捨てられた下女は謎多き下官に溺愛される

捨てられた下女は謎多き下官に溺愛される

last update最終更新日 : 2026-07-25
作家:  rinsanたった今更新されました
言語: Japanese
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概要

中華風ファンタジー

強いヒロイン

純愛

隠し身分

初恋

私生児として生まれ、田舎の村で不遇の境遇に耐えてきた梅鈴。 そんなある日、帝都から「新皇帝の後宮に仕える女性を募る」との御触れが届く。 色めき立った村長の娘は、梅鈴を下女として従え、自信満々で都へと旅立った。 しかし、帝都に集まったのは選りすぐりの麗人ばかり。田舎者だと嘲笑された村長の娘はその怒りを梅鈴にぶつける。 「お前みたいな田舎臭いのが隣にいるからよ!」 理不尽に激昂した彼女によって、梅鈴は無一文のまま、見知らぬ都に放り出されてしまう。 (どうしよう……これじゃあ、村に帰ることさえできない……) 途方に暮れ、涙をこらえる梅鈴。そんな彼女の前に現れ、声をかけたのは、一人の身分の低そうな下官の男だった―。

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43 チャプター
旅立ち
煌国は、広大な大地と霊脈の恩恵を受ける、千年以上続く超大国である。文官・武官と呼ばれる二つの官僚を束ねる皇帝は「天子」と呼ばれ、現皇帝・豊來帝は、すでに数年前から静かに帝位の譲渡を思案していた。老いを悟ったわけではない。ただ、己の息子が国の未来を託すに足る人物に育ったと確信したからだ。その名は、次代を担う若き皇子――陽徳帝。豊來帝は、帝位継承の準備を水面下で進める一方、もうひとつの大事を命じていた。それは、国中から選りすぐりの才色兼備の女性たちを集め、陽徳帝のための後宮を整えるという、帝国の未来を左右する大事業であった。 春の初め、詔が出された。「新帝となる陽徳帝の後宮に入るべき者、才ある者、徳ある者、美しき者、そのすべてを国中より推挙せよ」その知らせは、北の山間の村から南の海沿いの都まで、風よりも早く駆け巡った。家々では娘を送り出すべきか悩む声が上がり、街では噂が渦を巻いた。「新帝はどんなお方なのか」「後宮に入れば一族は栄えるぞ」人々の期待と不安が入り混じり、国は静かにざわめき始める。そのざわめきの中心で、豊來帝はただひとり、遠くを見つめるような眼差しでつぶやいた。「陽徳よ……お前の時代が始まる。その歩みを支える者たちが、今まさに集まりつつある」帝国の未来は、ゆっくりと、しかし確実に動き始めていた。 白鈴が生を受けたのは、国の北部、霧のような静けさに包まれた山間の小さな村であった。母は村長の屋敷に仕える召使いであり、ある夜、主の子を身ごもり、やがて梅鈴を産んだ。しかし村長は、彼女を自らの血を引く者として認めることはなかった。母以外、誰も彼女が生を受けた事をを祝うことのないひっそしとした誕生だった。白鈴は母と同じく、屋敷の片隅で雑事に追われる日々を送りながら育つ。それでも、母と過ごせる時間は白鈴にとってこの上ない幸せな時間だった。幼い彼女の瞳には、山の朝霧のように澄んだ光が宿っていた。まるで、自らの境遇を静かに受け止めながらも、どこか遠い未来を見つめているかのように。炊事に洗濯に水汲み…仕事が尽きる事はない。母のかすかなため息。屋敷の石畳を踏む足音、薪のはぜる音…そんな音に囲まれながら、白鈴は誰にも知られぬまま、ひっそりと少女へと成長していった。 白梅が七つになった年、弟が生まれた。彼女は純粋に喜びを
