Todos los capítulos de 捨てられた下女は謎多き下官に溺愛される: Capítulo 41 - Capítulo 50

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乞巧節②

「裁縫の腕が上がるっていうの?」 梅鈴は子どものように目を輝かせた。李婆は、湯気のようにやわらかな笑みを浮かべて首を振る。「ただの言い伝えさ。それに梅鈴、お前の裁縫の腕前は、もう十分たいしたものだよ」「そんなことないわ」 梅鈴は頬を染め、指先をそっと胸の前で組んだ。「お店が終わったあと、私も試してみてもいい?」「好きにおしよ」 李婆はそう言って、店の奥へとゆっくり姿を消した。店先の暖簾が風に揺れ、外の光がゆっくりと薄れていく。 夕暮れは、まるで店の中へそっと忍び込むように、橙色の影を棚の隅々へ落としていった。梅鈴は、李婆の背中が奥へ消えた方をしばらく見つめていた。 胸の奥に灯った小さな火が、夕闇に溶けることなく、むしろ静かに強さを増していく。やがて外は群青の気配を帯び、街のざわめきも遠くなった。 店を閉める頃には、針箱の木の香りが夜気に混じり、梅鈴の指先はそわそわと落ち着かない。「試してみよう…」 誰に向けるでもなく、そっとつぶやく。 夜は深まりつつあったが、彼女の心には、これから始まる小さな挑戦の光が、ひっそりと揺れていた。夜がすっかり更けたころ、李婆は中庭にそっと祭壇を設けた。 月明かりに照らされた白布の上には、割れた光を宿すスイカ、艶やかなナス、そして香り高い酒が静かに並べられている。 その配置は、まるで夜の神々に向けた密やかな手紙のようだった。「おいで、梅鈴」 李婆の声は、闇の中でひと筋の灯のように響いた。中庭へ足を踏み入れた梅鈴は、祭壇の前で立ち止まり、息を呑む。 「李婆さん……それは、祭壇よね?」 問いかける声は、驚きとわずかな畏れを含んでいた。「ああ、そうさ」 李婆はゆっくりとうなずき、夜空を仰ぐ。 「さあ、織姫星に祈りをささげるよ」二人は祭壇の前に膝をつき、目を閉じた。 夜風が衣の裾をかすめ、供え物の香りが淡く漂う。 静寂の中、祈りは言葉にならぬまま、星々へと吸い込まれていった。 その瞬間、梅林の胸の奥で、何か小さく確かなものがそっと息をした。梅鈴は、細い針と絹糸を手に取る。 指先はかすかに震え、胸の奥で鼓動がひとつ跳ねる。 「これが……穿針乞巧」 つぶやいた声は夜に吸い込まれ、祭壇の前に静かに沈んだ。李婆は横で見守りながら、深くうなずく。 「星の前では、誰もが少しばかり手が震
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乞巧節③

月明かりが道の石畳を淡く照らし、李婆の歩みはその上に静かに落ちていく。初夏の風が袖を揺らし、老いた背をそっと押した。「来年の乞巧節には、もう梅鈴はここにはおらんのだろうねぇ…」その声は、誰に聞かせるでもなく、夜気に溶けるようにこぼれた。「せめて今夜だけでも、あの子に良い思い出を――」言葉の端に宿った寂しさは、風にさらわれ、月の光の中へと消えていった。店の中庭には、夜気をふるわせる風がそっと流れ、木々の葉を揺らす微かな音だけが世界を満たしていた。梅鈴は月を仰ぎ、淡い光を受けてほころぶように微笑んだ。その横顔を、陽光は言葉もなく見つめていた。彼女の髪に添えられた髪飾りは、月の光を受けて静かに瞬いている。自分が贈ったささやかな品が、こうして彼女の美しさの一部になっている――その事実が胸の奥で温かく広がる一方で、陽光の心にはふと後悔が影を落とした。(こんなにも大事にしてくれるのなら、もっと良い店で、もっと良いものを選ぶべきだったか……いや、また別のものを贈ればいい。彼女が喜ぶなら、何度でも。)そんな思いが次々と胸をよぎり、やがてひとつの願いへと収束していく。ただ、彼女の笑顔が見たい。その笑顔を、自分だけのものにしたい――。「……梅鈴」呼びかける声は、月明かりよりも慎ましく震えていた。「なあに?」彼女は首を傾け、髪飾りが小さく揺れた。「君が喜ぶ顔を見ると……もっと何かしてやりたくなるんだ。その笑顔を……ずっと見ていたい」梅鈴は一瞬だけ目を見開き、やがて月光のように柔らかい微笑みを返した。「そんなふうに思ってくれるだけで、十分よ。陽光さん」風がふたりの間を通り抜け、木々の葉を揺らした。その音が、胸の鼓動と重なるように響いていた。月光の下、陽光の心は静かに、しかし確かに膨らんでいった。(そういえば……はじめてだったな。女人に贈り物をするなんて。)ふと胸の底でそんな思いが芽をつついた。陽徳として宮廷に身を置く時間には、女人に物を贈るなど考えたこともなかった。誰かを喜ばせたいと願ったことも、喜ぶ顔を見たいと望んだことも、一度としてなかった。その世界では、感情は贅沢であり、望みは無用の火種だった。だからこそ、今の自分が少し可笑しく思えた。陽光の口から、自嘲めいた小さな笑いがこぼれる。「どうかしたの? 陽光さん」
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それぞれの頭上の月

