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第三章 悪夢の夜明け②

 宿屋の仕事が忙しいのは朝だけではない。宿泊客が訪れる夕方以降が忙しいのは言うまでもないが、各部屋の備品の補充やベッドメイキング、夕飯の下準備など、昼の間にも済ませるべき仕事は色々とある。  これらのうち、客室まわり業務はユーフェの担当だ。ベッドに洗い立ての清潔なシーツを敷き、窓辺の鉢植えの花に水をやり、水さしやサービスの焼き菓子を用意し――朝のイーシュの客室清掃に不備があれば、しっかり者の彼女は説教まできっちりとしてくれる。  ユーフェの仕事内容は、朝晩の食事の給仕や宿泊客の出迎えと見送り、洗濯や客室の用意などと多岐にわたる。彼女に言わせれば、エルフェン家の男たちは細やかな気配りや客あしらいに向いていない。  かといって、イーシュも別にサボっているわけではない。朝の清掃の後は、祖父のグウィンの指示の下、夕飯の下拵えの手伝いをしていた。  イーシュはくるくると包丁で大根の皮を剥きながら、 「じいちゃん、今日何作るの?」 「今日はポトフだ」  グウィンは大鍋で鶏の手羽先の骨を煮込みながら答えた。言われてみれば、鍋から香り立つこの出汁の匂いはそれらしいものだった。 「いいね、今日は寒いし」 「だろう?」  ポトフはグウィンの得意料理だ。以前に勤めていた王都のレストラン仕込みの味で、一般家庭で作られるものに比べて、上品で洗練されている。冬場、宿泊客にとても人気があり、イーシュもとても好きな料理だ。  ふいにグウィンが、背後にある食材を保管している木箱を漁り出した。木箱の中をまさぐりながら、あれ、と首を傾げている。イーシュは包丁を動かす手を止め、首だけでグウィンを振り返る。 「じいちゃん、どうしたの?」 「いや、今日使うセロリがどこかにあったはずなんだが……」 「昨日の昼に余ってた肉と炒めて食べなかったっけ」 「あー……」  グウィンとイーシュは顔を見合わせる。このことが二階で客室の用意をしているユーフェの耳に入ろうものなら、在庫管理がなっていないと怒られてしまいそうだった。 「イーシュ、悪いんだが、農家のルゴーのところに行って、今日使う分のセロリを買ってきてくれないか?」 「うん、わかった」  グウィンに銅貨を手渡され、イーシュは包丁を置いた。銅貨と手をエプロンのポケットに突っ込むと、イーシュは勝手口から外へ出た。  宿の外に出る
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第三章 悪夢の夜明け③

 日が沈み、宿屋の一階は賑わいを見せていた。  この日は五部屋ある客室が全て埋まっていた。宿泊客は、王都に用事がある者や、反対に用事を済ませてきたが王都の高い宿に泊まりたくない者が多い。  グウィンの料理に舌鼓を打つ客や酒に酔って陽気に騒ぐ客のテーブルの間を縫って、ユーフェが次々に入る注文や客のちょっかいを捌いていた。常ならば、イーシュの夜の仕事は皿洗いだけだったが、大賑わいを見せる今夜は手が足りず、ユーフェから空いた皿やグラスをテーブルから下げる役割を賜った。 「そこの嬢ちゃん、酒追加ー!」 「こっちにも頼む! あとツマミ!」 「少々お待ちくださいねー! おつまみでしたらサラミかチーズ、干した果物ならすぐご用意できますよ!」 「えーじゃあそれ全部でぇ!」 「はーい! おじいちゃーん、おつまみ全種盛りおねがーい! あとお酒まだあるー?」  宿屋の看板娘として名高いユーフェは慣れたふうに酔っ払いたちの相手をしながら、厨房のグウィンへと注文を投げる。 「お、そこの坊主、これ飲むかー?」 「いや、その、お酒はちょっと……」  明らかに酔っ払いとわかる客に絡まれ、イーシュはたじろぐ。そこにさっとユーフェが有無を言わさぬ笑顔で割って入る。 「はーい、お客様、ご注文の品をお持ちしました! この子まだ子供なんで飲ませないようにお願いしますねー! ……イーシュ、あんたは奥の席のお皿下げちゃって。次の料理が出せないわ。忙しいんだから、ちゃんと周り見て動いてよね」 「う、うん……」 「いやー、お嬢ちゃん格好いいねえ、きっと将来いい女になるぜー」 「はいはい、ありがと」 「なあ、じゃあ代わりに嬢ちゃん一杯だけ付き合わねー?」 