All Chapters of 家の為に姉の身代わりとなった生贄婚、堅物不器用な旦那様は私を溺愛したいらしい: Chapter 11 - Chapter 20

25 Chapters

ふさわしさ

 羊屋に注文した服が届けばすぐにお披露目会が始まった。  注目されることに慣れていない惠ではあったが、今は羞恥の感情が強いらしく俯き加減だったが。「おー! 似合ってるっすよ! 惠さんっ!」 「そ、そうでしょうか? いえ、こちらの着物はとても素敵なのですが、えぇと」 「いやいや! 惠さんの綺麗な黒髪に白が映えるっす! オヤジのセンスとはとても――」 「俺のセンスがどうした?」 思わずというよりはあえてだろう。  日向の言葉にしっかりと真人は反応して。「後で来い」 「か、勘弁っすよオヤジ! だってほら、テンションあがるっすよこの惠さんを見たらっ! オヤジもそうでしょう!?」 「否定せん。よく似合っている。だがそれとこれとは話が別だ」 「ひえぇ……うぅ、小指でいいっすか?」 「いらん」 日向と真人のやり取りに男衆が笑うが、空気に合わせてそうしているだけで内心では驚き一色だった。 誰よりも先に当主である真人が惠を認めた。  その事実に驚いているのだ、それは日向にしても同じく。(オヤジ……いいんすか?) 意図が掴めないというわけではない。  それなり以上に長い付き合いだ、外側だけでも辰巳家の人間と示す必要性はあったのだから、こうして服を仕立て与えることに異論はない。 無いが、これは真人からの合図としても受け取れるのだ。  各自、惠に対しての態度を改めて考えてみろと言った合図として。(……これから、っすね) 判断を急がされたとは思わないが、これからは警戒と共に、受け入れるという方向性を常に考えるべきだろう。  そんなことを日向や男衆が考えている中、惠は確かめるように。「ほ、本当に似合っていますか? 旦那様」 「ああ。つまらんことで嘘は言わん。本当によく似合っている」 「ほんとう、に?」 「くどいな。それともこれで俺の隣を歩くに相応しいとでも言えばいいか? むしろ俺のほうが負けてそうで悪い気がするが」 真顔で真人は言う。  その様子と、周りがひとまずの覚悟を決め始めたタイミングで。「……素敵な服をありがとうございます、旦那様。大事に、します」 「そうしてくれ。だが、大事にしすぎるな。いつでも新しいものくらい、用意する」 ぎゅっと胸元で手を握り、惠は小さく安堵するように息を零した。 こういった場面でどういう態度を取る
last updateLast Updated : 2026-07-20
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背負う仕事と責任

 何もしなければ何も変わらない。  これは当たり前と言うべきか真理である。  木に実る果実を食べたいと思ったのなら手を伸ばさなければならないのだ、食べたいと念じただけで手元に果実が転がってくるわけもなし。「辰巳の仕事に携わりたい?」 「は、はい。何かできることがありましたら、是非」 家の掃除を終えた惠は緊張した面持ちで真人に告げた。 何かを変えたいがために行動を。  と言うよりは惠の抱える存在許可証を希求する心の働きによる発言だったが、それだけではない。「ふむ……」 「何卒、ご一考の程をお願い申し上げます」 三つ指をついて頭を下げた惠が纏う服に見合うため。  まだ弱々しい輝きなれど、確かに芯を持つ決意の下での発言であり考えだ。(以前にも同じことを言っていたが……同じ、ではないか。前向きなものであるのならば求めに応じたい気持ちはあるが、家業を、か) 真人自身は、何もしなければ何も変わらないという真理を痛みと共に知っている。  知っているが故に、惠の畳についた指が震えていることにも気づいているし、快く応じてやりたいとも思う。 だがしかし、である。「勘違いしているようだが。先日言った通り、惠に課せられている仕事と言えば俺の子供を孕むことだけだ」 「っ……」 仕事に携わるということは責任を負うということでもある。  惠のような人間を血生臭いとまでは言わずとも、大なり小なり危険を伴う仕事に就けるのには大きな抵抗があった。「新たに仕事を求めずとも良いだろう。古風で時代遅れと思われるかも知れないが、惠には家にいて欲しいと俺は思っている」 好きでもない男の子を孕む、などという重責や嫌悪感だけで十分以上だ。  そんな真人の考えもあるが、何より既に惠が炊事洗濯などしてくれているだけで助かっている現実があった。 十分以上を既に果たしてくれているというのに、これ以上を求めるのは酷であり、傲慢だ。 結論、真人は今そう考えている。「……私が、したいのです
last updateLast Updated : 2026-09-17
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裏も表もない