陽徳帝の後宮には、后となる栄誉を夢見る女人たちが、尽きることなく集い続けていた。 彼女らは玉のように爪を磨き、絹の衣を整え、ただ帝の一歩を待ちわびている。 しかし、その熱気は、陽徳の胸に重く沈む思いを呼び起こすばかりだった。父帝も貴族たちも、陽光の動向を快くは思っていない。 「なぜ陽徳様は後宮にお渡りにならぬのか」 「これほどの女人を揃えてなお、心を動かす者がいないというのか」 そんな声が、陽徳の背後に影のようにまとわりつき、静けさを蝕んでいた。陽徳自身も、その問いを胸の奥で反すうしていた。 ――なぜ自分は足を向けられないのか。 后宮に満ちる期待のまなざしを思うだけで、胸の内に冷たい波が立つ。 自らの心が揺れていることも。帝位にある者として、愛を選ぶことさえ容易ではない。 陽徳はその重さを知りすぎていた。 ゆえに、後宮の扉へ向かう足は、今日も静かに止まったままである。陽徳は山積した木簡に静かに目を通しながら、深く息を吐いた。 このまま後宮に渡らぬというわけにはいかぬ――その事実は、木簡の文字よりも重く胸に沈む。 いずれは、あの女人たちの中から誰かひとりを選び、后として迎えねばならぬ。 その現実が、陽徳の心をひそやかに締めつけていた。ふと、陽徳は懐へ手を差し入れ、一枚の布をそっと取り出した。 陽光として過ごした頃、梅鈴が贈ってくれた手帕である。 机の上に広げると、淡い布地の上に梅林が丹念に針を運んだ刺繍が静かに咲いていた。それは下官に配給される安価な布――皇帝が持つにはあまりに質素で、あまりに身の丈に合わぬ。 だが陽徳にとっては、どの絹にも勝る温もりを宿した唯一の品だった。陽徳はその布を指先でなぞり、しばし目を伏せた。 選ばねばならぬ后の姿よりも、梅鈴の笑みが胸に浮かぶ。 帝としての義務と、ひとりの人としての記憶が、静かにせめぎ合う。やがて陽徳は布を丁寧に折り畳み、胸元へとしまい込んだ。 まるでその温もりだけは、誰にも触れさせまいとするかのように。(梅鈴は……いつ故郷へ戻ってしまうのだろうか。) 陽徳はふと胸の内に浮かんだその思いを、誰に聞かせるでもなく反芻した。窓の外には、夜の空に澄みわたる月が静かに浮かんでいる。 白い光は、後宮の屋根を淡く照らしながら、陽徳の横顔にも薄く影を落とした。 その光を見つめ
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通り雨