「んー、また五年後に誘ってくれたら考えるわ」  ちゃきちゃきとして快活なユーフェが絡んでくる酔っ払いたちを華麗に捌いていくのを尻目に、イーシュはそそくさと奥の席の皿を下げに行く。カウンター席で猛スピードで酒瓶を空けていた壮年の男が、揚げて塩をまぶした細切りの芋を齧りながらこちらを振り返り、 「なあ坊主、知ってっかー? さっき王都を出てくるときに聞いたんだけどよー、最近この辺の街道に盗賊が出るんだってよー」 「盗賊、ですか?」  男の口から物騒な単語が内容の割に陽気に発され、イーシュは眉を顰めて聞き返した。周りの席から、「そ
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第四章 聖典の悪魔①

 青藍の空に朝日が上り始めていた。東の空に浮かぶ薄桃色を帯びた雲が美しい。  スフェルは、黒鹿毛の愛馬の背で、朝の冷たい空気を切っていた。  王都ルランテが近づき、街の外壁とその中に聳え立つ王城が遠くに見え始めたとき、彼は手綱を握る手に力を込めた。幼いころから一緒にいる黒みがかった褐色の馬は、彼の意図を正しく理解し、足を止める。 「スフェル殿下? どうかなさいましたか?」  後ろを走っていた栗毛の馬が止まる。背後から鳶色の髪の青年の怪訝そうな声が彼に投げかけられる。  スフェル・ローデリア――アッシュベージュの髪にヘーゼルの瞳を持つ彼はルシティア王国の王弟だ。日々、兄王ライセルの補佐をすべく、政務に励んでいる。もっとも、近頃は頭を抱える案件が多く鬱屈していた。  数日前に国内西部のレシェールから、客人が訪れていた。レシェールは国教たる聖セレーデ教の総本山がある都市である。教会からの使者――ヴェルマ・イェール大司祭が厄介ごとを持ち込んできていた。  七年前に南方のアルクスの町を焼き、指名手配中の『紅の魔女』が数週間前に王都の近くに出没していた痕跡があったらしい。そのため、その『魔女』の捜索に国として協力して欲しいというのが鼻持ちならない古狸――ヴェルマ大司祭の言い分だった。  この国において、教会は一定以上の政治的な発言力を持つ。ただでさえ、王都近辺の治安の悪化への対応に奔走させられている現在、面倒な話を持ってきてくれたものだとスフェルは思う。王家としては、教会の意向は無視できるものではないため、ライセルや宰相のウィアスも頭を悩ませていた。  スフェルは少しでも気分を晴らすべく、夜も明けきらぬうちから、従者のセイランを連れ、遠駆けに出ていた。朝食までに城に戻るべく、王都へ向けて愛馬のオリーブを走らせていたところ、彼は街道脇の木の根元で眠る灰色の髪の少女を見つけた。  近頃は物騒だというのに呑気なものだとスフェルは顔を顰める。鎧を脱ぎ、鞍に身体を押し当てながら、馬上から降りる。 「セイラン。オリーブを頼む」  鼻面を擦り寄せてきた愛馬の首筋をぽんぽんと撫でてやると、スフェルは従者の青年へと手綱を預けた。  スフェルは眠る少女に近づくと、あることに気づいた。彼女は怪我をしていた。誰がやったのか、申し訳程度に止血はされていたが、右肩に血が滲み、衣
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第四章 聖典の悪魔②

 その日の午後、少女が目を覚ましたとの連絡を施療院から受けたスフェルは再び、城を抜け出すことにした。朝、帰城して、セイランと共に説教の第二波と第三波をやり過ごしてすぐのことだった。 「スフェル殿下……そのくらいのことでしたら、私を向かわせればそれで済むことではないでしょうか? 先程まで、陛下にも将軍閣下にもこってり絞られていたのをお忘れですか?」  スフェルの愛馬の背に淀みない慣れた手付きで鞍を乗せてやりながら、セイランは己の主へと苦言を呈する。ちらりと目線を動かすと、隣に繋いでいたセイランの馬であるクローチェががりがりと前掻きを繰り返しており、セイランはまったくどいつもいつもという気分になる。溜息を吐きつつ、黒鹿毛の馬の腹帯をぐっと締め上げると、耳を絞った黒褐色の顔面と後ろ足が彼をめがけて飛んできた。