All Chapters of 山村の風と愛しい日常: Chapter 1 - Chapter 10

19 Chapters

第1話

異動通知が出る一週間前、星野結空(ほしの ゆあ)は新井圭馬(あらい けいま)にサプライズを仕掛けようと、こっそり都心へ戻る新幹線に乗り込んだ。雨の中を急いでバーに駆けつけると、個室のドアの外で、圭馬が友人たちに「これまでの人生で一番後悔していることは何か」と聞かれているのを耳にした。「俺に言わせれば、圭馬さんの人生に後悔なんてあるわけない」すぐさま別の声が同調した。「当たり前だろ!来週には結空さんも帰ってきて、めでたくゴールインなんだ。これ以上、圭馬さんに何の悔いがあるんだよ」圭馬はしばらく黙り込んでいたが、やがてこう口にした。「あるさ」個室の中が一瞬にして静まり返る。「俺が一番後悔しているのは……結空と結婚するって約束した後に、他に心惹かれる人に出会ってしまったことだ」個室はしばらく静まり返っていたが、やがて友人の一人が口を開いた。「圭馬さん、なんでだよ。結空さんともう12年も付き合ってるじゃないか」「長すぎたからだ。長すぎて、結空への気持ちがただの慣れなのか、それとも愛情なのか、もう分からなくなってしまったんだ」圭馬は酒を一口飲んだ。「会社が潰れて、人生で一番どん底だった時、結空は俺を置いて勝手に出て行った。俺のそばにいてくれたのは美波だったんだ。美波は『ちゃんとご飯食べてね』っていつもまめに連絡してくれたり、俺が胃を痛めた時は温かいうどんを作ってくれた。気分が沈んでいる時も、不器用ながら冗談を言って俺を笑わせてくれるんだ。結空は俺を12年も待ってくれた。約束通り彼女とは結婚する。美波へのこの好意は胸の奥にしまって、これきりにするつもりだ」ドアの外でそれを聞いていた結空は目頭がツンと熱くなるのを感じた。吉川美波(よしかわ みなみ)は、結空が以前勤めていた病院の看護師だ。三年前、圭馬は起業に失敗し、多額の借金を背負い込んだ。当時、圭馬の父親である新井大輝(あらい だいき)も体調を崩し、圭馬は金銭的な重圧に押しつぶされそうになっていた。そんな時、結空は偶然、病院が主催する僻地医療支援プロジェクトを知った。三年間の特別手当は二百万円だった。結空はそのお金のために迷わず自ら志願し、最も辺鄙な山村へ医師として赴任した。この三年間、彼女は雨漏りするお粗末な土壁の家に寝泊まりし、濁流に足を取られな
Read more

第2話

電話の向こうで、杉本晃成(すぎもと こうせい)の口調には困惑が滲んでいた。「結空さん、よく考えなさい。この異動枠は君が三年も待ったものだし、病院側も君の個人的な事情を考慮して優先的に許可したんだよ。戻ってきたらすぐに結婚の準備をするって言っていたじゃないか?それがどうして、急にやめるなんて言い出したんだ?」結空は声を詰まらせた。「結婚はもうしないことにしました。なんだか……私たち、合わないみたいなんです。それに、村の人たちの方が私を必要としてくれていますし、私も……やっぱり、あそこを離れるのが名残惜しいんです」晃成は小さくため息をつき、それ以上は追及しなかった。「分かった。君がそう決めたのなら、申請は取り消しておこう。今週はゆっくり体を休めて、来週また診療所へ出勤しなさい」「ありがとうございます」電話を切った後、結空は心ここにあらずの状態で家へと帰った。家に着くとすぐに、圭馬からメッセージが届いた。【結空、お父さんの容体が急変して、俺は病院に残らなきゃいけなくなった。帰ってきたばかりで疲れてるだろうから、俺のことは待たずに早く休んでくれ】結空は【分かった】と一言だけ返信した。それ以上の文字を打つ気力すらなかった。画面を閉じようとしたその瞬間、おすすめタイムラインの動画付きのSNS投稿が、突然スマホに表示された。画面に表示された見覚えのあるアカウント名に、結空は何かに取り憑かれたかのように、引き寄せられるままその投稿をタップした。それは、小さな花火大会の様子を収めた写真の数々だった。その中の一枚は、こっそりと隠し撮りされた男性の後ろ姿だった。夜空に花火が打ち上がる中、男性の後ろ姿は少しぼやけていたが、彼がわずかに顔を傾け、隣で花火を見上げる女性の横顔に向けた視線だけは、はっきりと捉えられていた。添えられたキャプションにはこう書かれていた。【花火なんて儚いものだって彼は言うけれど、今、私の目に入る景色は温もりで満たされている】コメント欄は、どれも例外なく二人の仲を羨む言葉ばかりだった。【なるほどね、花火大会ってこういう風に楽しむものだったんだ?ごちそうさま!】【ちょっと待って、彼氏さんの視線が熱すぎて花火が完全に霞んでるよ!早く振り返って気づいてあげて!】結空の全身の血が一瞬にして凍りつ
Read more

