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All Chapters of 最後の奇跡: Chapter 1 - Chapter 10

30 Chapters

プロローグ 殺戮の魔女

 何もない荒野を一人の女が旅していた。彼女の緩やかな曲線を描く茶色の巻毛を吹き抜ける風が揺らしていく。うっすらと浮いた額の汗を彼女は手の甲で拭う。この辺りの夏は相変わらず蒸し暑い。 (十年ぶりか……)  彼女は燦々と輝く白日の太陽にグリーンの目を細めた。  この辺りは今でこそ吹きっさらしの荒野となってしまっているが、十年前――彼女がこの地に住んでいたころは葡萄栽培やワインの醸造が盛んな朴訥とした田舎町があった。  この場所に町があったころ、ある一人の少女がいた。少女は、悪魔の祝福を受けた眷族が手にするという人智を超えた力をその身に宿した咎で教会により火刑に処せられることとなった。西の宗教都市で教皇の代替わりが行なわれ、教会の方針として『悪魔の力』に関する取り締まりが強化され始めた時期のことだった。  教会関係者により、心身ともに痛めつけられ、極限状態に追いやられた少女は己の異能を行使し、一夜にして町や人々を炎で包み、殺戮の限りを尽くした。焼け跡には灰しか残らなかった。  少女はこの騒ぎに紛れて姿を消した。『紅の魔女』――赤い髪と瞳に因んでつけられた通り名と共に少女は各地を転々としているという。  その少女は十年分年を重ね、生きることに疲れ切った二十代後半の女となっていた。  自らの手で滅ぼしたこの地に彼女が足を伸ばしたのにはさしたる理由はない。十年という節目のタイミングに何となく足が向いたというだけのことだった。  彼女は小高い丘の上に立ち、かつて町があった方角に目をやる。十年前の処刑の日の夜にも、彼女はこの場所で町を眺めていた。  十年前に見たものは焼けた町の残骸に揺れる炎の姿だった。しかし、今、彼女の網膜に映っているのは生い茂った雑草の群れだった。 (案外、何も思わないものね……)  昔とは異なる姿の故郷に彼女は淡々とそう思った。純粋に故郷を懐かしむにはいろいろあり過ぎ、かといって自分のしたことを考えれば、忘れてしまうこともできなかった。年月だけは重ねたけれど、記憶の蓋を開ける気になれるほどまだ過去にできておらず、感傷にも感慨にも浸れない。  彼女は冬が来る前に北へ向かうつもりだった。しばらく、国内東部を転々としていたが、最近、『悪魔の力』を持つ能力者についての噂をしばしば耳にするようになっていた。幸い、それは彼女自身についてのもので
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第一章 絶望の残焔①

 アルクスはルシティア王国の南部に位置する田舎町だ。温暖な気候を活かした田園地帯が広がっており、特産品のワインは国内だけでなく、近隣の諸外国からも高い評価を受けている。  リスル・フレンツァは、この町のとある葡萄農家の娘である。齢十七になる彼女は、葡萄を育てながら、両親と体の弱い六つ下の弟と暮らしていた。  リスルは額にうっすらと浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、朝の空を見上げる。夏は終わりかけているが、まだ早い時間だというのに暑さの片鱗が顔を覗かせていた。  薄汚れた麦わら帽子を被った恰幅の良い中年の男――リスルの父親のラルゴは娘の姿を認めると、おーいと声を上げる。 「リスル、今日は天気はどうだー?」 「大丈夫、今日も晴れそうよ」 リスルは仕事の邪魔にならないようにうなじで結わえた茶色の髪を揺らして振り返ると、ラルゴへと叫び返す。  ゆっくりと薄雲が流れていく空にはどこまでも青色が広がっている。葡萄畑を吹き過ぎていく風からは湿気を感じるが、このくらいなら雨が降ることはないと直感が告げていた。  リスルは物心ついたころからこういったことが得意だった。誰に習ったわけでもなく、本能的に天気を言い当てることができた。それどころか、水のありかを当てること、天変地異をいち早く察知することすら可能だった。他人よりも勘が鋭いのか、たまに人ならざる自然の声を聞くこともあったが、稀に動物じみた勘を持つ者が生まれるという近くの山岳地帯の少数民族から嫁いできた母親のアリエは血筋的なものではないかと言う。少々大らかすぎる父親のラルゴは何にせよ便利なんだからいいんじゃないかと娘の特技を極めて楽天的に捉えていた。自然を相手にする葡萄農家という家業においてリスルの特技が非常に役立つものであることは事実だった。  リスルは籐の籠を小脇に抱えて畑へと出た。空を覆い隠すように広がった枝々から、袋掛けの紙越しに果実がその深い赤紫色を覗かせていた。  リスルは頭上から垂れ下がる果実の具合を一つ一つ確認していく。実り方や外皮の色や張り、果粉(かふん)の付き具合など確認することは色々ある。  リスルはある房に目を止める。とても深い色の果粒(かりゆう)の表面には白く粉っぽいものが付着し、どれも張りがいい。花軸(かじく)に連なる赤紫色の果房(かぼう)は互いに押し合うようにしてぎっしりと詰まっ
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第一章 絶望の残焔②

