夫は脳科学分野のエリートだ。彼は愛人である助手と結ばれるために、不眠不休で三ヶ月かけて、研究に没頭した。そしてついに完成させたのは、人の記憶を消す禁断の薬だった。あの日、夫のタブレットを触っていたら、なぜかLINEにログインしたままで、スクロールしたら、許しがたいメッセージのやりとりが目に入ってしまった。【ねえ楓貴さん、私たちはいつになったら堂々と一緒にいられるの?】【あと少しで、ずっと一緒にいられるから。まず彼女のビタミン剤を例の薬にすり替える。記憶を失えば、あちらから離婚を切り出すはずだ。そうすれば、僕が悪者にならずに済む】目の前が真っ暗になった。真冬の湖に突き落とされたような錯覚に陥った。私は呆然とタブレットのチャット履歴を見つめ、頭が真っ白になった。体の震えが止まらなかった。何度も内容を読み返した。これが現実だなんて信じたくなかった。【楓貴さん、もう限界。隠れて付き合うのは嫌。早く堂々と隣にいたいの】【あと少しだよ。あの薬を数ヶ月飲ませれば、彼女の記憶からこの七年間が消える。そうしたら上手く言いくるめて別れるさ】その先には、見るに吐き気がするほど生々しい愛の言葉が続いていた。この一年、私には注がなかった情熱を、彼は同僚の佐藤亜美(さとう あみ)に向けていたのだ。胸が締め付けられるような痛みをこらえながら、チャット履歴をさかのぼった。研究室にいた数ヶ月間、この二人はほぼ昼夜を問わず一緒にいたことがわかった。昼間は薬の開発に没頭し、夜は抱き合って眠っていた。これまでの思い出が走馬灯のように蘇った。かつて感じた小さな違和感、見て見ぬふりをした疑惑。そのすべてが「真実」として確定していく。どうりで、研究が忙しいと言って帰りが遅くなるわけだ。帰宅してもスマホを握りしめたままトイレにこもり、なかなか出てこなかった。時折漏れ聞こえる話し声の相手も、同僚だと偽っていた。共に過ごした七年という歳月。それが、赤の他人よりも冷え切った仮面夫婦に成り果てていたのだ。実のところ、もし私から離れたいのなら、正直にそう言ってくれればよかった。縋り付いてまで引き止めるつもりなんて、これっぽっちもなかったのに。でも彼は、私という「邪魔者」を切り捨てたいくせに、自分だけは「悪者」になりたくな
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