ログイン私生児として生まれ、田舎の村で不遇の境遇に耐えてきた梅鈴。 そんなある日、帝都から「新皇帝の後宮に仕える女性を募る」との御触れが届く。 色めき立った村長の娘は、梅鈴を下女として従え、自信満々で都へと旅立った。 しかし、帝都に集まったのは選りすぐりの麗人ばかり。田舎者だと嘲笑された村長の娘はその怒りを梅鈴にぶつける。 「お前みたいな田舎臭いのが隣にいるからよ!」 理不尽に激昂した彼女によって、梅鈴は無一文のまま、見知らぬ都に放り出されてしまう。 (どうしよう……これじゃあ、村に帰ることさえできない……) 途方に暮れ、涙をこらえる梅鈴。そんな彼女の前に現れ、声をかけたのは、一人の身分の低そうな下官の男だった―。
もっと見る煌国は、広大な大地と霊脈の恩恵を受ける、千年以上続く超大国である。
文官・武官と呼ばれる二つの官僚を束ねる皇帝は「天子」と呼ばれ、
現皇帝・豊來帝は、すでに数年前から静かに帝位の譲渡を思案していた。
老いを悟ったわけではない。ただ、己の息子が国の未来を託すに足る人物に育ったと確信したからだ。 その名は、次代を担う若き皇子――陽徳帝。豊來帝は、帝位継承の準備を水面下で進める一方、もうひとつの大事を命じていた。
それは、国中から選りすぐりの才色兼備の女性たちを集め、陽徳帝のための後宮を整えるという、 帝国の未来を左右する大事業であった。春の初め、詔が出された。
「新帝となる陽徳帝の後宮に入るべき者、才ある者、徳ある者、美しき者、そのすべてを国中より推挙せよ」
その知らせは、北の山間の村から南の海沿いの都まで、風よりも早く駆け巡った。
家々では娘を送り出すべきか悩む声が上がり、街では噂が渦を巻いた。 「新帝はどんなお方なのか」「後宮に入れば一族は栄えるぞ」
人々の期待と不安が入り混じり、国は静かにざわめき始める。そのざわめきの中心で、豊來帝はただひとり、遠くを見つめるような眼差しでつぶやいた。
「陽徳よ……お前の時代が始まる。その歩みを支える者たちが、今まさに集まりつつある」
帝国の未来は、ゆっくりと、しかし確実に動き始めていた。
白鈴が生を受けたのは、国の北部、霧のような静けさに包まれた山間の小さな村であった。
母は村長の屋敷に仕える召使いであり、ある夜、主の子を身ごもり、やがて梅鈴を産んだ。
しかし村長は、彼女を自らの血を引く者として認めることはなかった。
母以外、誰も彼女が生を受けた事をを祝うことのないひっそしとした誕生だった。
白鈴は母と同じく、屋敷の片隅で雑事に追われる日々を送りながら育つ。
それでも、母と過ごせる時間は白鈴にとってこの上ない幸せな時間だった。
幼い彼女の瞳には、山の朝霧のように澄んだ光が宿っていた。
まるで、自らの境遇を静かに受け止めながらも、どこか遠い未来を見つめているかのように。
炊事に洗濯に水汲み…仕事が尽きる事はない。
母のかすかなため息。
屋敷の石畳を踏む足音、薪のはぜる音…そんな音に囲まれながら、
白鈴は誰にも知られぬまま、ひっそりと少女へと成長していった。
白梅が七つになった年、弟が生まれた。彼女は純粋に喜びを感じた。母と二人だけだった生活に新しい家族ができる…
そんな期待が彼女の中で膨らんでいた。だがその喜びは長く続かなかった。産後の肥立ちが悪かった母の身体は、春の雪解け水のように静かに、しかし確実に弱っていった。
弱っていく母に父が手を差し伸べることはなかった。