 ダークブラウンのレンガで造られたこじんまりとした一軒のブティックワイナリーの前でラルゴは足と手押し車を止めた。じっとりとした暑さに汗が吹き出し、額を流れていく。空色と白のストライプ柄が太くはっきりとしたコットンシャツの肩口でラルゴがぞんざいに顔を拭っているのを横目に、リスルは可愛らしい赤色のドアをコンコンと叩く。 「ハンスさん、いらっしゃいますか?」  はーいともほーいともつかない野太い声が扉越しにくぐもった返事をよこす。しばらくの後に、ラルゴと似たような年恰好の少し困ったように眉を下げた男がわずかに扉を開けて顔を覗かせた。 「ああ、ラルゴさんとリスルか。いつもの納品かい? だったらちょっと裏に……」  辺りを窺うように視線を巡らせながら、ハンスは声を潜めてそう言った。時折、ちらりと茶褐色の視線がリスルの顔面を掠めていくが、妙に視線が合わない。何かおかしなところでもあっただろうかと、彼女は上から下へと己の全身にざっと視線を滑らせたが、いつも通りエプロンが少し土や葡萄の汁で汚れているだけで、特に不審な点は見当たらなかった。  恐る恐るといったふうに玄関から出てきたハンスに誘導され、ラルゴは手押し車を押しながら、建物の裏手へと消えていった。リスルは訝しげに思いながら、壮年の男二人の背中を見送る。 「リスル。ちょっと」  再度、玄関の赤い扉が必要最小限に開かれ、リスルは腕を引っ張られる。どこか気づかうような表情を浮かべたハンスによく似た面差しの娘の顔を認めると、 「ユリア、どうしたの?」 「どうしたって……ああ、もうやっぱり」  いいから入って、と亜麻色の髪をボブカットにした娘に有無を言わさず家の中へと引き摺り込まれる。いつもは小動物のようにくりくりとして明るい茶褐色の双眸があまりに真剣な光を湛えていたため、リスルはされるがままにしていた。 「リスル……やっぱり何も知らないのね? あなたの家は町外れで、町の話も届きにくいから仕方ないのかもしれないけれど……。あなた、大変なことになってるわよ」  リスルと同い年の小柄な少女は、真顔でそう捲し立てると、深く嘆息した。リスルは彼女の勢いに気圧されながらも、全く話についていけずに、グリーンの瞳を瞬かせた。彼女の指摘通り、町外れに住むリスルたち一家の耳には町中の噂話は届いてきづらい。 「えっと……大変な
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第一章 絶望の残焔③