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旅立ち②
梅鈴は、数えで十七の春を迎えていた。同じ年頃の娘たちは髪を結い、花のように色鮮やかな衣をまとい、簪一つにも季節の移ろいを映しては、己を飾ることに余念がない。だが梅鈴だけは違った。朝露に濡れた畑に立ち、陽が昇れば汗にまみれ、陽が沈めば泥を落とす暇もなく眠りに落ちる。飾り気など一つもない。簪すら持たない。けれど彼女はそれを恥じることも、不満に思うこともなかった。彼女の胸にある願いは、ただひとつ。――弟・飛鵬に学問を学ばせたい。その思いは、飢えにも寒さにも負けぬほど強く、十七の娘が抱くにはあまりに切実で、そしてあまりに優しいものだった。梅鈴の人生は、己を飾るためではなく、弟の未来を照らすためにあった。その覚悟が、彼女の背筋を静かに、しかし確かに伸ばしていた。 ある日、屋敷の廊下に甲高い鈴の音が突き刺さった。呼ばれたと悟った梅鈴は、針仕事の手を止め、糸の揺れもそのままに駆け出した。「お呼びでしょうか……お嬢様」血を分けた姉妹でありながら、彼女は頭を垂れ“お嬢様”と呼ぶ。その声音がかえって杏姐の軽蔑を誘ったのか、杏姐は梅鈴を見下ろす目に、まるで廊下の隅に落ちた塵でも見るような冷たさを宿していた。「こののろま。呼ばれたらすぐ来なさいって言ってるでしょう!」叱責と同時に、杏姐の手にあった茶碗が宙を描いた。淡い茶の雫が光を弾きながら飛び散り、次の瞬間、熱を帯びた液体が梅鈴の頭上に降りそそぐ。「も、申し訳……ありません。お嬢様」濡れた髪が頬に張りつき、衣の襟元を伝う滴が冷たく感じられた。それでも梅鈴は顔を上げない。叱責も嘲りも、彼女にとっては日々の営みの一部に過ぎなかった。短く舌打ちした杏姐は、唾を吐くような声音で命じた。「さっさと片づけて、荷造りの準備をしなさい。出発は五日後よ」あまりに唐突な言葉に、梅鈴は瞬きを繰り返した。胸の奥で何かが遅れて落ちるような、理解の追いつかない感覚。「あ、あの……お嬢様。どちらかへご旅行に……?」問いかけた瞬間、杏姐の目が細く歪んだ。その眼差しは、愚かさを見下すというより、もはや人として扱う価値すらないと言わんばかりの冷たさだった。「旅行? 寝ぼけてんじゃないの。帝都よ。新皇帝の後宮に入るのよ――この私が」杏姐の顔には、揺るぎない自信が満ちていた。まるで未来そのものが、彼女の美貌にひ
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旅立ち③
(大変だわ…出発までに仕上げられるかしら――)胸の奥で小さく呟きながら、梅鈴は昼の仕事を淡々とこなし、そのまま杏姐の旅支度へと身を投じていた。夜更け、家々の灯が落ちても、彼女の部屋だけは細い灯火が揺れている。針先が布をすべり、静寂の中にかすかな衣擦れが響いた。膝の上に広げられたのは、鮮やかな花々が咲きこぼれるように染め抜かれた上質な反物。それは、梅鈴自身が一度たりとも袖を通したことのない、遠い世界の光を宿した布だった。指先に触れるたび、彼女はふと、自分とは別の誰かの未来を縫い上げているのだと気づく。それでも針は止まらない。杏姐の旅路が少しでも晴れやかなものとなるように――その願いだけが、夜明け前の冷えた空気の中で、彼女の背をそっと押していた。「姉ちゃん……まだ寝ないの」眠気に潤んだ瞳をこすりながら、飛鵬がとととと小さな足音で近づいてきた。「お嬢様の衣装を、夜明けまでに仕上げなくてはいけないの。飛鵬は先に寝ていなさい」針を運ぶ手を止めずに言う梅鈴の前で、幼い弟の視線は机に広げられた布に吸い寄せられていた。