身分を消した妻。3年後、犯罪組織の黒幕の隣に のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

26 チャプター

第11話

夜、仕事を終えた涼は、お酒の匂いを漂わせながら帰宅した。寝室のドアを開けると、薄紫色のネグリジェを着た怜奈が、背中を向けて髪をとかしているのが見えた。明かりに照らされたその見覚えのある色とデザインに、涼は息をのんだ。まるでそこに泉の姿があるかのように思えたのだ。しかし、怜奈が振り返ってわざとらしい甘い笑みを浮かべ、泉の声を真似て、「涼、おかえり」と言った瞬間、涼の瞳は冷たく引き締まった。激しい怒りと耐えがたいほどの嫌悪感が湧き起こり、一気に頭に血が上った。涼の表情は見る見る険しくなり、鋭い刃物のような目付きを突き刺した。「それを脱げ!」と低い声で怒鳴った。怜奈は予想外の反応に怯え、引きつった笑みを浮かべたまま不満そうに唇を尖らせた。「どうしてよ、涼。ただのネグリジェじゃない?仕立てもいいから捨てるのもったいないし、前だって泉さんの服を身につけたことはあったじゃない?」「脱げと言っている!」涼は一歩踏み込んで怜奈の手首を力任せに掴んだ。その眼差しは、今まで見せたことのない怒りに満ちていた。「君に泉の物に触る資格はない。早く脱ぐんだ!」涼がこれほど本気で激怒したのは、出会ってから初めてのことだった。底冷えするほどの冷たい視線に、怜奈は心底恐怖を覚えた。ここでようやく怜奈は思い知らされた。泉という存在の重さは、自分が考えていたよりも、はるかに深くて大きかったのだ。あのネグリジェの一件以来、怜奈は少しおとなしくしていたが、胸の中の不安は大きくなるばかりだった。彼女は涼に対し、身の回りのあらゆるものを新調するように強要し始めた。ある日、怜奈は涼のスマホを手に取ると、甘えるように言った。「涼、見て。私もここに一緒に住むことになったんだし、登録名を『妻A』からただの『妻』に変えてよ。それと『妻B』も……泉さんもういなくなったし、空き番号なんだから、消してよ!」涼は少し眉をひそめ、心中にもやもやした苛立ちを覚えたが、それでもスマホを受け取って操作し始めた。登録の「妻A」を「妻」に修正する操作は、手早く終えられた。しかし、「妻B」の連絡先を選択し、削除ボタンを押して確認画面が出た時、彼の指はまるで術にかかったように止めて、どうしても押せなくなった。すでに誰も使用していない不要な番号であり、登録しておいたところで何の意味もない
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第12話

関係を修復しようと、涼は渋々怜奈との買い物に付き合った。高級なデパートで、二人は偶然にも涼の高校時代の先生と再会した。白髪交じりの、優しそうな先生だった。先生は涼に気づくと、とても嬉しそうにその手を握った。「涼くんじゃないか、久しぶり!今はビジネスで大成功しているんだってね。本当に立派になった。そういえば、泉ちゃんとは元気にしているかい?涼くんみないな良い旦那さんをもらえて、本当に幸せ者だ。高校の頃からいつも二人一緒だったものね。涼くんは泉ちゃんのことばかり見ていて、授業をサボってお菓子を買いに行ったり、喧嘩をして泉ちゃんをかばったりしていたっけ。卒業してすぐのプロポーズには、私たち教員も羨ましがっていたものだよ。お似合いの二人だから、きっと一生添い遂げるってね……」先生が懐かしそうに昔話を語る。その一言一言がまるで鍵のように、涼が必死に蓋をしていた記憶をこじ開けていく。泉と共に過ごした、心の一番深い場所に眠る美しく純粋な青春の思い出が、一気に溢れ出す。それは涼が作ろうとしていた、心の壁を容赦なく崩していった。涼の笑顔はぎこちなくひきつり、目は泳ぎ、平静を保つのもやっとだった。隣にいた怜奈の顔は、さらにひどく引きつっていた。先生と別れた後も、涼の心は乱れたままだった。呼び覚まされた過去の記憶が、まるで行く手を阻むようにまとわりついて離れなかった。どうしてか涼は、会社に戻ることも家へ帰ることもせず、車を走らせて高校の母校へと向かっていた。すでに夕暮れ時で、誰もいない校内は静まり返っていた。涼はかすかな記憶を頼りに、校庭の隅にある、大きな枝を広げたあの懐かしいガジュマルの木の下へと歩いて行った。ここはかつて、二人にとってお気に入りの場所だった。涼は、木の根元の目立たない場所を選び、そのまま素手で土を掘り返し始めた。泥が上等なスラックスと手を真っ黒に汚したが、そんなことは一向に気にしなかった。どれほど掘り続けたろうか。指先が、ゴツッとした硬く冷たい感触を捉えた――錆びついた鉄の箱だった。間違いなく、16歳の時、涼が泉と一緒に埋めた「十年後の自分へ」というタイムカプセルだった。震える手でサビの浮いたフタを開けると、中には、色あせた何枚かの写真があった。制服を着て弾けるように笑う、二人のツーショッ
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第13話