「惠、少し家を空ける。留守を頼んで良いか?」 「っ!? は、はいっ! お任せくださいっ!」 さて、真人としては当然の声掛けと言うべきか深い意味のない言葉ではあったが惠に対して特別効果のあるものだった。「あ、あぁ。会わなければならない人がいてな、夜か明日の朝には戻る。日向も連れて行くが、誰も家に残していかないわけでもないから、何か困ったことがあれば遠慮なく相談してくれ、話は通している」 「かしこまりましたっ! どうぞお気をつけていってらっしゃい!」 「う、うむ……? ま、まぁ頼んだぞ?」 惠の勢いに気圧されつつも、真人は急ぎなのか早足で準備を整えに去っていく。「よ、よぅし……! 留守をしっかり預かるぞ……!」 留守を任される。  それすなわち、家を一時的に預けられるという事他ならない。 そう、辰巳家に存在許可証を求める惠にとっては一大事であり責任を持ってしっかりしようと決意を新たにすべきことだった。「え、えぇとまずは……そうね、来客に備えて玄関から門を掃除すべき、ね」 俄かに慌ただしく惠は動き始めた。  実のところ惠は留守を任せられるという経験が初めてだ。  早瀬家にいた頃は来客があれば使用人頭であったりと、相応の人間が対応していたし、基本的に日陰で在るべき人間であると教えつけられていたこともあり表に顔を出す機会がそもそも惠にはなかった。「う……そ、そう思えば、気軽にお任せくださいなんて言うべきじゃなかったかも」 早速不安に駆られる惠だったが、改めてここは早瀬家ではないのだと自分に言い聞かせ、不安を振り払うように掃除道具を持って玄関へと足を運ぶ。「さて、と」 早瀬家ほど大きな庭ではない、とは言ってもだが。  10人以上が生活できる大きな平屋の庭は当たり前に広い。  古風な木造の門から玄関までの道のりはおよそ20メートルほどか、左右に広がる庭も含めたのなら一人で手入れするには中々に骨が折れる作業だ。「普段からやっていて良かった、かな? 失礼にはならないと思うけど……」
last updateLast Updated : 2026-09-19
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不都合のある来客

 体感時間という言葉があるように、時間の進み方には個人差がある。 個々に差がある中で早瀬恵という女性は極めて速い時間の中に生きてきたと言えるだろう。 あるいは立ち止まる時間を与えられたことがないとも言えるか。考える暇があれば手足をと言われてきた弊害とも言える。 重ねてではあるが、辰巳家はそこまで大きな家ではない。 蓄えた、あるいは培われた力の量に比例して、権力を誇示するかのように敷地を広げていく早瀬家とは対照的に、辰巳家は力をつける毎に小さくなっていった。 それは一つの拠点とも言える場所を多くの場所に作っているためだ、一か所に集合するメリットが薄い。 日本各地の動向を調べるため多くの場所に巣とも言える場所を作り人を配置する。 故に、究極的に言えば真人の住む家がそれこそ夫婦だけで完結してしまうくらい小さな家になったとなれば、それは巳神の力が日本各地に十分浸透した証左と言えるだろう。「これで大丈夫、ね」 ようやくと言うべきか、納得できる出来栄えに惠は胸を撫でおろした。 惠がこれくらいやって当然と思っている状態のハードルが高すぎることを理解してしまった男衆はひきつった笑いを浮かべていたが、それはともかくとして。 改めて体感時間である。 終始引きつり笑いを浮かべていた男衆の表情が示したように、辰巳家の庭の手入れは小さいと言えど一人や二人、それも午前中に終わらせられる仕事ではない。「後は何をしておくべき、かな」 そういった家事に分類されることが得意が故に早く終わらせられると言った面はもちろんだが。 惠にとってはやはり、何もしていない時間とは多くの人間よりも遥かに長い時間と感じてしまう。「……え、っと」 それこそ、苦痛と思えてしまうほどに。 茶菓子だなんだと言った用意があることは、台所を扱っている身として知っている。 男衆が入浴している間に家の中は掃除し終わっているし、いつでも誰でも迎えられる状態だ。 家に残っている男衆は風呂に入る前と後で通った廊下の輝きが違うと何度目になるか惠の能力に驚いていたが、それもいい。 存在許可証が発行されるべく焦る気持ちは別として。 スタートラインとも言える何かを超えた惠は今、ミスというものに自覚なく過剰に怯えている。「何、しよう」 残る必要な準備があるとすれば、来客があった場合応対するのは自分であ
last updateLast Updated : 2026-09-21
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疑義と不義