「うわぁ……きれいな布だね」「そうでしょう。お嬢様が旅立つときにお召しになる衣装よ」飛鵬はしばらく見とれてから、ぽつりと呟いた。「姉ちゃんのほうが似合いそうだよ」その言葉に、梅鈴はふっと肩を揺らして笑った。「こんな山猿みたいな女に似合うわけないでしょう」夜明け前から畑に出て泥にまみれ、髪は風に乱され放題、着物は何度も繕った跡だらけ。村人たちは、そんな彼女を“山猿”と呼んで嘲った。だが、飛鵬の瞳には――粗末な着物の下に隠れた、誰よりも強く美しい姉の姿しか映っていなかった。出立の朝、杏姐は縫いあがったばかりの新しい衣にそっと腕を通した。白粉の香りをまとい、紅を引いた唇は朝の光を受けてひときわ艶やかに輝いている。まるで今日という日こそが、彼女の未来を開く扉であると信じて疑わぬような、凛とした気配があった。門前には村人たちが集まり、口々に祝福の言葉をかけていた。その輪の中に、梅鈴の姿もあった。徹夜で針を動かし続けた彼女の目の下には濃い影が落ち、疲労は隠しようもなかったが、その表情には不思議なほど澄んだ温かさが宿っていた。――お嬢様が望む未来へ、どうか迷わず進めますように。そんな祈りを胸に、梅鈴は静かに頭を下
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旅立ちの日④
梅林が夜通し丹精を込めて縫い上げた杏姐の衣装。けれども、 当然のことながら、ねぎらいの心も、杏姐の口から梅鈴へ向けられる感謝の言葉など一片もない。 むしろ、疲労の色を隠しきれない梅鈴に向けられたのは、氷のように冷えた声音だった。「なにをぐずぐずしているのよ。あんたもさっさと出発の支度をしなさい」唐突な命令に、梅鈴は思わず息を呑む。理解が追いつかず、か細い声が漏れた。「えっ……どういうことでしょうか……?」その戸惑いを嘲るように、杏姐は大げさに肩をすくめた。「はぁ? あんたも都まで付いてくるに決まってるでしょう。 次女の一人も連れずに帝都へ向かうなんて、みっともないにもほどがあるわ」その言葉は、命令というより宣告に近かった。梅鈴の意思など初めから存在しないと言わんばかりの、絶対的な口調。村には彼女と同じ年頃の娘が何人もいた。 けれど、帝都まで十日の道のりを歩かせるという苛烈な旅立ちを、我が子に強いる親など一人として存在しなかった。「恐れながらお嬢様……。弟はまだ幼く、とても一人にはしておけません。 連れて行こうにも子供の足では、都まで歩き通すことなど到底――」言い終えるより早く、杏姐の声が鋭く空気を裂いた。「うるさいわね! 弟なら他の使用人に見させればいいでしょう。 あんたが来ないというなら――弟ごと屋敷から追い出すわよ!」「そんな…」その言葉は、刃よりも冷たく梅鈴の胸に突き刺さった。反論の余地など、初めから与えられてはいなかった。 彼女の運命は、すでに他者の手の中で決められている。 ただ、守るべき弟の名だけが、胸の奥でかすかに震えていた。御付きの者たちが慌ただしく出立の支度を整えるなか、 梅鈴だけは、僅かな粗末な着物だけの荷と呼べるほどの荷も持たず、 追い立てられるように一行の最後尾へと歩み出した。胸の奥で、ひとつの名がかすかに震える。――飛鵬。別れの言葉を告げる暇すらなかった。幼い弟の顔が脳裏に浮かぶたび、 後ろ髪をつかまれるような痛みが胸を締めつける。 滲む涙をぐっと抑え歩み始める梅林。それでも足は止められない。 振り返れば、そこには生まれ育った村があった。土の匂いも、風の温度も、すべてが今日を境に遠ざかっていく。山の稜線を染める朝の光が、胸の奥に眠る記憶をひとつずつ呼