第3話

圭馬は一瞬言葉を詰まらせ、苛立ちを滲ませた口調になったが、それでも無理に怒りを抑え込んで言った。「たかがそんなことで怒ってるのか?三年見ないうちに、ずいぶんと意地っ張りになったな」結空はふっと自嘲気味に笑った。「圭馬、もし本当に彼女のことが好きなら、愛人になんて甘んじさせるべきじゃないわ」「結空!」圭馬の顔が怒りで一気に引きつった。「何度も言ってるだろ!俺と美波はお前が思っているような関係じゃない!」こちらの不穏な空気に気づいたのか、周囲にいた他の看護師や患者たちが遠巻きにこちらを窺い始めていた。ひそひそと囁き合う声が微かに聞こえてくる。「あの吉川さん……まさか、本当に愛人なの?」「吉川さんと一緒にいるあの男の人、彼女さんと12年も付き合ってて、もうすぐ結婚するらしいわよ」「もし本当なら、いくらなんでも酷すぎるわね……」美波の顔がサッと青ざめた。「結空さん、お二人の話は聞いているの。本当に誤解だよ。私と圭馬はそんなやましい関係じゃない。私はただ……自分の仕事をしていただけ。もし勘違いさせちゃったんなら、謝るから……」圭馬は苛立たしげに眉をひそめた。「いい加減にしろ。この三年間、俺が辛かった数え切れないほどの日々を、美波がそばで支えてくれたんだ。もし俺たちに本当にやましい関係があるなら、わざわざ今まで隠す必要なんてないだろ?今すぐ美波に謝れ!」結空はただ、冷ややかな瞳で静かに彼を見つめていた。人の心は、いつだって不公平に傾くもの。とりわけ、自分の好きな人の前では。12年もの歳月を捧げて愛してきた男が、今、別の女を守るために自分を敵のように睨みつけている。結空は静かにかぶりを振った。「圭馬、肉体的な繋がりを持つことだけが裏切りというわけではない。心の繋がりを絶たれること、感情が他の誰かに移ってしまうこと……それも浮気よ。むしろ、その方がずっと残酷だわ」圭馬は雷に打たれたように全身をビクッと震わせた。その言葉に図星を突かれたのか、無意識のうちに結空の腕を掴んでいた手をふっと緩める。何か言い返そうと口を半開きにしていたが、言葉が出ない。ちょうどその時、病室のドアが内側から乱暴に開け放たれた。病室から姿を現した大輝は、怒りで顔を真っ青にしていた。次の瞬間、周囲の人間が息を呑んで見守る中、大
Read more

