LOGIN最愛の兄・セレンと、その腹の子を一度に亡くし、心を凍らせた皇帝ヴァレン。暴君と化した彼を鎮めるため、家臣団が下した残酷な決断は、亡き妻と瓜二つの弟・リアンを「身代わり」として寝所に送り込むことだった。 視力が弱く、人一倍鼻の利くオメガのリアンは、兄の香水を纏い、愛する人の名を呼び続ける皇帝にその身を捧げる。嘘を重ねるたびに心臓が千切れるような痛みを覚えながらも、リアンはかつて密かに抱いた恋心を隠し、献身的に彼を癒していく。 しかし、偽りの関係は次第に真実の愛へと変容し、宮廷の陰謀が二人をさらなる悲劇へと追い詰める。毒を孕んだ復讐の果てに、皇帝が選ぶのは亡き影か、それとも目の前の愛か――。
View More廊下の端から端まで、人の気配が並んでいた。
リアンにはそれが、ぼんやりとした輪郭の塊としてしか見えなかった。等間隔に壁へ固定された燭台の灯りは、通常の視力を持つ者にとっては充分な明かりなのだろうが、リアンの目にはほとんど意味をなさない。夕刻を過ぎたころから視界は霞み始め、夜が深まるにつれて世界はいっそう曖昧になっていく。輪郭が滲み、色が溶け、眼前に広がるのはただ濃淡だけの、頼りない世界だった。
廊下に居並ぶ家臣たちの視線が、物理的な重さを持って肌に刺さる。
見えているわけではない。ただ、肌を焼くような感覚でわかるのだった。針の先をそっと押し当てるような痛みが首筋のあたりに集まり、リアンは浅い呼吸を繰り返しながら、重厚な扉の前に立ち続けた。背筋を正し、両手を前で重ね、焦点の合わない視線を扉の中心へ向ける。膝が微かに震えているのを、喉の奥までせり上がる気力だけで押さえ込んだ。
不意に、肩に重みを感じた。
父の手だと、その重さと骨張った感触ですぐにわかった。若いころは剣を握っていたという武人の手が、ゆっくりと一度だけ肩を叩く。
「陛下のお役に立ってきなさい」
低く、耳元にだけ届く囁き。そこには息子への情などは微塵も含まれていなかった。あるのはただ、家の存続と生き残りを案じる、一族の主としての義務感だけだ。リアンは小さく頷いたが、何も言葉は返さなかった。返すべき言葉など、とうの昔に失ってしまった気がした。
父が退く気配がすると、入れ替わるように別の声が入り込んできた。
「妻君と御子を同時に亡くされた陛下の御心は、今やひどく荒れております」
声の主の顔は見えない。ただ、その響きにはまとわりつくような油の粘りがあって、リアンは鼻の奥が不快にざわめくのを感じた。
「あなたのその容姿を、大いに活用なさいませ。亡き妻君に似たお顔が、陛下の御心を鎮めることを切に願います。……失敗は、死を意味しますよ」
最後の一言が、冷え切った廊下の静寂の中に鋭く落ちた。
「承知しました」
リアンは正面を向いたまま答えた。自分の声は、思っていたよりもずっと落ち着いて、どこか他人事のように響いた。
失敗は死――。
その言葉を、リアンは胸の奥でゆっくりと転がした。
皇帝ヴァレン。
エルスヴェイル家の者であれば、子供の頃から耳に馴染んでいる名だった。若い日の陛下は、あまりにも苛烈で気性の荒い人だったという。その日の機嫌ひとつで人の生き死にが決まると、廷臣たちが震えながら囁き合うような存在だった。
そんな暴君を変えたのは、リアンの兄である美しい顔立ちのセレンだった。
エルスヴェイル伯爵家の長男で、オメガであり、誰からも愛される太陽のような人だった。政略結婚として嫁いだセレンは、やがて陛下の荒ぶる心を、雪を溶かす春の陽光のように解きほぐしていった。陛下はセレンとの日々のなかで、初めて自らの激情を御することを覚えたのだ。