市場へ向かう梅鈴の足元には、朝から垂れこめていた雲が影を落としていた。李婆に頼まれた野菜を選び、籠へそっと収めて背に負ったとき、空の奥で何かがほどけるように、ひと粒のしずくが肩口へ落ちた。続いて、二粒、三粒…。「雨……降りだしちゃった」その呟きが唇からこぼれ落ちるより早く、灰色の雲はついに堪えきれず、細い雨脚を一気に太くして市場の屋根や石畳を叩き始めた。人々がざわめき、店主たちが布を引き寄せる中、梅鈴は籠を抱えたまま小走りで軒下へ身を寄せた。濡れた髪が頬に貼りつき、衣の袖はすでに雨を吸って重くなっている。それでも彼女の視線は、自分ではなく背の荷へ向けられていた。「大変。お野菜が濡れちゃうわ」雨粒が跳ね返る音の中で、その声だけがやわらかく響いた。市場の喧騒も、雨の匂いも、濡れた身体の冷たさも、彼女にとっては二の次だった。李婆に届けるはずの野菜を守ること――それだけが、今の梅鈴のすべてだった。軒下で雨をしのぐ梅鈴の耳に、ふいに柔らかな声が届いた。「梅鈴じゃないか?」振り返ると、薄曇りの空の下、陽光が傘を差したままこちらへ歩み寄ってくる。濡れた石畳に反射する光が、彼の足元を淡く照らしていた。「陽光さん……」名を呼んだ梅鈴の姿を見た途端、陽光は眉をひそめた。肩から髪先まで雨に濡れ、衣の色が深く沈んでいる。陽光は手際よく傘をたたむと、濡れた空気を切るように梅鈴のそばへ歩み寄った。「なんだ、ずいぶん濡れてるじゃないか」その声音は叱るようでいて、どこか心配の色が濃い。懐から布を取り出すと、陽光はためらいもなく梅鈴の髪に触れた。雨粒を含んだ黒髪をそっと拭い、肩に落ちた滴を丁寧にぬぐう。布越しに伝わる温もりが、雨音の中でひときわ静かに感じられた。「あ……」梅鈴の視線は、陽光の手にある布へ吸い寄せられた。それが自分の刺繍した手帕だと気づいた瞬間、胸の奥で何かがふっとほどける。あの日、陽光のために選んだ糸の色、ひと針ひと針に込めた想い――それらが、今、彼の手の中で息をしている。「この手帕……使ってくれてるのね」声に滲んだ嬉しさは隠しようもなく、言葉の端が震えていた。陽光は濡れた髪を拭う手を止めずに答える。「ああ……大切につかわせてもらっているよ」その一言が、梅鈴の胸の奥深くへ静かに落ちていく。雨音よりも、布が髪を
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後宮の噂

店の戸をくぐると、雨に濡れた空気を押しのけるように李婆が慌てて姿を見せた。「梅鈴。傘を持たずに出たから心配してたんだよ」その声には、雨よりも濃い不安がにじんでいた。梅鈴は陽光から受け取った籠をそっと掲げ、李婆へ見せる。「陽光さんが送ってくれたの。野菜は濡れてないから安心して」濡れた袖口から滴が落ちるのも気にせず、梅鈴は籠の中身を大事そうに示した。李婆はその言葉を聞くなり、呆れたように眉を吊り上げた。「馬鹿だねっ! 野菜なんざどうでもいいよ。あんたが風邪でもひいたらどうするんだい」叱る声の奥には、長年の情がしっかりと根を張っている。陽光と梅鈴の濡れた肩を見て、李婆は手早く布を二人へ押し渡した。「梅鈴、あんたは着替えておいで。陽光さん、今あったかいお茶をいれるよ」そう言って梅鈴を奥へ送り出し、李婆自身も湯を沸かしに姿を消す。店の一角では、湯気の立つ茶碗を手にした常連たちが、雨音を背に世間話を続けていた。「即位式には隣に正妃様がならばれるんだろうな」「どんな美女か楽しみだな。噂では最有力候補は――」声は次第に熱を帯び、未来の国母となる陽徳帝の后について、誰が選ばれるのか、どれほどの美貌なのかと、憶測が憶測を呼んで弾んでいく。「美女が千名もいるそうじゃないか」「そんなにいたら選ぶのも大変だろうよ」陽光は布で濡れた着物を拭きながら、その会話を聞いていた。皇帝の正妃――国の頂点に立ち、帝を支える女人。その言葉が耳に触れるたび、胸の奥に重たい影が落ちる。(噂に尾ひれがついているな……そんなにいるわけないだろう)苦笑が漏れたが、それは表情の端にだけ浮かび、心の内側は静かに揺れていた。着物を拭き終え、椅子に腰を下ろしたところへ、ふわりと柔らかな香りが近づいてきた。着替えを終えた梅鈴が、李婆の淹れた温かい茶を両手で抱え、陽光のもとへ歩み寄ってくる。濡れた雨の気配をまとった店内で、彼女の姿だけがほのかに明るく見えた。馴染み客が梅林に声をかけた。「よお梅鈴。今日もかわいいなが、李婆さんのくたびれた古着じゃあ、せっかくの別嬪も泣くぞ?」店内にいつもの軽口が弾け、常連たちの笑い声が湯気のように立ちのぼる。梅鈴は肩をすくめて笑い、「あら、そんなことないわ。布は上等だし、縫いも丁寧よ」と返す。奥から李婆が顔を出し、「婆の古着で悪かっ
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伯堅の来店

