Todos los capítulos de 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます: Capítulo 11 - Capítulo 20

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第11話 僕を信じるな②

「何か、不都合でもございましたか、凛花お嬢様」  低く、抑揚のない声。  万年筆を置いていた右手を、膝の上でぎゅっと握りしめる。 「不都合はありません。ただ、その契約書を回収される前に、控えをいただけますか」  黒瀬の目が、ほんの一ミリだけ見開かれた。 「……控え、ですか」 「ええ。双方が署名した書類です。写しを一部、私の手元に置いておきたいのですが」  喉がカラカラだ。  天野家の執事を相手に、一体何を偉そうに交渉しているのか。借金のカタとして売られてきた女が、契約の権利を主張するなど、滑稽なこと極まりない。  けれど、前世の記憶が、橘日和の経験が、背中を支えていた。  書類の写しを持たないことの恐ろしさを、誰よりも知っている。  手元に証拠がなければ、言葉はいくらでもねじ曲げられ、条件は都合よく書き換えられる。あの会議室で、切り取られたチャット画面一枚で悪人に仕立て上げられたように。 「それと」  震えを隠すため、あえてゆっくり立ち上がった。  シルクのドレスの重みが、足首に滑らかに絡みつく。 「最後に、もう一度読ませてください。第六条以降を、きちんと確認できていません」  黒瀬の表情が、今度こそわずかに崩れた。  警戒というよりは、純粋な驚き。あるいは、予想外の相手に出会ったような値踏みの視線。 「……お読みになるのですか。今から」 「ええ。何か問題がありますか」 「いえ。水科の当主様からは、『凛花にはすべて了承させてあるので、細かい説明は不要だ』と伺っておりましたので」  父親の顔が頭をよぎり、肋骨の内側で小さな怒りが燃えた。  娘を差し出しておいて、契約の中身すら見せずにサインだけさせろと。本当に、どこまでも自分の見栄と保身しか頭にない男だ。  私はゆっくり顔を上げた。売られてきた事実まで否定するつもりはない。けれど、そこから先まで父の所有物でいる理由はなかった。 「父が何を了承したかは知りません。でも、署名するのは私です。内容は自分で確かめます」  黒瀬の視線が、ほんのわずかに契約書から私へ移った。驚きではない。値踏みでもない。ただ、ここで初めて、私を署名欄の空白ではなく、話す人間として見たような沈黙だった。  思ったより、声が硬くなったかもしれない。  けれど、黒瀬はそれ以上反論しなかった。  黒
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第12話 僕を信じるな③

 つまり、私が「事故」や「病気」で婚約の継続が不可能になった場合、あるいは命を落とした場合、水科家は借金を返さなくていい、ということだ。  背筋に、冷たいものが走る。  私が何らかの理由で退場することを、最初から前提としているような条項。  死の運命。  その言葉が、文字になって喉元に突きつけられた気がした。  天野家に嫁いだ花嫁たちが、過去にどうなったのか。具体的なことはまだ何も知らない。  けれど、この紙切れははっきり示している。  この家は、私を守るつもりなど一切ない。  むしろ、私が消えることで何らかの清算が行われる仕組みが、すでに組み込まれているのだ。  透の『僕を信じるな』という声が、耳の奥で蘇る。  彼はこの契約の異常さを知っている。  知っていて、私を遠ざけようとした。  ゆっくり顔を上げ、黒瀬を見る。 「……過去の婚約者にも、この条項はありましたか」  黒瀬の指が、一瞬だけ止まった。  ほんの一瞬。  けれど、完璧に制御された執事の動きに生じたその空白は、言葉よりもはっきりしていた。 「凛花お嬢様」  黒瀬は何事もなかったように目を伏せた。 「契約書の写しは、ただちに手配いたします」  答えない。  返されなかった答えの空白だけで、聞くべきことは足りてしまった。 「……確認いたしました。控えをお願いします」 「写しを手配いたします」  黒瀬は恭しく一礼すると、契約書をバインダーに収めた。  それから、扉へ向かう直前、こちらを振り返った。 「本邸へは、明朝お迎えに上がります」  低く、感情の読めない声。 「天野家の正式な婚約者として、お入りいただきますので」  重厚な扉が閉まる。  一人残された執務室で、空調のかすかな音だけが、耳鳴りのように響いていた。  緊張の糸がほどけかけ、膝の力が抜けそうになって、慌ててデスクの縁を両手で掴んだ。  指の腹に、硬い無垢材の冷たさが伝わってくる。  怖くないと言えば嘘になる。  先ほど読んだ条項の冷たさが、じわじわと胃の奥に沈んでいく。  それでも。  深く息を吸い込み、肺を空気で満たした。  流されて、何も知らされないまま殺されるのだけは御免だ。  私は今日、この契約書を自分の目で読み、その内容を記憶ではなく『記録』として手元に残す一歩
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第13話 水科凛花の朝①