けれど、その幸福はあまりにも短かった。
セレンは妊娠を喜ぶ間もなく、腹の子とともにあっけなく逝った。まるで、強い風に煽られた灯火が消えるように。
それ以来、陛下の心は再び厚い氷に閉ざされた。かつての荒々しさに疑心暗鬼が加わり、廷には再び、逃げ場のない恐怖が漂い始めた。その傷ついた御心を癒すため、家臣団が下した残酷な決断が、「亡き妻に酷似した顔を持つ弟のオメガを差し向ける」ことだった。
今までにも何度も、寝所に慰み者として心と身体を癒す人間を送り込んできたという――だが、一度たりとも皇帝の飢えた心身を解せた者はいなかった。
少しでも亡くなった妻に似ている者が訪ねれば――という考えで纏った家臣団の命令により、リアンが今宵、彼のもとへと送られる。
セレンの弟で、兄とまるで双子のようによく似たオメガのリアンに与えられた唯一の価値だ。
目の前の扉が開かれ、リアンは闇の中へと足を踏み入れた。
「失礼いたします」
正確には、完全な暗闇ではないのだろう。部屋の奥に置かれた燭台の炎が、リアンの目にも小さな点となって揺れている。けれど、その光は彼にとって、深い霧の向こうに浮かぶ蛍の火に等しい。室内の形も、豪華な家具の配置も、何一つ判別できない。
リアンは後ろ手に扉を閉め、音を立てないようにゆっくりと進んだ。
その瞬間、むせるような香りが鼻腔を突いた。
(気持ち、悪い……)
自分の首筋と手首から漂うその香りに、胃のあたりがひどく不快にせり上がった。入浴の後、侍女たちが丁寧に纏わせたのは、亡き兄セレンが愛用していた香水だった。「なるべく奥様に似た匂いを」という侍女頭の言葉に、リアンは否とは言えなかった。
人より鼻の利くリアンにとって、強すぎる香りは刃のように脳を刺す。それがもう二度と会えない人の記憶と結びついているなら、痛みはいっそう鋭くなった。
部屋の中央あたりで足を止め、リアンは静寂に耳を澄ませた。
遠くで風が木々を揺らす音。薪がはぜる小さな音。広い室内のどこに、冷徹な皇帝が座しているのかさえ分からない。
脳裏に、兄の顔が浮かんだ。
日当たりのよい庭で隣に座り、柔らかく笑うセレンの顔。兄はいつも、人見知りで視界の不自由なリアンを笑わず、静かにそばにいてくれた。「大丈夫だよ」と微笑んだ兄の声の温かさが、今も耳の奥にこびりついている。
(兄様……)
リアンは目を伏せた。
実は、彼が皇帝ヴァレンに淡い恋心を抱いたのは、ずっと前のことだった。一度だけ、邸を訪れた陛下の横顔を廊下の角から盗み見たことがある。黒髪に琥珀色の瞳を持つその凛々しい姿に、リアンは胸を焦がした。けれど、その想いは兄の結婚が決まった瞬間に、音もなく蓋をされたはずだった。
今夜、自分は兄の代わりとしてここに立っている。
兄の顔を装い、兄の香りを纏い、兄の夫のもとへ。
歪んでいるとわかっていても、抗う術はない。兄のために何もできなかった自分にできる唯一のことが、身代わりとしての献身であるならば――。
(兄様の代わりに愛されるのなら、それでいい)
花の香りが喉の奥に絡み、頭痛がじくじくと波打つ。
リアンは動かず、ただ冷たい空気が揺れるのを待った。
「誰だ……またあいつらが寝台によこしたのか」
低い、地を這うような声が暗闇から響いた。
リアンの心臓が大きく跳ねた。声の方向――正面から少し右手に、大きな気配がある。重厚な椅子に座っているのだろうか。
「……はい、陛下」
