《毒を孕んだ身代わりオメガ〜復讐の代償は皇帝の寵愛だった〜》全部章節:第 11 章 - 第 20 章

29 章節

第十一話「残り火に宿る誓い」

 夜明け前の淡い青が、寝所の重厚な窓の縁をじわじわと滲ませていた。 窓の外には手入れの行き届いた広大な庭が広がり、冷たい月明かりの名残が、象牙色の床の上に淡く長い光の帯を作っている。リアンは、ヴァレンの逞しい腕の重みを背中に感じながら、ゆっくりと意識を浮上させた。肌に触れるシーツの冷たさが、まだ支配的な夜の気配を留めている。 昨夜も夜更けまでヴァレンに幾度も求められ、身体の芯には鉛のような重い余韻が残っていた。寝返りを打つほどの力も戻らず、ただ規則的な寝息をすぐ背後で聞き続けている。深く、穏やかな呼吸。近頃のヴァレンは、こうしてリアンを壊れ物を扱うような手つきで抱きしめて眠りに就くようになっていた。 ほんの数刻前まで、ヴァレンの手は飢えた獣のようにリアンの柔らかな肌を貪り、熱い情欲を注ぎ込んでいた。そのはずなのに、今は人の身体の熱がこんなにも穏やかな光を帯び、自分を包み込む安らぎに変わることを、リアンはここに来て初めて知った。 鼻腔を、ゆっくりと冷えた空気が満たしていった。 寝所の隅では白檀の香が焚かれ、細い煙が室内に青白くくゆっている。深く落ち着いた木の香り、その奥に仄かに混ざる枯れた花の甘さ。それは秋の終わりを思わせる、ヴァレンが就寝時に好んで焚かせている静謐な香りだった。リアンも、最初にこの寝所へ呼ばれた夜から、その匂いだけは唯一の救いとして馴染んできたはずだった。 けれども、今、何かが違っていた。 リアンの鼻が、微かに、そして敏感に動いた。白檀の柔らかな芳香の下に、異質な、それでいて知っている何かが薄く潜んでいる。うっすらと甘く、けれども後味に微かな鉄の気配を引き摺る、粘りつくような奇妙な匂い。普段ならば白檀の重厚な深みに完全に紛れて気づかないほどの、極めて希薄な存在感だった。 鼻先の奥で、その匂いの正体を何度も確かめる。 ――甘い腐臭。 その言葉が脳裏に閃光のように閃いた瞬間、全身の血が逆流し、心臓が跳ね上がる感覚に襲われた。 兄セレンが、最期の床で発していた、あの忌まわしい匂いだった。 病の熱に浮かされ、次第に細っていく身体から、死が足音を立てて近づくにつれて立ち昇ってきたあの匂い。リアンはそれを、忘れたことなど一瞬たりともなかった。兄の青白い頬に何度も自分の頬を寄せ、消え入りそうな弱々しい呼吸から、すがるように嗅ぎ取り続けてい
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第十二話「揺れる金色の燭火(ともしび)」

 大広間の天井には、無数の燭台が金色の輝きを放っていた。 長い晩餐の卓には、磨き上げられた銀器と硝子の杯が整然と並び、それぞれの灯りを反射してきらめいている。給仕たちが音を立てぬよう次々と料理を運び、家臣たちの低い談笑が、広間の重厚な空気をゆっくりと満たしていた。 リアンは、ヴァレンの右隣に与えられた席に、背筋を正して腰掛けていた。 今宵の晩餐は、北部の使節を迎える正式な席だった。皇帝の隣に名の通らぬ「慰みもの」が座ること自体、家臣たちには違和感のある光景だっただろう。それでも、ヴァレンが「リアンを連れていく」と命じた以上、誰も口を挟むことはできなかった。 リアンの霞んだ視界には、卓の向こう側に並ぶ家臣たちの輪郭が、燭台の灯りに揺らいで映っていた。 刺繍を施した夜会服が肩に重く、首の後ろに薄く汗が滲んでいる。