 肌に触れるシーツの冷たさで、目が覚めた。  ゆっくりまぶたを持ち上げると、視界の端では、分厚い遮光カーテンの隙間から、細い朝の光が一本、床の絨毯に落ちていた。  息を吸い込む。  広報部のオフィスで毎日のように嗅いでいた、あの乾いたトナーと安物のコーヒーの匂いではない。ほのかな防虫剤の匂いと、長年蓄積された古い木材の香りが、肺の奥にじんわりと広がっていく。  身体を起こそうとして、ふわりとした違和感に首を傾げた。  身体の重さが違う。  毎日パソコンのキーボードを叩き続けて凝り固まっていた二十九歳の肩の重さが、嘘のように消えている。代わりに、パジャマのシルク生地が滑り落ちる肌の感触が、自分のものではないほど滑らかだった。  足の裏を床につけ、ベッドサイドの厚い絨毯を踏みしめる。  音を立てずに立ち上がり、壁際の大きな姿見の前に立った。  そこに映っていたのは、徹夜明けの充血した目でモニターを睨みつけていた橘日和ではない。  透き通るような白い肌。  色素の薄い、栗色の長い髪。  華奢な骨格に、触れれば壊れてしまいそうな頼りなさを含んだ、整った目鼻立ち。  水科凛花。二十一歳。  それが、鏡の向こうでこちらを見つめ返している女の名前だった。 「……無駄に、顔がいいわね」  思わず、乾いた声が口からこぼれた。  声帯の震え方も、耳に届く響きも、自分の知っているものより高く、少し甘さを含んでいる。  鏡に顔を近づけ、指先で頬をつついてみた。  プニッ、とした弾力が指を押し返してくる。  前世の自分なら、高級美容液を一本使い切っても手に入らなかっただろう質感。  だが、この美しさは、彼女自身の人生を豊かにするためのものではなかった。  ショーケースに並べられた陶器。  値札のついた、誰かのためのもの。  昨日、天野家の冷たくなった執務室でサインした『婚約契約書』の重みが、胃の底にずしりと蘇る。あの免責条項の冷たい文字列が、目の裏に焼き付いて離れない。  この身体は、借金のカタとして天野家に差し出され、何らかの理由で退場――つまりは死ぬことさえも、からくりの一部として組み込まれている。 「……上等じゃない」  鏡の中の儚げな顔に向かって、唇の端を吊り上げてみせた。  悲壮感は、不思議と湧いてこなかった。  前世の会議
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第14話 水科凛花の朝②