何だか今日は踏んだり蹴ったりだった。スフェルは愛馬の鼻面をわしゃわしゃと撫でてやりながら、 「あの少女を保護したのは私だ。施療院に任せきりにするというのも無責任ではないか」 「殿下……やけにあの娘を気にしていらっしゃるようですが、あの者に何かあるんですか? あと、すぐそうやってオリーブを甘やかすのはやめてください、私がオリーブにナメられますし、クローチェにも悪影響で何もいいことがありません」  名前を呼ばれた栗毛の馬がセイランの背中に顔を擦り寄せてきた。たぶん、これは顔についた虫を擦り付けられている。せっかく冬に向けて新しい上着をおろしたばかりだったのに、とセイランは溜息を零す。  そんな従者の青年の様子に特に意に介したふうもなく、これは必要なコミュニケーションだなどと宣うと、スフェルは真顔になる。彼は辺りに人気がないことを確認すると、セイランへと囁いた。 「セイラン。昨晩のフィエロの事件の捜査が教会預かりになるという話を覚えているか?」 「ええ……しかし、それが何か……?」  セイランは怪訝そうに頷く。 「お前も気づいているだろうが、おそらく何らかの形であの少女は昨夜の事件に関わっている。そして、教会側が全滅したはずのフィエロの生き残りかもしれない彼女に行き着くのも時間の問題だ」 「まあ、そうでしょうね」 「私たちも可能な範囲で彼女から話を聞く必要があるが、それ以上に教会から彼女を守ってやる必要がある。今の教会は彼女に教会の満足する内容を証
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第四章 聖典の悪魔③

 スフェルがエミルを保護して、三ヶ月ほどが経ち、王都には春が訪れていた。  エミルの記憶は一向に戻る様子はなかったが、傷が癒え、施療院を退院した後、寝食の場は隣接する礼拝堂へと移っていた。今のエミルはシスターの見習いと雑用をして日々を過ごしている。  退院前にスフェルはエミルを訪ね、城で自分の侍女になる気はないかと打診したが、すぐにその場で断られた。いつまでも守られるのではなく、自分の足で立って生きていきたいのだと彼女は言った。そして、彼女は施療院の隣にある聖セレーデ教会王都礼拝堂の神父マウロを訪ねて頼み込み、生きていくための手段と衣食住を自力で手に入れた。  権力に阿る様子のない彼女をスフェルはすっかり気に入り、時折、城を抜け出しては、生活に不自由はないかと様子を見に来ている。今日も公務と公務の間に無理矢理時間を確保し、スフェルはセイランを伴い、城下の礼拝堂へと足を運んでいた。 (誰かに見られている)  城からの道中、何者かの視線を感じていた。気になったセイランは建物の中へは入らず、柵に繋いだ馬たちと共に外でスフェルを待っていた。  懐から革袋を出し、角砂糖をいくつか手に乗せて黒褐色の毛並みの主君の愛馬へと与えてやりながら、セイランは気配を探る。神聖騎士団に属する僧兵がエミルを狙ってレシェールから差し向けられたのかと思っていたが、こちらを窺っているのは明らかに戦い方を知っている人間ではなさそうだった。一応、隠すつもりはありそうだったが、気配の隠し方が拙過ぎる。  視線の元を辿ると、隣の施療院の角にカーキのフーデッドポンチョを纏った小さな人影があった。顔はフードで隠れていてよくわからなかった。 (……子供?)  背格好からして、エミルよりおそらく二、三歳年下の少年だと思われた。さほど有害そうには見えなかったが、食い入るように礼拝堂の扉を見つめているのが気にかかる。  セイランは馬の世話を装って、スフェルが建物から出てくるまで、その場で少年の様子を観察し続けた。  三十分ほどして、建物の扉が開き、スフェルとエミルが楽しげに談笑しながら姿を現した。 「それでは、エミル。また来る。何か不自由あれば、いつでも言ってくれ」 「とんでもないです、スフェル殿下。それよりもあまりセイラン様を困らせないでくださいね。何だか少しお疲れのようでしたから」  
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第四章 聖典の悪魔④