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帝都への道のり
都までの道のりは、決して人に優しいものではなかった。帝都までは歩いて十日――その数字が示す以上に、梅鈴にとっては果てしない距離である。供として連なるのは、彼女を除けば皆、肩幅の広い屈強な男たちばかり。彼らの歩幅は大地を割るように大きく、足取りは迷いなく速い。梅鈴は必死に裾を握りしめ、息を切らしながらその背を追った。一歩遅れれば、すぐに置き去りにされてしまいそうな焦りが胸を締めつける。対照的に、籠に揺られる杏姐は、まるで春の庭を散策するかのような優雅さだった。籠の簾越しに差し込む光を受けながら、爪を磨き、甘い菓子をつまみ、ときおり遠くの景色を眺めては、未来の栄華を思い描くように微笑む。その姿は、同じ旅路を進んでいるとは到底思えないほど、まるで別世界の住人のように気ままで、華やかだった。やっとの思いで、ようやく休息の刻が訪れた。山あいを抜ける清流は、旅人の苦しみなど知らぬ顔で澄みきって流れている。梅鈴はその水を両の手ですくい、乾ききった喉へと流し込んだ。冷たさが胸の奥まで染みわたり、張りつめていた心がわずかにほどけていく。しかし、足元に目を落とせば現実は容赦ない。もとより粗末だった布の靴は、十日の道のりでさらに裂け、布の隙間からは土埃にまみれた素足がのぞき、そこには薄く血が滲んでいた。代わりの靴など持ち合わせているはずもない。痛みを訴える足をそっと川辺に下ろし、梅鈴は周囲に生えた雑草を手に取った。その動きは驚くほど手慣れていて、まるで幼い頃から幾度となく繰り返してきた儀式のようだった。草を指先でつぶし、にじむ青い汁を傷口へあてる。ひやりとした感触が、痛みと疲労の境目を曖昧にしていく。誰に見せるでもない、静かな治療。それは、彼女が生き延びるために身につけた、小さな知恵であり、ささやかな誇りでもあった。「帝都までは……あと、どれほどなのでしょうか」歩き疲れた足をかばいながら、梅鈴は村から同行してきた男にそっと問いかけた。「そうだな……」男は額ににじむ汗を手拭いでぬぐい、遠く霞む道の先を眺める。「あと三日、といったところか」その声には、長旅に削られた体と心の重さが滲んでいた。しばし沈黙が落ち、男はふと思い出したように口を開く。「お前さんは……お嬢様と一緒に帝都に残るつもりなのか」「ええ。お嬢様のお世話を仰せ
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帝都入り
「梅鈴、何してるのよ! 早く来て、髪を結うのを手伝いなさい!」籠の簾越しに、杏姐の鋭い怒声が空気を裂いた。「は、はいっ……! ただいま参ります!」川辺で手を洗っていた梅鈴は、驚いたように身を翻し、裾を押さえて駆け出した。その小柄な背が砂埃を上げて遠ざかっていくのを、男はぼんやりと目で追う。「……あの程度の器量で、皇帝の御目にとまるんだろうかね」誰に聞かせるでもなく、疲れと皮肉の入り混じった声が漏れた。籠の中では、化粧道具や装飾品が乱雑に散らばり、揺れるたびに微かな香りが漂う。杏姐は鏡を覗き込みながら、苛立ちを隠そうともせず言い放った。「そこの香油を髪に塗ってちょうだい。早くよ、梅鈴」その声音には、焦りとも虚栄ともつかぬ熱が宿り、帝都へ向かう道のりよりも、後宮での未来のほうがはるかに重く、籠の内側に影を落としていた。梅鈴は、指先にわずかに香る花油をすくい取り、杏姐の黒髪へと丁寧に塗り込んでいった。光を受けて艶めく髪は、まるで春の川面のように揺れ、鏡の中の杏姐はその輝きを誇らしげに見つめている。