第4話

大輝はきょとんとした顔をした。「結空、心配してくれるのは嬉しいがね。でも、俺のような年寄りを、わざわざ目の敵にする人間なんていないだろう?それにこの薬も、思い出した時にしか飲んでいないんだ。飲み忘れも多いから、効き目が悪いのも無理はないさ」結空は手のひらの錠剤を見つめた。確かに、成分の配合量が減らされているだけのようだ。彼女は胸の奥にざわついた違和感をどうにか呑み込んだ。それからもしばらく大輝と他愛のない会話を交わし、結空はようやく席を立って病室を後にした。病院を出ると、圭馬がすでに車を回して外で待っていた。彼は丁寧に助手席のドアを開けた。「結空、帰ろう」車に乗り込むと、圭馬はいつもの癖で身を乗り出し、彼女のシートベルトを締めようとした。だが、結空は彼よりも一足早く、自分でさっとシートベルトを引き出してカチッと留めた。「出して」圭馬の手が空中でピタリと止まる。以前の結空なら、わざとシートベルトを締めずに彼に甘えていたはずだった。彼はここに来てようやく気付いた。自分の前ではいつも甘えん坊だった彼女が、あの辺鄙な山村から戻ってきて以来、一度も「辛い」や「疲れた」といった泣き言を口にしていないことに。そのあまりにも不気味なほどの落ち着きに、圭馬は眉を深くひそめた。「結空、一体どうしたんだ?もしかして……まだ美波のことで怒っているのか?」彼は声を落とし、謝罪の言葉を口にする。「今日のことは、俺が悪かった。この三年間の美波の献身に感謝するあまり、お前の気持ちをないがしろにしてしまった。お父さんに殴られたのも当然だ、俺がけじめをつけられていなかった。明日、一緒にウェディングドレスを選びに行こう。結婚式の準備もちゃんと進めるから。な?」結空が口を開きかけたその時、圭馬のスマホが短く鳴った。彼は素早く画面に目を落とし、その瞳に一瞬だけ柔らかな光を宿らせると、【今は立て込んでいるから、後で連絡する】と手早く返信を打った。結空には分かっていた。相手が美波だということを。恋という盲目なフィルターが外れてしまった今、彼の心がどれほど露骨に別の場所へ向いているのか、痛いほどよく見えた。この一年、圭馬はいつも「仕事が忙しい」「時間がない」と口実を作って、長期間にわたり結空に連絡をしてこなかった。けれど、本当に相手を
Read more

第5話

結空は反射的に言い返した。「私じゃない!私はただ、あの薬を確認したの。用量が減らされていたくらいで、薬物中毒なんて深刻な事態になるわけがないわ!大輝さんの投薬を担当していたのはずっと吉川さんよ。何があったか、彼女が一番よく分かっているに決まってる!」「結空!」圭馬はこめかみに青筋を立てて怒鳴りつけた。「この期に及んでまだ嘘をつく気か!俺が美波をかばったからって、そこまで彼女を恨んでいるのか?お父さんの命を危険に晒してまで、彼女を陥れたいのか!防犯カメラにはっきりと映っていた!あの時間帯に病室へ入り、薬に触れたのはお前だけだ。お前以外に誰もいない!」彼の凄まじい怒りを前に、結空は必死に冷静さを保とうとした。けれど、胸の奥がチクリと刺すように痛む。「圭馬、もう一度だけ言うわ。私はただ、薬の量がおかしいことに気づいて疑問に思っただけ。私が大輝さんを傷つけるようなことなんて、絶対にしない。私たちは12年も一緒にいるのよ。私の性格くらい分かってるでしょ。今まで実の娘のように可愛がってくれた大輝さんに、恩を仇で返すような真似、絶対にできるわけがない!」圭馬の瞳に、一瞬だけためらいの色がよぎった。ちょうどその時、美波は涙に濡れた顔を上げた。「結空さん、確かに私が薬に手を加えたわ……でも、薬の成分を減らしたのは、大輝さんがいつも薬を飲むのが辛いっておっしゃっていたからなの。検査の数値も安定していたし、これ以上強いお薬を飲み続けたら、かえって体に負担がかかるんじゃないかって心配で……それで、私の独断で少し減らしちゃったの。私のことが憎いからって、私の仕事を侮辱しないで。この三年間、私が大輝さんを一生懸命にお世話してきたことまで踏みにじらないで。それどころか、一人の命をダシにして、私に濡れ衣を着せるなんて……結空さんがどうしても納得いかないって言うなら、私、病院を辞める。あなたたちの前から消えるから」結空が口を開くより早く、圭馬が遮った。「もういい!」圭馬の声は低く、冷酷に響いた。「お前がいくら騒ぎ立てようと、俺と美波がこの三年間、共に過ごしてきた事実は変えられない。それなのに俺は、『結空の帰りを待たなきゃいけない』『結空との約束を守るんだ』って、何度も自分に言い聞かせてきた。医療従事者としてのモラルを捨て
Read more

