《嫁入り舟を譲ったあなたへ、さようなら》全部章節:第 1 章 - 第 10 章

10 章節

第1話

私・春木宵(はるき よい)の生まれ育った水郷の町には、古くから伝わる風習がある。愛する女性を妻に迎える際、男は自らの手で木舟を造り、「嫁入り舟」として贈るというものだ。交際7周年の記念日。恋人の周防迅(すおう じん)は、完成したばかりの真新しい舟の進水式を開いてくれた。集まった友人たちの歓声に包まれながら、胸の奥が早鐘のように鳴りやまない。たまらずその舟に足を踏み入れようとした瞬間、迅の友人たちが声を潜めて話すのが耳に入った。「おい、マジでこの舟、ゆのちゃんにあげる気かよ。宵さんにバレたら修羅場になるぞ」「そうそう、宵さんって結構キツいとこあるし。あんま調子乗ってるとヤバいって」次の瞬間、聞こえてきたのは、微塵も悪びれる様子のない迅の呆れたような声だった。「平気だって。宵は適当に機嫌取っとけばチョロいから。俺のことに首ったけだしな。それに、あいつの地元じゃ28歳なんてとっくに行き遅れだ。今さら俺に愛想尽かせるわけないだろ。大体さ、籍を入れるのは宵で、嫁入り舟をあげるのはゆの。ちゃんと平等だし……これで俺の未練も晴らせるってわけ」私と結婚することは、迅にとって「未練」が残るようなことだったの?チョロい。行き遅れ。その言葉の数々が、鋭い棘のように耳の奥を突き刺す。喉が締め付けられるように苦しかったけれど、涙は出なかった。ただ静かにスマートフォンを取り出し、画面をタップした。【お母さん。お母さんの言う通りにするね。私、もう28だもん。これ以上は待たないよ】バラの花で美しく飾り立てられた真新しい舟が水面へ滑り出すと、周囲からは冷やかしの歓声が上がった。「宵さん、早く乗って!」「宵、付き合って七年だもんね。ついにゴールインじゃん!」親友の五十鈴凪(いすず なぎ)が興奮したような声を上げる。心から私の幸せを喜んでくれているのが伝わってきた。皆の視線を集めながら、迅は舟を降りてこちらへ歩いてくる。ところが、私の横で一瞬だけ足を止めたかと思うと、そのまま通り過ぎてしまったのだ。そして、真行寺ゆの(しんぎょうじ ゆの)の目の前で立ち止まると、甘やかすような軽い口調で言った。「誕生日プレゼント。気に入った?」その途端、場の空気が凍りついたように静まり返る。ゆのは両手で口元を覆い、その
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第2話

隣で目を赤くして激怒している凪の腕を、私はそっと引いた。進水式が終わり、舟の上では酒宴が始まろうとしている。通りすがりの人たちが、面白そうに足を止めていた。「また一組夫婦が誕生するんだな。立派な嫁入り舟だ!」「おめでとうー!」誰かが大声で祝福の言葉を投げる。ゆのは舟の舳先に立ち、迅の腕に抱きついて甘えるように揺さぶった。「迅くん、私、もう一つ誕生日のお願いがあるの」よく通るその声に、周りにいた全員が一斉に振り返る。「私と……7日間だけ恋人になってほしいな!」その瞬間、場がドッと沸き立った。「ヒュー!」「受けちゃえよ!」囃し立てる声の中、迅は困ったように笑い、一切の躊躇を見せずにゆのの頭をポンポンと撫でた。「しょうがないな。約束通り、7日だけだぞ」最初から最後まで、迅が私に視線を向けることは一度たりともなかった。ゆのは誰にも気づかれないようにチラリとこちらへ視線を投げ、口元の笑みをさらに深めた。事情を知る友人たちが、時折こちらへ探るような目を向けてくる。同情、面白がる目、そして哀れみ。どうやら「元カノ」の私は、これ以上ここに居座らない方がよさそうだ。踵を返そうとした瞬間、迅に呼び止められた。「宵、もう帰るのか?」「うん。元カノがここにいたら、邪魔でしょ」迅は不快そうに眉をひそめた。「馬鹿言うな。ちょっとあいつのワガママを聞いてやっただけだろ。悪いけど、先タクシーで帰っててくれ。後でゆのを家まで送らなきゃならないからさ。夜、お前の好きなカニのおこわ買って帰るから。な?」言うが早いか、迅は私のバッグから勝手に家の鍵を抜き取り、再びあの宴の輪の中へと戻っていった。遠ざかる彼の背中を見つめていると、どうしようもなく目頭が熱くなった。家に帰ると、ゆのから動画が送られてきた。再生すると、そこにはお酒で顔を赤らめたゆのが映っていた。周りから囃し立てられ、ドンと背中を押されたゆのが、迅の胸の中へとよろけ込む。誰かが茶化すように叫んだ。「もうさ、いっそのこと結婚式もゆのちゃんと挙げちゃえばよくない?」「そうそう!宵さんなんて、お嬢様のゆのに敵うわけないって!」ゆのは嬉しそうに笑いながら、「もう、酔っ払いすぎ!」とたしなめている。だが迅は、口元に
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第3話