あの男にとって母も彼女も自分の所有物の一つでしかなかったのだ。
白梅が何度懇願しても父の心が母に傾く場面は訪れなかった。
梅鈴が十歳になる前、母はついに息を引き取った。
葬儀と呼ぶにはあまりに質素で、参列者もいない。山風が吹き抜けるだけの寂しい別れ。
墓守は無表情で簡易な墓穴を掘ると手を合わすこともせずに帰っていった。
穴に横たわる母に別れを告げると、10歳の小さな手で梅鈴は長い時間をかけて母親を土に返した。
小さな盛土だけの簡易な墓。そこに摘んできた花を添え、彼女は母に別れを告げた。
白鈴――いや、この頃には母が遺した名を継ぎ、梅鈴と呼ばれるようになっていた少女は、
小さな弟の手を握りしめ、ひっそりと母の亡骸に祈りを捧げた。
不安げに梅鈴の指を握り返す幼い弟、飛鵬。その手は震えていたが、頼れる者は姉しかいなかった。
「飛鵬……大丈夫よ。お姉ちゃんがついてるから」
その言葉は、十歳の少女が口にするにはあまりに重い誓いだった。
けれど梅鈴は迷わなかった。泥水を啜ることになろうとも、この小さな命だけは守り抜く――
その覚悟が、幼い胸の奥で静かに燃え始めていた。
梅林が夜通し丹精を込めて縫い上げた杏姐の衣装。けれども、当然のことながら、ねぎらいの心も、杏姐の口から梅鈴へ向けられる感謝の言葉など一片もない。むしろ、疲労の色を隠しきれない梅鈴に向けられたのは、氷のように冷えた声音だった。「なにをぐずぐずしているのよ。あんたもさっさと出発の支度をしなさい」唐突な命令に、梅鈴は思わず息を呑む。理解が追いつかず、か細い声が漏れた。「えっ……どういうことでしょうか……?」その戸惑いを嘲るように、杏姐は大げさに肩をすくめた。「はぁ? あんたも都まで付いてくるに決まってるでしょう。次女の一人も連れずに帝都へ向かうなんて、みっともないにもほどがあるわ」その言葉は、命令というより宣告に近かった。梅鈴の意思など初めから存在しないと言わんばかりの、絶対的な口調。村には彼女と同じ年頃の娘が何人もいた。けれど、帝都まで十日の道のりを歩かせるという苛烈な旅立ちを、我が子に強いる親など一人として存在しなかった。「恐れながらお嬢様……。弟はまだ幼く、とても一人にはしておけません。連れて行こうにも子供の足では、都まで歩き通すことなど到底――」言い終えるより早く、杏姐の声が鋭く空気を裂いた。「うるさいわね! 弟なら他の使用人に見させればいいでしょう。あんたが来ないというなら――弟ごと屋敷から追い出すわよ!」「そんな…」その言葉は、刃よりも冷たく梅鈴の胸に突き刺さった。反論の余地など、初めから与えられてはいなかった。彼女の運命は、すでに他者の手の中で決められている。ただ、守るべき弟の名だけが、胸の奥でかすかに震えていた。御付きの者たちが慌ただしく出立の支度を整えるなか、梅鈴だけは、僅かな粗末な着物だけの荷と呼べるほどの荷も持たず、追い立てられるように一行の最後尾へと歩み出した。胸の奥で、ひとつの名がかすかに震える。――飛鵬。別れの言葉を告げる暇すらなかった。幼い弟の顔が脳裏に浮かぶたび、後ろ髪をつかまれるような痛みが胸を締めつける。滲む涙をぐっと抑え歩み始める梅林。それでも足は止められない。振り返れば、そこには生まれ育った村があった。土の匂いも、風の温度も、すべてが今日を境に遠ざかっていく。山の稜線を染める朝の光が、胸の奥に眠る記憶をひとつずつ呼び覚ます。裸足で駆け回った山林。冷たい水に足を