第6話

警察官の言葉が響き渡ると、廊下は水を打ったように静まり返った。誰も声を発しなかったが、その場にいる全員の視線が結空へと注がれていた。警察官が彼女の前に歩み寄り、事務的な手つきで手錠を取り出す。手首にはめられた金属の冷たさが、皮膚を通じて心臓まで一気に凍りつかせるようだった。結空は何かを言おうと口を開きかけたが、喉が震えて声にならなかった。彼女は一切の抵抗を見せず、ただ淡々と頷き、彼らの後に続いた。その後ろ姿を見送る圭馬の口から、無意識のうちに声がこぼれ落ちた。「結空……」結空が振り返ることはなかった。けたたましいサイレンの音とともに、パトカーが走り去っていく。取調室の照明は、冷たく無機質な白一色だった。結空は知っている事実をありのままに供述した。しかし、圭馬との関係を問われた時だけは少し沈黙し、やがて静かにこう答えた。「ただの隣人です。私は、そんなこと絶対にしていません」記録を取っていた若い警察官が、ふと顔を上げて彼女を見た。「星野さん、安心してください。我々も徹底的に調べますから、無実の人間に罪を着せるような真似は絶対にしません」結空は小さく頷いた。警察官が席を外し、取調室には彼女一人だけが残された。窓のない狭い空間が、彼女の息を詰まらせる。この息苦しさは、彼女を遠い日の忌まわしい記憶へと引きずり込んでいった。あの年、両親はまたしても激しい夫婦喧嘩の末、彼女を薄暗い屋根裏部屋に閉じ込めて外から鍵をかけた。彼女は声が枯れるまで泣き叫び、何度も扉を叩いたが、誰からの返事もなかった。絶望に打ちひしがれ、部屋の隅で小さく丸くなっていたその時。下から圭馬の焦ったような声が聞こえてきた。「結空、泣くな!僕がここにいる!」圭馬は幼い体でどうやって登ってきたのか、屋根裏部屋の窓のガラスを叩き割って現れた。「もう怖くないぞ、僕が来たからな!」彼はガラスの破片で自分の腕が傷つくのも構わず、冷え切って震える彼女の体を力強く抱きしめてくれた。彼は彼女の手を引いて屋根裏部屋から連れ出すと、結空の両親の前に立ち塞がってこう叫んだ。「あなたたちが結空を要らないって言うなら、僕が引き取る!これから僕の家が結空の家だ!もうこれ以上、誰も結空をいじめさせない!」帰り道、彼は結空を背負いながら、絶対に守り抜くと
Read more

第7話

結空は少なくともあと数日はこの冷え切った取調室に閉じ込められるのだろうと思っていた。しかし三日目の朝早く、事件を担当する警察官がやって来て、釈放の知らせを告げた。「星野さん。調査の結果、あなたが故意に患者を中毒症状に陥らせる薬にすり替えたという十分な証拠は得られませんでした。それに、被害者のご家族から……被害者側から処罰を望まないという申し出もあり、現時点では刑事事件としての立件は見送られました。ですが、今後は十分に注意してください。医療従事者にとって、薬の扱いは一歩間違えれば大惨事になります。万が一、取り返しのつかない事態になれば、あなたの一生が台無しになりますよ」結空は複雑な思いを抱えながら、警察署の入り口を出た。そこには、圭馬がすでに待っていた。結空は少し足を止め、たまらず口を開いた。「どうして?」どうして警察に通報して私を捕まえておきながら、今になって……許すなんて。圭馬は手を伸ばして彼女の手を取ろうとし、困ったような笑みを浮かべた。「決まってるだろ、馬鹿だな。俺がお前を追い詰められるわけない。お父さんも、目を覚まして真っ先に『結空を迎えに行ってやれ』って言ってたんだ。結空、家に帰ろう。もう誰も、お前のことを責めたりしないから」彼の指先が手の甲に触れそうになった瞬間、結空は思わず手を引いて避けた。その時初めて、圭馬は彼女の左手にある酷いしもやけに気がついた。彼は眉をひそめた。「その手、どうしたんだ?あの山村に三年いただけで、どうして、こんなになるまで無理をしたんだ?……どうして俺に言わなかったんだ?」彼は有無を言わさず彼女を車に乗せると、その手を引き寄せ、薬を塗ろうとした。あかぎれだらけの手のひらを見つめ、彼は小声で尋ねた。「痛むか?」結空が口を開きかけたその時、彼女のスマートフォンが振動した。見知らぬ番号からの画像付きメッセージ。画面に映し出されていたのは、圭馬と美波が裸でベッドに横たわる写真だった。【結空さん、昨日の夜、圭馬がひどく酔っ払っていて、私たち……ごめんなさい、私、もう彼を手放すことなんてできない】美波のその言葉を裏付けるかのように、次の瞬間、圭馬のスマートフォンが鳴った。彼は薬を塗る手を止め、画面をチラリと見ると、一瞬ためらうような表情を見せたが、結局
Read more