隣でぐっすり眠る怜奈を見つめながら、涼は初めて確信した。かつては新鮮で魅力的だったはずのこの顔が、今はやけに冷めて見え、いや、むしろ……煩わしく感じてしまうことに。二人の間にできた亀裂は、修復不可能なスピードで、静かに、そして確実に広がっていった。胸を焦がす苦しみは、まるで檻から放たれた獣のように、激しく理性を噛みちぎっていた。何が何でも泉を見つけなければならない。今すぐ、一刻も早く。涼は自分が使える限りのコネと権力をすべて使い、網の目を広げるようにして泉を捜し回った。飛行機、新幹線、高速バスなど、泉が乗る可能性のあるすべての交通手段の履歴を調べ尽くしたが、空振りに終わった。泉はまるで煙のように消え去ってしまい、足取りは完全につかめなかった。泉の名義となっているすべての銀行口座の利用履歴を確認したところ、全てが凍結されており、最後に使われたのは、彼女が去る前日だった。全国のホテルなどの宿泊者情報を洗っても、泉の条件に当てはまる人物は見つからない。涼は警察の目の届かない裏の組織まで使って非公式な手段を調査したが、それでも情報は何も得られなかった。泉という名前は、泉の存在ごと、まるでこの世界から完全に消されてしまったかのようだった。手出しができないほど完全に姿を消されてしまったことで、涼はこれまでにない恐怖を覚えた。このネット社会の現代であっても、もし本気で身を隠そうとし、なおかつそれを強力に手助けする存在がいれば、自分を以てしても決して見つけ出すことはできないのだと、初めて知った。絶望的な焦りの中で、涼はある人物を思い出した。かつて泉の父親である勇大が一番頼りにしていた親友で、今は警察組織で高い地位にある健一だ。泉の実家が没落してからも、健一は実の娘のように何かと泉を気にかけ、支えてくれていた。涼は迷わず、すぐに健一の家へ車を走らせた。高価な贈り物を持参し、頭を下げて必死に懇願した。「長谷川さん、お願いです。泉は今、どこにいるのか教えてください。どれだけ探しても見つからなくて……心配でたまらないんです!」健一は、以前なら泉を幸せにできるはずだと信じていたが、今やボロボロの姿になっている涼を見つめた。複雑な感情を宿したその視線は、最終的には冷ややかな失望へと変わった。差し出された贈り物には目もくれず
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第14話

