《捨てられた下女は謎多き下官に溺愛される》全部章節:第 41 章 - 第 43 章

43 章節

乞巧節②

「裁縫の腕が上がるっていうの?」梅林は子どものように目を輝かせた。李婆は、湯気のようにやわらかな笑みを浮かべて首を振る。「ただの言い伝えさ。それに梅林、お前の裁縫の腕前は、もう十分たいしたものだよ」「そんなことないわ」梅林は頬を染め、指先をそっと胸の前で組んだ。「お店が終わったあと、私も試してみてもいい?」「好きにおしよ」李婆はそう言って、店の奥へとゆっくり姿を消した。店先の暖簾が風に揺れ、外の光がゆっくりと薄れていく。夕暮れは、まるで店の中へそっと忍び込むように、橙色の影を棚の隅々へ落としていった。梅林は、李婆の背中が奥へ消えた方をしばらく見つめていた。胸の奥に灯った小さな火が、夕闇に溶けることなく、むしろ静かに強さを増していく。やがて外は群青の気配を帯び、街のざわめきも遠くなった。店を閉める頃には、針箱の木の香りが夜気に混じり、梅林の指先はそわそわと落ち着かない。「試してみよう…」誰に向けるでもなく、そっとつぶやく。夜は深まりつつあったが、彼女の心には、これから始まる小さな挑戦の光が、ひっそりと揺れていた。夜がすっかり更けたころ、李婆は中庭にそっと祭壇を設けた。月明かりに照らされた白布の上には、割れた光を宿すスイカ、艶やかなナス、そして香り高い酒が静かに並べられている。その配置は、まるで夜の神々に向けた密やかな手紙のようだった。「おいで、梅林」李婆の声は、闇の中でひと筋の灯のように響いた。中庭へ足を踏み入れた梅林は、祭壇の前で立ち止まり、息を呑む。「李婆さん……それは、祭壇よね?」問いかける声は、驚きとわずかな畏れを含んでいた。「ああ、そうさ」李婆はゆっくりとうなずき、夜空を仰ぐ。「さあ、織姫星に祈りをささげるよ」二人は祭壇の前に膝をつき、目を閉じた。夜風が衣の裾をかすめ、供え物の香りが淡く漂う。静寂の中、祈りは言葉にならぬまま、星々へと吸い込まれていった。その瞬間、梅林の胸の奥で、何か小さく確かなものがそっと息をした。梅林は、細い針と絹糸を手に取る。指先はかすかに震え、胸の奥で鼓動がひとつ跳ねる。「これが……穿針乞巧」つぶやいた声は夜に吸い込まれ、祭壇の前に静かに沈んだ。李婆は横で見守りながら、深くうなずく。「星の前では、誰もが少しばかり手が震えるものさ」梅林は息を整え、糸の端をそっ
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乞巧節③