指先には、夜明け前に負った火傷の痕がまだ熱を持っていた。痛みを意識しないように、リアンは膝の上で指を固く組み続けていた。 料理が、一皿ずつ運ばれてきた。 給仕がリアンの皿に盛りつけていく間、リアンは鼻を僅かに動かし、空気を確かめていた。香草の青い香り、肉汁の濃厚な匂い、バターの芳醇さ。どこにも、不審な気配はない。一品が下げられ、次の一品が運ばれてくるたび、リアンは同じように静かに鼻を働かせ続けた。 ヴァレンの前にも、同じ皿が同じ順序で並べられていく。 やがて、給仕が葡萄酒の杯を運んできた。 深い赤の液体が、硝子の杯の中で揺れている。給仕はまずヴァレンの前へと杯を置き、続いてリアンの前にも同じ杯を置いた。リアンは何気なく、その杯にも鼻を近づけた。 葡萄酒の芳香が、最初に鼻腔を満たした。 熟した葡萄の甘さ、樫樽の渋み、僅かに混ざる蜂蜜のような余韻。よく整った、上等な葡萄酒の香り。リアンの心が、ふっと安堵に緩みかけた。 ――その奥に、何かが潜んでいた。 リアンの背筋が、瞬時に凍りついた。葡萄酒の華やかな芳香の下、ほんの僅か――けれども確かに、あの匂いがあった。甘く、後味に鉄の気配を引き摺る、夜明け前の寝所で嗅ぎ取ったのと同じ匂い。死の匂い。 ヴァレンの手が、杯を持ち上げた。 琥珀色の瞳が一度だけ杯の縁を見つめ、それから口元へと運ばれていく。リアンの視界の中で、その動きが、奇妙にゆっくりと、引き延ばされて見えた。 考える時間は、なかっ
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第十三話「夜を穿つ鼓動」

 寝所の重厚な扉を閉めた瞬間、ヴァレンの腕がリアンの腰を乱暴な手つきで離した。 代わりに、熱を帯びた大きな両手がリアンの肩を強く掴み、正面から向かい合う。琥珀色の瞳が、霞んだリアンの視界の中でも、ひりつくような焦燥を帯びてこちらを覗き込んでいるのがわかった。傍らに置かれた燭台の灯りが、ヴァレンの彫りの深い顔を薄く照らし、その整った輪郭に深い影を落としている。「どこか、具合は悪くないか」 ヴァレンの声には、これまで聞いたこともないような揺らぎと、切迫した響きが滲んでいた。 リアンは戸惑い、小さく首を振った。「いえ、大丈夫です」「本当か。吐き気は? ……めまいはしないか」「本当に、なんともないです」「すぐに宮廷医を呼ぶ。一刻も早くだ」 ヴァレンはそう言い捨てると、弾かれたように扉の方へと踵を返しかけた。 リアンは慌てて、ヴァレンの仕立ての良い袖口を掴み、その歩みを引き留めた。「陛下、待ってください」「だが、万が一ということがある。あのような――」「僕は、本当に大丈夫ですから」 リアンは、ヴァレンの胸中に渦巻く焦燥を宥めるように、できるだけ穏やかな声で告げた。 ヴァレンは足を止めたが、肩の強張りは解けない。琥珀色の瞳が、リアンの顔の細部を隅々まで確かめるように彷徨う。顔色が悪くなっていないか、唇は震えていないか、視線の焦点は合っているか。それは自分の命を案じる時よりも、遥かに真剣で、痛々しいほどの観察だった。「僕は、人よりも少しだけ鼻が利くのです」 リアンは、迷いを断ち切るようにヴァレンの手を取り、自分の柔らかな頬に添わせた。「今夜の食事には、毒は入っていませんでした。あの葡萄酒の瓶だけです。瓶は陛下と僕の杯にしか注がれていませんでしたから、他の誰も毒を口にしてはいません」 ヴァレンは、しばらく無言でリアンを見つめていた。 やがて、全身の糸が切れたように、ヴァレンの大きな身体が崩れるように動いた。リアンを強く、壊さんばかりの力で抱きしめてくる。逞しい胸板に顔が押しつけられ、リアンの視界は漆黒の上着の布地で完全に覆われた。「……良かった。リアンが、無事で……本当に良かった」 耳元で、ヴァレンの身体が僅かに震えているのが伝わってきた。 自分自身の身の安全など二の次にし、まずリアンの無事だけを祈ってくれるその姿に、胸の奥が鋭く痛ん