店の戸をくぐると、雨に濡れた空気を押しのけるように李婆が慌てて姿を見せた。「梅鈴。傘を持たずに出たから心配してたんだよ」その声には、雨よりも濃い不安がにじんでいた。梅鈴は陽光から受け取った籠をそっと掲げ、李婆へ見せる。「陽光さんが送ってくれたの。野菜は濡れてないから安心して」濡れた袖口から滴が落ちるのも気にせず、梅鈴は籠の中身を大事そうに示した。李婆はその言葉を聞くなり、呆れたように眉を吊り上げた。「馬鹿だねっ! 野菜なんざどうでもいいよ。あんたが風邪でもひいたらどうするんだい」叱る声の奥には、長年の情がしっかりと根を張っている。陽光と梅鈴の濡れた肩を見て、李婆は手早く布を二人へ押し渡した。「梅鈴、あんたは着替えておいで。陽光さん、今あったかいお茶をいれるよ」そう言って梅鈴を奥へ送り出し、李婆自身も湯を沸かしに姿を消す。店の一角では、湯気の立つ茶碗を手にした常連たちが、雨音を背に世間話を続けていた。「即位式には隣に正妃様がならばれるんだろうな」「どんな美女か楽しみだな。噂では最有力候補は――」声は次第に熱を帯び、未来の国母となる陽徳帝の后について、誰が選ばれるのか、どれほどの美貌なのかと、憶測が憶測を呼んで弾んでいく。「美女が千名もいるそうじゃないか」「そんなにいたら選ぶのも大変だろうよ」陽光は布で濡れた着物を拭きながら、その会話を聞いていた。皇帝の正妃――国の頂点に立ち、帝を支える女人。その言葉が耳に触れるたび、胸の奥に重たい影が落ちる。(噂に尾ひれがついているな……そんなにいるわけないだろう)苦笑が漏れたが、それは表情の端にだけ浮かび、心の内側は静かに揺れていた。着物を拭き終え、椅子に腰を下ろしたところへ、ふわりと柔らかな香りが近づいてきた。着替えを終えた梅鈴が、李婆の淹れた温かい茶を両手で抱え、陽光のもとへ歩み寄ってくる。濡れた雨の気配をまとった店内で、彼女の姿だけがほのかに明るく見えた。馴染み客が梅林に声をかけた。「よお梅鈴。今日もかわいいなが、李婆さんのくたびれた古着じゃあ、せっかくの別嬪も泣くぞ?」店内にいつもの軽口が弾け、常連たちの笑い声が湯気のように立ちのぼる。梅鈴は肩をすくめて笑い、「あら、そんなことないわ。布は上等だし、縫いも丁寧よ」と返す。奥から李婆が顔を出し、「婆の古着で悪かった
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苦慮