彼が持っていたコップが、ピクッと揺れた。そして、馬鹿にしたように鼻で笑う。「今度はそういう作戦?わざと黙っててやったのに、まだ続ける気かよ」私は呆気にとられ、一瞬彼が何を言っているのか理解できなかった。迅は冷ややかな笑みを浮かべたまま続ける。「今日、凪に言わせたんだろ?俺にプロポーズを急かすためにさ。なんだ?プロポーズ作戦が失敗したから、今度は別れるとか言って気を引こうってわけ?」ここでようやく合点がいった。迅は、今日進水式で凪が怒鳴ったあの言葉を、私が言わせたのだと思い込んでいたのだ。あまりの馬鹿馬鹿しさに言葉も出なかったが、わざわざ弁解する気にもなれなかった。私は静かに頷いた。「そうね。プロポーズ作戦が失敗したから、もう別の人と結婚しようと思って」私がそう返すと、迅の顔に浮かんだ嘲りの色はさらに濃くなった。「宵、お前が俺と別れられるわけないだろ?いい加減にしとけよ。あんまり拗らせんなって。お前ももう28だ。俺以外に、そんな行き遅れの女を貰ってくれる奴がどこにいるんだよ。ほら、さっさと寝ろ。明日はイトばあちゃんの誕生日で、実家に顔出さなきゃならないんだからな」そう言い捨てて、迅は一人で寝室へと消えていった。残された私は、彼の背中を見つめながら、ただ泥のように重い疲労感だけを感じていた。翌日、私はそれでも迅の祖母・イトおばあちゃんの誕生日会へと足を運んだ。以前、イトおばあちゃんから翡翠の指輪をいただいていた。それだけは、どうしても返しておかなければならなかったからだ。周防家の玄関に着くと、迅の母・芙美代(ふみよ)さんの姿があった。その腕にゆのがしっかりと抱きつき、目を細めて笑っている。その様子は、まるでこの家のお嫁さんのようだった。一緒に到着した私たちにいち早く気づいたゆのが、パッと満面の笑みを浮かべて自分から歩み寄ってきた。「あ、宵さん!迅くんが、宵さん怒ってるって言うから、今日はてっきり来ないかと思っちゃった!」そう言いながら、ゆのは自分の手首で揺れる翡翠の腕輪をわざとらしく見せびらかした。それは、周防家が代々、嫁に贈るものだ。祖母からは指輪を、母親からは腕輪を。実は、迅はだいぶ前に芙美代さんからその腕輪を預かっており、「いつか俺の手で宵に着けてやるからな」と約束して
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第4話