第8話

圭馬はほとんど息を切らせて病院へと駆け込んだ。ロビーを見渡すと、隅の長椅子で点滴を受けている美波の姿がすぐに目に飛び込んできた。そこにぽつんと座る彼女の華奢な体つきは、いつも以上に弱々しく、哀れみを誘うものだった。「美波、大丈夫か?」彼は早足で歩み寄りながら声をかけた。その声には、自分でも気づいていないほどの焦燥が滲んでいた。美波が顔を上げ、彼を視界に捉えると、その目に歓喜の光が走る。「私なら平気よ、少し熱が出ただけだから。心配しないで。大輝さんがさっき眠りにつくのを待ってから、点滴を受けに出てきたの。大輝さんの迷惑にはなっていないわ」彼女がそうして健気に気遣いを見せれば見せるほど、圭馬の胸には酷く重い罪悪感がのしかかり、息が詰まりそうになった。彼は自分のコートを脱ぎ、彼女の肩にそっと掛けてやりながら、掠れた声で言った。「着てろ、冷えるから。俺がさっきから聞いてるのは、お前の体のことだ。美波、もっと自分を大切にしてくれ。少しは自分のことも気にかけてくれよ、な?」その一言が、美波の心の中に澱のように溜まっていた悲しみを一気に引き出した。彼女の目頭があっという間に赤く染まる。「気にしてくれる?圭馬、あなたが本当に私のことを気にかけてくれているなら、どうして……どうして私たちには未来がないなんて言うの?どうして、私とあんな関係になっておきながら、また遠くへ突き放そうとする?私があなたをどれだけ想っているか、本当に気づいていないとでも言うの?」彼女は手を伸ばし、圭馬の手首をぎゅっと掴んだ。その指先はひどく冷え切っていた。圭馬は長い沈黙の後、ポケットから一枚のカードを取り出し、しゃがれた声で言った。「美波……昨日は、俺がひどく酔っていたんだ。すまなかった。これ、一千万円入ってる。お前への償いだと思って受け取ってくれ。昨日のことは何もなかったことにして、俺たちはまた、今まで通りの関係に戻ろう」「どうして?圭馬、私は体を売る女じゃないわ!」美波の目から、ついに大粒の涙がこぼれ落ちた。「三年よ!私はあなたのそばに丸三年寄り添ってきた。あなたの会社が倒産して、どん底で苦しんでいた時、ご飯を作ってあなたを支えたのは誰?胃が痛くて一睡もできなかった夜、ベッドのそばでずっと看病していたのは誰?あなたが落ち込んで
Read more

