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All Chapters of 来世では、他人のままで: Chapter 1 - Chapter 9

9 Chapters

第1話

その場の空気が、一瞬で凍りついた。圭は慌ててブレスレットを握りしめ、外そうとする。「ごめんなさい、雪枝さん。お二人の大切な思い出の品だなんて知らなかった。すぐに兄さんに返すよ」隣にいた娘の染谷絵夢(そめや えむ)は頬を膨らませ、小さな顔をこわばらせながら声を張り上げた。「パパは大事なものだって知ってるのに、わざと叔父さんにあげたんでしょ!叔父さんを困らせたいだけじゃない!最低!」雪枝はじっと俺を見つめる。その眉間には、隠しきれない疲労が滲んでいた。「裕人……あなたは、いつまでこんなことを続けるつもりなの?あなたを連れ戻したのは、もう一度ちゃんと夫婦として暮らしたかったからよ」俺には、ただ滑稽にしか思えなかった。昔から圭が欲しがるものは、少しでも渡すのが遅れれば、そのたびに報復された。だから今は何も逆らわず、言われるまま従っている。それなのに、彼女はまだ満足できないらしい。俺は振り返り、雪枝から誕生日にもらった限定モデルの腕時計を手に取ると、そのまま圭へ差し出した。「ブレスレットだけじゃ足りない?なら、これもお前にあげるよ」その瞬間、雪枝の顔色がみるみる青ざめた。彼女は勢いよく腕を振り上げ、テーブルの上のバースデーケーキを薙ぎ払った。クリームが俺の裾に飛び散り、皿は床で粉々に砕け散った。「裕人、そんなに嫌味を言って私を傷つけたいの?」「そんなつもりはない」雪枝は目を閉じ、込み上げる怒りを必死に押し殺した。「あなたが今でも怒っているのは分かってる。当時、圭くんを先に救急車へ乗せたことを……あのとき、圭くんは大量出血していて、本当に助からないかもしれなかったの。この数年間、私はずっとあなたに適合する心臓のドナーを探し続けてきた。あんな悲劇を二度と繰り返したくなかったから。あなた……もう意地を張るのはやめて。これからは、ちゃんと夫婦としてやり直しましょう。お願い」俺は適当に頷いた。その途端、絵夢が勢いよく立ち上がった。「ママがちゃんと謝ってくれたのに、どうしてそんなに冷たいの?おじいちゃん以外、誰にも好かれないのも当然だよ!」その一言は、不意に胸へ突き刺さる針のようだった。俺は皮肉げに笑う。「ちょうどいい。俺だって、おじいちゃん以外は、お前たち全員のことが嫌い
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第2話

部屋へ戻ると、俺は黙って荷物をまとめ始めた。クローゼットを開けば、カシミヤのコート、高級車のキー、オーダーメイドのスーツ……貧しかった頃には手が届かなかったものを、雪枝は一つひとつ俺のために揃えてくれた。机の上には彼女が自ら調合したアロマが置かれ、カーテンも俺の好きだった深いモスグリーンへと替えられている。佐野家へ戻ってきたこの2年間、彼女はまるで昔のように、俺だけを見つめる少女へ戻ったかのようだった。だが、今の俺はもう、甘い言葉だけで心を許すような人間ではない。俺がスーツケースへ入れたのは、無理やりここへ連れ戻された日に着ていた服が数着だけだった。荷造りを終えようとしたその時、雪枝が部屋へ入ってきた。彼女は俺の手首をつかむと、ブレスレットを元の場所へはめ直し、有無を言わせぬ口調で告げる。「ちゃんと身につけていて。もう二度と、勝手に人へあげたりしないで」思わず目を見開いた。彼女は圭から取り返してきたのか。雪枝の視線がスーツケースへ落ちる。その途端、眉が険しく寄せられた。「持っていくの、それだけ?」俺は淡々と答えた。「俺の物じゃない。持っていく理由がない」その一言で、彼女の瞳に再び怒りが燃え上がる。「そこまで全部いらないって言うなら、残しておいても意味がないわ。田中さん、私が主人に買った物は全部運び出して燃やして。今日からこの人が何か一つ使うにも、必ず圭の許可を取ること」俺は表情一つ変えず、スーツケースを手に部屋を後にした。階段の踊り場まで来た瞬間、背中を思いきり突き飛ばされた。俺の身体はそのまま階段を転げ落ちた。膝の皮膚が擦りむけ、焼けるような痛みが走った。見上げると、階段の上には絵夢が立ち、見下ろすように俺を睨んでいた。「パパなんて全然いい子になってない!全部お芝居なんでしょ!ママと叔父さんを仲違いさせようとしてるだけ!もう一度でも叔父さんをいじめたら、私は二度とパパなんて呼ばないから!」そう言いながら、彼女は俺のポケットから少し覗いていたお守りを見つけると、素早く奪い取った。「返せ!」痛みに耐えながら手を伸ばす。それは、父の無事を願って多くの時間と労力を費やし、ようやく授かった大切なお守りだった。絵夢は得意げに振りかざす。「叔父さんを一回いじめ
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第3話