添付された写真に写っていたのは、昨日見たものよりずっと大きくて、美しい舟だった。何より私の目を釘付けにしたのは、舟全体が私の大好きな白木蓮で埋め尽くされていることだ。バラの花なんて、一本たりとも飾られていない。マンションに帰ると、私はすぐに荷造りを始めた。当面の着替えと、身分証明書などの貴重品を、一つ一つ手際よくカバンに詰めていく。ふと、二人で撮りためた写真の束に手が止まった。どの写真の裏にも、彼の手書きのメッセージが残されている。私はそれを一枚一枚めくっていった。初めての旅行で行った海辺の写真の裏には、「一生、宵にひっついて生きていく」と書かれている。一緒に日の出を見た時の写真には、「日の出なんかより、宵の方がずっと綺麗だ」と……私はそれらをきれいに束ねると、一瞬だけためらい、そのままゴミ箱へ放り込んだ。しばらくすると、窓の外から車のエンジン音が微かに聞こえてきた。突然雨が降り出したせいで、迅は予想よりずっと早く帰宅したらしい。玄関のドアが開くと同時に、ゆののキツい香水の匂いがふわりと流れ込んできた。私は手を止めることなく、最後の一着を丁寧に畳んだ。靴を脱いだ迅は寝室の入り口まで来ると、ドア枠に寄りかかった。脱いだスーツのジャケットを腕に無造作に引っかけ、その顔にはあからさまな苛立ちが浮かんでいる。「まだ意地張ってんのかよ?」口調こそ荒げてはいないが、その響きには上から目線の呆れが滲み出ていた。私はチラリと彼に視線をやっただけで、すぐにスーツケースの蓋を閉じ、ファスナーに手をかけた。その徹底した無視が、迅の最後の堪忍袋の緒を引きちぎったらしい。彼は大股で近づいてくると、私の手からスーツケースを乱暴に奪い取った。バンッという鋭い音を立てて、ケースが床に叩きつけられる。「いい加減にしろよ!」迅は眉間に深いシワを刻み、苛立たしげに声を荒げた。「こっちは最近、会社の仕事が山積みでただでさえクソ忙しいんだよ。進水式からばあちゃんの誕生日まで、お前がずっと仏頂面してるせいで、俺が周りから笑い者になっただろ!」忙しい?ゆのの機嫌を取る時間はたっぷりあるくせに。それに、周りが笑っていたのはあなたじゃない。笑い者にされていたのは、この私だ。「別に、仏頂面なんてしてないけど」
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第5話

その招待状は、まるで彼宛てに特注されたかのような文面だった。【久世琉生(くぜ るい)より、周防迅様のご列席を心よりお待ちしております】それ以外、何も書かれていない。迅は琉生の顔を思い出していた。大学時代の先輩であり、当時は宵を口説いていた男だ。もっとも、その時すでに宵は迅と付き合っていたため、何事もなかったのだが。「あいつ、そんなに俺と仲良かったか?」迅は腑に落ちないものを感じつつも、大して興味も湧かなかった。【出張で無理】母親にそう返信し、そのままゆのの部屋へと急いだ。玄関のドアを開けた瞬間、ゆのが勢いよく彼の胸の中に飛び込んできた。「迅くん!やっと来てくれた!私、怖くて……」胸に押し当てられた柔らかい感触に、迅の体は一瞬硬直した。それでも僅かに残っていた理性が働き、腕の中のゆのをそっと引き剥がそうとする。「ゆの、ちょっと離れろって」視線を落とすと、ゆのは薄手のピンクのキャミソール姿だった。濡れた長い髪が首筋に張り付き、目元を赤く腫らしたその姿は、どこまでもか弱く、男の庇護欲を激しくそそる。迅が距離を置こうとしたことなど気づかないふりをして、ゆのは再びその胸にすり寄ってきた。生温かい吐息が迅の首筋をくすぐる。「迅くん……私、本当に雷がダメなの。昔からずっと……」迅の喉仏がゴクリと上下した。ふと、宵の顔が脳裏をよぎる。宵は、こんな風に弱々しい姿を見せることなど絶対にない。気が強くて、怒りっぽくて、黙って泣き寝入りするような女じゃない。昔から迅はよく宵をからかっていた。『宵』というしっとりした名前のくせに、水郷の女らしいおしとやかさなんて欠片もないな、と。だが、ゆのは違う。身寄りがなく、どこからどう見ても自分が守ってやらなきゃいけない存在だ。腕の中で震えるゆのを見下ろし、迅は小さくため息をついた。そして、今度はもう突き放すことはしなかった。ゆのが上目遣いで呟く。「迅くん、宵さんまだ怒ってる?私が謝りに行った方がいいのかな……」「いいよ。あいつの気が短いだけだ。大げさに騒ぎすぎなんだよ。出張から帰ったら、あいつと籍を入れるって約束したしな」その言葉に、ゆのの体がピクッと強張った。次に口を開いた時、その声は微かに震えていた。「迅くん、今は私の彼氏だよね……?
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第6話

