All Chapters of 九年愛した人は、もういない: Chapter 1 - Chapter 9

9 Chapters

第1話

頭の中が一瞬、真っ白になった。呆然としている私をよそに、絢人はそのまま続けた。「花帆。むしろバレてほっとしたよ。これでもう、コソコソ隠す必要もないし」信じられない思いで見つめる。ようやく出た声は、自分でもわかるほど震えていた。「……今、なんて言ったの?」絢人はタバコの火を消し、吸い殻を無造作に灰皿へ放り込むと、ゆっくりこちらへ歩いてきた。「知ってる?交際を公表して2年目には、もう浮気してた。罪悪感はあるのにスリルもあってさ。あれ、一度味わうと癖になるんだよ」その言葉が胸の奥に刺さり、じくじくと痛んだ。交際を公表して2年目。私はまだ、絢人のファンからSNSで散々叩かれた傷を引きずっていた。あの年は、少しでも演技を磨きたくて、毎晩遅くまで台本を読み込んだ。オーディションがあれば全国を飛び回り、飛行機に乗りすぎて鼓膜を痛めるほどだった。一緒に過ごす時間が少ないことを申し訳なく思うたび、絢人はいつも「わかってるから」と言ってくれた。あれが、絢人の言う「わかってる」だったんだ。怒りで全身が震えた。気づけば手を振り上げ、絢人の頬を思いきり叩いていた。乾いた音が部屋に響く。涙が一気にあふれ、頬を伝った。「なんで、もっと早く言わなかったの?どうして私だけ何も知らないまま、バカみたいに騙され続けなきゃいけなかったの?絢人、答えて。どうして?」一瞬、絢人は目を見開いた。けれど、すぐに喉の奥で小さく笑った。「決まってるだろ。愛してるから」絢人は昔から声がよかった。「愛してる」と言われるだけで、本気にしたくなるような声だった。けれど今は、背後のベッドやソファに散らかった服のせいで、その言葉はひどく白々しく聞こえた。愛してるから、嘘をつくの?何年も隠れて浮気するの?目を閉じると、涙が頬を伝った。「絢人、別れよう」これが、お互いにとって一番いいと思った。ところが次の瞬間、強く腕を引かれ、そのまま胸に抱き込まれた。「離して!」もがいても、背中に回った腕は緩まない。タバコと知らない香水が混じった匂いが鼻をつき、吐き気がした。耳元で、絢人が低く言った。「いつまで若い子気分でいるんだ?もう、誰かが庇ってくれるような子供じゃないだろ」もがいていた手が止まる。
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第2話

私は0時になる前に間に合うよう、わざわざ飛行機で戻ってきた。驚かせて、喜ぶ顔が見たかった。それなのに。ドアを開けた私のほうが、とんでもない「プレゼント」をもらうことになった。足元もおぼつかないまま、家を出た。こみ上げる吐き気に耐えきれず、道端で身をかがめる。胃の中のものを吐ききると、全身から力が抜け、そのまま路肩に座り込んだ。ふいに、7年前のことを思い出した。あの頃、絢人はまだ奏汰(そうた)と名乗っていた。ドラマのワンシーンがSNSでバズり、ようやく名前が知られ始めたばかり。私はエキストラや端役ばかりの、ほとんど無名の女優だった。ある日、監督が仕事の話を口実に、私へ迫ってきた。怖くてどうすればいいのかわからなくなっていたところへ、奏汰が助けに来てくれた。奏汰は私の頬を両手で包み、涙をそっと拭ってくれた。「花帆、泣くなよ。もう二度と、こんな思いはさせないから」私は、その言葉を信じた。それから二人で、高瀬野市の半地下ワンルームから古い木造アパートへ移り、やがて高級住宅街の一戸建てに住めるまでになった。二人で本当にいろんなことを乗り越えてきた。それなのに今は、思い返すほど苦しくなるだけだった。半月後、出演していたドラマがクランクアップした。絢人は昔と変わらず、私の好きな赤いバラの花束を抱えて祝いに来てくれた。肩を抱かれ、並んでカメラの前に立つ。取材陣から厳しい質問が次々飛んでも、絢人は落ち着いて受け答えしていた。私の演技をその場で疑問視する記者がいれば、遠慮なく言い返してくれた。その横顔を見ているうちに、昔の記憶が重なる。そういえば、いつだってこうだった。何かあるたび、絢人は私の前に立って守ってくれた。見上げながら、もしかしたら、まだ愛されているのかもしれないと思った。ほんの少しだけ、口元がゆるんだ。けれど、そんな気持ちは長く続かなかった。翌朝、SNSでは「#糸瀬絢人深夜密会疑惑」がトレンド入りしていた。出回っている写真を開いた瞬間、息をのんだ。写っているのは後ろ姿だけ。それでも、絢人だとすぐにわかった。撮られた場所は、絢人が所有するマンションの一室だった。隣にいる女の後ろ姿にも、見覚えがある。確かめずにはいられず、すぐに車を走らせた。部
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第3話