 惠が庭の手入れにその腕を遺憾なく発揮している頃、真人は一人の少年の前にて眉根を顰めていた。「――新婚生活はどうか、と聞かれてもまだ式はあげていない。始まってすらいないのにどうも何もないでしょう」「あはは、相変わらずだねぇ? そういうところが気に入っているんだけどさ」 天宮一人。 辰巳家含めた神様一族を束ねる天宮家、その長はからからと容姿相応に見える笑顔で笑った。「……何が面白いのか俺にはわからなく、申し訳ありません」「いいよ、いいよ。同じこと言わせないでよ、そういうところが気に入ってるんだって」「ご厚情、痛み入ります」「ほんっとに固いなぁ。ボクとキミの仲じゃん? もっと楽に話してよ、ラクにさー」 どれだけ幼く、それこそ中学生程度の歳瀬に見えようが真人にとっては自分より上に在る存在だ。 かしこまりながら小さく頭を下げる真人に対して、一人は大仰に手を振った。「で、あればお言葉に甘えまして。本日のご用件はそのようなことを確かめたかったので?」「甘えるって言う割には固いまま刺してくるじゃん」「失礼しました。皮肉的な意図ではありません」「知ってるよ。ちょっとやり返したくなっただけ……それでね?」 たかがこの程度を聞きたくて多忙な中時間を作られたと真人は思っていない。 本題の前振りである事など百も承知であったが、抱いている緊張感から言葉を間違えたのだ。 そう、真人は緊張している。 次に天宮家の人間と話す機会があるとすれば、惠との祝言日程が決まったと言った話になるだろうと予想していたことを外された部分もあるが、何よりも。「少し、早瀬恵、だったっけ? 気になる事があってねぇ」 日程に関しての話であっても、わざわざ天宮家の当主がやってくることなどない。 にもかかわらず、目の前にやってきていることに、大きく緊張しているのだ。「気になること、ですか」「そう、気になる事さ」 一人の笑み自体は変わらない。 しかしながら笑みの中に含めた意味を少しだけ変える。「まず一つ、彼女のアザはちゃんと確認したかい?」 指を一本立てて一人は真人の目を見ながら聞いた。「それは……はい、もちろん。俺、ひいては辰巳家の生贄を示すものと相違ありませんでした」 日向はもちろん、自分自身でも確認したのだ、間違いないと。 生贄となる人間に
last updateLast Updated : 2026-09-26
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初めの一歩というもの

 カタカタと惠が持つお茶の乗ったお盆が音を立てる。 工藤太一という姉の婚約者、つまり惠にとって義理の兄が来訪してきた理由はわからない。  ただそれでも、ひとまずの客人である事に変わりはなく、家長である真人への用事ではなく惠に会いに来たと言われたのなら中に通さざるを得ないのだ。 それは家に残っていた男衆にしてもそうだ。  当主の婚約者の客だと言われたのなら、どれだけ怪しんでも警戒しても応じなければならない。 そういう意味ではタイミングも悪かったと言えるだろう。  早瀬恵を辰巳恵として受け入れる方針が発されて間もなくのことで、惠が今こそチャンスだと引き入れたのではないかと疑われても仕方ない。「――お待たせ、致しました」 「あぁ、ありがとう惠さん。こちらこそ、急に訪ねてしまって申し訳ない、迷惑をかけてしまったようだ」 「い、いえ、そのようなことは」 不安定なお盆から、客間のテーブル前に座る工藤へと惠はお茶を差し出した。 未だに惠の混乱や動揺は解かれていない。  真人がいない間に家へと他人を招き入れている状況に対してはもちろんだが、工藤自身のことを惠は苦手にしている。 苦手の理由としては単純に、義理の兄候補という相手との距離感を掴めないというものだったが。「やだな、惠さん」 「は、はいっ」 「そんなに緊張しないで欲しい。僕はキミの兄になる男だよ? 義理とはいえ妹にそこまで緊張されてしまうと、据わりが悪いよ」 「も、申し訳ありません」 慌てて頭を下げる惠の後頭部を工藤は困ったように眺める。「やれやれ、困ったな」 ただ、頭を上げて欲しいと慌てたりはしない。  結局のところと言えば言葉は悪いが、工藤とて惠のことを義妹と言いつつ使用人に近い人間だと認識していた。  特別工藤と惠の間に個人的な繋がりが強くあったわけではないが、それでも早瀬という家のことを工藤もよく知っているが故に。「どちらにしても、辰巳家の当主かキミに用があったのは本当なんだよ。前に座って欲しいな」
last updateLast Updated : 2026-09-27
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ただの惚気話