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第十四話「芳しき復讐の序曲」

 昼過ぎの陽光が、リアンの自室の窓から柔らかく差し込んでいた。 床の絨毯の上に、窓枠の影が斜めに長く伸びている。リアンは窓辺に歩み寄り、カーテンをもう一度開けて庭の様子を確かめた。空には雲が少なく、日差しは穏やかで、刺繍の細かな目を追うには申し分のない光だった。室内の明かりでは細かな作業を続けられないリアンにとって、午後の日向は何より尊い味方だった。 卓の端に置かれていた刺繍枠と糸箱を、リアンは静かに持ち上げた。 屈んで糸箱の蓋を確かめようとした瞬間、腰の奥に鈍い痛みがじわりと走った。思わず小さく息を詰め、動きが止まる。朝方、寝所の寝台の中で、ヴァレンに幾度も求められた余韻だった。 昨夜の晩餐での騒動と、その後に寝所で震えていたヴァレンの姿。 彼は、深い眠りから目覚めた後、リアンを腕の中に閉じ込めるようにして、執拗に求め続けた。ようやく解放されたのは、朝日がかなり高くのぼり、扉の向こうで家臣たちがヴァレンの御出ましを待つ気配が漂い始めてからだった。 リアンの頬が、自分でもわかるほどに熱を帯びた。(あれは、あまりに恥ずかしかった……。たぶん、大勢の人たちに声を聞かれてしまったはずだ) 耳のあたりまでじわりと赤く染まっていく感覚を、リアンは咄嗟に刺繍枠を抱え直す動作で誤魔化した。火傷の痕の残る指先が、木製の枠の縁をぎこちなく握り直す。こんなことを日の下で思い出すなんて、と自分を厳しく叱りつけた。 部屋の壁際では、ルシアンが音もなく立っていた。「ルシアン。庭へ刺繍をしに行こうと思うんだ」「お供いたします」 背後から、短く恭しい答えが返ってきた。 リアンが刺繍枠を腕に抱え、扉の方へと歩み出そうとしたそのとき、扉を叩く音が午後の静寂を割って響いた。 リアンの足が、ぴたりと止まった。 ルシアンが無言で扉の方へと歩み寄り、一度だけリアンに視線を投げてから、扉を開ける。廊下から、重苦しい足取りの音と、濃すぎる香油の匂いが同時に流れ込んできた。 宰相モルセルだ。「リアン様、お昼下がりの時間に大変恐縮でございます」 モルセルの声には、昨夜の広間で聞いたのとはまた違う、低く慎重な響きがあった。 リアンは抱えていた刺繍枠を卓の端へそっと戻し、ゆっくりと身体を向き直した。霞んだ視界の中で、肉付きのよい輪郭が部屋の中央に進み出てくる。香油の匂いが、先日と
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第十五話「蜜月の余熱」

 浅い眠りの底で、リアンは自分の名を呼ぶ声を聞いたような気がした。「……リアン」 低く、掠れた囁き。耳のすぐ裏に吐息がかかり、うなじの産毛が細く逆立つ。リアンはまだ開ききらぬ瞼を持ち上げようとした。瞼の裏側が朝の光で薄く橙色に染まっていて、窓の外からは小鳥のさえずりが遠く近く重なり合っている。 身体の奥で、何かが規則的に動いていた。 深く、緩やかに、けれども確かに。意識がはっきりしていく度に、その動きの正体が染み込むように理解されていった。リアンは布団の中で、既にヴァレンと繋がっていた。