(大変だわ…出発までに仕上げられるかしら――)胸の奥で小さく呟きながら、梅鈴は昼の仕事を淡々とこなし、そのまま杏姐の旅支度へと身を投じていた。夜更け、家々の灯が落ちても、彼女の部屋だけは細い灯火が揺れている。針先が布をすべり、静寂の中にかすかな衣擦れが響いた。膝の上に広げられたのは、鮮やかな花々が咲きこぼれるように染め抜かれた上質な反物。それは、梅鈴自身が一度たりとも袖を通したことのない、遠い世界の光を宿した布だった。指先に触れるたび、彼女はふと、自分とは別の誰かの未来を縫い上げているのだと気づく。それでも針は止まらない。杏姐の旅路が少しでも晴れやかなものとなるように――その願いだけが、夜明け前の冷えた空気の中で、彼女の背をそっと押していた。「姉ちゃん……まだ寝ないの」眠気に潤んだ瞳をこすりながら、飛鵬がとととと小さな足音で近づいてきた。「お嬢様の衣装を、夜明けまでに仕上げなくてはいけないの。飛鵬は先に寝ていなさい」針を運ぶ手を止めずに言う梅鈴の前で、幼い弟の視線は机に広げられた布に吸い寄せられていた。「うわぁ……きれいな布だね」「そうでしょう。お嬢様が旅立つときにお召しになる衣装よ」飛鵬はしばらく見とれてから、ぽつりと呟いた。「姉ちゃんのほうが似合いそうだよ」その言葉に、梅鈴はふっと肩を揺らして笑った。「こんな山猿みたいな女に似合うわけないでしょう」夜明け前から畑に出て泥にまみれ、髪は風に乱され放題、着物は何度も繕った跡だらけ。村人たちは、そんな彼女を“山猿”と呼んで嘲った。だが、飛鵬の瞳には――粗末な着物の下に隠れた、誰よりも強く美しい姉の姿しか映っていなかった。出立の朝、杏姐は縫いあがったばかりの新しい衣にそっと腕を通した。白粉の香りをまとい、紅を引いた唇は朝の光を受けてひときわ艶やかに輝いている。まるで今日という日こそが、彼女の未来を開く扉であると信じて疑わぬような、凛とした気配があった。門前には村人たちが集まり、口々に祝福の言葉をかけていた。その輪の中に、梅鈴の姿もあった。徹夜で針を動かし続けた彼女の目の下には濃い影が落ち、疲労は隠しようもなかったが、その表情には不思議なほど澄んだ温かさが宿っていた。――お嬢様が望む未来へ、どうか迷わず進めますように。そんな祈りを胸に、梅鈴は静かに頭を下
梅鈴は、数えで十七の春を迎えていた。同じ年頃の娘たちは髪を結い、花のように色鮮やかな衣をまとい、簪一つにも季節の移ろいを映しては、己を飾ることに余念がない。だが梅鈴だけは違った。朝露に濡れた畑に立ち、陽が昇れば汗にまみれ、陽が沈めば泥を落とす暇もなく眠りに落ちる。飾り気など一つもない。簪すら持たない。けれど彼女はそれを恥じることも、不満に思うこともなかった。彼女の胸にある願いは、ただひとつ。――弟・飛鵬に学問を学ばせたい。その思いは、飢えにも寒さにも負けぬほど強く、十七の娘が抱くにはあまりに切実で、そしてあまりに優しいものだった。梅鈴の人生は、己を飾るためではなく、弟の未来を照らすためにあった。その覚悟が、彼女の背筋を静かに、しかし確かに伸ばしていた。 ある日、屋敷の廊下に甲高い鈴の音が突き刺さった。呼ばれたと悟った梅鈴は、針仕事の手を止め、糸の揺れもそのままに駆け出した。「お呼びでしょうか……お嬢様」血を分けた姉妹でありながら、彼女は頭を垂れ“お嬢様”と呼ぶ。その声音がかえって杏姐の軽蔑を誘ったのか、杏姐は梅鈴を見下ろす目に、まるで廊下の隅に落ちた塵でも見るような冷たさを宿していた。