鼻の奥に、かすかなインクの匂いが残っていた。 手の中の金属製の万年筆は冷たく、指先に重い。 視線の先には、クリーム色をした分厚い上質紙。 その最上部に、逃げ場を塞ぐような活字が印字されている。 『婚約契約書』 黒光りする無垢材のデスクは、よく磨かれていて、触れれば指先まで冷えそうだった。空調の微かな音だけが、広い部屋の静けさに沈んでいる。 息をすることさえ、この整いすぎた空間では場違いに思えた。 万年筆の軸を、無意識に指の腹で転がす。 握るたびに、手のひらの熱が少しずつ奪われていく。その重みは、これから背負うものの重さそのものだった。 署名欄の片側には、すでに一つの名前が刻まれている。 『天野 透』 整いすぎていて、どこか冷たい筆跡。 その隣にぽっかりと空いた、真っ白な空白。 そこを黒いインクで埋めることだけが、今この場で求められている役割だった。 「……凛花お嬢様。署名を」 頭上から、感情を抑えた低い声が降ってくる。 横目だけで視線を動かす。 黒いスーツを隙なく着こなした長身の男が、石像のような顔でこちらを見下ろしていた。 天野家の執事、黒瀬。 水科凛花としての記憶が、その名を静かに思い出させる。 正面には、天野透が座っていた。 深い革張りの椅子に身体を預け、切れ長の瞳がこちらを見ている。 そこに怒りはない。興味も、あるいは憐れみさえもない。ただ、デスクの上に置かれた物の配置を確かめるような、冷たい無関心だけがあった。 普通なら、この威圧感だけで胸の奥が縮んでいただろう。 けれど、不思議なほど心臓の音は静かだった。 怖いか、と問われれば、指先の震えがその答えだ。 この署名が、どのような入り口なのか、すべてを理解しているわけではない。けれど、一つだけ肌で感じている。 水科凛花、二十一歳。 多額の負債を抱えた水科家から、天野家へ差し出される女。 それが、今の自分に与えられた名前と立場だった。 そしてこの署名は、水科凛花に用意された死の運命へ、自分から踏み込む行為だということ。 万年筆の軸を握る指先に、力を込める。 ここでペンを置けば、また、あの場所へ戻ってしまう。 誰かの顔色を盗み見、空気を読み、息を潜めることだけを生存戦略だと思い込んでい
Terakhir Diperbarui : 2026-05-20 Baca selengkapnya