All Chapters of 妹を失ったかくれんぼ、今度は僕が消えた: Chapter 1 - Chapter 9

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第1話

僕は、言われるまま体を丸め、狭いスーツケースの中へ入った。もう何年も、ここは僕の秘密基地だった。ここ数年、母が取り乱してテーブルの物を投げ始めると、父が僕へ目配せした。すると僕は、慣れたようにスーツケースの中へ逃げ込んだ。外からファスナーが閉められると、僕は何も聞こえないふりをした。そして、かくれんぼをするときのように、静かに数を数え始めた。1から1万まで。それを何度も繰り返すつもりだった。けれど、この日はいつものように最後まで数えられなかった。長いあいだ無理な姿勢でいたせいで、手足はしびれ、動かなくなっていた。折り曲げた膝が胸を押し、息をするのも苦しかった。指先でファスナーのわずかな隙間を探ったが、どれだけ押しても開かなかった。「優奈の遺品は、全部このスーツケースに入ってるんだな。車に積むぞ」父の声が聞こえた。その声に、はっとした。今なら、ここから出してもらえるかもしれない。すぐに謝ろう。ここから出してほしいと、父に頼もう。次の瞬間、体が大きく揺れた。スーツケースが持ち上げられ、そのまま逆さにされたのだ。中で僕の頭は下になり、折り曲げた体の重みが胸へかかった。息が一気に詰まった。僕は必死に手を動かし、内側から何度もたたいた。けれど、分厚い内張りに音を吸われた。もう大声を出す力もなく、喉から漏れたうめき声も、両親の会話にかき消された。「霊能者は、優奈が使っていた物は全部燃やせと言っていた。優奈はまだ、死んだ場所に取り残されている。きちんと見送らないと、先へ進めないそうだ」「違う!全部、湊のせいでしょう!」母の鋭い声が、父の言葉を遮った。「あの子が優奈をかくれんぼに誘ったりしなければ、こんなことにはならなかった!どこに隠れたのかも分からない。遺骨さえ、まだ見つかってないのよ……」最後には声もかすれ、その一言一言に、母が抱えてきた苦しみがにじんでいた。僕は喉を締めつけられたように、声が出なくなった。地震で亡くなった妹の死は、抜けない矢のように僕の胸へ深く刺さり、いつしか体の一部になっていた。狭いスーツケースの中で、息苦しさが増していく。頭がぼんやりして、何も考えられなくなってきた。遠くに、小さな女の子が立っているのが見えた。「お兄ちゃん、かくれんぼしよう!優奈が先に隠れるね!
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第2話

目的地へ近づくにつれ、母は目に見えて震え始めた。地震から、もうすぐ5年になる。町には新しい建物が立ち並び、当時の面影はほとんど残っていない。けれど、僕と優奈が巻き込まれた一帯だけは、今も崩れた建物やがれきが残されたままだった。あの日、父と母は我を忘れたように、崩れた壁や柱の間から石を素手でかき分け続けた。両手の指が血まみれになっても、決して手を止めなかった。「優奈が好きだったバーベキュー味のポテトチップスも、何袋か買ってきた。いつも飲んでいた牛乳もある」父は持ってきたものを車から下ろし、がれきの前へひとつずつ並べていった。母の目には、すでに涙が浮かんでいた。父がスーツケースを車から下ろした途端、母は駆け寄ろうとしたが、父に止められた。「お願い。もう一度だけ、中を見せて……」母はすがるように繰り返した。父は眉を寄せ、疲れ切った目で母を見つめた。スーツケースのファスナーへ手を掛けたまま、開けるべきか迷っていた。僕は、父の手元から目を離せなかった。気づくだろうか。持ってきたスーツケースを間違えたことに。中に入っているのが、優奈の遺品ではなく、僕の遺体だということに。「見たら、また手放せなくなる。もう開けないほうがいい。過ぎたことは、もう手放さないと」父はため息をついた。それでも母は、スーツケースへ伸ばした手を下ろさなかった。互いに譲らずにいると、父のスマホが鳴った。家事を頼んでいる田中恵子(たなか けいこ)からだった。「すみません。湊くんが、また見当たらないんです。またどこかに隠れているみたいで……」母は父の手からスマホを奪い取った。「放っておいて。わざと隠れてるだけよ。こんな日にまで困らせて……田中さん、あの子の部屋は鍵を掛けておいて。好きなだけ隠れていればいいわ」父も、うんざりしたように目を伏せた。恵子には捜さなくていいと告げ、そのまま電話を切った。「あの子は本当に悪知恵が働くんだから。姿を見せずに隠れていれば、許してもらえるとでも思ってるのよ」母は鼻で笑った。会話が途切れたあとも、母の苛立ちは収まらなかった。父は何も言わず、持ってきた物へ火をつける準備を始めた。「全部、湊のせいよ。あの子のせいで、優奈の最後の遺品まで手放さなきゃいけなくなった」母の声は次第に大きくなっ
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第3話