もともと弱かった俺の心臓は、もう限界だった。胸が何度も締めつけられるように痛み、息苦しさが増していく。ふらつく身体を支えながら常備薬を取りに行き、ようやく錠剤を手のひらへ出した、その瞬間――一つの影が勢いよく駆け寄ってきた。薬を奪い取り、そのまま床へ叩きつけた。「誰が勝手に薬を飲んでいいって言ったの?叔父さんの許可がない限り、この家の物には何一つ触っちゃダメ!」絵夢は俺を睨みつけ、憎しみを隠そうともしなかった。胸の痛みはさらに激しくなる。言い返す余裕もなく、俺は散らばった薬を拾おうと腰を屈める。だが次の瞬間、小さな足が薬を踏みつけ、そのまま力いっぱい擦り潰した。錠剤は埃まみれになり、床の隙間へと押し込まれていく。「恥知らず!泥棒!ここは私の家よ!出ていって!」耳鳴りが激しく響き渡る。人工心臓への負荷は限界まで高まり、俺はついに支えきれず、その場へ崩れ落ちた。薄れゆく意識の中、封じ込めていた記憶が次々と蘇る。……絵夢は幼い頃から病弱だった。心臓病が判明した時には、移植用の心臓を待っている時間すら残されていなかった。だから俺は誰にも言わず適合検査を受け、自分の健康な心臓を娘へ譲り、自分は人工心臓を装着した。生死の境を半月以上もさまよった。それなのに、絵夢が退院して最初に向かったのは、俺の病室ではなかった。小走りで圭のもとへ駆け寄り、無邪気に笑った。「叔父さん、いつになったら私のパパになってくれるの?パパなんて本当にうるさいんだもん。ママがタバコを一本吸うだけでずっと説教するし、私がちょっとテレビを見てても怒るし……叔父さんはハンバーガーを買ってくれるし、遊園地にも連れて行ってくれる。ママも私も、叔父さんと一緒にいるのが一番好き!」病室の外で、その言葉を俺は一字一句聞いてしまった。手術痕が焼けつくように痛む。嗚咽を飲み込みながら部屋へ入った。「絵夢……パパは絵夢のために手術台に上がって、命まで失いかけたんだ。それでも、そんなことをパパに言うのか?」すると圭がすぐに絵夢を庇い、弱々しく口を開く。「兄さん……絵夢はまだ子どもだよ。思ったことをそのまま言っただけだし。そんなに怒らなくても……」後ろ盾を得た絵夢はますます強気になり、俺を睨み返して叫んだ。「だって
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第4話

その夜、俺はいつもと違って、雪枝から渡された牛乳を飲まなかった。母娘が足音を殺して出て行くのを確認すると、俺は静かに起き上がり、その後を追った。辿り着いた先は、豪華な高級マンション。閉まりきっていないドアの隙間から覗くと、圭がソファに座り、穏やかな表情でくつろいでいる姿が見えた。雪枝は優しい手つきで彼に果物を食べさせ、足まで揉んでいる。「この数日間、あなたのそばにいてあげられなくて……本当に辛かったでしょう」絵夢は彼女の隣に寄り添い、不満そうに頬を膨らませた。「全部パパが悪いんだよ。ママが叔父さんを家に連れて帰るのを許さなかったんだから」俺は力いっぱい扉を押し開けた。唇が震え、声すらうまく出なかった。「……送ったんじゃなかったのか?雪枝……お前の言葉は、一体どれだけ本当なんだ?」雪枝はすぐに圭の前へ立ち、俺と向き合った。「裕人、もういい加減にして!圭くんは最初からあなたと何かを争おうなんて思っていない。名前も立場もないまま私のそばにいて、ずっと我慢してきたのよ。それなのに、どうしてあなたはそんなに自分勝手なの?」圭も悪びれる様子もなく口を開いた。「兄さん……年上で、恋愛の楽しさも分かってないだろ?雪枝さんはもうずっと前から、兄さんに疲れてたんだ。それなら、他人に渡すくらいなら僕が――」その瞬間、俺の中で何かが切れた。テーブルの上にあった花瓶を掴み、圭へ向かって投げつける。怒鳴り声が飛び交い、争いは一気に激化した。揉み合いの中で、俺と圭はそのままベランダから落下した。救急車が駆けつけた。医療スタッフが慌ただしく二人の状態を確認したあと、困惑した表情で雪枝へ告げた。「お二人とも重傷です。設備の関係で、先に救命処置を行えるのは一人だけです。佐野様……どちらを助けますか?」雪枝は俺を見ることすらなかった。そして迷いなく答える。「圭を助けて」冷たい地面に横たわった俺は、遠ざかっていく救急車のライトを見つめていた。胸の奥に残っていた最後の期待が、静かに消えていく。震える手で、俺は長い間封印していた番号へ電話をかけた。「もし今回、生き延びられたら……俺のために、偽装死を手配してほしい」……「裕人!裕人!」雪枝の叫び声が、遠のいていた意識を引き戻す。彼女は俺を支え
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第5話