涙で滲む視界の中、大粒のダイヤが光を受けてきらめいていた。9年越しに欲しかったはずの幸せが、ひどく歪んだ形で叶った。それから絢人は、言葉どおり結婚式の準備を始めた。式場を選び、招待状のデザインを決め、誰を招待するかまで、一つひとつ丁寧に考えていた。私も、それまでのことには触れなかった。せっかくふさがった傷を、もう一度開きたくなかった。まるで、二人がいちばん愛し合っていた頃に戻ったみたいだった。それから1か月ほど経った頃、急に吐き気を覚えることが増えた。病院で診てもらうと、医師から妊娠11週ほどだと告げられた。検査結果の紙を持つ手が震えた。絢人との子だった。ずっと欲しいと願っていた、小さな命。結婚式を目前にして授かった命だった。まるで、この子まで絢人が本当に私を愛していると信じているような気がした。妊娠を知ったら、どんな顔をするだろう。きっと喜んでくれる。そう思うだけで、胸がいっぱいになった。けれど、そのことを伝えるより先に、絢人にはまた別の女ができた。しかも今度は、その子を連れて私の前に現れた。白いワンピースを着た、20歳くらいの女の子だった。まっすぐな目をしていて、まだ世間慣れしていないような、素朴で清楚な雰囲気がある。見覚えがあった。雨谷依茉(あまや えま)。もともとは私のファンだった子だ。3年前、父親の借金を理由に進学を諦めて働き、家に金を入れろと迫られていた依茉に、私が手を差し伸べた。学費を援助し、大学にも通えるようにした。それまで絢人が関係を持ってきた、華やかで洗練された女たちとは違う。依茉は拍子抜けするほど素朴だった。それなのに、誰より深く私を傷つけた。絢人は依茉をかばうように自分のそばへ寄せた。「依茉、少し離れてろ。花帆に何かされたら困るから」その扱いを見た瞬間、わかってしまった。今度は遊びじゃない。絢人は、本気で依茉を好きになったのだ。これまで何度も騒ぎになりかけた経験があるからか、依茉のことだけは徹底して表に出さなかった。二人でいるところを週刊誌に撮られても、金に糸目をつけず、事務所を通して掲載を見送らせた。それでも写真が出回れば、所属事務所はすぐに【写っている女性は親族です】と否定コメントを出した。依茉のそば
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第4話

そんなこと、するわけがない。ずっと押し込めていたものが、一気にあふれた。「絢人、ふざけないで!全部表に出て、むしろせいせいしてる。なんで二人のために私が嘘つかなきゃいけないの!」依茉は怯えたように絢人の後ろへ隠れた。目を赤くし、小さくすすり泣く。「花帆さん、ごめんなさい。傷つけるつもりはなかったんです。私と絢人さん、本当に好き合ってて……」「黙って。今すぐ出てって。二人とも!」絢人は勢いよく立ち上がった。さっきまで抑えていた怒りを、もう隠そうともしなかった。「花帆。そこまで言うなら、あとで俺を責めるなよ」それだけ言うと、依茉を連れて出ていった。仕事を減らされるかもしれない。最悪、この業界から干されるかもしれない。その程度のことは覚悟していた。もう、どうでもよかった。けれどまさか、あんな残酷なやり方で私を罰してくるとは思ってもいなかった。3日後、霊園の管理事務所から電話がかかってきた。「榎並様でしょうか。ご両親のお墓について、榎並様が連絡先として登録されていましたので、お電話しました」職員は言いにくそうに声を落とした。「先日、墓じまいの手続きが済みまして、ご遺骨は別の納骨堂へ移されています」一瞬、何を言われたのかわからなかった。「……どういうことですか?誰がそんなことを?」「墓所の使用者として登録されている糸瀬様からのお申し出でした」全身から血の気が引いた。両親は、私がこの世でいちばん申し訳なく思っている人たちだった。そして、最後に残された心の支えでもあった。あの頃の私は、どれだけ止められても聞かず、奏汰を追って高瀬野市へ出てきた。両親はずっと心配していた。それでも私は意地を張って、帰ろうとしなかった。それでも心配でたまらなかった両親は、遠く離れた故郷から私を訪ねてきた。あの日のことは、一生忘れない。雪が降っていた。親戚から聞いた住所を頼りに、二人はようやく私の住むところまでたどり着いた。仕事を終え、疲れきって帰ってきた私は、道路の向こうから手を振る両親に気づいた。声をかける暇さえなかった。ブレーキの利かなくなった大型トラックが突っ込み、二人は目の前で十数メートル先まではね飛ばされた。真っ白な雪の上に、赤い血が広がって
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第5話