涼は狂ったように、泉がいなくなる直前の出来事を振り返った。例のパーティーの夜に見せた不自然な沈黙、家の玄関で倒れてしまったこと。いくつもの断片が、涼の頭の中に最悪の疑念を植え付けた。彼はすぐに自宅とパーティー会場だったホテルの防犯カメラを調べ、ありとあらゆる映像データを集めて技術部門に復元を指示した。それと並行して、泉がいなくなる前の怜奈の不審な動きや連絡履歴もすべて調査させた。集まった手がかりが一つにつながり、非情な真実が浮かび上がった瞬間、涼は全身の血が引いていく感覚に襲われた。復元した映像は一部不鮮明だったが、パーティーの日、涼がその場を去った直後に、怜奈が泉に近づいた姿をしっかりと捉えていた。そして泉はひどくうろたえた様子で、最上階のお控室の方へと消えていったのだ……さらに涼の心を深く切り刻んだのは、消去されていた音声ファイルの復元データだった。そこには、他ならぬ怜奈自身が勝ち誇った口調で泉に語りかける「真相」が入っていた。泉はただ誤解をしていたのではない。すべての醜態を、あの目に、あの耳に、直接突きつけられていたのだ。最初から怜奈は仕組んでいたのだ。意図的に挑発し、嘘を並べ立て、泉を追いつめて追い出した。強い怒りと後悔が火山のマグマのように押し寄せ、一瞬にして涼の思考を呑み込んだ。血走った目をし、額の青筋を浮き立たせたまま、涼は車のキーを取って狂ったように自宅へと戻った。その頃、怜奈はネグリジェを身にまとい、ソファに寝そべって顔にシートマスクをのせていた。涼が帰宅したことに気付くと、いつものように甘えて迎えようとする。だが、そこに突き出されたのはタブレットだった。画面には、たった今復元されたあの悪意に満ちた音声データの再生画面が表示されている。「怜奈!」涼の声はしわがれ、全てを破壊し尽くさんばかりの殺気を帯びていた。「君か!最初から泉を追い詰めていたのは君だったんだな!」タブレットをぶつけられ、顔からパックが剥がれ落ちた怜奈は、怯えきった表情を見せた。突きつけられた現実からもう言い訳できないと知った怜奈は、今までの猫かぶりを捨てて自暴自棄に笑ってみせた。その顔には狂気のゆがみが広がっていく。「そうよ!私が全部やったの!だから何よ!?」怜奈は逆上し、涼に向けて金切り声を放った。「涼、自分
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第15話

怜奈を邸宅から叩き出したことで、涼の世界は完全に崩壊した。突きつけられた衝撃の真実。溢れ出す深い後悔。そして泉を失ったというパニックに、彼は完全に潰されてしまった。彼は会社に行くのもやめ、泉との思い出が詰まった家に閉じこもった。そして、自分をいじめるように酒に溺れていった。強い酒を何度も流し込み、感覚を麻痺させようとしても、かすむ視線の先にはいつも泉の姿が揺れていた。涼は誰もいない空間に向かって、しゃがれた声で謝り、悔やみ続けた。「泉……泉……ごめん……本当に間違っていたんだ……頼むから戻ってきて。殴ってもいいし、どれだけ責めてもいい。お願いだから……他の誰かを愛したことなんて一度もないんだ……俺は本当にバカな男だった。欲に目が眩んでいたのだ……」涼は泉が残した手紙を取り出しては、何度も繰り返し読んだ。綺麗な手書きの文字を指先でなぞるたび、また涙が視界を遮った。以前こっそりと録音していた、泉の静かな寝息や鼻歌のデータを何度も再生した。そうしていると、まるで今でも隣に寄り添っているかのような気がしたのだ。やがて涼は、重い幻覚にまで悩まされるようになった。キッチンの奥で忙しそうにするエプロン姿の泉や、ソファに寄りかかって読書に耽る泉。嬉しさのあまり手を伸ばしてもしがみつけるのは冷え切った空気だけで、そこには何もなかった。あの桐谷グループの頂点に立つ冷徹な社長のプライドと理性は、どこにも消え失せていた。髭は荒れるに任せて伸び、身なりは薄汚く、目は窪んで酒の匂いを漂わせる。その有様は、執着のあまり心を病んで放浪する男のようだった。絶望と強すぎる未練の果てに、涼は、東都の全ての人を愕然とさせるような、異常とも取れる行動をとった。彼は膨大な金を使って、東都のすべての主力新聞の朝刊一面を1週間ぶち抜きで買い占めた。さらに有名ポータルサイトの広告枠を買い、人探しの広告を出したのだ。朝刊には、込み入った説明書きなどはなく、太くて強調された活字だけが目立つように浮かび上がっていた。【泉。俺が悪かった。戻ってきてほしい。せめてどこにいるかだけでも教えてくれ】その言葉のすぐ下に、2枚の写真が飾られていた。1枚は結婚当日の写真。晴れやかな笑顔で、自信に満ちた涼に寄り添う泉の姿。もう1枚は、あの結婚記念日のお祝いのパー
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第16話