「ねえ……新皇帝の陽徳様って、どんな方なのかしら」鏡越しに細められた瞳は、すでに未来の栄華を映していた。「噂では、とても美しい御方だと聞いているのよ」「お嬢様なら、きっと皇帝の御目に留まると思います」梅鈴は髪を束ねながら、静かに答えた。その声には、羨望よりも祈りに近い響きがあった。杏姐はふっと笑い、唇を弧にする。「ふふ……あんたも嬉しいでしょう?あんな田舎から抜け出せたんだもの」「い、いえ……私は、あの村が好きですから」梅鈴の言葉は、胸の奥にしまっていた土の匂いのように素朴だった。杏姐は鼻を鳴らし、軽蔑を隠そうともしない。「いかにも田舎者のあんたらしいわね」その一言は、香油の甘い香りを切り裂くように鋭く、梅鈴の胸に静かに沈んでいった。(いつか…あの村に帰れたら…)梅林は己の願いを静かに胸に潜めた。 杏姐一行が帝都へ辿り着いたのは、さらに四日目の夕刻だった。山影の向こうに広がった光の海を目にした瞬間、一同の胸にざわりと熱が走る。初めて踏みしめる大都会――どこまでも続く市の喧騒、色とりどりの布が風にはためき、香辛料の匂いが鼻をくすぐる。見上げれば、村では想像すらできなかったほど巨大な屋敷が幾重にも連なり、
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後宮
重く閉ざされた後宮の門の前には、女たちの長い列が蛇のように伸びていた。国中から集められた「候補者」たちが、緊張と期待と諦念を胸に、ただ順番を待つしかない。その最後尾に、杏姐の一行も加わっていた。籠の中で揺られながら、杏姐は苛立ちを隠そうともしない。「遅いわねぇ……いつまでこの私を待たせるつもりなのかしら」吐き捨てるような声が籠の薄布を震わせる。やがて、列の前方から役人の怒鳴り声が響いた。「次の者! 出身地と名をここに記入するように!」その声に押されるように、杏姐は慌てて籠から身を滑らせ、地面に膝をつく。化粧の香りがふわりと立ち、彼女は深々と頭を垂れた。「鹿北町より参りました。村長が娘、杏姐にございます」役人は顔を上げることもなく、ちらりと一瞥しただけで、まるで荷物の数を記すかのように事務的に筆を走らせた。その冷たい筆先の音だけが、後宮の門前に広がる静寂を切り裂いていた。村から同行してきた男たちは、後宮の前で深く礼をした。「それでは……お嬢様、どうかお健やかに」言葉を終えると、彼らは故郷へ続く道を静かに歩き出した。梅鈴は、その背中が陽炎のように揺れながら遠ざかるのを、胸の奥が締めつけられる思いで見つめた。(私も……いつの日か、あの道を戻れるのだろうか)思いに沈んだ瞬間、背後から杏姐の声が鋭く響く。「梅鈴、何をしてるの! 早く来なさい!」「はい……ただ今」梅鈴は小走りで門をくぐった。その影が落ちると同時に、故郷の風がふっと遠くなるのを感じた。杏姐にあてがわれたのは、後宮とは名ばかりの小さな個室だった。扉を開けた瞬間、彼女の眉間に深い皺が寄る。「何よ……皇帝の後宮にしては、ずいぶん質素な部屋じゃないの」吐き捨てるように言いながら、ぎしりと軋む椅子へ腰を下ろす。部屋には、寝台と机、衣桁がひとつ。余計な装飾も、華やぎもない。まるで“選ばれぬ者”のための仮住まいのようだった。「早く皇帝の御目にとまらないと……。いつまでも、こんな部屋に押し込められていられないわ」不満は尽きることなく、杏姐の唇からこぼれ続ける。その声を背に受けながら、梅鈴は黙々と荷を解いていく。衣を畳み、櫛を並べ、持参した小箱を棚に置く。彼女の指先だけが静かに動き、部屋の空気のざらつきを和らげていた。杏姐の夢見る“輝かしい未来”と、梅鈴
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後宮での待遇