伯堅は、梅鈴の細い背が帳の奥へ消えていくのを見届けると、陽光の耳許へそっと声を落とした。「予定外の振る舞いはお慎みを。罰を受けるのは護衛の者です」「すまない…」陽光の短い謝罪に、伯堅はひとつ息を吐き、静かに呼吸を整えた。「通り雨に足止めされた娘を、つい送ってきてしまった――そういうところでしょうか」「お見通しだな」陽光は苦く笑い、肩をすくめる。ほどなくして、梅鈴が盆を抱えて戻ってきた。湯気をまとった茶の香が、湿った空気をやわらかく押し返す。「どうぞ」「ああ、いただこう」伯堅は茶碗を手に取り、静かに口をつけた。馴染の客達は卓を囲み世間話に花を咲かせていた。卓を片付ける梅鈴の背へ、馴染み客が気安い声を投げる。「梅鈴、おまえさん、誰か良い人はいないのかい?」その声音が梅林に届いた刹那、陽光の身体はかすかな震えとともに硬直した。胸の奥で何かがひそやかにきしむ。梅林の返答を逃すまいと、陽光は視線をそっと研ぎ澄まし、耳の奥まで神経を張りつめた。梅鈴は手を止めることなく、山風のように軽やかに笑った。「こんな山猿みたいな女、誰が相手にするっていうのよ」「いやいや、お前さんはなかなかの器量良しだ。よければ俺が縁談の話でも――」その言葉が空気を震わせた瞬間、陽光は反射的に立ち上がった。椅子がわずかに軋み、店内のざわめきが波紋のように広がる。「ど、どうかしたの?陽光さん」梅鈴が戸惑いの色を浮かべる。客たちの視線が陽光へ集まり、ざわつきが湿った空気を揺らした。陽光がようやく自分の動揺に気づいた時には、 その波紋はすでに静まり返り、店内は雨の止み間のような沈黙に包まれていた。伯堅が陽光の突発的な動きに気づいたのは、店内の空気がわずかに揺れた瞬間だった。慌てて席を蹴り、陽光の肩へ手を伸ばす。「よ、陽光――そろそろ仕事に戻らないとな!」声は不自然に明るく、どこか強引だった。伯堅は陽光の腕をつかみ、店のざわめきを断ち切るように歩き出す。梅鈴の戸惑いが背中に刺さる気配を感じながらも、足を止めなかった。「お嬢さん、お茶ありがとう」陽光が伯堅に腕を取られ、半ば引きずられるようにして暖簾の向こうへ消えていく。その一瞬、揺れる布の隙間から見えたのは、言葉にならぬ思いを必死に押しとどめるような、梅鈴の不安げなまなざしだけだった。焼き
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故郷の弟

秋の風が、城下の石畳をさらりと撫でて通り過ぎていった。梅鈴がこの街へ身を寄せてから、いつの間にか半年という月日が流れている。故郷・飛鵬へ宛てて幾度か便りをしたためたものの、それが無事に届いたのか、あるいは風の途中で途切れてしまったのか、確かなことは何ひとつ分からなかった。帝都に来てからというもの、梅鈴は自分のために何ひとつ買い求めていない。市場には、若い娘の心を誘う鮮やかな衣装、繊細な髪飾り、唇を染める紅や香り立つ化粧道具が、まるで色とりどりの花のように並んでいる。手を伸ばせば触れられる距離に、憧れは満ちていた。欲しくないわけではない。ただ――一刻も早く故郷へ戻るために、彼女は日々の暮らしをぎりぎりまで切り詰めていた。その慎ましさは、秋風に揺れる薄衣のように、静かで、揺るぎなかった。そんな梅鈴の慎ましい暮らしぶりを、李婆はいつも傍らで見守っていた。年の功ゆえの温かさが、何かにつけて梅鈴へと向けられていた。「梅鈴。あんた、その薄衣じゃあ夜風が堪えるだろう。これを羽織りな」日暮れの色が庭石に滲むころ、中庭で洗い物をしていた梅鈴の背へ、李婆はそっと厚手の衣をかけた。その手つきは、まるで落ち葉に触れるように静かで優しい。「ありがとう、李婆さん……。でも、これ以上お借りするわけには」梅鈴は申し訳なさそうに衣の端を指先でつまみ、その温もりを遠慮がちに受け止めた。「これはね、あたしが若いころに着ていた古着さ。もう何年も袖を通しちゃいないよ。あんたが着てくれるなら、この着物もきっと喜ぶだろうね」「ありがとう……」そう言ってほほ笑む梅鈴の顔には、どこか影のような遠慮が差していた。その慎ましさに触れた瞬間、李婆の胸はきゅうと締めつけられる。痛みとも、哀れみともつかぬ感情が、年老いた心の奥で静かに波を立てた。(この子は……本当に、何ひとつ欲しがらないんだねぇ)李婆は胸の内でそっとつぶやく。若い娘ならば、もっと自分を飾りたくなる年頃だというのに、梅鈴はまるで風のように淡く、欲を表に出すことがなかった。彼女が帝都に持ってきた唯一の私物――それは、陽光が贈ってくれた髪飾りだった。梅鈴の黒髪に寄り添うように、いつもその飾りはきらりと光を宿し、まるで彼女を守る護符のように、そっと存在を放っていた。「梅鈴……このまま帝都で暮ら
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川岸の男