 エミルには一つ、誰にも言っていない秘密がある。彼女をこの王都礼拝堂に置き、導いてくれているマウロにも、彼女を気にかけ、事実上の庇護者となっているスフェルにも言ったことはない。  エミルは三年前、それまでの記憶を失ったが、たった一つだけ脳裏に焼き付いている光景があった。  記憶の中で、エミルは灰色の髪と濃茶の瞳を持つ十歳くらいの少年の腕に抱かれていた。右肩を矢で射られ、血を流す彼女を見て、少年は必死な顔で、姉さんと呼んでいた。  少年が片手を宙に掲げると、双眸からすっと温度が抜け落ちた。瞳が色を変え、琥珀色の光を放つ。冬の夜空を圧倒的な冷たい美しさを帯びて煌めく何かが埋め尽くす。エミルはぼやける視界でそれを見上げながら、少年の名を叫ぶ。 「――!」  エミルはその少年を何と呼んだのか覚えていない。彼女の中に残り続けているこの僅かな記憶はここで終わっている。これが何を意味するものであるか、彼女にはわからない。  少年は、エミルのことを姉さんと呼んだ。記憶を失う前の自分には弟がいたのかもしれないと彼女は思う。彼はどうなったのだろう。生きているのだろうか。マウロやスフェルにこの少年について尋ねれば、何か教えてくれるかもしれないとは思うが、彼女は何となくこのことについては、誰にも言わない方がいいような気がしていた。 スフェルがお忍びでエミルの元を訪ねてきてから数日が経った。エミルは、マウロが礼拝堂の門前に何か貼り紙をしているところに出くわした。 「神父様、そちらは何ですか?」  次のミサのときに開催する予定のチャリティーバザーの告知か何かかと思いながら、エミルはマウロの手元を何気なく見やった。視界に飛び込んできた情報に、エミルは苔色の双眸を見開き、静かに息を呑んだ。 「指名、手配……?」  その貼り紙に描かれていたのは、エミルの記憶に焼きついた、あの少年と瓜二つの似顔絵だった。似顔絵の下には「悪魔の祝福を受けし『災いの子』イーシュ・エルフェン」と書かれている。 「ええ、レシェールから回ってきたものでして……現在、王国全土の礼拝堂や施療院など、すべての教会関連施設に同じものが回っているはずです」  思わず呟いたエミルの言葉に、手を止めてマウロは頷いた。彼女は言葉と表情に感情が現れないように努めながら、淡々と問うた。 「その少年は……何をしたんです
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第五章 贖罪と烙印①

 リスルがヴェレーンを訪れてから、一つの季節が巡った。この季節になると、道すらも埋もれてしまうほどの豪雪に襲われるのだと、彼女が身を寄せることになったこの村の礼拝堂の神父が言っていた。  この寒村を秋口に訪れてから、リスルはしばらくの間は宿に滞在していたが、神父に薬草類を含む植物の知識を見込まれ、見習いシスターとして礼拝堂で住み込みで働くようになっていた。  この村の礼拝堂はレシェールに総本山を置く聖セレーデ教会に連なる施設である。しかし、強硬派の影響はこのような辺境の地にまで及んでいることはなく、人事権についても現地の責任者である神父に一任されているような状態だった。  リスルも最初は自分を害する教会に連なる施設に籍を置くことを躊躇ったが、この村の礼拝堂は互助組織的な側面が強く、差し当たっては危害を加えられる可能性も低いと判断した。  自分に残された時間は少ないとはいえ、衣食住を確保する必要があったし、イーシュの様子も気にはなっていた。  この村に来てすぐのころに出会って以来、身を寄せている村長の家から出てくることが少なく、リスルはイーシュとあまり顔を合わせてはいない。あれから一体、どう過ごしているのかわからないが、思いつめて自らを追い詰めていなければいいとリスルは思う。彼自身の自らを責める感情が募ってしまえば、また異能を暴走させてしまう可能性が高い。それが教会の捜索部隊に居所を掴まれるきっかけにもなり得るし、そうなればその余波がリスルにも及ぶことは想像に難くなかった。できることならば、もう自分たちを追い回す教会の追手などとは関わることなく、残り少ない余命を穏やかなに過ごすことをリスルは渇望していた。リスルはここでの生活は自分の素性が露見するか、自身の生命が尽きるまでの最後のモラトリアムにしようと決めていた。 黒のロングドレスに白の高い詰め襟、長い茶色の緩やかな巻毛を覆う黒のベール――シスターの装束もなんとなく板についてきたリスルは与えられた部屋でせっせと調薬に励んでいた。元からある程度の植物に対する知識はあったものの、この礼拝堂の一角で寝起きするようになってから、神父のレイモンによって調薬や医療の知識をリスルは仕込まれていた。それらを学ぶことはリスルにとっては思いの外、楽しかった。未だに聖典の一節すらも諳んじられないことについては、レイモンにもこの