絶望的な捜索と待ちぼうけの中、時は静かに過ぎ去っていった。そうして、1年が過ぎた。涼の荒ぶる感情は鳴りを潜め、代わりに骨の髄まで浸透したような暗い陰鬱さと、病的な執着だけが残った。酒に溺れるのをやめ、仕事には戻ったが、以前よりさらに冷淡で無口になった。その目の奥には、いつも凍てつくような冷たさが宿っていた。家は当時の状態のままに保たれていた。泉のウォークインクローゼットは大半が空っぽだったが、涼は定期的に自ら掃除をし、泉が残していったわずかな持ち物を埃ひとつないように拭き上げていた。まるで、泉が少し遠出しているだけで、すぐに戻ってくるかのように。そんなある日、部下からある情報がもたらされた。南西の僻地の、治安の悪いとある街で、身長や立ち居振る舞いが泉に生き写しの女を見たというのだ。その知らせは雷のように、涼の死んだはずの心に一筋の光を灯した。彼はためらうことなく、全ての重要な商談を放り出してプライベートジェットに乗り込み、その街へと向かった。部下がもたらした僅かな手がかりを頼りに、その女性が最後に現れたという、治安の悪い街にたどり着いた。しかし、タイミング悪く大雨が降り始める。涼は周りの目も気にせず雨の中に立ち尽くした。ずぶ濡れになりながら、行き交う人々を必死で見つめ、小さな手がかりさえ見逃すまいとした。彼は大雨に打たれながら、2日2晩ずっとそこに立ち続けた。寝食を忘れ、休むこともなく、まるで絶望の淵に佇む彫像のようだった。部下たちの言葉も耳に入らなかった。心の中に燃え盛る希望の灯火だけが、限界寸前の涼の身体を支えていた。そして3日目の夕方、雨が小降りになった頃。路地裏の角に、あの忘れもしない、愛しくて堪らない背姿が現れた。心臓が今にも破裂しそうなくらいに高鳴る。涼はよろけながら駆け寄り、声を激しく震わせた。「泉!泉なのか!?」女は驚き、ゆっくりと振り返った。まるで時間がその瞬間に凍りついたようだった。だが、その女性は泉ではなかった。そこにあったのは、見ず知らずの女の顔。その瞳には困惑と警戒の色があった。「頭がおかしいんじゃないの?」と、女性は一言吐き捨てて足早に去っていった。一瞬にして希望は打ち砕かれた。計り知れない喪失感と絶望の渦が、津波のように涼を飲み込んでいく。足からガクガク
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第17話

あれから3年の月日が流れた。涼の会社はさらに拡大し、グレーな領域にも手が伸びるようになっていた。そのせいで裏の組織との関係も徐々に深まってしまう。ある夜、涼は南洋諸国で絶大な力を持つ組織に招待され、豪華客船へと向かった。そこで行われる秘匿性の高い豪華なオークションに参加するためだ。ここで扱われる商品は、表沙汰にできない珍しい骨董品や、闇取引される密売品。最悪なことに……人間までが出品されていた。会場内にはあやしい照明が灯り、誰もが気取って酒を飲んでいる。金と欲望が支配する独特な雰囲気だ。涼は特別席に座り、気乗りしない様子でグラスを揺らしながら、退屈な時間にうんざりしていた。その時、ステージに上がった男が大声でこう告げた。「皆様、今夜は格別な出し物がございます!神崎様のご好意により、神崎様の大事な恋人である白川様の手で、ブルーダイヤモンドの『ハート・オブ・オーシャン』を初お披露目していただきます!」会場の照明が一斉にエントランスへ向けられた。先に姿を現したのは、南洋を拠点とする危険な男――神崎毅(かんざき つよし)だった。彼の表情は、獲物を狙う鷹のように冷酷だった。そして彼の腕を組み、優雅に現れた女性を見た瞬間。涼の指先が震え、手にしていたワイングラスがパシッという乾いた音を立てて砕け散った。目の前の女……タイトな黒のドレスが、その艶めかしい曲線をなぞっている。誰もが息を呑むような美貌だが、瞳は冷酷な氷のベールに覆われていた。その面影は、探し続けて3年の時が経とうとも、脳裏から焼き付いて離れなかった――泉だ。だが、彼女の瞳は酷く冷え切っていて、まるで見知らぬ物を蔑むような光しか宿っていない。彼女は当然といった風に、毅に体を寄せていた。沸き上がる狂喜と絶望、胸を抉られるような激痛。それらが混ざり合い、涼から正常な判断力を奪った。激しい勢いであがって人々を押しのけ、会場の中心にいる泉の手首を乱暴に掴んだ。指から伝わる体温は氷のように冷たかった。「泉……泉なのか?俺だよ、涼だ!」涼の目は赤くにじみ、まるで幻覚ではないかと確かめるように、彼女の顔を必死に見つめた。いきなり力強く手をとられた白川歌乃(しらかわ うたの)は、思わず痛みから眉間にしわを寄せ、警戒する目で怪訝そうに目の前の不審人物を見
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第18話