冬の冷気が、静けさとともに帝都の街並みを包み込み始めていた。落葉をさらっていく木枯らしが、歩みを進める肌を容赦なく刺す。陽の光が急速に陰り、街に宵闇が落ちていく。李婆から言いつかった用向きを終えた梅鈴は、袂を合わせるようにして足を早め、店へと帰路を急いでいた。喧噪の渦を抜けて川沿いへ出ると、さっきまでの人の気配は潮が引くように消え失せ、ただ路地を吹き抜ける風の残響ばかりが寂しげに響いていた。その静寂のただなかで、梅鈴の視線がふと足を止めさせる。川べりに、佇むひとりの男がいた。その表情は、まるで凍てついた冬の川面のように固く重く、ただただ茫洋とした水面を凝視していた。(あの方……いったい、どうなさったのかしら)離れた場所から、梅鈴はそっと男に視線を注ぎ続けていた。その横顔に刻まれたあまりにも悲壮な影に、胸の奥で厭な胸騒ぎがさざ波のように広がっていく。立ち去らねばと思う心とは裏腹に、その足はまるで地面に釘を打ち付けられたかのように重く、ただの一歩すら動かすことができなかった。予感は、悪夢のような現実となって姿を現した。男は静かに瞼を閉じ、胸の底から吐き出すように深い息を落とすと、そっと両手を合わせ、救いを求めるかのように暗い天を仰いだ。そして——凍てつく川の水面へ、吸い寄せられるように一歩、また一歩と足を踏み入れていく。「駄目っ! 待って‼」思惑よりも早く、梅鈴の身体が弾かれたように動き出していた。遮るもののない川べりをがむしゃらに駆け抜け、男の腕をすんでのところで掴み取る。その足元には、容赦のない冬の冷水が、重く冷ややかに押し寄せていた。「は、離してくれ……っ!」正気を失った叫びとともに、男になおも川の深みへと進もうとする荒々しい力が宿る。梅鈴は自身の細い腕に渾身の力を込め、必死の思いでその暴走を押し留めた。「落ち着いて……お願いですから、まずは岸へ戻りましょう?」暗闇に溶け込むような、けれど芯のある梅鈴の諭す声が、男の荒んだ心を静かに揺らした。やがて、堰を切ったように男の身体から急速に力が抜けていく。力なく頭を垂れ、立ち尽くす男の背にそっと手を添えながら、梅鈴は冷え切った水面を割り、一歩一歩確かめるようにして男を岸辺へと導いていった。冷たい川岸の草むらに、男は力なく膝を折った。もはや己の足で立ち上がる
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貯めた路銀の行方

梅鈴は男を振り返ることすらせず、ほとんど跳ねるように闇へ飛び出した。膝まで濡れた足は、走るたびに冷水を絞り出し、布の内側で氷のような冷たさが肌を刺した。だが、その冷えは彼女の焦りを追いつけない。胸の奥で何かが燃え上がり、ただ前へ、前へと彼女を押し出していた。李婆の店が見えると、梅鈴はほとんど滑り込むように戸を押し開け、階段を駆け上がった。 「梅鈴⁉ どうしたんだい、その慌てようは──」 李婆の声が背後で揺れたが、梅鈴の耳には届かない。自室の扉を乱暴に開け放つ。 棚へ手を伸ばす指が震え、濡れた袖口から滴が落ちる。 奥にしまっていた財布を掴むと、まるでそれが最後の命綱であるかのように、胸元へ強く押し当てた。階段を駆け下りる梅鈴の足音は、店内の静けさを裂くように響いた。 「李婆さん、後で事情を話すから!」 叫ぶ声は振り返りもせず放たれ、彼女の姿はすでに戸口の向こうへ消えていた。陽の落ちた街は濡れた闇を抱え、灯りの少ない路地はまるで彼女の焦りを吸い込むように沈んでいる。梅鈴は全速力のまま川沿いへ戻った。息は荒く、胸は焼けるように痛む。それでも足は止まらない。 先ほどの男は、川のほとりで同じ姿勢のまま、時間から取り残されたように呆然と立ち尽くしていた。梅鈴は男へ駆け寄り、濡れた懐から財布を取り出した。 その財布には、半年ものあいだ──故郷へ帰るために、ひとりで積み重ねてきた路銀が静かに収まっていた。 指先が触れた瞬間、梅鈴の胸に走ったのは冷たさではなく、張り詰めた覚悟だった。梅鈴は男の手を探し当て、その掌に財布を強く押し込んだ。 「これを使ってください。全額には足りないかもしれませんが──」 言葉は震えてはいなかった。むしろ、静かな決意が滲んでいた。男は目を見開き、闇の中でその瞳だけが
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