玄関のチャイムが鳴った。絢人がドアを開けると、そこに立っていたのは担当マネージャーだった。「糸瀬さん、榎並さんからお届け物です」絢人はわずかに眉を寄せ、面倒そうに箱へ目をやった。「そこに置いといて」すると依茉が目を輝かせ、絢人の腕の中から抜け出して玄関へ駆け寄った。「もしかして花帆さん、気が変わったのかも。私たちにプレゼントだったりして!」弾んだ声で言いながら、箱を開ける。その途端、依茉の手が止まった。中に入っていたのは、婚約指輪と一枚のエコー写真。それから、病院の書類だった。「……これ、何?」戸惑った拍子に箱が傾き、大粒のダイヤがついた指輪が床へ転がった。絢人の表情が変わる。その指輪を見間違えるはずがない。自分が花帆の薬指にはめた婚約指輪だった。嫌な予感がして、すぐに箱のそばへしゃがみ込む。震える手でエコー写真を拾い、続けて病院の書類に目を落とした。書類に目を走らせた絢人の顔色が変わった。花帆は妊娠していた。もうすぐ3か月になるところだった。さらに、その下には手術の記録があった。その子は、もういない。二人の子どもだった。そこまで理解した瞬間、息が止まった。少し前から、花帆が何度も気分を悪くしていたことを思い出した。このところずっと疲れた顔をしていたことも。あれは全部、妊娠していたからだったのか。「絢人さん……どうしたの?それ、何の書類?」依茉は不安そうに、絢人の腕へ触れようとした。絢人はその手を激しく振り払った。「黙れ!」依茉がびくりと肩を震わせる。けれど、今はそれどころではなかった。絢人はスマホを取り出した。指が震えて、何度も画面を押し間違える。ようやく花帆へ発信したものの、呼び出し音が鳴り続けるだけで出ない。切って、もう一度かける。それでも出ない。何度かけ直しても、やがて聞こえてくるのは留守番電話の無機質な音声だけだった。「花帆、出ろよ……頼むから出てくれ!」画面を握る手に力がこもる。胸の奥で、嫌な予感だけがどんどん膨らんでいった。絢人の取り乱しようを見て、依茉は不安そうに唇を噛んだ。「絢人さん、花帆さん、わざとじゃないですか?私に絢人さんを取られたと思ってるから、こんなものを送りつけて、私
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第6話