病室は、死んだような静寂に包まれていた。医師は無力な表情で俺を見つめ、静かに告げる。「お悔やみ申し上げます……患者さんは強い精神的ショックを受けて……もう耐えられなかったようです」俺はその場に崩れ落ちた。何もかもが、もうどうでもよくなった。父の遺品を整理していた時、枕の下から、一台のボイスレコーダーを見つけた。再生ボタンを押す。すると、圭の、柔らかく見せかけた悪意に満ちた声が流れ出した。「おじさん……かわいそうだから、特別に真実を教えてあげるよ。僕は母さんに養子として迎えられたんじゃない。僕は……母さんの隠し子なんだ。おじさんは父さんと一生争って、ずっと張り合ってきたよね。でも結局、おじさんは、父さんの息子を何十年も育ててくれたってわけだ。ねえ……笑えると思わない?そうだ、おじさんと裕人が命懸けで守ったあの古い家……母さんは僕が成人した日に、もう僕名義へ変更してくれたよ。ずっと守ってくれてありがとう。本当に僕にとって最高の味方だった。この人生で、おじさんは父さんには勝てなかった。そして役立たずの息子も、僕には勝てない。これから先、あいつの妻も、娘も、財産も……全部僕のものになる。本当に……あなたたちは僕の幸運の象徴だよ」植物状態でも、人間には聴覚が残っている。父は、圭に言葉で殺されたのだ。憎しみが、一瞬で俺の目を赤く染めた。俺は狂ったように病院を飛び出した。向かった先は、遊園地。遠くからでも見えた。芝生の上で笑い合う、あの3人の姿が。雪枝、絵夢、そして――圭。俺は握りしめた果物ナイフを強く握った。もう何も考えられなかった。ただ、圭と一緒に終わらせる。そう思って駆け出した瞬間、雪枝が俺の手首を強く掴んだ。「裕人!また何をするつもりなの!?」周囲の観光客が一斉に集まり始める。ひそひそと声が飛び交い、好奇の視線が俺へ向けられた。絵夢は圭の前に立ちはだかり、大声で叫ぶ。「パパは精神病なの!いつも叔父さんをいじめてるの!叔父さんがやっとママに弟を授けてくれたのに、また昔みたいにわざと叔父さんを傷つけようとしてる!この人、頭がおかしい!最低な男!早く消えて!」絵夢は地面に落ちていた石を拾い、俺へ投げつけた。すると周囲の人々も次々と真似を始める。「精神病
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第6話