 ――お断り、致します。 その言葉が出たのは、男衆がもう我慢できないと襖に手をかけた瞬間だった。「……なん、だって? すまないね、聞き間違いかも知れないからもう一度教えてくれないかい?」 「お断り致しますと申し上げました。私は、確かに未だ早瀬恵であり、一生早瀬歩というお姉様の妹ではありますが……申し訳ありません。私は器用ではなく、辰巳として認めて頂けるよう励むこと以外に手が付けられません」 続いた言葉にぽかんと男衆は口を開け、真人はゆっくりと瞑目した。「だ、だったらなおのことじゃあないかな? 僕の手を取ればそれこそ辰巳の名に相応しいキミに至れるはずだ」 「もちろん、考えました。あるいは、それこそがとも思います」 「だったらっ!」 この場で考えさせてほしいという返答は予想していた。  しかしながらこの場で断られるとは欠片も想像していなかったことが工藤の動揺を大きく誘った。「ですが、どれだけ考えても……私には、それが辰巳に相応しい自分とは思えないのです。そも、辰巳に相応しいとは何か? その答えをまだ私は持ち合わせておりません。答えも見えていないのに、この場で頷くことは……できません。それこそが、辰巳家を、ひいては旦那様を裏切ってしまうことなのではないか。そう、思うのです」 もちろん、恵には大企業で自分に求められる仕事の想像つかない。  知りもしないのに軽々と首を縦に振るなどと責任のないことを嫌ったという部分もある。 あるが、何よりの理由は恵が口にした通りだった。「私は……見つけたい。わからないことばかりで、物も知らない私です。だからこそ、知りたい、見つけたい。誰かに乞われも願われるでもなく、与えられるわけでもない。私だけの、答えを」 あるいは、かつて書庫で芽生えた知識への飢えが理由とも言えるか。 不思議と口にしてみれば違和感はなかった。  頭の中で用意した言葉ではなく、心が紡いだ言葉だからか。(あぁ、そっか、私はここに居たいんだ) 迷惑をかけてばかりだけれど。  役に立っている自覚もないけれ
last updateLast Updated : 2026-09-28
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存在許可証

 真人とは対照的に、ぽかんと何処か現実感のないまま工藤の背を見送った惠だったが。「さて、惠」「っ!? は、はいっ! 申し訳ありませんっ!」「……? 何に対しての謝罪かわからんぞ」 惠の方へと向き直った真人によって現実へと引き戻された。 いや、引き戻らざるを得なかったと言うべきか。 惠にとって現状はミス、失態と捉えるべき状態だ。 家主の居ぬ間に義理の兄とはいえ真人にとって限りなく他人に近い者を家へと上げたこと。 話の内容の重要さははっきりと想像に及ばないも、一つの重大なターニングポイントを勝手に迎えてしまったこと。「本当に、申し訳ありません……!」「……」 ある意味初めてか、真人の言い分を耳にも頭にも入れず自分の考えのみで悪いことだと思ったが故に、深く惠は頭を下げた。 こうなってくると戸惑うのは真人の方だ。(いや、何故俺は今謝罪されているのだ? それはこちらの台詞と言うもので、むしろ感謝を伝えねばなるまいに……) 思考のすれ違いは未だ続いている。 根元の部分で責任と言うものを必要以上に重く捉えがちな性分は似通っているだろうに。 あるいは似ているからこそなのかもしれない。「重ねて言うが……何に対して謝罪されているのかわからない。つまり、頭を下げる必要がない。惠、頭を上げてくれ」「っ……は、はい」 果たして中々上げられない顔が緩やかに持ち上がった。 無自覚の下怯えという感情と共に過ごしたことはある。 だが恵はこの時初めて、怯えるという感情を自覚した。(……怖い。これで、余計なことをする女など要らないなんて言われたら、どうしよう) それこそ、工藤の誘いへと頷いておくべきだったのかも知れない。 そんな風に思いながらも、持ち上がりきっ
last updateLast Updated : 2026-09-30
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その裏で蠢くモノ

