「何か、不都合でもございましたか、凛花お嬢様」 低く、抑揚のない声。 万年筆を置いていた右手を、膝の上でぎゅっと握りしめる。「不都合はありません。ただ、その契約書を回収される前に、控えをいただけますか」 黒瀬の目が、ほんの一ミリだけ見開かれた。「……控え、ですか」「ええ。双方の合意に基づいて署名した書類です。当然、写しを一部、私が保管しておく権利があるはずですが」 喉がカラカラだ。 天野家の執事を相手に、一体何を偉そうに交渉しているのか。借金のカタとして売られてきた女が、契約の権利を主張するなど、滑稽なこと極まりない。 だが、前世の記憶が、橘日和の経験が、背中を支えていた。 書類の写しを持たないことの恐ろしさを、誰よりも知っている。 手元に証拠がなければ、言葉はいくらでもねじ曲げられ、条件は都合よく書き換えられる。あの会議室で、切り取られたチャット画面一枚で悪人に仕立て上げられたように。「それと」 震えを隠すため、あえてゆっくりと立ち上がった。 シルクのドレスの重みが、足首に滑らかに絡みつく。「最後に、契約条項の細かい部分を、もう一度だけ自分の目で確認させてください。先ほどは、署名することに意識がいっていて、第六条以降の免責事項をきちんと読み込めていませんでしたので」 黒瀬の表情が、今度こそわずかに崩れた。 警戒というよりは、純粋な驚き。あるいは、予想外の相手に出会ったような値踏みの視線。「……お読みになるのですか。今から」「はい。何か問題が?」「いえ。水科の当主様からは、『凛花にはすべて了承させてあるので、細かい説明は不要だ』と伺っておりましたので」 父親の顔が頭をよぎり、胸の奥で小さな怒りが燃えた。 娘を差し出しておいて、契約の中身すら見せずにサインだけさせろと。本当に、どこまでも自分の見栄と保身しか頭にない男だ。「父の了承と、署名者である私の了承は別です。私は、読まずに判を押すほど、自分の名前に無責任ではありません」 少しだけ、声が硬くなりすぎたかもしれない。 だが、黒瀬はそれ以上反論しなかった。 無言のままバインダーを開き、契約書をデスクの中央へと静かに戻す。「承知いたしました。……どうぞ、ご納得のいくまで」 一歩下がり、壁際に控える黒瀬の視線を背中に感じながら、デスクを覗き込む。 クリーム色の上質
Last Updated : 2026-05-20 Read more