リアンは跪き、深く頭を垂れた。床の絨毯の感触が、指先に伝わってくる。
「誰が来ても同じことだ……出て行け」
「でも――」
数歩進んだところで、強い力で手首を掴まれた。
「あっ……」
引き寄せられ、バランスを崩したリアンの身体は、革の香りがする大きな膝の上へと倒れ込んだ。
「この匂い……」
耳元で、荒い呼吸が聞こえる。琥珀色の瞳が、すぐ間近で自分を凝視しているのが、その熱だけでわかった。
「セレン、なのか……?」
その呼び名に、リアンの胸が締め付けられた。
自分を呼ぶ声ではない。自分に向けられた熱ではない。
けれど、リアンは震える唇を開き、教えられた通りの言葉を口にした。
「……はい。あなたに、会いに参りました」
嘘をつくたびに、心臓が千切れるような音がした。
皇帝の大きな手が、リアンの頬を包み込む。指先は驚くほど熱く、けれどどこか震えているようにも感じられた。
「ああ……本当に、お前か」
ヴァレンの顔が近づき、その唇がリアンの額に落とされた。慈しむような、けれど執着に満ちた口づけ。
リアンは目を閉じ、溢れそうになる涙をこらえた。
視界が不自由な自分にとって、この暗闇はむしろ救いだった。陛下の瞳に映る自分が、自分ではなく「兄」である事実を、見なくて済むから。
薄い絹の寝衣越しに、陛下の強靭な肉体の熱が伝わってくる。冷え切っていた寝所の温度が、急速に上昇していく。
リアンは震える手を伸ばし、陛下の黒い上着の襟元を掴んだ。
「……陛下。どうぞ、私で、心を鎮めてください」
それが忠誠心なのか、あるいはかつて蓋をした恋心の残滓なのか。自分でもわからないまま、リアンは自ら、その深い闇の中へと身を投じた。
窓の外では、月が厚い雲に覆われようとしていた。
冷たい夜の静寂は、今、熱を帯びた吐息によって塗り替えられていく。
身代わりの夜が、音もなく幕を開けた。
番契約を交わしてから、三ヶ月という月日が流れた。 季節は盛夏の猛々しさを脱ぎ捨て、初秋の柔らかな光が宮殿の庭園を金砂のように染め上げている。リアンは、ヴァレンが「一番のお気に入りだ」と教えてくれた、白い大理石の長椅子が設えられた一角にいた。 午後の穏やかな空気の中、リアンの指先は規則正しく針を動かしている。色とりどりの刺繍糸が、真っ白な布の上に鮮やかな花々を咲かせていく。 あの日、番契約を交わしてからのヴァレンの変貌ぶりは、宮廷中の誰もが目を見張るものだった。 かつての彼は、常に飢えた獣のような危うさを孕んでいた。リアンを片時も離したくないと渇望し、その細い身体が自分以外のものに触れることさえ許さないといった、狂おしいほどの嫉妬に身を焦がしていた男。けれど、今の彼にその刺々しさはない。 代わりにその全身に宿っているのは、深い満足感と、永遠の絆を手に入れた者だけが持つ穏やかな威厳だ。荒れていた気性は嘘のように凪ぎ、執務に向かう背中には確かな落ち着きが備わっている。新しい皇帝の真の姿を、重臣たちもようやく安堵と共に受け入れ始めていた。 リアンの数歩後ろには、一人の騎士が音もなく控えている。 漆黒の髪を後ろで一つに束ねた、オメガの騎士――アシェル。 ヴァレンの従弟であり、宰相ルシアンが「皇妃の守護にこれ以上の適任はいない」と太鼓判を押して選び抜いた人物だ。年齢はリアンとさほど変わらないが、その双眸に宿る鋭さと、鍛え抜かれた身体が纏う凛とした空気は、かつての護衛ルシアンとはまた異なる、静かなる威圧感を放っている。 この三ヶ月、アシェルは影のようにリアンに寄り添ってきた。