 それから二週間ほどが過ぎ、朝晩にほんの少し肌寒さを感じるようになり、本格的な葡萄の収穫期が訪れていた。リスルは目覚めると、着替えのためにモーブピンクの寝巻きの袖を引っ張って腕を抜く。クレープ素材特有の皺が大きく引き伸ばされた。  リスルは寝巻きから引き抜かれた柔らかな曲線を描く娘らしい身体にワインと同じこっくりとした色のチュニックを被る。朱色や黄土色、藍色などで全体に施された刺繍は秋の野に咲く小さな花々を思い起こさせた。  緩やかな癖のある髪にさっとブラシを通し、革紐で適当に一つに纏めて結い上げるとリスルは自室を出た。階段を降りていくと、玄関先でラルゴが何者かと押し問答しているのが視界に飛び込んできた。 「この家にリスルという娘がいるはずだ。中を検めさせろ」 「うちには娘なんていない。迷惑だ、帰ってくれ」  柄の悪い男たちとラルゴのやりとりを耳にしたリスルは事態を察した。覚悟はしていたその日が来てしまったのだという事実を唇と一緒に彼女は噛み締めた。  教会の刻印が入った白銀のプレートアーマーを纏った男たちがラルゴを無理矢理押しのけてでも家の中へ押し入ろうとし始めたのを見、腹を括って彼女がその場に割って入ろうとすると、アリエがそれを押し留めた。 「リスル……駄目よ、上にいて。絶対に姿を見せないで」 いつもおっとりとしている彼女には珍しく、その顔には絶望と混乱が浮かんでいた。しかし、娘と同じ色の双眸には強い意志の色が浮かんでいる。 「母さん……」  神聖騎士団の人間が訪ねてきてしまったことで、町で噂になっていたあの話がアリエの耳に入ってしまったことをリスルは悟った。 「ごめんね、リスル。あなたのことをこんなふうに産んでしまって。どうかお願い……許してね」  アリエは泣きそうになりながら、淡く微笑み、踵を返す。 「ちょっと待って、母さん! ねえ……母さん!」  リスルの引き止めようとする声を無視して、アリエは彼女の傍を離れていく。そして、娘とよく似たその姿を玄関先に現した。  お前がリスル・フレンツァか、聞いていたより随分と年増だななどと、アリエの姿を認めた男たちが何事か言っているのが聞こえた。そして、彼らはラルゴへと向き直ると拳を振り上げた。鈍い音が響く。 「……父さん……」  リスルのふりをしたアリエを守ろうとしたことで、ラルゴが
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第一章 絶望の残焔④

 夕陽が地平線の彼方へと姿を消し、欠け始めた月が焦らすように東の空を淡く照らし始めた。秋の夜風でたなびく灰色の雲は焦らすようにゆっくりと昇ってきた居待月をなきものにしようとしていた。  リスルは牢から出され、篝火の焚かれた礼拝堂前の広場へと視察部隊の僧兵数人に伴われて連れてこられた。炎に照らされた人々の顔には恐れや哀れみといった感情が浮かんでいた。涙を流す両親や弟の姿が視界に入り、彼女は目を逸らした。  広場の中心に屹立する巨大な木の十字架にリスルはくくりつけられた。足元には燃えやすい藁や木屑が積まれている。彼女の前に聖典と法杖を手にしたジークが悠然と立った。彼女は法衣を纏った中年の小男を緑色の双眸にきつい光を浮かべて睨み下ろす。彼は意に介したふうもなく、冷えた声で訥々と聖典で定められた悪魔に関する一節を読み上げていく。 「リスル・フレンツァ。汝は悪魔と契約し、呪われた力を以って現世を混乱に陥れた。その身と共に内に宿りし悪魔の祝福を神の炎を以って滅する。汝、その生命を神へと捧げ、その大罪を贖うことをここに誓え。神はその広い御心をもって、その魂を赦すだろう」 「誓わない。そんな冤罪、絶対にわたしは認めない。大体、悪魔悪魔って……もし悪魔なんてものが本当にいるんだとしたら、それはあなたたちのことよ、ジーク・マーセル司教!」  リスルはジークを見据え、はっきりとそう言い放った。ジークの右手に握られたやたらと装飾過多な杖が閃いた。杖の先端に施された神の使いを模した装飾がリスルの左脇腹を抉り、服の切れ端と共に赤い液体が宙を舞った。  ジークは不快げにリスルへ一瞥をくれると、背後に控えていた僧兵へと短い一言を発した。 「やれ」 「御意。……おっと、そうだ」  神聖騎士団の印が刻まれたプレートアーマーに身を包んだ男は軽薄そうに口元を歪めた。目には面白がるような色が見える。 「ジーク司教。一個面白い余興があるんだが……」  僧兵の男に何事か耳打ちされたジークはいいだろうと鷹揚に頷く。  ジークの許可を得た僧兵は、にやにやとした笑みを浮かべながら、遠巻きに事態を見守る群衆へ向けて問うた。 「おい、あの女の家族ってのはどこにいる?」 「……」  人々は押し黙ったまま答えなかった。しかし、ちらちらとした視線がラルゴたちを掠めていく。へえ、と露骨に状況を楽し
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第二章 最後の邂逅①