背中から優しく抱き込まれ、横向きの姿勢のまま、眠るリアンの内側へとゆっくりと腰が押し進められてきている。「んんっ」 思わず甘い声が喉の奥から漏れた。 声を出したことで、身体の奥の感覚が一気に輪郭を得る。これまでずっと、眠りの中で静かに与えられ続けていた熱が、今、意識の表面までせり上がってきた。リアンは重い瞼を押し開け、至近距離にあるヴァレンの顔を見上げた。 漆黒の髪が朝の光を受けて柔らかく揺れている。琥珀色の瞳が、リアンの瞳と真正面から絡み合った。「……いつから、ですか」 リアンは、掠れた声で尋ねた。「かなり前から」 ヴァレンは、低く笑って答えた。 腰の動きを止めずに、布団の内側でゆっくりとリアンを揺すり続けている。逃げられない、というよりも、逃げたいとも思わせない、穏やかな律動。「寝ながらも、甘い声が出てたぞ」 ヴァレンの唇が、リアンの首筋に降りてきた。 熱い吐息が肌の上を滑っていき、やがてそこに、ぎゅっと吸いつくような感触が重なった。リアンは思わず顎を反らす。首筋に生まれた痺れが、背骨を伝って腰の奥まで響いた。ヴァレンはもう一度、別の場所に唇を落とし、同じように強く吸い上げる。点々と赤い痕が並んでいく気配を、リアンは鎖骨のあたりの肌で感じていた。「陛下、こんなに、つけては……」 リアンは、弱々しく抗議を試みた。「いいんだ」 ヴァレンは短く答え、唇を鎖骨の下まで滑らせていく。「お前が誰のものか、見た者全員にわかるようにしておく」 胸の奥で、何かが甘く震えた。 こんな言葉を、以前のヴァレンは決して口にしなかった。夜の執着を、朝の光の下でこれほど無防備に晒してくる姿は、リアンにとってほとんど馴染みのないものだった。どう受け取ればいいのか、
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第十六話「窓辺に揺れる純白の棘」

 数日が経った朝、リアンは沈み込むような重さで寝椅子から腰を持ち上げた。 窓辺からは、春の終わりを告げる柔らかな午前の光が降り注いでいる。空には雲ひとつなく、午後には屋外で刺繍に耽るには絶好の日和に思えたが、今日のリアンには何としても午前中に終わらせたい用事があった。兄の遺品が残る離宮の片付けを、これ以上放置し続けることは、自身の心に区切りをつけるためにも許せなかった。 壁際で彫像のように控えていたルシアンが、リアンの僅かな動きを察して姿勢を変えた。「どこかへ向かわれますか」「離宮へ」 リアンは、感情を押し殺した声で淡々と告げた。「もう少しで、片付けが終わるから。今日中には形にしたいんだ」「陛下が、しなくていいと仰っているのです。これ以上、思い出を抉るような場所へ足を運ばれずともよいのではありませんか」 ルシアンの声には、低く、隠しきれない懸念が滲んでいた。リアンは小さく首を振り、切なげな微笑を唇に乗せてみせた。「……あと少しなんだ。ちゃんと終わらせたいんだ」 ルシアンはそれ以上、何も言わなかった。主の決意が岩のように固いことを、騎士は声の質だけで察していた。リアンは薄手の衣の上に上着を羽織り、扉の方へと歩き出した。背後に音もなく従う足音が、いつものように寄り添ってくる。 離宮までの石畳の道を、二人は無言で歩いた。 午前の光が木々の葉を透き通るような金色に染め上げ、風が高い枝を静かに揺らしている。鳥のさえずりが遠くから届き、宮廷の喧騒が背後で薄れるにつれ、空気はどこかひんやりとした静寂を帯びていった。『リアン、あのね……』 ふいに、兄の懐かしい声が耳を掠めた気がして、リアンは顔を上げた。