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第五章 贖罪と烙印②

時折雪に足を取られながら、リスルが申し訳程度に存在している山道を登っていくと、岩場の奥の洞窟で少年の痕跡は途絶えていた。幸いにも冬の眠りについた獣たちの寝ぐらではなさそうだった。  洞窟の中を彼女が進んでいくと、暗がりに少年のものらしき人影があった。彼女はイーシュの姿を認めると、その名を呼ぶ。しかし、次の瞬間、洞窟の中に殺気が満ちる。すっかり感情と温度が失われた少年の双眸は、普段の焦げ茶色ではなく、琥珀色の輝きを放っていた。 (力がまた、暴走している……!)  無数の鋭利な金属の欠片が氷柱のように洞窟の上壁からこちらを見下ろしている。リスルは唇を噛む。  リスルの持つ能力は《ヴィサス・ヴァルテン》にしろ《レーヴェン・スルス》にしろ、どちらも荒事にはあまり向いていない。一方、攻撃的な能力を持つイーシュの能力の前では、その暴走を止めようにも、なかなかに困難を極めそうだった。 (だけど……わたしはイーシュを止めたい。どれだけ難しいことだったとしても、彼の暴走を止めて、きちんと向き合いたい)  イーシュの力に対してどれだけ抗えるかわからないけれど、やるしかないとリスルは思った。先程、彼の居場所を掴むために一度《ヴィサス・ヴァルテン》の力を行使したことで疲労を感じていたが、そうも言ってはいられない。  洞窟の入り口で吹き荒ぶ雪混じりの風へとリスルは意識を向ける。腹に力を込め、右腕へと力の流れを集める。彼女の髪と瞳はまたしても紅い輝きを放っていた。 (あれを叩き落さないと……! じゃないと、危なくてイーシュに近づけない……!)  リスルの意思に応じるように、彼女の頭の中で”何か”の声が響く。先程とは異なり、それは女の声色をしていた。 『与えましょう。凍てつく風を従える力を』  冷たい礫を伴った風が洞窟の中を吹き荒れた。同時に上壁を離れ、二人へと向かって降り注ごうとしていた鋼の雨を雪混じりの風が幾ばくか叩き落としたが、大した効果はない。地面へと落としきれなかった金属の欠片が飛来し、容赦なくリスルとイーシュの身体を襲う。金属の欠片が身体に突き刺さり、裂傷からは血液が溢れ出した。  いつの間に再生成されたのか、物騒な美しさを秘めた金属の欠片が無数に空中に浮かんでいた。 (駄目、これじゃイーシュを止められない……!)  イーシュが己の意思とは関係なくこち
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-19
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第五章 贖罪と烙印③

 日没が近づき、東の空に夜の藍色が滲み始めると、リスルは火の始末をし、下山の準備を始めた。二人とも異能を行使した後で、身体に疲労が残っているとはいえ、これ以上雪山に留まり続けるのは危険だと彼女は判断した。  無言のまま、二人が雪に足を取られつつも、慎重に下山を続ける中、リスルのよく知る声が近くで聞こえた。錫杖を携えた金髪に青い目の壮年の男が雪まみれの姿でそこに立っていた。 「シスター・リスル。イーシュ君。無事でよかった。先程、あなたたちを探して、村にレシェールから派遣された神殿騎士団の捜索部隊が来ました」 「な……」  リスルはイーシュを庇うようにして、レイモンの前に立ちはだかった。わざわざ探しに来たということは、この人は何も話していないにも関わらず、恐らく自分たちの抱える事情に気づいている――その事実がリスルの頭の中で警鐘を鳴らしていた。