それからの一週間、迅はゆのに付きっきりだった。彼女の望むことは何でも叶えてやった。その間、迅は何度か宵にメッセージを送ったが、返信は一度もなかった。六日目の夜。迅はゆのに連れられ、彼女の友人たちの集まりに参加していた。しかし、彼の心はここにあらずで、ずっと上の空だった。宵から、もう何日も返信がない。それどころか、「いつ帰ってくるの?」といういつもの催促すらないのだ。いくらなんでもおかしい。まさか、まだ怒っているのか?出張から帰ったら籍を入れると約束してやったというのに、これ以上何を怒ることがあるというのか。得体の知れない苛立ちを覚え、迅はグラスの酒を一気に飲み干した。ゆのの友人たちが、面白半分に囃し立てる。「七日間限定の彼氏とか、最高にエモいんだけど!もうさ、限定じゃなくてマジで付き合っちゃえばいいのに!」「そうそう!こんなのもう事実上のカップルじゃん。絶対二人のほうがお似合いだって!」ゆのは顔を真っ赤にして迅の肩に頭を乗せ、甘えた声で答えた。「もう、みんな変なこと言わないでよ」その態度が、周りの冷やかしをさらに過熱させる。だが迅は、小さく指先を動かし、自分の腕に絡みついていたゆのの手をそっとほどいた。「ゆのの誕生日の願いを聞いてやってるだけだ。俺には、婚約者がいるから」その一言で、場の熱気は一瞬にして凍りついた。ゆのの顔から血の気が引き、その笑顔はひきつっていた。「そ、そうだよ。迅くんは私のワガママに付き合ってくれてるだけだから」誰かが呆れたように目を剥き、ボソッと呟くのが迅の耳にも届いた。「何カッコつけてんの。私が婚約者だったら、とっくにこんな男捨ててるわ」気まずい沈黙が流れる中、不意に横から声をかけられた。以前取引のあった仕事相手だった。男は笑顔で足早に近づいてくる。「いやあ、おめでとうございます、周防さん!宵さんのSNS見ましたよ。明日はいよいよ、お二人の晴れの日ですね!」その言葉を聞いた瞬間、迅は一瞬キョトンとした後、この数日間張り詰めていた神経がすっと解けるのを感じた。なるほどな。宵がここ数日不自然なほど大人しかったのは、やっぱりただの意地張りだったってわけか。SNSで明日の入籍を匂わせるなんて。俺から折れて、「出張から帰ったら籍を入れ
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第7話

綿帽子が完全に吹き飛びそうになった直前、隣にいた介添え人が慌ててそれを押さえた。その動作の拍子に介添え人の顔がこちらを向く。それは、紛れもなく凪だった。宵の親友である、あの五十鈴凪だ。迅の心臓が喉から飛び出しそうになる。彼の視線は、花嫁の姿から一秒たりとも離れられなくなった。見れば見るほど、見覚えのあるシルエットだ。胸の奥から、激しい不条理感が込み上げてくる。なぜ、俺は一瞬でも「あの花嫁が宵だ」なんて思ってしまったんだ?馬鹿げてる!そんなわけがない!だが、胸のざわめきはどうしても抑えきれなかった。隣でゆのが、能天気な声で彼の腕を引いた。「迅くん、見て!あの先頭の舟、白木蓮の花でいっぱい!すごく綺麗!」その言葉が、耳元で落雷のように弾けた。かつて宵が目を輝かせて語っていた言葉が、脳裏に蘇る。「迅。結婚式の日は、私の嫁入り舟を白木蓮の花で埋め尽くしてね!絶対、世界で一番素敵な舟になるから!」心臓がドクンと嫌な音を立てて沈み込んだ。あり得ない!絶対にあり得ない!あの花嫁が宵だなんて、そんなことあるはずがない!迅は必死に胸のざわめきを押し殺し、自分にそう言い聞かせようとした。しかし、彼がこれまで見て見ぬふりをしてきた無数の「異変」が、堰を切ったように頭の中で爆発した。一つ、また一つと。進水式の日、泣きも喚きもせず、ただ静かに俺を見つめていたあの眼差し。「元カノがここにいたら、邪魔でしょ」と言い残して去ったあの背中。「プロポーズ作戦が失敗したから、もう別の人と結婚しようと思って」と頷いた時の顔。そして、あの翡翠の指輪を返す時の、清々しいほどの表情……あの時、俺はただ気を引くための作戦だと思い込み、鼻で笑って流した。だが、もしあれが、作戦なんかじゃなかったとしたら?それ以上考えるのは、恐ろしかった。迅は震える手でスマートフォンを取り出し、何度も失敗しながらどうにかロックを解除した。指を震わせながら宵に電話をかける。しかし、返ってきたのは「電源が入っていない」という冷たいアナウンスだけだった。急激に呼吸が荒くなる。うららかな春の日だというのに、手足の先から急速に血の気が引いていくのを感じた。言うことを聞かない指で、トーク画面を開く。一番下のメッセージは、
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第8話