正面に見える離宮の瀟洒な建物が、胸の奥をきゅうと締め付ける。(兄様――僕は、あなたが望んだように陛下を正しく守れているでしょうか。あなたの代わりになれているでしょうか) 離宮の重い扉を、ルシアンが先に開いた。 部屋の中は、埃ひとつない静まり返った空気が支配していた。リアンは迷うことなく二階へと向かい、兄が使っていた部屋の隣、かつての主の体温が微かに残る場所へと足を踏み入れた。 ルシアンはいつものように扉のすぐ脇の壁際に立ち、風景の一部に溶け込むように気配を消した。(ここは、兄様にとって唯一の心休まる場所だったんだろうな) 椅子の背もたれにかか
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第十七話「熱の褥、愛の枷」

 離宮の二階、廊下の突き当たりにある最奥の寝室へと、ヴァレンはリアンを抱えたまま踏み込んだ。 扉を肩で力強く押し開け、迷うことなく室内へと足を勧める。部屋の中は、外界の喧騒を拒絶したような静謐に満ちていた。中央には天蓋付きの重厚な寝台が据えられ、窓から差し込む陽光は、少しずつ傾き始めた午後の琥珀色を帯びている。空気には、長らく人の出入りがなかった部屋特有の、乾いた静けさが漂っていた。 ヴァレンは、腕の中のリアンを床に下ろすと同時に、その細い背を壁へと押しつけた。 リアンの華奢な背中が、冷ややかな壁に触れる。ヒートによって芯まで火照りきった肌に、その冷たさが一瞬だけ鋭く沁みた。けれども、その感覚はすぐに、覆い被さってきたヴァレンの熱い唇によって塗り替えられていった。 深い口づけが、容赦なく落とされる。 熱を帯びた舌が唇を割り開き、リアンの口内を隅々まで、強引に、それでいて慈しむように探ってくる。リアンの両腕は、自身の意思よりも早く、抗いようのない力に惹かれるようにヴァレンの首へと絡みついた。水音を立てて絡み合う舌が、身体の奥底で燻っていた疼きをさらに激しく煽り立てていく。「……陛下」 唇が離れた僅かな隙間に、リアンは掠れた吐息のような声で囁いた。 ヴァレンは答えず、リアンの身を包む衣装の残骸を、丁寧に、けれども一切の迷いなく剥ぎ取っていった。半ば引き裂かれた上着、薄い肌着、紐を解かれた下履き――一枚、また一枚と、布が床に落ちる音が、静まり返った寝室に小さく、それでいて重く響いた。 リアンの身体が、すべての束縛から解放された。 ヴァレンがリアンの腰を強く掴み、壁に背を押しつけたまま、深く、深く自らを押し込んできた。壁と逞しい胸板の間に挟まれた華奢な身体が震え、リアンの喉から堪え切れない声が零れる。ヒートで過敏になった肌が、ヴァレンの放つ熱のすべてを、余すところなく吸い上げていった。「ああっ……」 声を上げた瞬間、視界が揺れ、身体が宙に浮いた。 繋がったまま、ヴァレンがリアンを軽々と抱え上げていた。リアンの両脚が、しがみつくようにヴァレンの腰に巻きつく。重力がリアンの身体を無慈悲に下へと引き、その重みが結合をさらに深刻なものへと変えた。最奥まで届く衝撃に、リアンの視界は白く霞んでいく。 ヴァレンは、リアンを抱え上げたまま、緩やかに、そして力強
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第十八話「白金の髪に隠した秘密」