 多くの意味で高を括っていた。「くそっ!!」 腹立たしさをそのままに工藤が床へ投げつけたコップが割れた。 そうだ、高を括っていたのだ、辰巳家はまだしも義理の妹、すなわち惠程度なら簡単に操作できると。「人形、如きがっ……!」 何かが割れた音に気付き、工藤家の家人が慌てて部屋のドアを開け、工藤の表情を見てそっとその場を辞した。 今の彼に声をかけたのなら、あるいは割れ物を片付けようとでもしたのなら激しい折檻と言う名の何かが行われてしまうことをよく知っていたからだ。「この僕の顔を、よくも……!」 殴られたわけでもない、面目丸つぶれと言ったわけでもない。 それでも彼はただ、何かを傷つけられたと受け止めている。 高を括っていた自覚はあるのだ、あるだけに自業自得とも納得できるはずだが、惠が自分の立場を危ぶませている婚約者の妹であるという事実が邪魔をした。 すなわち。「早瀬家、めぇ……!」 早瀬に敗北した、泥をかけられたと感じている。 実際に真人だけが対処し追い払ったとは言えないだろう、惠が明確に拒否したという前提あってこその今だ。 何のためにリスクを承知で早瀬歩の婚約者に収まったと言うのか。 早瀬の名を逆に取り込み工藤の力を確たるものにするためだ、同時にあのいけ好かない顔と身体だけはいい歩を支配しその象徴とするためだ。「……ふ、ぅ。落ち着け、少なくとも決着がついたわけじゃあ、ない」 そうとも未だ道半ばには変わりないのだ。 早瀬歩の工作が行き渡るまでまだ余裕はある――それこそが不気味である一因ではあるが――焦る必要はない。「遺憾ながらも早瀬の浸食を抑えるに工藤だけでは力が足りないのは確かだ、どうしても協力者、同盟者がいる。早瀬景は、ある意味歩が言っていた通り家にだけ執着する女……手を出すに危いと思わせたのなら状況は改善できる」 現当主、早瀬景は実力者と言うよりは執着者だ。 歩はそれをつまらない女だと評してはいるが、工藤は家を守る事に執着する人間の怖さをよく知っている。 何せ自分がそうなのだ。 全て家のためにとまでは言わないが、工藤グループのためにとは思考の主軸の一つに変わりないが故に、早瀬景の気持ちは理解できる。「歩を超えて早瀬の家を脅かせるか否か、だな」 具体的な方法はまだ思いつかないも、思考すべき主眼はそこになるだろう。 
last updateLast Updated : 2026-10-02
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お茶を濁す

 ――俺は、この家にいて欲しいと思っている。 その真人の言葉は惠にとって存在許可証が発行されたと同義だった。 発行理由にいまいちピンとこない惠ではあったが、喜びには変わりなく、ひいては誰かに必要とされる喜びと言うものを初めて味わえた。「旦那様、旦那様。お時間ですよ、起きてください」「む、ぅ……」 惠の手が優しく布団にくるまる真人の肩を揺らす。 一種における焦りと言うべきか、自分の立ち位置が不安定だったからこそ惠の中にあった物が存在許可証によって和らいだ。 和らいだ結果、完全に安心しているわけでもなく、未だ何かを成さなければと思ってはいるが、それでも惠は急がなくなり、所作に本来彼女が持っている柔らかさと言うものが現れた。「もう、旦那様? 本日は早いと仰ってましたよ?」「ぐ、ぬ……」 表情もそうだ。 何処となく仕方のない人だなぁと言った感情を顔ににじませ、それでも声色は柔らかいまま真人の起床に付き合っている。(……不味い、余計に布団から出られなくなったではないか) 例えるなら母に揺り起こされる子供の気持ちだろうか。 気恥ずかしさに似た感情が消えるまで、頭は覚醒していても布団から抜け出せない真人は寝ぼけているフリをしながら布団に立てこもる。 結局、惠が変わったという実感を得たのは本人以外ばかりだ。惠自身は無自覚の範疇である。 辰巳家に相応しい自分になりたい、真人の伴侶として認められる自分になりたいと言うものに加えて、必要とされたいという欲求が加わった部分を自覚してはいるものの、それが自分に対してどう影響しているかなど知る由はなかった。「もう……そうだ、旦那様? 今日は朝食にきんぴらごぼうを用意しようと思っているんです。少し時間がかかるものですし、もしここで旦那様が起きて頂けないのでしたら――」「わかった、起きる」「あら」 恥はかき捨てと言うだろう、朝の食卓からおかずが一品減るなどあってはならない、それが自分の決断力のなさからくるのならばなおさらだ。「おはようございます、旦那様」 むくりと起き上がった真人は、やはり気恥ずかしさが抜けきらないままで。「……おはよう、惠。そう言ったんだ、きんぴらごぼう、期待しているぞ」「はい。お任せください」 そっぽを向いて心の中で白旗を振りつつ、そう言うしかないのだった。 惠の環境において
last updateLast Updated : 2026-10-05
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