このまま、レイモンによって神聖騎士団に自分たちの身柄を引き渡されるようなことになれば、最悪の場合、リスルがアルクスで体験した悪夢がヴェレーンで再現されることになる。 イーシュが目を伏せる。その灰色の髪には静かに雪が降り積もっていく。  無理もない、とリスルは寒さでかさついた唇を噛んだ。イーシュがこうも頻繁に異能を暴走させていれば、教会になにも嗅ぎ付けられないほうがおかしい。 「それで、レイモン神父。こんなところまでわたしたちをわざわざ探しに来てどうするおつもりですか。捜索部隊に引き渡すおつもりで?」  彼は少し躊躇うように目を伏せると、リスルの言葉を否定した。 「捜索部隊には地方の自治権を理由にお帰りいただきました。そのような者がいれば、このような田舎では目立ちますし、すぐに気づかないはずはありませんから、と。とにかく現状心当たりはありませんが、何か気付き次第、ご連絡差し上げるとのことでご納得いただきました」 「それで、結局この子とわたしをどうなさるおつもりですか、レイモン神父? わたしたちの事情について、ご存知なのでしょう?」 リスルは険しい視線と声音で上司であるレイモンを問いただす。そんなに警戒しないでください、とレイモンは苦笑しながら、 「失礼ながら、お二人の素性については私とシスター・アイリスとで調べさせていただきました。あなたたちは『悪魔の力』をその身に宿した異能者――『紅の魔女』と『災いの
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-19
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第五章 贖罪と烙印④

 イーシュと二人、薄暗く寒い空間に取り残されたリスルは、レイモンが置いていってくれたコートを身を寄せ合って被った。腰を下ろした石の床は冷たく、臀部の熱を奪っていくが、ないよりはだいぶましだった。よい素材が使われているのか、外套が触れている部分はとても暖かかった。  沈黙の中、この時間にも関わらず、神父に何事か相談に訪れる人々の足音や会話がどこか遠くから聞こえていた。  リスルは寒さで白くなった吐息と共にその沈黙を破った。囁くように彼女は傍らの少年に問うた。 「イーシュは……自分の異能が怖い?」  彼はこくりと頷くことで彼女の言葉を肯定した。 「そう……わたしも自分の力が怖かったわ。いいえ、今も怖い。けれどね、自分の力について知ることで、この力と折り合いをつけて付き合っていくことはできるわ」 「リスルさんは、リスルさん自身や俺の力について、何か知っているんですか?」  イーシュが尋ねると、リスルは『悪魔の力』について調べたくてレシェールまで行ったことがあるのよ、と言った。イーシュは自分ではまずありえないその行動力に感服しつつも、顔を若干引きつらせながら、 「うわ……無茶しますね……。レシェールって教会の総本山があるところじゃないですか……教会に探されている身でそんなところに乗り込んでよく生きて帰ってこれましたね……」 「教会が探しているのは赤い髪と目の女だもの、巡礼者のふりをして堂々としていれば、案外気づかれないものよ」 「そうですか……」  リスルの意外な豪胆さにイーシュは感心を通り越して呆れを覚える。 「話は戻るけれど、レシェールでわたしは、聖典の悪魔について研究している神学者から運良く資料を手に入れることができて、自分の力について知ることができたの」  荷物を漁って資料を盗み出したことは伏せ、リスルは言葉を続ける。 「わたしの力は自然に宿る”モノ”の声を聞き、力を借りることができる《ヴィサス・ヴァルテン》と生命に関する奇跡を起こす《レーヴェン・スルス》。そして、あなたのその力は恐らく……鋼の雨を降らせる《アイゼン・メテオール》よ」 「《アイゼン・メテオール》……」  イーシュは口の中で今耳にしたばかりのその言葉を繰り返し呟いた。耳馴染みのない言葉のはずなのに、何となくしっくりとくる響きだった。 「あなたの力は非常に攻撃性の高い
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