絢人はドアを何度も叩いた。「花帆!開けてくれ!」手のひらが痛くなるほど叩いても、中からは物音ひとつしない。「花帆!いるんだろ!」返事はなかった。焦りに耐えきれず、思いきりドアを蹴りつけ、力ずくでこじ開けた。部屋の中は、息が詰まるほど静まり返っていた。「花帆!」リビングも寝室も、書斎も浴室も、片っ端から探した。けれど、どこにもいない。そこで見つけたのは、一枚の古い写真だけだった。写真に写っていたのは、7年前。高瀬野市の半地下のワンルームで、色褪せたTシャツを着た奏汰が、エキストラの仕事を終えたばかりの花帆を抱き寄せている。古びた壁を背に、二人とも幸せそうに笑っていた。絢人はその写真を見つめたまま、力が抜けたようにベッドの端へ座り込んだ。涙が、初めて止めどなくあふれた。本当に、花帆を失ってしまったのかもしれない。18の頃からずっとそばにいて、自分だけを信じてついてきた花帆を。そのとき、担当マネージャーから電話が入った。「糸瀬さん、大変です。榎並さんが今日の午後、病院に隣接する立体駐車場の屋上階から転落したそうです!」一瞬、何も考えられなくなった。絢人は勢いよく立ち上がったものの、足元がふらつき、壁に手をついてようやく体を支えた。声が震える。「……転落って、どういうことだ?花帆は?無事なのか?」「現場にいた人の話では、すぐ下の階に張り出した部分へ落ちたため、命に別状はないそうです。ただ、その後は知人の女性が付き添って病院を出たらしく、そこから先の足取りがつかめません……」絢人は電話に向かって怒鳴った。「探せ!何をしてでも探し出せ!どこにいるのか、必ず突き止めろ!」電話を切る。誰もいない部屋と、手の中の色褪せた写真を見比べた瞬間、とうとう耐えきれなくなった。その場にしゃがみ込み、声を上げて泣いた。花帆を迎えに来たのは、久住紬(くずみ つむぎ)だった。花帆がまだ売れない頃に知り合った友人で、芸能界を離れた今は花屋を営んでいる。この9年間で、花帆が唯一、本音を話せる相手だった。紬は花帆を連れ、この街を離れた。高瀬野市を抜けた頃、窓の外を流れていく景色を眺めていた花帆の頬を、ようやく涙が伝った。もう、ここに未練はなかった。二人が向
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第7話

水灯町では、水路沿いに残る古い町並みをゆっくり歩いた。たくさんの場所へ行き、たくさんの人に出会った。海や山、湖や森を巡るうちに、花帆は少しずつ自信を取り戻し、心から笑えるようになっていった。もう、18歳の頃のように絢人だけを見て、彼のことで笑ったり泣いたり、どれだけ世間に叩かれても彼のためなら耐えていた女の子ではない。今は「風待ち」として、見たい景色を自分で選び、自由に旅を続けていた。一方、絢人の生活はすっかり変わっていた。芸能関係だけでなく、仕事で知り合った経営者にも頼り、探偵事務所まで使って花帆を捜し続けた。それでも、花帆の足取りはまったくつかめない。紬が連れ出したことまではわかったものの、その紬もどこへ行ったのかわからなかった。そんな中、見つかったのが「風待ち」という旅のアカウントだった。探偵の調べでは、そのアカウントの持ち主が花帆である可能性が高いという。絢人は、残されたわずかな手がかりにすがった。それから絢人は、少しでも償おうと動き始めた。花帆の両親の墓を勝手に墓じまいし、遺骨を別の納骨堂へ移したことを自ら公表して謝罪した。さらに記者会見を開き、これまで何度も浮気をし、花帆を裏切り続けてきたことまで自分の口で認めた。長年守ってきたイメージを、自ら壊したのだ。第一線で活躍していた絢人の評判は、一夜にして地に落ちた。仕事も次々と消えていった。ファンは次々と離れ、SNSには批判があふれた。名声も仕事も、世間の声も、もうどうでもよかった。気にしているのは、花帆のことだけだった。高瀬野市の家も高級車も手放し、仕事もほとんど入れなくなった。花帆を捜すことだけに、時間も金も使った。そして、花帆が行きそうな場所を一つずつ辿り始めた。澄凪湖へも行った。湖畔にはカメラを手にした旅人が大勢いて、遠くから女性の後ろ姿を見つけるたびに胸が跳ねた。けれど、どの人も花帆ではなかった。白樺ヶ原では雪の中を歩き回り、寒さに震えた。そのとき、ふと昔のことを思い出した。花帆は寒いのが苦手だった。冬になると、花帆の冷えた手をよく自分のコートのポケットに入れて温めていた。今はもう、その手に触れることさえできない。水灯町では、水路に架かる小さな橋のそばで足を止めた。まだ売れ
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第8話