第9話

病院の廊下は、まるで時間が止まったかのように静まり返っていた。大輝の視線は美波を鋭く射抜き、最後は圭馬の顔へと釘付けにされた。その眼差しは、凄まじい衝撃と失望、そして燃え盛るような怒りに満ちていた。「お父さん、落ち着いて。お願いだから、俺の説明を聞いて……」圭馬は一歩前に出て、大輝の体を支えようとした。「説明だと?この目でしっかり見たんだぞ。これ以上お前に何の言い訳があると言うんだ!」大輝は圭馬の手を激しく振り払うと、彼の頬を思い切り張り飛ばした。「このろくでなしが!恩を仇で返すようなクズを育てたつもりはない!」大輝の怒りは収まらず、手を振り上げると、さらにもう一発、圭馬の顔を殴りつけた。渾身の力を込めたその一撃により、圭馬の頬には瞬く間にくっきりと指の跡が浮き上がり、衝撃で耳の奥で低い音が響き、周囲の声が一瞬遠のいた。それでも彼はただうつむき、一言も発さなかった。「結空はお前のために、あの山奥の僻地で三年も苦労に耐え抜いたんだぞ!三年だ!都会育ちのあの子が、雨漏りするようなボロ家に住んで、洪水が起きても往診に出かけて……あんなに綺麗な子だぞ!どうしてあんな場所で身も心もボロボロになるまで耐え忍ばなきゃならなかったんだ!全部、お前のために尽くしてくれたからじゃないか!12年の情愛だぞ。胸に手を当ててよく考えてみろ。結空がお前に不義理をしたことが一度でもあったか?俺たち新井の家に泥を塗るような真似を、あの子が一度でもしたか?俺はずっとあの子に、お前を許してやってくれと宥めてきた。それなのに、お前は結空にこんな仕打ちをするのか!」大輝の怒声は廊下に響き渡った。「少し出世して金を手に入れたからと、そんな薄汚い真似を覚えやがって。この女を……」大輝の指が、美波を指差した。「俺の目の前で、よくもそんな……お前は、俺を憤死させる気か!結空に顔向けできると思っているのか!」ひとつひとつの詰問が、重い鉄槌のように圭馬の心臓を打ち砕いていく。結空の微笑み、彼女の泣き顔、幼い頃から共に過ごしてきた日々の記憶が彼の脳裏を駆け巡った。罪悪感と悔恨の念が、濁流となって彼を呑み込んでいく。――そうだ。俺は一体、何をしていたんだ。12年間、誰よりも大切に愛おしんできたはずの結空を、どうして俺はこんな風に蔑ろにでき
Read more

第10話

その一言は、まるで凄まじい落雷のように、圭馬の脳内で炸裂した。彼はその場に呆然と立ち尽くし、数分間、頭の中が完全に真っ白になった。なぜ別れるんだ?どうして結空が別れを切り出すんだ?俺の帰りを待っていると、そう約束してくれたじゃないか。12年だ。その間には喧嘩もしたし、口を利かない時期もあった。だが「別れ」という言葉だけは、結空はただの一度も口にしたことがなかった。彼女はいつだって心が優しく、自分から折れて許してくれる人だった。どんなに激しく怒った時でも、目を真っ赤にして一人で隠れて泣いているだけで……決して「別れ」を冗談にするような人ではなかった。圭馬は狂ったように結空のスマホへ電話をかけ直した。しかし、耳に届くのは無機質な「おかけになった電話は電源が入っていないか……」というアナウンスだけだった。彼女は圭馬からの連絡手段をすべて完全に断ち切っていた。圭馬は無理やり自分を落ち着かせると、結空が所属している病院へと電話をかけた。「もしもし、星野結空先生はいらっしゃいますか……」しかし、言い終わる前に電話口の医師に遮られた。「星野先生ですか?星野先生はまだ当院には復帰されていませんよ。何か伝言でもあれば、本人が出勤した際にこちらから連絡させましょうか?」通話を切り、圭馬は魂が抜けたようにソファへ崩れ落ちた。生まれて初めて、底知れぬ喪失感と途方もない迷いが彼を襲っていた。家にもいない。病院にもいない。それなら、彼女は一体どこにいるというんだ?その時、手元のスマホが震えた。圭馬の目に歓喜の色が走る。「結空!」「圭馬さん、俺だ。大変なことになった。今日、バーの防犯カメラを確認してたら……あの夜、結空さんがずっと店の前にいたんだ!俺たちの会話……全部聞かれてたみたいだよ!あの時、後ろ姿が似てるなとは思ったけど、確信が持てなくて……でも、今の状況からして十中八九間違いない。圭馬さん、俺、本当にわざとじゃないんだ! もしあの時気づいていれば……!」店の前にいたんだ……全部、聞かれてた……圭馬の手からスマホが滑り落ち、バキッという鈍い音を立てて床に激突し、画面が蜘蛛の巣状にひび割れた。彼は指先一つ動かせなくなり、全身の血が逆流するような衝撃に襲われた。そういうことだったのか。結空はすべてを知っ
Read more
PREV
12
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status