月明かりが道の石畳を淡く照らし、李婆の歩みはその上に静かに落ちていく。初夏の風が袖を揺らし、老いた背をそっと押した。「来年の乞巧節には、もう梅鈴はここにはおらんのだろうねぇ…」その声は、誰に聞かせるでもなく、夜気に溶けるようにこぼれた。「せめて今夜だけでも、あの子に良い思い出を――」言葉の端に宿った寂しさは、風にさらわれ、月の光の中へと消えていった。店の中庭には、夜気をふるわせる風がそっと流れ、木々の葉を揺らす微かな音だけが世界を満たしていた。梅鈴は月を仰ぎ、淡い光を受けてほころぶように微笑んだ。その横顔を、陽光は言葉もなく見つめていた。彼女の髪に添えられた髪飾りは、月の光を受けて静かに瞬いている。自分が贈ったささやかな品が、こうして彼女の美しさの一部になっている――その事実が胸の奥で温かく広がる一方で、陽光の心にはふと後悔が影を落とした。(こんなにも大事にしてくれるのなら、もっと良い店で、もっと良いものを選ぶべきだったか……いや、また別のものを贈ればいい。彼女が喜ぶなら、何度でも。)そんな思いが次々と胸をよぎり、やがてひとつの願いへと収束していく。ただ、彼女の笑顔が見たい。その笑顔を、自分だけのものにしたい――。「……梅鈴」呼びかける声は、月明かりよりも慎ましく震えていた。「なあに?」彼女は首を傾け、髪飾りが小さく揺れた。「君が喜ぶ顔を見ると……もっと何かしてやりたくなるんだ。その笑顔を……ずっと見ていたい」梅鈴は一瞬だけ目を見開き、やがて月光のように柔らかい微笑みを返した。「そんなふうに思ってくれるだけで、十分よ。陽光さん」風がふたりの間を通り抜け、木々の葉を揺らした。その音が、胸の鼓動と重なるように響いていた。月光の下、陽光の心は静かに、しかし確かに膨らんでいった。(そういえば……はじめてだったな。女人に贈り物をするなんて。)ふと胸の底でそんな思いが芽をつついた。陽徳として宮廷に身を置く時間には、女人に物を贈るなど考えたこともなかった。誰かを喜ばせたいと願ったことも、喜ぶ顔を見たいと望んだことも、一度としてなかった。その世界では、感情は贅沢であり、望みは無用の火種だった。だからこそ、今の自分が少し可笑しく思えた。陽光の口から、自嘲めいた小さな笑いがこぼれる。「どうかしたの? 陽光さん」
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それぞれの頭上の月

陽徳帝の後宮には、后となる栄誉を夢見る女人たちが、尽きることなく集い続けていた。彼女らは玉のように爪を磨き、絹の衣を整え、ただ帝の一歩を待ちわびている。しかし、その熱気は、陽徳の胸に重く沈む思いを呼び起こすばかりだった。父帝も貴族たちも、陽光の動向を快くは思っていない。「なぜ陽徳様は後宮にお渡りにならぬのか」「これほどの女人を揃えてなお、心を動かす者がいないというのか」そんな声が、陽徳の背後に影のようにまとわりつき、静けさを蝕んでいた。陽徳自身も、その問いを胸の奥で反すうしていた。――なぜ自分は足を向けられないのか。后宮に満ちる期待のまなざしを思うだけで、胸の内に冷たい波が立つ。自らの心が揺れていることも。帝位にある者として、愛を選ぶことさえ容易ではない。陽徳はその重さを知りすぎていた。ゆえに、後宮の扉へ向かう足は、今日も静かに止まったままである。陽徳は山積した木簡に静かに目を通しながら、深く息を吐いた。このまま後宮に渡らぬというわけにはいかぬ――その事実は、木簡の文字よりも重く胸に沈む。いずれは、あの女人たちの中から誰かひとりを選び、后として迎えねばならぬ。その現実が、陽徳の心をひそやかに締めつけていた。ふと、陽徳は懐へ手を差し入れ、一枚の布をそっと取り出した。陽光として過ごした頃、梅鈴が贈ってくれた手帕である。机の上に広げると、淡い布地の上に梅林が丹念に針を運んだ刺繍が静かに咲いていた。それは下官に配給される安価な布――皇帝が持つにはあまりに質素で、あまりに身の丈に合わぬ。だが陽徳にとっては、どの絹にも勝る温もりを宿した唯一の品だった。陽徳はその布を指先でなぞり、しばし目を伏せた。選ばねばならぬ后の姿よりも、梅鈴の笑みが胸に浮かぶ。帝としての義務と、ひとりの人としての記憶が、静かにせめぎ合う。やがて陽徳は布を丁寧に折り畳み、胸元へとしまい込んだ。まるでその温もりだけは、誰にも触れさせまいとするかのように。(梅鈴は……いつ故郷へ戻ってしまうのだろうか。)陽徳はふと胸の内に浮かんだその思いを、誰に聞かせるでもなく反芻した。窓の外には、夜の空に澄みわたる月が静かに浮かんでいる。白い光は、後宮の屋根を淡く照らしながら、陽徳の横顔にも薄く影を落とした。その光を見つめるうち、胸の奥に沈めていた不安が、ゆるやか
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