 どれほどの時間が経ったのだろう。 身体の火照りが引いていくにつれて、室内の静けさがゆっくりと耳に戻ってきた。午後の光がカーテンの向こうで淡い琥珀色を帯び始め、庭の木々の葉擦れの音が遠くから届いている。離宮の寝室は、二人きりの静謐な空気に包まれていた。「落ち着いたか?」 ヴァレンが、リアンの耳元で穏やかに尋ねた。「……はい」 リアンは、枕に頬を埋めたまま、小さく頷いた。「ご迷惑を、おかけしました」「謝るな」 ヴァレンの手が、リアンの白金の髪を優しく梳き上げた。 その手つきの優しさに、リアンは深く息を吐いた。身体の疲労と、ヴァレンの温もりと、午後の光の柔らかさが重なり合って、胸の奥に穏やかな湖のような静けさが広がっていく。 ヴァレンが、ふと動きを止めた。 髪を梳いていた指先が、リアンの耳の下で止まる。暫くの沈黙のあと、ヴァレンの声が、先ほどとは別の重みを帯びて降りてきた。「リアン」 低く、けれども逃れられぬ鋭さを孕んだ声だった。「お前は、何を知っているんだ?」 リアンの身体が、ぴくりと強張った。「……え?」 ヴァレンはリアンの顎を指先で掴み、強引にこちらを向かせた。琥珀色の瞳が、至近距離からリアンを真っ直ぐに貫いてくる。次の瞬間、深い口づけが落とされた。それは拒絶を許さない、支配的な意志のこもった口づけだった。 唇が離れたとき、ヴァレンは静かに続けた。「セレンの死についてだ」 ヴァレンの声は、低く、揺るぎなかった。「さっき、モルセルに『兄様にしたように』と言っていただろう。あれは、どういう意味だ」 リアンは、しばらくの間、ヴァレンの瞳を見つめていた。 胸の奥で、長らく堰き止めてきた感情が、ゆっくりと決壊の兆しを見せ始めていた。 リアンは、ヴァレンの逞しい胸にそっと額を預けた。「僕たち兄弟は、少し、人と違うんです」 リアンは、震える声を抑えながら語り始めた。「僕が人より鼻が利くのは、陛下もご存知だと思います。……兄様は、耳がよかったんです。遠くの会話まで、はっきりと聞こえるほどに」 ヴァレンが、息を呑む気配が伝わってきた。「その分、人より劣る場所もあるんです。僕は弱視、兄様はひどい虚弱体質でした」「それで……セレンは」「兄様が離宮で過ごしていたのは、少しでも人の声を遠ざけるためだったのだと思います」 リア
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第十九話「琥珀の瞳に燃える氷炎」

 執務室の重く重厚な扉を、ヴァレンは肩で押し開けた。 夕刻の低い光が、長く伸びた影を深紅の絨毯の上に落としている。室内の中央、応接用の卓の脇には、不釣り合いなほど小さな椅子が一脚だけ運び込まれていた。 そこに、一人の女が背筋を伸ばして座らされている。白く華奢な肩を微かに震わせ、両手を膝の上で白くなるほど固く握り合わせていた。 壁際には、ルシアンが無言で控えていた。 ヴァレンが入室すると、ルシアンは一度だけ深く頭を垂れた。普段の、自らの存在を消し去ったような影の佇まいではない。どこか張り詰めた、一人の騎士としての矜持を感じさせる姿勢だった。リアンを離宮に残してきたことへの懸念が、その強張った肩の線に滲んでいる。「ルシアン」 ヴァレンは扉を閉めながら、短く名を呼んだ。「リアンは既に自室に戻している。お前は、本来の職務である警護に戻れ」「……承知いたしました」 ルシアンは再び深く一礼した。その一礼に込められた重みを、ヴァレンは胸の奥で静かに受け止めた。この男は、亡き兄の願いをその身に抱え、命を賭してリアンを守り抜いてきたのだ。 ルシアンが退出する足音が、廊下の奥へと吸い込まれるように消えていった。 残されたのは、椅子に座る娘と、ヴァレン。そして窓から差し込む、夕刻の柔らかな光だけだった。ヴァレンは執務机の前まで歩み、机の縁に背をもたれかけるようにして立った。