涼はホテルに戻ると、ソファに力なく崩れ落ちた。空気中には、まだ歌乃の冷たい香りが漂っているようだった。そこに毅特有の、火薬と麻薬が混ざったような危険な匂いが加わり、針のように涼のこめかみを突き刺した。「歌乃……」涼はその名前を何度も口の中で呟いた。だが、そこから感じられるのは苦い余韻だけだった。あの顔、あの瞳、そして眉の形。すべてが泉の面影と重なる。骨の髄まで記憶したあの顔を、彼が見間違えるはずがなかった。それなのに、彼女の冷え切った眼差し、よそよそしい話し方。それに、毅に対して見せる、あまりに自然な親しげな態度。涼はまるで氷水を浴びせられたようで、再会の喜びは一瞬にして凍りついてしまった。いや、諦めるわけにはいかない。何か間違いがあるはずだ。泉に何か差し迫った事情があるのか、あるいは毅が彼女に何かしたのだろうか?そう考えると背筋が凍りつき、涼の瞳には冷酷な光が宿った。すぐに暗号化した連絡端末を取り出し、一番の側近に電話をかけた。「すべての力を動員して、白川歌乃という人の過去を洗うんだ!いつ神崎の前に現れ、以前はどこにいたのか、細かいことも全て報告しろ!」それからの数日間は、涼にとってこれまで経験したことのないほどつらい時間となった。今すぐ毅のもとに押しかけ、泉を取り戻したい気持ちを必死に抑え込んだ。暗闇で獲物を狙う獣のように、冷静にその機会をうかがった。だが、やがて届いた調査結果に、涼は愕然とすることになる。それによると、歌乃はおよそ1年半前、南洋諸国での激しい裏世界の戦いの最中、毅によって救出されたという。当時、歌乃は瀕死の重傷を負って意識を失っていた。目覚めた時には記憶を完全に失っており、自分の名前すら思い出せなかった。毅はその美しさと独特の気品を気に入り、歌乃と名付けて傍に置いた。溺愛のあまり、いつも一緒にいたという。時系列も出来事も、資料は完璧なほど噛み合っている。そこから浮かび上がる、冷酷な結論――歌乃は、泉とは何の関係もない別の人物なのかもしれない。だが、この世にこれほど似ている者がいるだろうか?目元の雰囲気さえも同じ人間が、この世にいるなんて……涼は資料を握りしめ、あまりの力の入れように指先が白くなった。そんなはずはない。絶対に信じられない。そんな中、ついに好機が
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第19話