寡黙で職務に忠実な点はルシアン譲りだが、同じ第二性を持つ者同士、リアンは折に触れて彼に言葉をかけ、その心の距離を縮めてきた。「リアン様」 アシェルが、低く抑制された、それでいて柔らかな声で告げた。「日が傾いてまいりました。風に秋の冷ややかさが混じり始めております。少し肌寒くなってきましたので、薄手の上着をお持ちしましょうか」「ありがとう、アシェル。でも、大丈夫だよ」 リアンは針を動かす手を止めず、ふわりと微笑みを返した。「この一房を刺し終えたら、終わりにするから」 アシェルは深く、恭しく頷くと、再び一歩下がって静止した。 リアンは再び手元の布に視線を落とした。だが、針を刺
正妃の宣言から数週間が経った夜のことだった。 リアンの身体に、馴染み深い熱がゆっくりと這い上がってきていた。指先からじわりと広がるそれは、肌の奥深くを内側からじりじりと焼くような熱。下腹部の中心が疼き、肺の空気が足りなくなるように呼吸が浅くなっていく。(――ヒートだ) 寝台の上で、リアンの本能が抗いようもなく動き始めていた。乱れたシーツの位置を整え、枕を寄せ、その中にヴァレンの脱ぎ捨てた上着を一枚、丁寧に紛れ込ませる。普段なら使わない厚手の毛布まで運び込み、寝台の中央に小ぶりの巣(ネスト)を作っていく。指が勝手に動き、布の柔らかな手触りを確かめながら、最も心地よい配置を本能のままに探っていた。 オメガが、番のために巣を作る。 理性の片隅では、その獣じみた本能を恥ずかしく思う気持ちもあった。けれども、身体は止まらなかった。ヴァレンの残り香が深く染み込んだ上着を巣の中央に置き、その周囲を城壁のように枕で囲む。完成した巣を見つめて、リアンは熱に浮かされた瞳で満足げに息を吐いた。 その時、扉が静かに開いた。 リアンの背中越しに、ヴァレンの重厚な気配が近づいてくる。剣油の微かな匂いと、清潔な布地の香り、そしてヴァレンの肌の奥から漂う、あの懐かしい体温の匂い。リアンの身体が、瞬時に沸騰した。下腹部の奥で、これまで以上に強烈な熱が燃え上がる。「リアン」 ヴァレンが、低く名を呼んだ。 リアンが振り向こうとするより早く、ヴァレンの大きな身体がすでに背後にあった。逞しい腕がリアンの腰に回され、寝台の中央へと優しく引き寄せられる。ヴァレンの琥珀色の瞳が、リアンの作った不格好で愛らしい巣をゆっくりと見下ろしているのが、その沈黙から伝わってきた。「いい子だ」 ヴァレンが、リアンの白金の髪に唇を寄せて囁いた。「上手にできているじゃないか」 リアンの胸の奥が、深く、深く温かくなった。 褒められた。ただそれだけで、オメガの本能が歓喜に震える。リアンはヴァレンの厚い胸板に背中を預け、思わず甘く、切ない吐息を漏らした。「陛下……」「ヒートか」 ヴァレンが、リアンの首筋に熱い唇を押し当てながら、地響きのような低音で尋ねた。「はい……っ」 リアンの声が、僅かに震えた。 ヴァレンの大きな手が、リアンの寝衣の前をゆっくりと、けれど拒絶を許さない確かな力で開いていっ