 誰一人、私を「水科家の娘」として敬ってはいない。  この家を食いつぶす重荷の一つか、あるいは、天野家へ差し出される直前の小切手のように扱っているのが、肌で伝わってくる。  一階に降り、ダイニングルームの重い両開き扉を押し開けた。  無駄に長いマホガニー調のテーブルの端に、すでに一人の初老の男が座っていた。  水科惣一郎。  この身体の父親であり、水科家の現当主。  仕立てのいいスーツを着込んではいるが、肩のラインはどこか丸く縮こまり、薄くなった髪を撫でつける手つきには、隠しきれない神経質さが滲み出ている。  カチャリ、と彼がコーヒーカップをソーサーに置く音が響いた。 「……遅いな。昨日は天野邸で疲れたのだろうが、もう少し早く起きられないのか」  顔を新聞の経済面から一切上げずに、惣一郎は言った。  その声には、娘を心配する温度は一滴も含まれていない。 「おはようございます、お父様」  広報部時代、気難しい役員に向かって発声していた時と同じ、完璧なトーンと抑揚で挨拶を返す。  椅子の背もたれを引き、惣一郎から三つほど離れた席に腰を下ろした。  メイドが音もなく近づき、私の前にトーストとスクランブルエッグの載った皿を置く。だが、その卵はすっかり冷え切り、表面がカピカピに乾いていた。  ナイフを手に取りながら、惣一郎の様子を観察する。  彼は新聞をめくる指先を、かすかに、だが絶え間なく貧乏揺すりのようなリズムで震わせている。 「……で。昨日の契約は、滞りなく済んだのだろうな。黒瀬という執事が随行したと聞いているが」  惣一郎が、ようやく新聞越しにこちらを一瞥した。 「ええ。契約書に署名し、控えも頂いてまいりました」 「控えだと?」  バサッ、と音を立てて新聞が下ろされた。  惣一郎の眉間に、深いシワが刻まれる。 「余計なことを。お前はただ黙って、言われた通りにサインだけしてくればいいのだ。天野家の方々に、こちらが条件を疑っているような不信感を持たれたらどうするつもりだ」  コーヒーカップの縁を指先でなぞりながら、胸の内側でだけ息を逃がした。  不信感を持たれたらどうする、ではない。  自分が娘を売り飛ばす際の契約内容を、娘自身に知られるのが不都合なだけだ。  あの第六条の免責事項――凛花が死んだ場合、水科家は借金の返
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第15話 水科凛花の朝③

 大人しく。 波風を立てず。 その言葉が、前世での上司の乾いた声と重なり、胸の奥で微かな反響を呼んだ。 ――少し我慢して、おとなしくしていれば、みんなすぐ飽きるから。 そうやって黙ってやり過ごそうとした結果、あの非常階段の冷たい鉄の手すりを握りしめることになったのだ。 惣一郎は、娘を守る気など毛頭ない。 彼はただ、自分が背負い込んだ借金の重圧から逃れたいだけだ。天野家という巨大な権力の前にひれ伏し、自分が見捨てられないことだけを祈っている、ただの臆病な男。 怒りよりも先に、広報担当としての冷めた分析が頭の中を駆け巡る。 この男に、庇護を求めるだけ無駄だ。 水科家は、私が帰るべき安全な場所ではない。ここはすでに、天野家に飲み込まれかけている、沈みかけの泥舟にすぎない。「……ええ、わかっています。お父様」 ナイフで冷えたトーストを切り分けながら、私は口角だけで微笑んだ。「水科の家の名に、決して泥を塗るような真似はいたしません」 惣一郎はフンと鼻を鳴らすと、乱暴に椅子を引いて立ち上がり、ダイニングルームを出て行った。 重い扉が閉まる音が、腹の底に低く響く。 誰もいなくなった広い部屋で、冷たいトーストを口に運ぶ。 味はしなかった。ただ、パサパサとしたパン屑が喉の奥をこすっていく感触だけがある。 水で流し込み、ナプキンで口元を拭って席を立つ。 自室に戻ると、部屋の中央にはすでに、黒い革製の大きなトランクが二つ、口を開けて置かれていた。 今日から、天野家の本邸へと移り住むことになっている。 クローゼットから、最低限の衣服と日用品だけを選び出し、トランクの中に放り込んでいく。ドレスや装飾品は、どうせ天野家が用意した生活にふさわしいものが、山のように与えられるはずだ。 引き出しの奥から、昨日天野邸のサイドテーブルから持ち帰った、天野家のロゴ入りの小さなメモ帳を取り出す。 表紙をめくると、昨日の日付と、震える字で書き残した文字が、濃紺のインクの染みとして定着している。『署名日 午
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第16話 天野本邸へ①