夕刻、日が沈みかけた空の色を震わせるように、食事を告げる太鼓の音が後宮一帯へ重々しく響き渡った。その音は、広い宮城の回廊を伝い、静けさを押し分けるようにして各殿へと染み込んでいく。梅林は、まだ温もりの残る膳を両腕に抱え、厨房からそっと歩み出た。湯気の細い糸が夕闇に溶けていくのを見つめながら、彼女は杏姐のもとへ向かう。厨師が拵えた食事を、梅林は両手でそっと抱えるようにして運んできた。「お食事でございます、お嬢様」控えめな声が部屋の静けさに落ちる。しかし、膳に目を落とした杏姐の表情は、瞬く間に曇りへと変わった。「……何なの、これは。こんな貧相な食事、聞いてないわ!」膳に並ぶのは、白さも艶も乏しい粗末な飯、火を通しただけの少量の野菜、申し訳程度の肉片、そして味気の薄いスープ。どれも簡素な器に盛られ、華やぎとは無縁の光景だった。田舎から出てきた杏姐には、厨房の者たちに金を握らせて献立を良くする――そんな都会の習わしなど思いもよらない。ゆえに彼女の怒りは、理不尽なほど真っ直ぐに梅林へと向けられる。梅林はただ、膳を支える手をわずかに震わせながら、静かに頭を垂れるしかなかった。自らが思い描いていた未来と、目の前に突きつけられた現実との落差に、杏姐は言葉を失った。華やかな宮中生活を夢見ていたはずの彼女の胸に、いま広がっているのは冷たい失望の影である。それでも――皇帝の御目にさえ留まれば。そのかすかな希望だけが、彼女を辛うじてこの場に踏みとどまらせていた。一方、下女の梅林に与えられる食事はさらに質素だった。砕けた米に、申し訳程度の野菜。具の影もない薄いスープが、湯気だけを頼りに食卓を飾る。それでも梅林が不満を漏らしたことは一度もない。(今日もご飯を頂ける……ありがたいことだわ)胸の奥でそっと呟くその感謝は、誰に聞かれることもなく、静かに彼女の心を温めていた。傲慢な杏姐はふてくされたまま、膳にはほとんど箸をつけず、甘い菓子ばかりを頬張っていた。梅林は静かに膳を片付けながら、そっと言葉を添える。「お嬢様……こちらのお庭、牡丹も桃花も見事に咲き誇っております。気晴らしに、お散歩などいかがでしょうか」いつもなら「余計な口をきくな」と言わんばかりに噛みつく杏姐だが、この時ばかりは違った。その瞳に、かすかな焦りと虚栄が揺れる。「
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現実
庭へと歩みはじめた杏姐。その後ろを付き従う梅鈴。池へと続く牡丹と桃花のの咲き誇る回廊を静かに歩いていく。やがて長い回廊を抜けた先に、池はひっそりと息づいていた。春の光を抱き込んだ水面は、薄絹を広げたように柔らかく、風が触れるたびに、かすかな波紋が幾重にもほどけていく。散りかけた桃の花びらが、ひとひら、またひとひらと落ち、水面に触れた瞬間、淡い影となって静かに沈む。その儚さは、まるで宮廷に生きる女たちの運命を映すかのようだった。池のほとりには、后達が立ち並び、その姿は水鏡に揺らめく幻のように映り込んでいる。宮女たちの衣の裾が風に揺れ、その動きさえも池の静けさを乱さぬよう、慎ましく控えめだった。「ごきげんよう」杏姐は、勝者の余裕をそのまま形にしたような笑みをたっぷりと湛え、后達へと優雅に一礼した。しかし――その笑みが届く前に、后達の視線が彼女をかすめた。その一瞬のまなざしは、驚くほど冷えきっていた。まるで冬の刃が頬を撫でたかのような、容赦のない冷たさ。「……どうも」扇の影から返ってきたのは、礼とも呼べぬほど薄い、氷片のような一言だけ。つい先ほどまで華やぎに満ちていた空気は、音もなく崩れ落ちた。