All Chapters of 月喰いと契りの巫女: Chapter 1 - Chapter 2

2 Chapters

第1話 満月の邂逅

 月が、満ちていた。 雲ひとつない夜空に、白く冷たい円が浮かんでいる。まるで世界を見下ろす巨大な目のように、柊にはそれが見えた。 山の端に位置する、荒れ果てた旧社の境内。朱塗りもとうに剥がれ落ちた鳥居をくぐり抜けながら、柊は息を整えた。「……来ている」 呟きが、白い霧になった。三月の終わりとはいえ、山の夜気は刃のように鋭い。 柊は懐から式紙を取り出し、指先に力を込める。小柊流退魔術の初伝。父にも母にも「お前は筋がない」と言われ続けた、それでも必死に習得した唯一の技だ。 任務の内容は単純だった。この廃社に棲み着いたあやかしを祓え。下級の気配、との報告だった。   ──だが。 参道の奥から溢れ出してくるのは、報告にあった小さな怨気とはまったく異なる、濃く重い瘴気だった。枯れ葉が腐臭とともに舞い上がり、境内の古木がみしりと軋む。月明かりの下、砂利が黒く滲んでいく。「嘘、でしょ……」 声が震えた。 木々の影から、それは現れた。 巨躯だった。人の形をしているが、身の丈は三メートルを超えようかという。烏の頭を持ち、全身が黒い羽根で覆われた、鴉天狗の上位種。怨霊を喰らい続けて肥大化したのか、その瘴気は異様に濃密だった。眼窩に灯る赤い光が、柊を捉える。 逃げなければ。 頭でわかっていても、足が動かなかった。退魔師としての本能が「格が違いすぎる」と告げていた。これは柊が単独で対処できる類のあやかしではない。 同時に、もうひとつの声が聞こえた。  ──逃げたら、また証明される。お前には力がない、と。 幼いころから言われ続けた言葉が、頭に蘇る。お前は退魔師失格だ、と。「……やるしか、ない」 式紙を構えた瞬間、鴉天狗が動いた。 風圧が来た。翼が広がり、黒い嵐が境内を薙ぐ。柊は身を伏せるが、衝撃で石畳に叩き付けられ、式紙が散った。「っ……!」 起き上がろうとする。膝が笑っていた。掌が血で滲んでいた。それでも構えようとした瞬間、鴉天狗の大きな手が柊の首根っこを掴み上げた。 宙に浮く。呼吸ができない。 足が空を蹴る。月が目に入った。丸く、白く、冷たい月。  ──ああ。今夜は満月なのか。 妙に穏やかな感想が脳裏を過ぎったとき、足元でなにかが動いた。     風切り音がした。 次の瞬間、柊を掴んでいた腕が消えた。 落ち
last updateLast Updated : 2026-07-16
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第2話 記憶のない男

 柊の家は、山の麓にある。 退魔師の家系らしく、敷地は広い。母屋の周囲には結界石が埋められ、軒下には魔除けの御札が連なっている。だが今夜、その玄関をくぐったのは、祓うべき対象と限りなく近い何かを連れた柊だった。「……入ってください」 引き戸を開けながら、自分の選択を反芻する。 正気か、と問われれば、わからない。記憶を持たない正体不明の男を、退魔師の家に連れ込む。冷静に言葉にすれば、それはひどく無謀なことだった。 でも命が繋がっているのだと、男は言った。 打算か、情か、自分でも判然としないまま、柊は男を上がり框へ促した。「お父さんもお母さんも、今夜は遠征で不在なので。見つかる心配はないです」 男は無言だった。 案内された縁側の間に腰を下ろし、ただそこにいた。手を膝の上に置き、背筋を伸ばし、まるで置物のように静止している。感情の読めない横顔が、行燈の灯りに照らされていた。 柊は救急箱を持ってきた。退魔師の家のそれは、一般の薬のほかに、霊力回復に効く薬草の煎じ薬も入っている。男の消耗は尋常ではなかった。あれだけの力を使えば当然かもしれないが、顔色はいまだ白く、指先もわずかに震えていた。「手を出してもらえますか」 男は無言で右手を差し出した。 掌を見て、柊は小さく息を飲んだ。傷があった。石畳についたときについたのだろうか、皮が剥けて血が滲んでいる。手当てをしながら、自分の手と比べる。大きな手だった。骨張っていて、でも細くしなやかで、どこか人間離れしていた。「……痛みますか」「感じない」「感じない、って」「痛みがわからない」 淡々と答えた。感情を込める気がない、というより、感情という概念を知らないように聞こえた。 柊は消毒液を含ませた布を傷に当てながら、男の横顔をそっと窺う。「名前は覚えていますか」「ない」「どこから来たか、も?」「ない」「……何かひとつでも、覚えていることは」 そこで男は初めて、少し間を置いた。「月、が見えた」 ぽつりと言った。「目が覚めたとき、月だけがあった。あとは何もなかった」 柊は包帯を巻く手を止めた。男の言葉には、嘘をついている気配がなかった。飾りもなく、誇張もなく、ただ事実だけを告げている。「お前の家の結界、穴がある」 唐突に話が変わった。「え?」「北東の隅。三箇所、石の配置がずれ
last updateLast Updated : 2026-07-16
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