両腕を胸の前で組み、床に視線を落とす娘を真上から見下ろす形になる。 その瞬間だった。 娘が、耐えかねたように椅子から崩れ落ちた。膝が床板に当たる鈍い音が響き、両手が震えながら床を突く。「申し訳……ございませんでした……」 娘の声は、嗚咽で半ば崩れていた。 離宮の部屋で、父に「集中力を高める香」だと言われたのだと、そう泣き叫んでいたあの時の声が、今も耳の奥にこびりついて離れない。(……父に利用されただけなのだろうな) 権力への業が深い父親のために、人形のように使われた娘。その姿に、ヴァレンは乾いた哀れみを感じていた。父に裏切られ、知らぬ間に愛する人を害する道具にされていたと知った者の、純粋な絶望が胸を打つ。「父に渡されたものを、良かれと思って焚いただけなのだろう?」「……はい」 娘は額を床に擦りつけたまま、小刻みに身体を震わせた。 短い肯定の後、室内に重苦しい沈黙が降りた。暖
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第二十話「薄絹の罠」

 夜の牢獄は、肺の奥まで冷やすような、湿った石の匂いが立ち込めていた。 地下へと続く長い螺旋階段を、リアンは深い藤色のローブを纏って静かに降りていく。その手には、震える光を宿した銀の燭台と、小さな籠が携えられていた。 重厚なローブの裾の下、肌に直接触れているのは、心許ないほど薄い絹の夜着のみである。 胸元は鎖骨の窪みが露わになるほど深く抉られ、滑らかな薄絹の生地は、動くたびにリアンのしなやかな身体の輪郭を、残酷なほど鮮明に透かし出していた。普段の彼ならば、決して身につけないであろう、妖艶で淫らな装い。鏡に映った己の姿を直視した際、あまりの恥ずかしさに、リアンは思わず意識を失いそうなほどの目眩を覚えた。 階段の最下層、闇の底でルシアンが控えていた。 揺れる火影の中でも、剣の柄に指を添えた騎士の輪郭は、氷のように張り詰め、鋭利な殺気を帯びている。リアンは無言で視線を送り、ルシアンもまた、何も言わずに重く目を伏せた。愛憎の混じる沈黙だけが、二人の間を埋める。それ以上の言葉など、もはや今の二人には毒でしかなかった。 リアンは一歩を踏み出し、牢獄の最奥、腐臭の漂う独房へと歩を進めた。石造りの通路を歩むたび、ローブの裾が床を擦るカサリという乾いた音と、薄絹が肌を撫でる官能的な音が、静寂の中でやけに大きく耳に響く。 前を行く看守が、錆びついた鍵を重々しく回した。「……ご用件が済みましたら、扉を叩いてください」 看守は深々と頭を下げたが、その視線は一瞬、リアンのはだけた襟元を卑猥に這った。「ルシアンは、ここで待っていて」 リアンは、感情を押し殺した低い声で命じた。「……承知いたしました」 鋼のような返答と共に、リアンの背後で重い鉄の扉が閉じられた。 牢の中は、持ち込んだ燭台の心細い灯りが、暗闇を辛うじて切り裂いている程度だった。湿り気を帯びた壁、冷たい石の寝台、月明かりすら拒む小さな格子窓。その中央、寝台の縁に腰を下ろしている、醜悪な肉付きのよい男の影が揺れた。 モルセルだ。 かつての権勢を失い、囚われの身となった宰相は、リアンの姿を認めるなり、弾かれたように立ち上がった。その濁った瞳が、驚愕と、それ以上に卑俗な期待に見開かれる。「リアン、様……?」 モルセルの声には、獲物を前にした獣のような警戒と、抑えきれない欲望が滲んでいた。 リアンは、
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