残されたのは、杏姐と梅鈴を取り囲む、冷ややかで重たい視線の群れ。その沈黙は、歓迎ではなく、明確な拒絶の色を帯びていた。杏姐の笑みだけが、場違いなほど明るく宙に取り残されていた。(……どうして?私…何か間違えた?)胸の奥で小さな声が震える。けれど、その弱さを悟られるわけにはいかない。ここで怯んだら、負けだ。扇の影から返ってきた「どうも」の一言は、まるで突き刺さる氷片だった。(見下している……? それとも、私を試しているの……?)杏姐は笑みを崩さぬまま、心の奥で必死に状況を読み解こうとする。背筋を伸ばし、優雅さを保つ。その姿勢だけが、彼女の盾だった。ひときわ華やかな衣をまとった女が、扇の端から杏姐を射抜くように見やった。その目は、氷の薄刃のように冷たく、容赦がない。「まあ……なんて古めかしいお召し物かしら」艶めいた声が、まるで毒を含んだ香の煙のように漂う。「……えっ?」杏姐の背筋を、ひやりと冷たい汗が伝った。(そんな……これは村でいちばん高い布で仕立てたはずなのに)周囲の女官たちも、遠巻きに扇を口元へ寄せ、くす
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追放
田舎の長の娘として生まれ、欲するものは手を伸ばせば届く――そんな世界で育ってきた杏姐にとって、後宮で与えられた扱いはあまりにも現実離れしていた。まるで、ぬるま湯の井戸から突然、底知れぬ深淵へ放り込まれたかのようだった。己が世間知らずであったことを、今さらながら思い知らされる。井の中の蛙――その言葉が胸の奥で鈍く響き、逃げ場のない羞恥となって杏姐を締めつけた。屈辱は、静かに、しかし確実に彼女の誇りを侵食していく。頬を伝う涙は、悲しみではない。ただただ、己の無知を突きつけられた痛みと、踏みにじられた自尊心の味がした。「お嬢様!」息を切らし、胸を上下させながら駆け寄ってきた梅鈴の声が、静まり返った回廊に震えるように響いた。杏姐は振り返り、その姿をじっと見据えた。化粧気ひとつない顔、色褪せた布を重ねただけの粗末な衣。それは彼女自身の落ち度ではない。生まれた家の貧しさが、そのまま形になっただけのこと。——それでも。今の杏姐には、そのみすぼらしさが、まるで自分を嘲る鏡のように映った。梅鈴の存在そのものが、胸の奥に沈殿した苛立ちをかき混ぜ、憎しみへと変えていく。「……あんたのせいよ」低く絞り出されたその一言は、刃のように鋭く梅鈴の胸へ突き刺さった。杏姐は、向けるべき相手を取り違えた怒りを、まるで投げ捨てるように梅鈴へ浴びせかける。「……え?」梅鈴が戸惑いに瞬きをしたその瞬間、杏姐の声はさらに荒んだ。「あんたがそんなみすぼらしい格好だから、私まで笑いものにされたじゃないの!」理不尽な叱責に、梅鈴はただ身を縮めるしかなかった。胸の奥がきゅっと痛む。それでも口から出たのは、か細い謝罪だけ。「も……申し訳ございません……」その言葉が終わらぬうちに、杏姐の怒りはなおも燃え上がる。「あんたが傍にいるだけで、何もかも台無しになるのよ! 出ていきなさい!」「そ、そんな……」梅鈴の声は震え、足元の影さえ頼りなく揺れた。彼女には、身に覚えのない罪を背負わされても、ただ耐えることしか許されていなかった。杏姐は突如として梅鈴の黒髪を鷲づかみにし、その細い身体を引きずるように門前へと連れ出すと、無造作に地へ突き放した。「――さっさと出ていきなさい」冷え切った声が、石畳に落ちた梅鈴の肩をさらに震わせる。「お許しくださいませ、お嬢様…!
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