 今、わたしは一体どこにいるのだろうか。目を覚ますと、視界に見知らぬ家の天井が飛び込んできて、リスルはぼんやりとした頭でそんなことを考えた。夜が近いのか、薄暗い部屋の中にランタンの火が揺れていた。質素だが清潔なベッドに寝かされている彼女は自分のものではない粗末な麻の寝巻きを纏っていた。  廃墟と化したアルクスの町に背を向け、リスルは倒れそうになりながら夜道を東へ身一つで進んでいたはずだった。リスルは脳が拒否するのを感じながら、無理矢理、意識を失う前の最後の記憶を引っ張り出す。  リスルは夜明け前に小さな村に辿り着き、国境近くのモンテス山脈へと仕事に赴こうとしていた木樵の老人に出会った。全身に怪我と火傷を負ったまま、ふらふらとどこかへ歩いていこうとする彼女の姿を見咎めた老人に呼び止められ、二言三言言葉を交わした後、そのまま意識を失ったはずだった。 「ここは……メーレ村……?」  リスルは頭の中で王国南部の地図を思い描きながら、嗄れた声で呟いた。喉がひどく乾いていて、ひりひりと痛む。  ベッドの脇に目をやると、白いものが目立つグレージュの髪にアイスブルーの目の小柄な老女が木の椅子に腰掛け、リスルの顔を覗き込んでいた。彼女はリスルが目覚めたことに気付くと、ぽんぽんと言葉を投げかけてきた。 「おや、お嬢さん、お目覚めかい? 一昨日の朝、うちの主人が村の入口で声をかけたら倒れちまったとかで連れ帰ってきたんだが…その大火傷に身体の傷は一体どうしたんだい? 何か食べられるかい?」 「イルゼ。ようやく目を覚ましたというのに、そうやって畳み掛けるのは感心せんよ」  窓の外を眺めていた木樵の老人は、こちらを振り返ると、妻らしき老女を嗜める。リスルは鉛のように重い体をどうにかしてベッドから起こすと、二人へと頭を下げ、礼を述べた。 「素性も知れぬ身だというにもかかわらず、助けていただいてありがとうございました。わたしはロゼ・アウローラと申します。アルクスの街で大火に巻き込まれたのですが、運が良かったのか、こうして怪我を負いながらもどうにか生き延びることができて……」  リスルは、咄嗟に偽名を名乗った。リスルがこうして生き延びたことはいつかは教会に知れることだろうとは思ったが、少しでもそのときを引き伸ばしたくてついた嘘だった。それに、足がつくことでこうして見ず知らずのリ
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第二章 最後の邂逅②

 その日の夕食は質素ながらも、アルクスで家族四人で暮らしていたころのように和やかで温かなものとなった。夕飯前のやりとりにより、リスルとヨルグの間には気まずいものがあったものの、はりきって食事を用意してくれたイルゼの気持ちを慮って、表面に出すことはなかった。  足先がくるりと渦を巻いた使い込まれたアンティーク調の椅子に腰を下ろし、同じ意匠のテーブルを三人で囲む。他愛もない老夫婦の会話に時折り、相槌を打ち、イルゼの昔ながらのシンプルだけれど奥行きを感じさせるシチューにリスルは舌鼓を打った。まろやかな乳の旨味の中、よく煮込まれた牛の肉が口の中でほろほろと解けていく。母親のアリエの料理とは味付けこそ異なるものの、口の中をから全身に染み渡っていく優しさは、紛れもなく、リスルが失ってしまった愛しく何気ない幸せな日常の味だった。  じわりと暖かいものが彼女の胸に込み上げてくる。せめて、自分を拾って看病してくれたこの老夫婦に何かしらの形で恩に報いたいと強く思った。 食事とその後のささやかなティータイムを楽しんだ後、未だ傷が癒えきらないリスルは老夫婦よりも先に、貸してもらった部屋で休ませてもらうことにした。  ジーク司教に打ち据えられた傷や全身に負った火傷による痛みで寝付けない中、リスルの聴覚は階下での老夫婦の会話を捉えた。何となくぶっきらぼうなところがあるヨルグが妻を問いただす声は真摯であるが故に冷たく響いた。 「わしはあの娘の勝手な妄想だと信じたい。だが……イルゼ、最近体調が悪いと言ったことはないか?」 「そうですね……たまにお腹の辺りが痛む気がしますが、そんなこと、私たちのような歳にもなればよくあることでしょう? そう気にすることはないと思いますよ」 「そうか……」  それではあなたおやすみなさい、と寝室へ消えて行く妻の背中をヨルグは思案気に見送った。その後ろ姿は、夕方リスルに聞かされた話の影響か、記憶の中にあるものよりも遥かに弱々しく頼りなげに映った。  老夫妻が寝静まった後、眠れずにいたリスルは物音を立てないように細心の注意を払いながら、充てがわれた客間を抜け出し、階下へと降りた。彼女は、まだふらつく身体を引きずりながらリビングダイニングを抜け、老夫婦の寝室へと忍び込んだ。  イルゼの病――本人は強がっているが、あれはそう遠くない未来に死に至る病である
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第二章 最後の邂逅③