刃が胸へ沈み込んだ瞬間、鮮血が勢いよく噴き出した。人工心臓は、完全に鼓動を止めた。身体から力が抜け、ふわりと軽くなる。俺の身体は、ゆっくりと宙へ浮かんでいくようだった。ぼやけていく視界の中で、雪枝の顔が歪んで見えた。彼女は声が枯れるほど叫んでいる。「裕人!」魂がどんどん身体から離れていく。その時、俺は見た。もう一人の俺が、彼女の腕の中で力なく崩れ落ちている姿を。胸元からは血が絶え間なく流れ出していた。雪枝は震える両手で必死に傷口を押さえる。血を止めようとしているのだ。けれど、強く押さえれば押さえるほど、血はさらに激しく溢れた。指の隙間から赤い液体が流れ落ち、どれだけ力を込めても止まらない。「裕人!裕人!」彼女は震える声で、何度も俺の名前を呼ぶ。「私を見て!目を閉じないで!寝ちゃダメ!」絵夢はその場に立ち尽くしていた。口を開いたままなのに、声は一つも出ない。雪枝は真っ赤に充血した目で、狂ったように周囲へ叫んだ。「医者を呼んで!救急車!早く!」人々は慌てて道を開ける。ほどなくして救急隊員が駆け込んできた。俺の首元の脈を確認し、瞼を開いて状態を見る。そして静かに首を横に振った。「申し訳ありません……もう亡くなられています」雪枝は、その言葉の意味を理解できないようだった。真っ赤な目で救急隊員の服を掴んだ。「あんたたち、何もしてないじゃない!どうして死んだって分かるの!?助けてよ!お願いだから、助けて!」救急隊員は苦しそうに息をしながら、必死に説明する。「奥様……負傷者の心拍はすでに停止しています。私たちには、もう……」「嘘よ!」雪枝は彼を突き飛ばした。そして俺の身体を抱き上げる。「病院へ行って!今すぐ病院へ!いくらかかってもいい!絶対に助けて!」救急隊員も彼女を止めきれず、仕方なく俺を救急車へ乗せた。車内で、雪枝は冷たくなった俺の指を両手で包み込み、何度も息を吹きかける。「裕人……目を開けて……私が悪かった……本当に、私が間違ってた……お願いだから、私を置いていかないで……絵夢ちゃんを置いていかないで……」彼女は俺を強く抱き寄せ、額を俺の髪へ押し当てた。「裕人……あなたのお父さんはまだ病院で眠ってるのよ。あなたまで死んだ
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第7話

救急車のサイレンが遠ざかっていく。遊園地に残された血痕は、すぐに清掃員によって消されていった。圭は服についた埃を軽く払い、振り返ることなく駐車場へ向かう。絵夢はその場に立ち尽くし、水で洗い流された地面をぼんやりと見つめていた。「叔父さん……病院には行かないの?」圭は振り返りもせず答える。「病院なんてウイルスだらけだろ。僕は身体が弱いんだ。もし感染したらどうする?」絵夢は圭へ視線を落とした。そして、よく分かっていないながらも小さく頷く。叔父さんが病院へ行かないのは、病気になるのが怖いからなんだ。ママも言っていた。叔父さんの身体はとても弱いって。「じゃあ……ママが帰ってきたら、一緒にパパのお見舞いに行く?」圭は返事をしなかった。すでに車のドアを開け、そのまま助手席へ乗り込んだ。絵夢は後部座席のドアを開けた。だが、誰もいない広い座席を見ると、少し不安になった。彼女は小さな声で尋ねる。「叔父さん……後ろで一緒に座ってくれない?私、一人だと……怖い」圭は振り返り、眉間に深い皺を寄せた。「君、いくつだと思ってるんだ?車に乗るだけで誰かに付き添ってもらわないとダメなのか?本当に情けないな」絵夢は驚いたまま、その場に固まった。目の奥が一瞬で赤くなる。昔の叔父さんは、何でも聞いてくれて、優しくて、いつも自分を大切にしてくれた。それなのに、どうして急に変わってしまったの?圭は苛立ったように怒鳴る。「いつまでそこにいるんだ?行かないなら、そこで一人で待ってろ」絵夢は慌てて涙を拭う。そして転ぶように後部座席へ乗り込み、勢いよくドアを閉めた。それから数日。圭は、完全に優しい仮面を剥がした。以前の思いやりや優しさは跡形もなく消え去り、代わりに現れたのは、傲慢で横暴な本性だった。絵夢はリビングの隅で小さく縮こまっていた。空腹でお腹が痛くなるほどだったが、圭に声をかける勇気はなかった。仕方なく自分で冷蔵庫を開け、冷めたパンをかじる。その時、2階から降りてきた圭が、彼女の手元の皿を足で蹴り飛ばした。「誰がここにある物を勝手に食べていいと言った?これは僕の息子のために用意したものだ。君なんかが食べていいと思ってるのか?」絵夢の身体が震える。目には涙が浮かんでいた。彼女は、
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第8話

