私はそのカードを見つめ、それだけ受け取り、別荘の鍵は押し返した。「マンションとお金は受け取るわ。でもあの別荘は……売ってちょうだい」コンシリエーレは明らかに困った顔をする。「ドンは、そのままお持ちいただきたいと……」「だったら伝えて」私は淡々と言った。「その家を見ると、吐き気がするって」……数週間後。発掘が終わり、最後の整理のために別荘へ戻った。ドレッシングルームの暗証番号は、案の定、私の誕生日に変わっていた。中に並ぶ高価なドレスや宝石は、セキュリティが解除されることによって、初めて「私のもの」になった。でも、これをどうしろというの?服も、屋敷も、すべてまとめてフリマサイトに出品した。投稿した途端、匿名ユーザーからメッセージが届く。【どうして売る?】【金に困ってるのか?】返信はしなかった。……夕暮れ。インターホンが鳴る。ドアの外に立っていたのは、アントニオの専属ボディガードだった。彼は目を疑うほどの金額の小切手を一枚差し出す。「ドンからです。これまでの金額では、とても償いにならないと」視線を外に向けると、見慣れた黒いベントレーが停まっている。私は小切手を受け取り、そのまま車へ歩み寄った。ウィンドウが下がり、アントニオの顔が現れる。ほんの数週間で、まるで十年は老けたようだった。目の下は落ちくぼみ、顎には無精髭が広がっている。「ベラ……」かすれた声。「俺は……ただ、償いたいだけだ」私はその小切手を、彼の手に押し戻した。「アントニオ。私を、あんな息苦しい婚姻から解放したこと、それから一生遊んで暮らせるだけのお金をくれたこと――それは感謝してる。でも、このお金は要らない。この家も、この場所のものも、全部売るつもり
Read more

第7話

出品していた品物は、すぐに匿名の買い手にすべて買われた。しかも、あり得ないほどの高値で。別荘も、あっという間に売却が決まる。誰がやったのかは、分かっている。でも、もうどうでもよかった。私はその金を手に、必要最低限の荷物だけを持って、ラメシアの新しい発掘プロジェクトへ向かう準備を整えた。出発前。マーガレット教授が私の肩を軽く叩く。「私のポストは、あなたに譲るわ。これで安心して引退して、世界一周に出られる」思わず、二人で笑い合った。その時、スマホが激しく鳴り出す。出ると、アントニオの新しいコンシリエーレの声が、明らかに動揺していた。「奥様!お願いです、病院に来てください!ドンが襲撃されました!」私は反射的に断ろうとする。だが、教授がそっと私の手を叩いた。「行きなさい。きっと、これが最後よ」私はスマホを握りしめた。しばらくして、小さく「……分かりました」と答えた。……病室。アントニオは青ざめた顔でベッドに横たわっていた。腰のあたりに分厚い包帯が巻かれ、そこから暗い血が滲んでいる。「刃物が腎臓を貫通しました」扉の外で待っていた主治医が声を落として言う。「一命は取り留めましたが……恐らく、不可逆的な損傷になります」私は入口に立ったまま、アントニオを見つめた。まるで、見知らぬ他人を見るように。視線に気づいたのか、彼はゆっくりと目を開ける。私を認めた瞬間、虚ろだった瞳に、かすかな光が灯った。けれど、それもすぐに、さらに深い絶望に飲み込まれる。「……ベラ……」かすれた声。ほとんど息だけの音だった。私は歩み寄り、小さなデイジーの花を枕元に置く。「大丈夫?」たった一言だけで、彼は何かを許されたかのように、言葉を溢れさせた。「エレナだ……俺が追い出して、どのファミリーにも受け入れさせなかった……あいつは、狂った。別荘の警備を買収して……お前が、まだあそこに住んでると思って……焼き殺そうと……俺がたまたま……片付けに戻って……」息を切らし、額に冷や汗を滲ませる。途切れ途切れの言葉。説明のようで、懺悔のようでもあった。私はただ、黙って聞いていた。「安心しろ……」彼は力なく笑う。「奴は……一番暗い地下牢で……一生を終える」「……そう」私は静かに頷いた。もう、言うべきこ
Read more
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status