背後からゆのが慌てて彼を引き留めようとする。「迅くん、落ち着いて!」だが迅は、その手を乱暴に振り払った。再び大声で叫ぼうとしたその時、背後から冷たく厳しい声が飛んだ。「迅さん」振り返ると、そこには宵の母親・琴江(ことえ)の姿があった。「うちの娘の邪魔をしに来たの?」迅は藁にもすがる思いで、彼女の元へ駆け寄った。「琴江さん、これ、どういうことですか!?なんで宵があそこにいるんですか!なんで花嫁になってるんですか!俺たち、もうすぐ籍を入れるはずだったのに!」その言葉を聞いて、琴江は呆れたように鼻で笑い、傍らに立つゆのをゴミでも見るような目で見下ろした。「迅さん、冗談は休み休み言ってちょうだい。あなたの彼女は、そちらの方でしょう?うちの宵と籍を入れるだなんて、寝言は寝てから言いなさいな」迅の顔からスッと血の気が引いた。彼の声は少しトーンダウンし、自分でも気づかないうちに後ろめたさが滲み出ていた。「違います、琴江さん。俺はゆののことを妹みたいに思ってるだけで……俺と宵には、七年間の絆があるんです!明日、出張から帰ったら籍を入れるって、ちゃんと約束もしてたんです!」琴江は鼻でフンと笑った。「へえ、自分のせいで娘の貴重な七年間を無駄にさせたって自覚はあったのね?じゃあ聞くけど、うちの娘を嫁にもらうための『嫁入り舟』はどこにあるの?私の聞いた話じゃ、あなたの造った最初の舟は、その大事な『妹さん』にあげたそうじゃない」迅の額にじわりと冷や汗が浮かぶ。彼は必死で弁解しようとした。「違うんです!あれはただ、ゆのの誕生日の願いを叶えてやっただけで……宵のための舟はもう新しく造り始めてるんです。俺は、宵と結婚するつもりで……」琴江の顔から笑みが消えた。その一言が、彼女の逆鱗に触れたのは明白だった。「いい加減にしなさい、迅さん!この水郷で、まともな男は二艘目の嫁入り舟なんて造らないわ!教えてちょうだい。この七年間、あの子があなたにどれだけサインを送ってきたか!それで、あの子はあなたから何をもらったの!?」迅はたじろぎ、よろめくように一歩後退した。「俺は……」琴江は冷笑とともに、彼の言葉を遮った。「私が教えてあげるわ!半年前、あなたのお母さんが入院した時、宵は
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第9話