 黒塗りのハイヤーの扉が、外の世界を遮るように重い音を立てて閉まった。  座面に身を沈めると、革張りのシートは驚くほど滑らかで、身体の輪郭に合わせて柔らかく沈み込んだ。新車特有の革の匂いと、かすかに漂う芳香剤の香りが、鼻の奥に残った。  運転席との間には、分厚い防音ガラスのパーティションが降りている。白い手袋をした運転手の後頭部だけが見えるが、彼はバックミラー越しにすら、こちらの様子を窺おうとはしない。  移動する密室。  窓の外を、見慣れた水科家の錆びた門扉が後方へと流れ去っていくのが見えた。  見送りの人間は一人もいない。父親の惣一郎は書斎にこもったままだし、使用人たちも窓拭きや庭掃除のふりをして、こちらを見ないようにしていた。  借金のカタとして送り出される娘に、どんな顔をして手を振ればいいのか、誰もわからなかったのだろう。あるいは、天野家という巨大な権力に取り込まれる私と、これ以上関わりたくなかっただけかもしれない。  膝の上に置いたハンドバッグを、両手で軽く抱え込む。  内ポケットには、昨日書いたあのメモ帳が入っている。そのかすかな厚みと硬い角の感触だけが、今の私を支える小さな錨だった。  車は、なだらかな丘陵地帯を縫うように走る私道を抜け、やがて巨大な鉄格子の門の前で音もなく停車した。  黒く重厚なアイアンゲート。その中央には、天野家の家紋が鋭い意匠で組み込まれている。  運転手がどこかと通信する気配もなく、門は自動で、重い金属音を響かせながら左右に開いていった。  敷地内に入った瞬間、空気が数度下がったように感じた。  窓越しに見える風景が、明らかに異質だったからだ。  手入れされすぎた庭園。  雑草の一本すら許さないように刈り込まれた芝生と、定規で測ったように等間隔に植えられた針葉樹。自然の乱れが徹底的に排除され、ただの「緑色の幾何学模様」としてそこに配置されている。  広報部時代、企業のロビーに飾られる観葉植物の手配をしたことがあるが、それらはどこか「人に安らぎを与えるため」の余白が残されていた。だが、この庭にはそれがない。  ここは、完璧に管理された権力の庭だ。  長すぎる白砂利のアプローチを抜け、車は巨大な洋館の車寄せに滑り込んだ。  石造りの外壁は、歴史の重みというよりは、誰も寄せ付けない城塞のような威圧
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第17話 天野本邸へ②

 ざっと数えても、十人以上はいる。 彼らは一斉に、角度を寸分違わず揃えて深々と頭を下げた。「ようこそおいでくださいました」 声も、綺麗に揃っている。 誰一人として、顔を上げてこちらを見ようとはしない。 歓迎されている、という実感は湧かなかった。むしろ、決められた手順で確認されているような、無機質な圧迫感があった。 彼らの視線は床に落ちているはずなのに、細かなところまで観察されているような、落ち着かなさがある。 誰が、私のどこを見ているのか。 ドレスの裾の乱れか。足運びのぎこちなさか。それとも、過去の花嫁たちと比べて、私がどれほど長くこの家で「もつ」のかという品定めか。「お荷物は、すでに私室の方へお運びしてございます」 黒瀬が、振り返りもせずに歩みを進めながら言った。 その言葉の端にある小さな違和感に、ピクッと眉が動く。「……私のトランクは、ハイヤーのトランクに積んだままだったはずですが」「ええ。水科家を出発される際、あらかじめお預かりしておりました。中身の整理と収納は、凛花お嬢様専属の侍女が、すでに完了させておりますのでご安心を」 背筋に、冷たい汗が一本流れた。 つまり、私がこの屋敷に到着する前に、トランクの鍵は開けられ、下着の一枚、私物のひとつに至るまで、すべて彼らの手でチェックされ、勝手にクローゼットに配置されたということだ。 それは「至れり尽くせりのサービス」という顔をした、持ち物検査に近い、プライバシーのない扱いだった。 ハンドバッグの中のメモ帳の存在を思い出し、無意識にバッグを身体に引き寄せる。 これだけは、トランクに入れなくて正解だった。もし入れていれば、私が何を書き残そうとしているか、到着前にすべて筒抜けになっていただろう。「……それは、ご丁寧にどうも」 皮肉にならないギリギリのラインの抑揚で、短く返す。 黒瀬の広い背中は、何も答えない。 長い廊下を歩く。 床には、音を完全に吸い込むほど分厚い、深紅のペルシャ絨毯が敷き詰
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第18話 天野本邸へ③