大広間に、再び家臣たちが集められた。 ルシアンの叙爵から、十日ほどが経った日のことだった。深紅の絨毯の上に並ぶ家臣たちの装いは、これまでのどの儀式よりも華やかで、空気は凛とした緊張感に包まれていた。 壇上には、ヴァレンが堂々と立っていた。軍服の肩に飾られた金色の飾緒が、シャンデリアの光を反射して眩い。 その隣には、リアンが少し離れて、控えめに佇んでいた。今日のリアンは、冬の陽だまりを思わせる白を基調とした優美な衣装を纏っている。白金の髪は丁寧に結い上げられ、襟元の細い首から、滑らかな鎖骨の線が繊細に浮かび上がっていた。 ヴァレンが、静まり返った家臣たちを見下ろした。「本日、正式に皇妃を定める」 ヴァレンの声が、大広間の高い天井に厳粛に響いた。 家臣たちの間に、さざ波のような僅かなざわめきが走った。けれども、主君の放つ圧倒的な威圧感に、誰もがすぐに静まり返り、深く頭を垂れて続く言葉を待った。「我が皇妃となる者は——」 ヴァレンが、ゆっくりと隣のリアンの方へと振り向いた。その琥珀色の瞳が、慈しむようにリアンを捉える。「リアン・エルスヴェイル」 壇上のリアンの肩が、僅かに震えた。 ヴァレンの大きな手が、リアンの背中にそっと添えられた。大きく、温かい手のひら。その熱を感じたリアンは、あまりの気恥ずかしさと畏れに、思わず一歩、ヴァレンの後ろへと隠れるように下がろうとした。けれども、ヴァレンの手は、それを許さず、逃げ場を失わせるように、リアンを前へと押し出す。優しく、しかし揺るぎない力強さで彼を支えていた。「隠れるな」 ヴァレンが、リアンにだけ聞こえる低い声で囁いた。 その声には、逃避を咎める響きはなかった。ただ、愛する者を、家臣たちの前に堂々と立たせたい——そんな静かな誓いが宿っていた。リアンは、震える唇をぎゅっと結び、深く息を吸った。それから、ヴァレンの隣に並んで、家臣たちの視線を真っ直ぐに受け止めた。 大広間の家臣たちが、一斉に頭を垂れた。「皇妃陛下に、忠誠を」 誰かが、静かに声を上げた。続いて、別の声が、また別の声が、地鳴りのような唱和を始めた。深紅の絨毯の上に並ぶ家臣たちの誰もが、深く頭を垂れている。かつて彼を「慰みもの」と侮っていた者も、「淫乱オメガ」と陰口を叩いていた者も——皆が、今、リアンを正妃として、新たな皇国の母として
モルセルの最期は、公的には「獄中での病死」として処理された。 長年宰相の座にあった男に対する、せめてもの体面だった。妻殺しと正妃候補への毒害、そして強姦未遂――。そのおぞましい罪状は重臣たちの間でのみ正確に共有され、外向けには「病による静かな最期」として記録される。家臣たちの間にも、この不自然な処理を疑う者はいなかった。皇帝の腕の中で意識を失いかけたあの番候補の、痛々しい姿を誰もが目にしていたのだ。 モルセルの娘も、宮廷から速やかに退けられた。 遠い属州の貴族家へと嫁がされる形での、実質的な国外追放。父の罪に直接関わってはいなかったとはいえ、その身体には「毒を運んだ手」としての記録が刻まれてしまっている。リアンは、娘が宮廷を発つ日の朝、窓辺から遠ざかる馬車を静かに見送るだけにとどめた。 すべての後処理が、冬の冷たい空気が澄んでいくように淡々と進んでいった。 その間も、リアンの身体は静かに回復を続けていた。解毒剤の効果が全身の隅々まで行き渡り、陶器のように白かった頬には、少しずつ桜色の血色が戻ってくる。ヴァレンは公務の合間を縫っては寝室に戻り、リアンの様子を確かめ続けていた。皇帝としての威厳を捨てた、一人の男としての献身――。その姿を、宮廷の誰もがもう、当たり前の風景として受け入れていた。 そして、すべての後処理が終わった、ある雲一つない晴れた日のことだった。 大広間に、再び家臣たちが集められていた。 あの断罪の日と同じ場所。けれども、そこに流れる空気の質は完全に違っていた。あの日、宰相の処刑によって浄化された大広間には、新しい時代の始まりを予感させる、清々しい光が満ちていた。 