 リスルが老夫妻の下をろくな荷物も持たずに出奔してから、十回目の秋が訪れていた。彼女は表向きは旅の薬師を名乗り、国内各地を転々としていた。実家の稼業もあり、植物について人並み以上には知識があった彼女は、旅の途中で得た薬草を訪れた街の薬問屋に売って、路銀に替えることで日々の生活を維持していた。  旅を始めて二、三年経ったころ、リスルは危険を承知で聖セレーデ教会の総本山のあるレシェールを訪れたことがある。自分の身に宿る『悪魔の力』について、調べたかったというのが理由である。自分の力について知ることができれば、処刑の日の夜のように力を暴走させることなく、上手く力と付き合いながらひっそりといきていくこともできるのではないかとリスルは考えていた。  レシェールには、敬虔な巡礼者だけでなく、神学者も多く集まる。そういったことを調べるにはうってつけであった。  巡礼者のふりをして紛れ込んだレシェールのカフェで、リスルは聖典の悪魔について研究しているという神学者の青年と席が隣になった。  彼が自分の研究テーマについて、連れの青年と議論を重ねているのを、リスルはアイスレモンティーを啜っているふりをしながら聞いていた。  彼らが追加の注文のために席を立った隙を狙って、席においたままになっていた彼らの荷物を漁り、彼らの研究資料を盗み出すと、リスルはそのカフェをそそくさと後にした。  宿へと戻った後、部屋の扉に鍵をかけると、リスルは神学者の青年たちが持っていた研究資料に目を通した。その資料には、悪魔の定義から、彼女の目的であった『悪魔の力』についてまで詳細に記載されていた。  リスルは、研究資料を読み進めるうちに、自分の中に宿る二種類の『悪魔の力』にの正体を知った。  一つは、自然の中に宿る”モノ”の声を聞き、力を借りる能力――《ヴィサス・ヴァルテン》である。これは彼女が生まれ持ったものであり、あの惨劇の夜に彼女が完全に覚醒させた力であった。この能力を持つ異能者は統計上、一部の少数民族に生まれやすいものとされていた。  もう一方は、生命に干渉する能力――《レーヴェン・スルス》である。故郷での事件を経て彼女の身の内に顕現したもう一つの能力であり、《ヴィサス・ヴァルテン》とは完全に別物である。この能力を使えば、他者に己の命を分け与えることも、逆に奪うこともできるという。病の
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第二章 最後の邂逅④

