LOGIN糸瀬絢人(いとせ あやと)と私、榎並花帆(えなみ かほ)が交際を公表した日、SNSはその話題一色になった。 絢人は人気俳優で、私はようやく名前が知られ始めた若手女優にすぎなかった。 24歳だった絢人は、交際公表を機にファン離れが相次ぐ一方、芸能界では「一途な男」として知られるようになった。 18歳の私は、それこそが本当の愛だと信じ、どれだけ叩かれても黙って耐えた。 けれど交際9年目、絢人の家で、彼が別の女と寝ているところを目にした。 見つかっても、絢人は少しも動じなかった。指にタバコを挟んだまま、軽い口調で冷たく言った。 「花帆、もう9年だろ。とっくに飽きてる。でも、『一途な男』ってイメージには、まだ花帆が必要なんだ」 「どう?俺に必要だって言われて、うれしいだろ?」 怒りで全身が震え、私は声を張り上げて「最低。よくそんなこと言えるね!」と怒鳴った。 すると絢人は、くだらない冗談でも聞いたように笑った。 「18の頃から俺と寝てたくせに。どの口が言ってるんだよ」
View More花帆が昔から、困っている女の子を放っておけないことを知っていた。今の自分にできるのは、そのくらいしかなかった。手続きを終えると、絢人は水灯町を離れた。もう花帆を追わなかった。自分がそばにいること自体、今の花帆にとっては迷惑なのだと、ようやく受け入れた。そして高瀬野市へ戻った。売れない頃から暮らし、俳優として成功した街だった。けれど今は、もうどこにも絢人の居場所はなかった。絢人は、高瀬野市に小さなワンルームを借りた。かつて花帆と暮らしていた、あの古い木造アパートの近くだった。日雇いの仕事で食いつなぎ、飲食店で皿を洗ったり、倉庫で荷物を運んだりした。身なりにも構わなくなった。無精ひげを伸ばし、いつもくたびれた服を着ている。今の姿を見ただけでは、かつて俳優として第一線で活躍していた糸瀬絢人だと気づく人もほとんどいなかった。仕事がない日は、昔住んでいたアパート近くの小さな公園でベンチに腰を下ろし、行き交う若者たちをぼんやり眺めた。そんなときは決まって、花帆と二人で暮らしていた頃を思い出した。あの頃は、何もなかった。金もなく、毎日必死だった。それでも幸せだった。狭いシングルベッドに二人で身を寄せ、いつか売れたら何をしよう、どこへ行こうと、飽きるほど未来の話をした。今でも、「風待ち」の投稿は欠かさず見ていた。花帆はさらに遠くまで旅をするようになっていた。高原地帯や遠い山岳地方を旅し、やがてオーロラで知られる北欧の小国へも足を運んだ。投稿には、オーロラや雪をいただく山々、満天の星が並んでいた。写真の中の花帆は、旅を重ねるたびに明るく笑うようになっていた。絢人は画面を見つめ、小さくつぶやいた。「花帆……よかったな。やっと、自分らしく生きられるようになったんだな」そのとき、ふと思い出した。まだ二人が若かった頃、花帆は一度、オーロラを見てみたいと言っていた。いつか一緒に行こう。そう約束した。結局、その約束を叶えることはできなかった。今さら花帆と一緒に行けるわけじゃない。今さら遅い。それでも、花帆と行くはずだった場所を、今度は一人で見ておきたいと思った。空港へ向かう日は、朝から激しい雨が降っていた。絢人はタクシーの後部座席に座り、雨で滲む窓の外をぼん
花帆を再び見つけたのは、霧雨の降る春の日だった。水灯町の石畳は雨に濡れ、水路には細かな波紋が広がっていた。水辺にある小さな茶房の前を通りかかったとき、絢人の足が止まった。窓際に、3年間ずっと捜し続けてきた人がいた。淡い色のリネンのロングワンピースを着た花帆が、長い髪を下ろして窓際に座っていた。手にはカメラがあった。窓の外に広がる雨の町並みにレンズを向け、静かにシャッターを切っていた。雨の向こうから差し込む淡い光が、その横顔をやわらかく照らしていた。穏やかな表情だった。かつての幼さも、まっすぐすぎるほどの情熱もなかった。あの頃の絶望や苦しさも、もうそこには見えなかった。以前よりずっと落ち着いていて、明るく見えた。けれど同時に、自分からずっと遠くへ行ってしまった人のようにも見えた。胸が強く締めつけられた。絢人はその場に立ち尽くし、みるみる目を赤くした。駆け寄りたかった。今すぐ抱きしめたかった。それなのに、足が動かなかった。自分が現れたら、ようやく手に入れた花帆の穏やかな時間をまた壊してしまうかもしれない。もう一度、傷つけてしまうかもしれない。絢人は傘を差したまま茶房の入口に立ち、ただ黙って花帆を見つめ続けた。やがて花帆がカメラをしまい、席を立つ。その姿を見て、絢人はようやく声を絞り出した。「花帆……」花帆の足が止まった。ほんの一瞬、肩がこわばる。それでも振り返らなかった。絢人は早足で追いつき、花帆の前へ回り込んだ。3年ぶりに間近で見る顔は、驚くほど穏やかだった。それを見た途端、涙があふれた。「花帆……ずっと捜してた。何年も、ずっと。俺が悪かった。本当にごめん」花帆は静かに目をそらした。「糸瀬さん。今の生活が好きなんです。やりたいこともあります」その呼び方に、絢人の表情がかすかに揺れた。「傷つけられたことを忘れたわけじゃない。でも、もう蒸し返したくないし、あなたの顔も見たくない」その声に迷いはなかった。「花帆、もう一度だけチャンスをくれないか?本当に、一度だけでいい」目を真っ赤にし、詰まる声で続けた。「昔の俺が最低だったのはわかってる。売れて、何でも自分の思いどおりになるって勘違いしてた。でも花帆を失って初めて、何