雪枝は、俺が死んだことをどうしても信じようとしなかった。医療スタッフが何度も死亡を確認し、俺の身体がすでに冷たく硬直していても、彼女は目を真っ赤に腫らしながら、俺を一晩で造らせた冷蔵庫へ静かに横たえた。それから彼女は、狂ったように証拠を探し始める。屋敷中の監視カメラをすべて確認し、あらゆる病院の記録を洗い直した。彼女は頑なに信じ続けていた。――3年前に一度、偽装死ができたなら、2度目だってできるはず。3日後、雪枝は自ら車を運転し、療養施設へ向かった。父を佐野家へ迎え入れるためだった。しかし病室の扉を開けると、ベッドは、もぬけの殻だった。雪枝は呆然と立ち尽くした。「患者さんはどこなの!?」看護師長はうつむき、小さく答えた。「染谷様は……3日前に、お亡くなりになりました」「そんなはずない!最高の医療設備も、最高の薬も、最高の医師も用意したのよ!どうして死ぬの!?」看護師長はボイスレコーダーを差し出した。「これが……枕の下から見つかりました。お聞きになってください」雪枝は奪うように受け取り、再生ボタンを押す。すると、圭の残酷な声が、静かな病室に響き渡った。ボイスレコーダーが彼女の手から滑り落ち、地面へ乾いた音を立てて転がった。その時ようやく雪枝は悟る。あの日、俺がなぜ、自ら命を絶つ道を選んだのかを。彼女は震える手で秘書へ電話をかけた。声は掠れ切っていた。「染谷圭を調べて。あの男のことを、全部、何一つ残さず調べ上げて」秘書は一睡もせず調査を進めた。翌朝、分厚い調査資料が雪枝の前へ置かれた。そこに記されていた真実は、彼女の想像を遥かに超えていた。圭は、哀れな義弟などではなかった。彼は俺の母が婚姻中の不倫で産んだ隠し子だった。染谷家へ引き取られた後、母は圭ばかりを溺愛し、俺と父には暴言と暴力を繰り返していた。圭は家中の愛情も財産も独占し、俺の苦しみを踏み台にして育った。あの日、転落事故で大出血した時も、彼の命は決して危険な状態ではなかった。救急車は本来、俺を迎えに引き返す予定だった。だが圭がわざと泣き叫び、雪枝を自分のそばへ縛りつけた。そのせいで彼女は、俺が死を待つしかない姿を見捨てたのだ。そして俺の心臓――移植手術を受けて完治したなどという事実は
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第9話

それでも、雪枝は諦めなかった。まるで狂ったように、かつて俺の偽装死を手助けした人物の行方を追い続けた。その人物さえ見つければ、時間を巻き戻し、俺をもう一度生き返らせられると信じていた。そしてついに、わずかな手がかりを頼りに、西南の国境地帯まで辿り着く。彼女はその日のうちに飛行機へ乗り、現地へ向かった。だが、そこにいたのは世捨て人でも怪しげな術師でもなかった。軍服をまとった、一人の老兵だった。雪枝はその場へ膝をつき、深く頭を下げた。「お願いします……裕人がどこにいるのか、教えてください」老人は静かに首を横へ振った。穏やかな口調だったが、その言葉に揺らぎはなかった。「昔、あの子を助けたのは、父親に命を救われた恩があったからだ。だから死亡証明書を偽造し、身を隠す手助けをした」雪枝の瞳に、わずかな希望が宿る。「でしたら今回は……」「今回は無理だ」老人は彼女の言葉を遮った。「前は生きていた。だから隠すことができた。だが今回は違う。私は、死人を生き返らせることはできない」そう言うと老人は、一つの封筒を彼女の胸元へ投げ渡した。「自分で見なさい。これは、あの子がお前に伝えられなかったものだ」雪枝は震える手で封を切った。中に入っていたのは、1枚だけの危篤通知書だった。記された日付は――5年前。俺が高層階から転落した、あの日。その瞬間、彼女は理解した。あの時の俺は、本当に死の淵を彷徨っていたのだと。涙がぽたりと地面へ落ちる。一滴、また一滴。水たまりが広がっていく。長い間抑え込んでいた泣き声が、ついに溢れ出し、雪枝は胸が張り裂けるような思いで泣き崩れた。帰宅した彼女は、俺の遺体を火葬した。盛大な葬儀は行わなかった。静かに、二人用の墓を1基だけ購入した。墓碑には俺の名前が刻まれ、その隣の空白は、彼女自身のために残されていた。納骨の日。空からは冷たい雨が降り続いていた。その頃、絵夢は高熱を出し、意識を失っていた。再び目を覚ました時には、重い自閉症を患っていた。誰が呼びかけても返事をしない。食事も摂らず、泣くことも騒ぐこともない。魂を失った人形のように、ただ静かに座っているだけ。それでも、「パパ」という二文字だけは違った。その言葉を耳にした時だけ、空っぽだった
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