「こののろま。呼ばれたらすぐ来なさいって言ってるでしょう!」叱責と同時に、杏姐の手にあった茶碗が宙を描いた。淡い茶の雫が光を弾きながら飛び散り、次の瞬間、熱を帯びた液体が梅鈴の頭上に降りそそぐ。「も、申し訳……ありません。お嬢様」濡れた髪が頬に張りつき、衣の襟元を伝う滴が冷たく感じられた。それでも梅鈴は顔を上げない。叱責も嘲りも、彼女にとっては日々の営みの一部に過ぎなかった。短く舌打ちした杏姐は、唾を吐くような声音で命じた。「さっさと片づけて、荷造りの準備をしなさい。出発は五日後よ」あまりに唐突な言葉に、梅鈴は瞬きを繰り返した。胸の奥で何かが遅れて落ちるような、理解の追いつかない感覚。「あ、あの……お嬢様。どちらかへご旅行に……?」問いかけた瞬間、杏姐の目が細く歪んだ。その眼差しは、愚かさを見下すというより、もはや人として扱う価値すらないと言わんばかりの冷たさだった。「旅行? 寝ぼけてんじゃないの。帝都よ。新皇帝の後宮に入るのよ――この私が」杏姐の顔には、揺るぎない自信が満ちていた。まるで未来そのものが、彼女の美貌にひ
煌国は、広大な大地と霊脈の恩恵を受ける、千年以上続く超大国である。文官・武官と呼ばれる二つの官僚を束ねる皇帝は「天子」と呼ばれ、現皇帝・豊來帝は、すでに数年前から静かに帝位の譲渡を思案していた。老いを悟ったわけではない。ただ、己の息子が国の未来を託すに足る人物に育ったと確信したからだ。その名は、次代を担う若き皇子――陽徳帝。豊來帝は、帝位継承の準備を水面下で進める一方、もうひとつの大事を命じていた。それは、国中から選りすぐりの才色兼備の女性たちを集め、陽徳帝のための後宮を整えるという、帝国の未来を左右する大事業であった。 春の初め、詔が出された。「新帝となる陽徳帝の後宮に入るべき者、才ある者、徳ある者、美しき者、そのすべてを国中より推挙せよ」その知らせは、北の山間の村から南の海沿いの都まで、風よりも早く駆け巡った。家々では娘を送り出すべきか悩む声が上がり、街では噂が渦を巻いた。「新帝はどんなお方なのか」「後宮に入れば一族は栄えるぞ」人々の期待と不安が入り混じり、国は静かにざわめき始める。そのざわめきの中心で、豊來帝はただひとり、遠くを見つめるような眼差しでつぶやいた。「陽徳よ……お前の時代が始まる。その歩みを支える者たちが、今まさに集まりつつある」帝国の未来は、ゆっくりと、しかし確実に動き始めていた。 白鈴が生を受けたのは、国の北部、霧のような静けさに包まれた山間の小さな村であった。母は村長の屋敷に仕える召使いであり、ある夜、主の子を身ごもり、やがて梅鈴を産んだ。しかし村長は、彼女を自らの血を引く者として認めることはなかった。母以外、誰も彼女が生を受けた事をを祝うことのないひっそしとした誕生だった。白鈴は母と同じく、屋敷の片隅で雑事に追われる日々を送りながら育つ。それでも、母と過ごせる時間は白鈴にとってこの上ない幸せな時間だった。幼い彼女の瞳には、山の朝霧のように澄んだ光が宿っていた。まるで、自らの境遇を静かに受け止めながらも、どこか遠い未来を見つめているかのように。炊事に洗濯に水汲み…仕事が尽きる事はない。母のかすかなため息。屋敷の石畳を踏む足音、薪のはぜる音…そんな音に囲まれながら、白鈴は誰にも知られぬまま、ひっそりと少女へと成長していった。 白梅が七つになった年、弟が生まれた。彼女は純粋に喜びを