水灯町では、水路沿いに残る古い町並みをゆっくり歩いた。たくさんの場所へ行き、たくさんの人に出会った。海や山、湖や森を巡るうちに、花帆は少しずつ自信を取り戻し、心から笑えるようになっていった。もう、18歳の頃のように絢人だけを見て、彼のことで笑ったり泣いたり、どれだけ世間に叩かれても彼のためなら耐えていた女の子ではない。今は「風待ち」として、見たい景色を自分で選び、自由に旅を続けていた。一方、絢人の生活はすっかり変わっていた。芸能関係だけでなく、仕事で知り合った経営者にも頼り、探偵事務所まで使って花帆を捜し続けた。それでも、花帆の足取りはまったくつかめない。紬が連れ出したことまではわかったものの、その紬もどこへ行ったのかわからなかった。そんな中、見つかったのが「風待ち」という旅のアカウントだった。探偵の調べでは、そのアカウントの持ち主が花帆である可能性が高いという。絢人は、残されたわずかな手がかりにすがった。それから絢人は、少しでも償おうと動き始めた。花帆の両親の墓を勝手に墓じまいし、遺骨を別の納骨堂へ移したことを自ら公表して謝罪した。さらに記者会見を開き、これまで何度も浮気をし、花帆を裏切り続けてきたことまで自分の口で認めた。長年守ってきたイメージを、自ら壊したのだ。第一線で活躍していた絢人の評判は、一夜にして地に落ちた。仕事も次々と消えていった。ファンは次々と離れ、SNSには批判があふれた。名声も仕事も、世間の声も、もうどうでもよかった。気にしているのは、花帆のことだけだった。高瀬野市の家も高級車も手放し、仕事もほとんど入れなくなった。花帆を捜すことだけに、時間も金も使った。そして、花帆が行きそうな場所を一つずつ辿り始めた。澄凪湖へも行った。湖畔にはカメラを手にした旅人が大勢いて、遠くから女性の後ろ姿を見つけるたびに胸が跳ねた。けれど、どの人も花帆ではなかった。白樺ヶ原では雪の中を歩き回り、寒さに震えた。そのとき、ふと昔のことを思い出した。花帆は寒いのが苦手だった。冬になると、花帆の冷えた手をよく自分のコートのポケットに入れて温めていた。今はもう、その手に触れることさえできない。水灯町では、水路に架かる小さな橋のそばで足を止めた。まだ売れ
絢人はドアを何度も叩いた。「花帆!開けてくれ!」手のひらが痛くなるほど叩いても、中からは物音ひとつしない。「花帆!いるんだろ!」返事はなかった。焦りに耐えきれず、思いきりドアを蹴りつけ、力ずくでこじ開けた。部屋の中は、息が詰まるほど静まり返っていた。「花帆!」リビングも寝室も、書斎も浴室も、片っ端から探した。けれど、どこにもいない。そこで見つけたのは、一枚の古い写真だけだった。写真に写っていたのは、7年前。高瀬野市の半地下のワンルームで、色褪せたTシャツを着た奏汰が、エキストラの仕事を終えたばかりの花帆を抱き寄せている。古びた壁を背に、二人とも幸せそうに笑っていた。絢人はその写真を見つめたまま、力が抜けたようにベッドの端へ座り込んだ。涙が、初めて止めどなくあふれた。本当に、花帆を失ってしまったのかもしれない。18の頃からずっとそばにいて、自分だけを信じてついてきた花帆を。そのとき、担当マネージャーから電話が入った。「糸瀬さん、大変です。榎並さんが今日の午後、病院に隣接する立体駐車場の屋上階から転落したそうです!」一瞬、何も考えられなくなった。絢人は勢いよく立ち上がったものの、足元がふらつき、壁に手をついてようやく体を支えた。声が震える。「……転落って、どういうことだ?花帆は?無事なのか?」「現場にいた人の話では、すぐ下の階に張り出した部分へ落ちたため、命に別状はないそうです。ただ、その後は知人の女性が付き添って病院を出たらしく、そこから先の足取りがつかめません……」絢人は電話に向かって怒鳴った。「探せ!何をしてでも探し出せ!どこにいるのか、必ず突き止めろ!」電話を切る。誰もいない部屋と、手の中の色褪せた写真を見比べた瞬間、とうとう耐えきれなくなった。その場にしゃがみ込み、声を上げて泣いた。花帆を迎えに来たのは、久住紬(くずみ つむぎ)だった。花帆がまだ売れない頃に知り合った友人で、芸能界を離れた今は花屋を営んでいる。この9年間で、花帆が唯一、本音を話せる相手だった。紬は花帆を連れ、この街を離れた。高瀬野市を抜けた頃、窓の外を流れていく景色を眺めていた花帆の頬を、ようやく涙が伝った。もう、ここに未練はなかった。二人が向
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