 あるいは、いつでも次の「替え」を受け入れられるように、初期状態にリセットされているホテルのスイートルームのようだった。 「必要なものがございましたら、備え付けのベルでお呼びください。専属の侍女が参ります」  黒瀬は、部屋の中には一歩も足を踏み入れず、敷居の手前で頭を下げた。 「透様は、いらっしゃらないのですか」  ふと、口を突いて出た質問だった。  昨日、私を遠ざけるような言葉を吐いた男。彼がこの屋敷のどこにいて、どう過ごしているのか、無意識に探ろうとしていた。  黒瀬の顔に、かすかな沈黙が落ちる。 「透様は、グループの役員会議に出席されております。お戻りは夜遅くになるかと」 「そうですか」 「ですが」  黒瀬が、顔を上げる。  その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、温度のようなものが宿った気がした。気のせいかもしれないほどの、ほのかな揺らぎ。 「今夜の晩餐には、奥様が……美津子様が、凛花お嬢様をご招待されております」  空調の音が、急に耳障りに大きく感じられた。  奥様。美津子様。  天野透の母親であり、この巨大な城塞の真の支配者。  水科の父が、「決して出しゃばるな」と震える声で忠告した女主人。 「七時になりましたら、お迎えに上がります。それまで、長旅の疲れを癒やされますよう」  黒瀬はそれだけを言い残し、音もなく扉を閉めた。  カチャリ、とラッチが噛み合う音が、部屋の中に、一人きりだと告げるように響いた。  一人になった空間で、ハンドバッグを抱えたまま、ゆっくり部屋の中央へ歩みを進めた。  サイドテーブルの上に、クリスタルの花瓶が置かれている。  活けられているのは、見たこともないほど白く、肉厚な花びらを持った見事な百合だった。  指先を伸ばし、その花びらにそっと触れてみる。  滑らかな感触。  だが、その茎の切り口は、定規で測ったように正確な斜めの角度で切り落とされ、葉の一枚一枚に水滴の跡すら残っていない。  美しい。だが、異常だ。  息苦しいほどの、完璧への執着。  これが、この屋敷のルールだ。少しの乱れも、個人の意思も許さず、決められた枠の中に完璧に収まることだけを強要する、見えない圧力。  広報の仕事で、炎上した企業の隠蔽体質を何度も目の当たりにしてきた。  組織が完璧を装う時、そこには必ず、隠され
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第19話 冷たい婚約者①