壇上に、ヴァレンとリアンが並んで立っている。 リアンは、深い藍色の正装を纏っていた。白金の髪は、朝の支度で丁寧に整えられている。「ルシアンを、前へ」 ヴァレンが、重厚な低音で命じた。 大広間の中央、深紅の絨毯の上に、騎士装束のルシアンが進み出てきた。一段高い壇上の前で、片膝をつき、深く頭を垂れる。漆黒の髪が、午前の陽光を受けて静かに揺れた。「ルシアン」 ヴァレンが、ゆっくりと言葉を紡いだ。「お前の長年の忠義、そして、宰相モルセルの罪を暴き、皇帝の番候補の命を守った功績――これに報いるため、本日付で、伯爵位を授ける」 ヴァレンの声が、大広間の高い天井に厳粛に
寝所の重厚な扉を閉めた瞬間、ヴァレンの腕がリアンの腰を乱暴な手つきで離した。 代わりに、熱を帯びた大きな両手がリアンの肩を強く掴み、正面から向かい合う。琥珀色の瞳が、霞んだリアンの視界の中でも、ひりつくような焦燥を帯びてこちらを覗き込んでいるのがわかった。傍らに置かれた燭台の灯りが、ヴァレンの彫りの深い顔を薄く照らし、その整った輪郭に深い影を落としている。「どこか、具合は悪くないか」 ヴァレンの声には、これまで聞いたこともないような揺らぎと、切迫した響きが滲んでいた。 リアンは戸惑い、小さく首を振った。「いえ、大丈夫です」「本当か。吐き気は? ……めまいはしないか」「本当に、
大広間の天井には、無数の燭台が金色の輝きを放っていた。 長い晩餐の卓には、磨き上げられた銀器と硝子の杯が整然と並び、それぞれの灯りを反射してきらめいている。給仕たちが音を立てぬよう次々と料理を運び、家臣たちの低い談笑が、広間の重厚な空気をゆっくりと満たしていた。 リアンは、ヴァレンの右隣に与えられた席に、背筋を正して腰掛けていた。 今宵の晩餐は、北部の使節を迎える正式な席だった。皇帝の隣に名の通らぬ「慰みもの」が座ること自体、家臣たちには違和感のある光景だっただろう。それでも、ヴァレンが「リアンを連れていく」と命じた以上、誰も口を挟むことはできなかった。 リアンの霞んだ視界には、卓
重い瞼をゆっくりと持ち上げると、天井の複雑な木目がぼんやりと視界に広がっていた。 リアンは一瞬、自分がどこにいるのかを把握できなかった。見慣れた寝台の天蓋、見慣れた豪華な装飾の輪郭。そこが自分の部屋であると気づいた瞬間、下腹部の奥に鈍く、それでいて逃げ場のない痛みが走った。思わず息を詰め、顔をしかめる。 身体の芯が軋むような、重く、硬い芯の通った痛み。それはまるで、熱を持った鉄の棒を無理やり埋め込まれたかのような、侵食される感覚だった。 初めてヴァレンに抱かれた夜の、翌朝の感覚に似ている。身体の奥深くに、まだ収まりきらない異物感が疼きとして居座り続けていた。違うのは、あの夜の痛みには
執務室の窓から差し込む午後の光が、机上の書類の端を黄金色に染めていた。 ヴァレンは広げられた報告書へ視線を落としながら、右手でゆっくりとペンを走らせていた。国境の治安報告、徴税の進捗、北部の水害の見通し。国家の営みを構成する無数の紙片が、規則的に積み上げられては処理されていく。 その静寂を破るように、一定のリズムで扉が叩かれた。「入れ」 視線を上げずに許可を下すと、音もなく扉が開き、衣擦れの気配が近づいてきた。香木の残り香とは明らかに異質な、鼻を突くほど濃すぎる香油の匂いが部屋に流れ込んでくる。ヴァレンは眉を僅かに寄せた。顔を上げるまでもなく、この匂いの主が誰であるかは察しがついた