花帆を再び見つけたのは、霧雨の降る春の日だった。水灯町の石畳は雨に濡れ、水路には細かな波紋が広がっていた。水辺にある小さな茶房の前を通りかかったとき、絢人の足が止まった。窓際に、3年間ずっと捜し続けてきた人がいた。淡い色のリネンのロングワンピースを着た花帆が、長い髪を下ろして窓際に座っていた。手にはカメラがあった。窓の外に広がる雨の町並みにレンズを向け、静かにシャッターを切っていた。雨の向こうから差し込む淡い光が、その横顔をやわらかく照らしていた。穏やかな表情だった。かつての幼さも、まっすぐすぎるほどの情熱もなかった。あの頃の絶望や苦しさも、もうそこには見えなかった。以前よりずっと落ち着いていて、明るく見えた。けれど同時に、自分からずっと遠くへ行ってしまった人のようにも見えた。胸が強く締めつけられた。絢人はその場に立ち尽くし、みるみる目を赤くした。駆け寄りたかった。今すぐ抱きしめたかった。それなのに、足が動かなかった。自分が現れたら、ようやく手に入れた花帆の穏やかな時間をまた壊してしまうかもしれない。もう一度、傷つけてしまうかもしれない。絢人は傘を差したまま茶房の入口に立ち、ただ黙って花帆を見つめ続けた。やがて花帆がカメラをしまい、席を立つ。その姿を見て、絢人はようやく声を絞り出した。「花帆……」花帆の足が止まった。ほんの一瞬、肩がこわばる。それでも振り返らなかった。絢人は早足で追いつき、花帆の前へ回り込んだ。3年ぶりに間近で見る顔は、驚くほど穏やかだった。それを見た途端、涙があふれた。「花帆……ずっと捜してた。何年も、ずっと。俺が悪かった。本当にごめん」花帆は静かに目をそらした。「糸瀬さん。今の生活が好きなんです。やりたいこともあります」その呼び方に、絢人の表情がかすかに揺れた。「傷つけられたことを忘れたわけじゃない。でも、もう蒸し返したくないし、あなたの顔も見たくない」その声に迷いはなかった。「花帆、もう一度だけチャンスをくれないか?本当に、一度だけでいい」目を真っ赤にし、詰まる声で続けた。「昔の俺が最低だったのはわかってる。売れて、何でも自分の思いどおりになるって勘違いしてた。でも花帆を失って初めて、何
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第9話

花帆が昔から、困っている女の子を放っておけないことを知っていた。今の自分にできるのは、そのくらいしかなかった。手続きを終えると、絢人は水灯町を離れた。もう花帆を追わなかった。自分がそばにいること自体、今の花帆にとっては迷惑なのだと、ようやく受け入れた。そして高瀬野市へ戻った。売れない頃から暮らし、俳優として成功した街だった。けれど今は、もうどこにも絢人の居場所はなかった。絢人は、高瀬野市に小さなワンルームを借りた。かつて花帆と暮らしていた、あの古い木造アパートの近くだった。日雇いの仕事で食いつなぎ、飲食店で皿を洗ったり、倉庫で荷物を運んだりした。身なりにも構わなくなった。無精ひげを伸ばし、いつもくたびれた服を着ている。今の姿を見ただけでは、かつて俳優として第一線で活躍していた糸瀬絢人だと気づく人もほとんどいなかった。仕事がない日は、昔住んでいたアパート近くの小さな公園でベンチに腰を下ろし、行き交う若者たちをぼんやり眺めた。そんなときは決まって、花帆と二人で暮らしていた頃を思い出した。あの頃は、何もなかった。金もなく、毎日必死だった。それでも幸せだった。狭いシングルベッドに二人で身を寄せ、いつか売れたら何をしよう、どこへ行こうと、飽きるほど未来の話をした。今でも、「風待ち」の投稿は欠かさず見ていた。花帆はさらに遠くまで旅をするようになっていた。高原地帯や遠い山岳地方を旅し、やがてオーロラで知られる北欧の小国へも足を運んだ。投稿には、オーロラや雪をいただく山々、満天の星が並んでいた。写真の中の花帆は、旅を重ねるたびに明るく笑うようになっていた。絢人は画面を見つめ、小さくつぶやいた。「花帆……よかったな。やっと、自分らしく生きられるようになったんだな」そのとき、ふと思い出した。まだ二人が若かった頃、花帆は一度、オーロラを見てみたいと言っていた。いつか一緒に行こう。そう約束した。結局、その約束を叶えることはできなかった。今さら花帆と一緒に行けるわけじゃない。今さら遅い。それでも、花帆と行くはずだった場所を、今度は一人で見ておきたいと思った。空港へ向かう日は、朝から激しい雨が降っていた。絢人はタクシーの後部座席に座り、雨で滲む窓の外をぼん
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