 カチャリと扉を開ける。  だが、そこに立っていたのは、隙のない黒スーツを着こなした執事の黒瀬ではなかった。  白と黒の、クラシカルなメイド服に身を包んだ若い女性。  年齢は、私より少し上だろうか。綺麗にまとめられた黒髪と、少し伏し目がちな瞳。彼女の細い指先は、銀色の大きなトレイが載ったサービスワゴンを、ひどく緊張した手つきで握りしめていた。 「……あの。凛花お嬢様、でしょうか」  声は、かすかに震えている。  この巨大で冷たくなった屋敷の中で、初めて聞いた「感情の揺れ」を含む声だった。 「ええ、そうですが」 「わ、私、今日からお嬢様の専属としてお仕えいたします、小坂千尋と申します。……あの、奥様からの伝言をお持ちしました」  千尋は、私が何か恐ろしい生き物であるように、視線を床に落としたまま早口で言った。 「奥様は、先ほどから急な頭痛でお休みになられております。本日の晩餐は中止とし、本格的なお顔合わせは、明日の午後、改めてお茶のお時間に行いたいとのことです」  拍子抜けして、思わず呼吸が止まりそうになった。  ドレスの裾を握りしめていた指先から、ふっと力が抜ける。  だが、すぐに警戒の糸を張り直した。  本当に単なる頭痛なのか、それとも、初日からあえて肩透かしを食らわせることで、私の精神的なペースを乱そうという美津子の手口なのか。広報の仕事でも、厄介な相手はわざとアポイントを直前でずらし、こちらの焦りを引き出す手法をよく使ってきた。  どちらにせよ、今夜の尋問は回避されたということだ。 「……確認してまいります。お母様のお加減が、早く良くなられるといいのですが」  無難な、毒にも薬にもならない模範解答を口にする。  千尋は小さく頷き、ワゴンの上の銀色のドーム状の蓋に手をかけた。 「本日のご夕食は、こちらにお持ちしました。お部屋の中で、ごゆっくりお召し上がりください」  千尋が部屋の中にワゴンを運び入れる間、私は彼女の横顔を観察していた。  首筋に、微かに汗が光っている。  彼女が怯えているのは、私に対してではない。この屋敷の空気に、あるいは「婚約者の世話をする」という役割そのものに、見えない重圧を感じているようだった。 「ありがとう、千尋さん」  声をかけると、千尋の肩がビクッと跳ねた。 「と、とんでもございません
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第20話 冷たい婚約者②

 頭の芯が冴え切っている。  空調は完璧な室温を保っているはずなのに、部屋の空気がひどく乾燥しているように感じられた。  喉がカラカラに渇いていた。  身を起こし、サイドテーブルに置かれたクリスタルの水差しに手を伸ばす。  けれど、底の方にわずかに残っていた水滴も、すでに干からびていた。  ベルを鳴らして千尋を呼ぶべきだろうか。いや、こんな時間に単なる喉の渇きで人を呼びつけるのは、余計な摩擦を生むだけだ。  ベッドから降り、冷たいフローリングに素足を落とす。  スリッパを履き、部屋の扉を音を立てないようにゆっくり開けた。  廊下は、深い暗闇に沈んでいた。  壁に取り付けられたフットライトだけが、分厚い深紅のペルシャ絨毯を等間隔に照らし出している。  一階のキッチンまで降りて、水を一杯飲むだけだ。  そう自分に言い聞かせ、音を吸い込む絨毯の上を、すり足で進む。  広い階段の踊り場まで来た時だった。  一階の玄関ホールの方から、かすかな、だが確かな気配が立ち上ってきた。  コツ、という硬い靴音。  次いで、ドアのラッチが静かに噛み合う金属音。  階下の暗がりに、フッと人影が浮かび上がった。  天野透だった。  黒瀬は「お戻りは夜遅くになる」と言っていたが、深夜のこの時間に帰宅したらしい。  彼は黒いスーツ姿のまま、片手で首元のネクタイを乱暴に緩めていた。  昼間の冷たく張り詰めた氷のような雰囲気とは少し違う。ネクタイが外され、第一ボタンが開いた首元には、隠しきれない深い疲労の色が滲んでいた。  気づかれないように、そっと部屋に戻ろうと踵を返しかけた。  けれど、私のスリッパが絨毯の端を擦ったかすかな音を、彼は聞き逃さなかった。  透の動きが、ピタリと止まる。  ゆっくり彼が顔を上げた。  暗がりの中で、氷のように透き通った瞳が、階段の上に立つ私を正確に射抜いた。  そのとき、彼が纏っていた疲労の空気が一変した。  ネクタイを緩めていた手が下ろされ、背筋が刃物のように真っ直ぐに伸びる。  周囲の温度が、急に数度下がったような錯覚がした。 「……なぜ、この時間に出歩いている」  階段を下から見上げる彼の声は、ひどく低く、一切の感情を削ぎ落とした鋭い破片のようだった。  足の裏から、冷たさが這い上がってくる。  
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