歌乃はただ静かに聞いているだけだった。顔色ひとつ変えず、目元さえ揺らがなかった。涼がようやく話をやめ、荒い息を吐きながら見つめてくると、歌乃は小さくため息をついた。「桐谷さん」歌乃の声は相変わらず、谷間の川のように冷たく響いた。「そのお話はとても感動的です。でも、ごめんなさい。私はあなたの探している人ではありません」歌乃は一度言葉を切り、きっぱりとした態度で突き放すように言った。「私は白川歌乃です。毅は私の恋人です。余計な誤解を招くといけませんから、二度とそんなおかしな話はしないでください」そう言い終えると、歌乃はもう涼を見ようともしなかった。体を少しよけて、彼のすぐ横をまっすぐ通り過ぎていった。歌乃のスカートの裾が、涼のズボンに触れた。異国の香料が混じったような、冷ややかな香りを残していく。涼は、その場に立ちすくんだ。伸ばしかけた手は宙に浮いたままで、指先は氷のように冷たくなっていた。冷たく去っていく後ろ姿が、廊下の角へと消えていく。それを見送る涼の胸の中で、自分を支えていた最後の支柱がガラガラと音を立てて崩れ去った。信じていたものが完全に砕け、粉々になったのだ。その時、黒いスーツを着た無表情な男がいつの間にか現れた。男は高級そうな木の箱をそっと差し出してきた。「桐谷さん、これは神崎様からの贈り物です」涼がうつろな様子で箱を開けると、ツンとするような生臭い血の匂いが漂ってきた。そこには、安っぽい指輪を嵌めたままの、血まみれの指が入っていた。涼はその指輪に見覚えがあった。少し前に、調子に乗って歌乃を口説こうとした、柄の悪い男のものだった。箱の中には紙切れも一枚入っていた。そこには毅の荒々しい筆跡で、こう書かれていた。【桐谷さん、余計なものを見ず、余計なことも喋るな。歌乃は俺のものだ。手を出せば、どうなるか分かっているな】むき出しの殺意が文字からにじみ出ていて、身の毛がよだつほどだった。涼は箱を閉じた。恐怖からではなく、身を切られるような深い絶望のせいで、指はかすかに震えていた。毅は、もっとも残忍なやり方で「歌乃に近づくな」と警告してきたのだ。それなのに、抑え込もうとすればするほど、涼の狂おしいほどの執着はますます膨れ上がっていった。その後の数日間、涼は何かに憑りつかれたようになっていた。隙さ
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第20話

涼がとうに忘れていたあの女――怜奈は、新しい恋人の破産と多額の借金を抱え、最終的にはアングラな遊び場のオモチャに成り下がっていた。生きながら地獄を味わうような、見るも無残な姿で。怜奈はどこからか、涼が泉にそっくりな女性を必死に探しているという噂を聞きつけたらしい。そして、美容整形をして泉の顔になりすまし、再び涼にすり寄ろうなどという、とんでもない計画を企てたのだ。さらに信じられないことに、怜奈はどんな手を使ったのか、毅が主催する、厳重に警戒されたプライベートパーティーに紛れ込んでいた。パーティーの夜、華やかに着飾った人々が行き交い、会場には少し、甘い空気が流れた。歌乃が毅の腕に手を添えて皆の前に現れた時、物陰に隠れていたボロボロ姿の怜奈が、まるで幽霊でも見たかのように、耳をつんざく悲鳴を上げて飛び出してきたのだ。「あんた、泉でしょ!生きていたの!?嘘!」怜奈は狂ったように歌乃を指さした。激しい憎しみで、声は歪んでいる。「このアバズレ!私をだましておいて!」言いかけると、今度はすぐそばにいた涼に向き直った。その顔はねっとりとした異常な愛着と媚びが入り交じり、見るに堪えなかった。「涼!私を見て!あなたを一番愛しているのは私よ!あなたのためなら何だってするわ。すぐあの女そっくりになれるから!私を見て!」この乱入により、華やかだった会場は一瞬で静まり返った。視線が一斉に怜奈に注がれる。毅の顔色が明らかに険しくなり、殺気が迸る。彼が自ら口を開くまでもなかった。ほんの少し視線を動かすだけで、影のように控えていた二人のボディーガード一がすぐさま怜奈に掴みかかり、無情にもその口を塞いだ。そして彼女を引きずり出すように、一瞬で連れ去ってしまった。怜奈は必死に抵抗しようと絶望的なうめき声を漏らしたが、側扉の闇の向こうへと消えていった。その末路がどうなるかは、言うまでもなかった。涼は終始冷ややかにそれを見届けていたが、その心に波風が立つことは全くなかった。怜奈に対しては、ただただ嫌悪と無関心しか抱いていない。この女との関わりは、最初から最後まで、すべてが間違いであり茶番にすぎなかったのだ。彼女の結末は、自業自得だ。しかし、怜奈が狂ったように叫んだ「泉」という名前は、涼の胸を激しく撃ち抜いた。泉のことを憎んで憎んで仕方のな
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