やがて熱狂は過ぎ去り、群衆も散って、新郎新婦を乗せた舟は次の儀式の場へと向かっていった。岸辺の地面に力なくへたり込む迅を見下ろし、ゆのがぽつりと口を開いた。「迅くん。私ね、今日が宵さんの結婚式だって、最初から知ってたよ」迅は弾かれたように顔を上げ、信じられないものを見る目でゆのを睨みつけた。「じゃあ……だから、この一週間ずっと俺を引き止めてたのか……?」ゆのは悪びれる様子もなくコクリと頷いた。「そうだよ。だって、宵さんがもうあなたのことなんて少しも愛してないって、あなたに気づいてほしかったから!私の方が、ずっとずっとあなたのことを想ってた!宵さんなんかより、私の方があなたにふさわしいわ!迅くんだって、本当は私のこと愛してるんでしょ?」迅は強く目を閉じた。見えない手に心臓を力任せに握り潰されたかのように、胸の奥が激しく軋んだ。宵は永遠に自分を待ってくれると思い上がっていた。適当に甘い言葉を吐けば、簡単に機嫌を取れるとタカを括っていた。ただの紙切れ一枚――婚姻届を提出してやりさえすれば、自分のしてきた数々の裏切りや、ゆのへの身勝手な特別扱いをすべて帳消しにできると、本気で勘違いしていたのだ。馬鹿だ。俺は、取り返しのつかない大馬鹿野郎だ。再び目を開けた時、迅の瞳には冷ややかな拒絶の色が宿っていた。「ゆの。約束の『七日間』はこれで終わりだ。俺がお前と付き合うことはない。俺は、お前のことをただの妹としか思ってない」その言葉を聞いた瞬間、ゆのは吹き出すように甲高い笑い声を上げた。「あははっ……迅くんってば、何言ってるの?自分の『妹』をベッドで抱くお兄ちゃんが、一体どこの世界にいるの?」迅は目を伏せ、かすれた声で絞り出した。「俺が最低だった。……慰謝料でもなんでも、望むものは全部やる。でも、俺が欲しいのは、宵だけだ」背後から泣き叫ぶゆのの声など気にも留めず、彼はその場を立ち去った。それから半月、彼は寝食を忘れて新たな嫁入り舟を造り上げた。そして、宵の行方を探し始めた。凪に連絡を取れば、「二度と顔を見せるな」と一蹴された。宵の実家を訪ねても、門前払いで玄関にすら入れてもらえなかった。打つ手がなくなった彼は、宵の実家の会社の前で、彼女が現れるのを隠れて待ち伏せするしかなかっ
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第10話

迅は全身から力が抜け落ちたように、スープの入った弁当箱を提げてビルへと吸い込まれていく彼女の後ろ姿を、ただ見送ることしかできなかった。ふと、昔の記憶が蘇ってきた。朝食を抜く癖があった彼は、よく胃痛を起こしていた。それを見かねた宵は、毎日違うレシピで胃に優しいスープを作ってくれた。仕事から帰ると、いつも食卓には温かいスープが用意されていた。「迅、早く飲んでみて!今日は新しい味付けにしたの。絶対、胃がポカポカになるから!」今も、あのスープは作られ続けている。だがそれはもう、彼のために用意されたものではない。迅は両手で顔を覆い、たまらずその場で泣き崩れた。次に宵の姿を見たのは、それから五年後のことだった。母親の芙美代に頼み込まれた従妹・美穂(みほ)に無理やり外へと連れ出され、やってきたショッピングモールでのことだ。ベンチの陰で、小さな双子の女の子が、一つのアイスクリームをこっそり分け合って食べているのに出くわした。「早く食べて!ママに見つかっちゃう!」「次、わたしの番!一口ちょうだい!」その無邪気な顔立ちが、あまりにも宵に似ていて、迅は思わず見入ってしまった。不意に、横から男の声が掛かった。「これは奇遇ですね。周防さん」顔を上げると、そこに立っていたのは琉生だった。その瞬間、足元がぐらりと揺れるようなめまいを覚えた。少し離れた場所から、宵が小走りでこちらへ向かってくるのが見えた。「ちょっと琉生!またこの子たちにアイス買い与えたでしょ!」見知らぬ男がいるのに気づいたのか、宵はすぐに居住まいを正した。「琉生、お知り合い?」迅の体がビクッと震え、背中が丸く縮こまった。琉生は穏やかな笑みを浮かべて答えた。「ああ。以前お取引のあった方だよ」一家四人は、そのまま連れ立って歩き出した。宵が、シュンと下を向く双子と琉生の三人に向かって、楽しそうにお説教をしている声が遠ざかっていく。迅の目から、とめどなく涙が溢れ落ちた。両手に抱えきれないほどのお菓子を持った美穂が戻ってきた。「ちょっとお兄ちゃん、今日はこれ全部食べ切るまで帰さないからね!この数年でどれだけ痩せたと思ってんのよ!」顔をぐしゃぐしゃにして泣いている迅を見て、美穂は驚いたように目を丸くした。「え、お兄ち
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