 少年が目を覚ますと、また死ねなかったという絶望がそこにあった。あの日のことを思って自分を責めるあまり、力が暴走したことは覚えているが、そこで記憶が途切れている。力の暴走に巻き込まれて死んでしまえればよかったのにという思いが込み上げてくる。誰か、化け物である自分に罰を与えてほしかった。 「起きた? 一時間くらい気を失っていたわよ」  知らない女性の声が頭上から投げかけられて、彼は身を固くする。意識していなかったが、頭の下に柔らかい太腿の感触がある。 「誰っ……」  少年は飛び起きると、誰何を問うた。目の前の彼女は茶色い巻毛にグリーンの瞳を持つ、美しいがどこか疲れたような雰囲気を漂わせる女性だった。当然、イーシュの知り合いでもなければ、今、身を寄せている村の住人でもない。 「わたしはリスル・フレンツァ。あなた、イーシュ・エルフェンね?」 「何で……」  彼女が自分の名前を知っているという事実に少年――イーシュは警戒を露わにする。一見そうは見えないが、もしかすると教会の追手かもしれない。リスルはイーシュの胸の内を察したのか、苦笑しながら、 「安心して。わたしは教会の追手ではないし、あなたに危害を与えるつもりもないわ。ねえ、あなたも異能者でしょう?」 「えっと……」  そう問われてイーシュは逡巡する。頷いていいものかどうか判断がつかない。しかし、彼女の名前をイーシュはどこかで聞いたことがあったような気がしていた。それに彼女はあなた”も”と言った。 「大丈夫。わたしも異能者よ。教会に『紅の魔女』なんていう通り名をつけられている立派なお尋ね者なんだけれど、聞いたことないかしら?」  彼女の正体を聞き、イーシュはあれ、と首を傾げた。確かに、この村に辿り着く前、国中を彷徨い歩いていたときに、『アルクスの大火』を引き起こしたという彼女についての話を耳にしたことがあった。しかし、前に聞いたことのある特徴と目の前にいる彼女では目と髪の色が違う。 「『紅の魔女』って、髪と目が赤いっていう話じゃあ……? だけど、リスルさんは……」  ああこれ、とリスルは手で自分の髪を指し示してみせながら、 「力を使っているときだけどうにも色が変わるみたいで、これがわたしの本来の姿なのよ。それはそうと、イーシュ。あなた、”それ”今日が初めてじゃないわね?」  イーシュは問わ
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第三章 悪夢の夜明け①

 イーシュ・エルフェンは、十一の年まで、多少の不幸はあれど、平凡の範疇に収まる生活を送っていた。  幼いころ、イーシュは祖父を訪ねて行った先の王都ルランテで、馬車の事故に巻き込まれ、両親を亡くした。両親に守られて、彼と彼の姉ユーフェは無事だったが、親を失った二人は当時料理人をしていた祖父グウィンに引き取られることとなった。息子夫婦の葬儀が一通り済んだ後、グウィンはその腕を惜しまれながらも料理人を辞めることとなり、幼い孫二人を連れ、王都近郊のフィエロ村へと移り住み、宿屋を始めた。イーシュは当時の顛末について、祖父からそう聞いている。  宿屋の朝は早い。子供ながらに低血圧で朝が弱いイーシュは、日も昇らぬうちから二つ上の姉に叩き起こされる。 「イーシュ! いつまで寝てるの! 朝よ! 起きなさい!」 「うぅ……」  早朝から元気すぎる姉ユーフェとは対照的に、イーシュは弱々しく呻く。彼は半分閉じたままの視界に、勝ち気そうな苔色の目の少女の姿が映り込んでいるのを認めると、掛け布団を引き上げ、頭からすっぽり被る。すかさず、布団越しにユーフェの拳が頭に飛んでくる。 「何なの……姉さん……」 「何なのじゃないわよ、とっとと起きなさいって言ってるの!」  ユーフェは容赦なく、弟の布団を引っ剥がした。勢いでイーシュは寝台から転がり落ち、強かに腰を打った。 「痛……」  のっそりと涙目で身を起こしながら、イーシュはユーフェを見やる。彼女は全く意に介したふうもなく、 「やーっと起きたわね。さっさと起きて下にいらっしゃい。昨日みたいに洗面台のところで行き倒れてたらただじゃおかないんだからね」 「がんばる……」  言いたいことを言いたいだけ言って部屋から出て行く姉の背中を見送りながら、イーシュは欠伸を噛み殺す。ベッドサイドに置いた着替えに手を伸ばし、もそもそと着替えを始める。  冬が近いからか今朝は一段と冷えるなとまだ靄のかかった思考の隅で感じながら、瞳の色と同じダークブラウンのボタンダウンのシャツの上からアイボリーのモヘアニットを重ねる。着替えを済ませると、意識をまだ半分近く夢の世界に残したまま、ふらふらと部屋を出た。  廊下の突き当たりにある黄ばんだ共用の洗面台で、バシャバシャと顔を洗っていると、水の冷たさでだんだんと意識がはっきりとしてくる。洗顔ついでに姉と
last updateLast Updated : 2026-08-18
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