炎が上がり始めると、父は母の腕からクマのぬいぐるみを取り、火の中へ投げ入れた。母は顔をこわばらせた。今度はスーツケースへよろめくように近づき、両腕で抱え込んだ。「お願い。もう少しだけ、優奈と一緒にいさせて……」母は涙を流しながら、父へすがるように頼んだ。父は、苦しそうに顔をゆがめていた。そんなふたりを見ていると、急に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。中にあるのが僕の遺体だと分かったら、父も母もきっと腹を立てる。よりによって、こんな日に死ぬなんて。最後まで面倒をかける子だと思うだろう。今日は、優奈が生まれ変わるための大切な日なのに。僕のせいで、その儀式まで台無しになってしまう。僕は気が焦って、父と母の周りを何度も行き来した。父は母からスーツケースを取り上げた。迷いを振り切るように、火の中へ蹴り入れた。ぱちぱちと音を立て、炎がスーツケースを包み始めた。「待って!それ、優奈のじゃない!」母が突然、叫んだ。火の中のスーツケースを指さす手が震えていた。「優奈はピンクのシールが好きだったでしょう。あの子のスーツケースには、猫のシールが貼ってあった」父は一瞬、何のことか分からず、母を見返した。「それは、湊のスーツケースよ!」僕は、母の次の言葉を待った。僕を中へ閉じ込めたままだったことを、母が思い出したのかと思った。だが次の瞬間、母の顔に浮かんだのは、僕が何度も見てきた怒りと嫌悪だった。「遺品を詰めるとき、ちゃんと確かめなかったの?湊のスーツケースなんかに、優奈の物を入れるなんて!こんなものまで一緒に燃やしたら、優奈が怒るでしょう!」父は言葉を失い、僕もその場に立ち尽くした。そうか。母は僕のことなど思い出しもしなかった。それどころか、僕のスーツケースまで嫌っていた。「だめ。こんな汚いものを、優奈の遺品と一緒に燃やさないで……」母は火へ飛び込むように駆け出した。父が慌てて後ろから抱き止めた。「もういい、落ち着け。ただのスーツケースだ。それで何かが変わるわけじゃない」炎に照らされた母の顔からは血の気が引いていた。口元を押さえ、今にも倒れそうになっている。母の様子が急に変わったことで、父もようやく火の中のスーツケースへ目を向けた。表情が険しくなった。きっと父も、優奈と
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第4話

父は足を止めた。まだ状況がのみ込めていないようだった。集まった人の中に、僕には見覚えのある眼鏡の女性がいた。少し前、僕がひとりで訪ねた児童相談所で、話を聞いてくれた職員だった。あのとき、その人は僕と目の高さを合わせ、どうしてここへ来たのかと静かに尋ねた。僕はうつむいたまま、途切れ途切れに答えた。「僕が家にいると、お父さんもお母さんも幸せになれないから」職員は一瞬、言葉を失った。家での暮らしについてさらに尋ねようとしたが、僕は怖くなり、口を閉ざしたまま逃げ出した。まさか、家まで来てくれるとは思っていなかった。隣にいた女性も前へ進み、首から下げていた職員証を見せた。「市で、子どもと家庭の相談支援を担当しています。湊くんのご家庭での様子について、少しお話を伺えますか」「湊ですって?」僕の名前を聞いた途端、母の顔色が変わった。「市役所の人?湊も大したものね。今度はよその人に泣きついたの?」母は相手をにらみつけ、鼻で笑った。「私たちに虐待されたとでも言ったんでしょう?」職員たちは、母の様子を見て表情を引き締めた。僕は知らなかったが、児童相談所の職員は、僕が何度か相談に来たことを気にかけ、学校にも様子を確かめていた。担任は、僕についてこう話したという。「普段からおとなしい子で、あまり自分から話しません。ご両親とは、私もほとんどお会いしたことがありません。保護者会や面談も欠席されることが多くて。下校時も、ほかの子が全員帰るまで学校に残り、最後にひとりで帰っています」職員はその話を聞き、家庭で困っていることがないか確かめるため、市の担当者と一緒に訪ねてきたのだった。「失礼ですが、よその家庭にそこまで介入する権限があるんですか」父は母をかばうように前へ立ち、眉を寄せた。「田中さん。今後、事前に連絡のない人を勝手に敷地へ入れないでください」父は母の肩を抱き、家へ入ろうとした。だが、児童相談所の職員が穏やかな声で呼び止めた。「突然伺って、申し訳ありません。湊くんは何度か児童相談所に相談に来て、家ではなく別の場所で暮らしたいと話していました。お子さんがそう考えるほどの事情や、私たちがまだ把握できていない困り事があるのではないかと思っています。湊くんはご在宅ですか。ご本人も交えて、お話をさ
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第5話

父はその場に崩れ落ち、しばらく呆然と座り込んでいた。これほど途方に暮れた父を見るのは、初めてだった。やがて床へ手をつき、ふらつきながら立ち上がった。父は何事もなかったかのように、スーツケースに入っていた優奈の遺品をすべてごみ袋へまとめ、そのまま隠した。父は家を出ると、母を精神科の主治医のもとへ連れていった。病院へ向かう途中、霊能者を装っていた相手から、母のスマホにメッセージが届いた。【優奈さんの思いは、もう苦しみから離れました。新しい人生へ進む前に、ご両親へ伝えてほしいことがあるそうです】母はすぐに返信した。【本当ですか?優奈は何と言っているんですか。今度こそ、幸せになれるんですよね】【もう自分のことを心配せず、前を向いて生きてほしいそうです】読み終えた母の頬を、涙が次々と伝った。診察室へ入る頃には、張り詰めていた様子が少し和らいでいた。主治医は母の状態を確かめたあと、別室で落ち着いて治療を受けられるよう、スタッフへ付き添いを頼んだ。父には、薬を調整し、しばらく刺激の少ない環境で休ませること、体調が安定したら短い旅行などで気分を変えることも考えてよいと説明した。父は黙って聞いていたが、顔色は悪いままだった。僕が父のそばへ寄ると、苦しそうな荒い息遣いが聞こえた。胸の奥で激しく打つ心臓の音まで、はっきり伝わってきた。父は治療を終えた母を車へ乗せ、再び家へ向かった。母は道中、何度も同じ言葉を繰り返した。「優奈はもう大丈夫なのね。よかった……安心して、優奈。お母さんはあなたのことを忘れない。でも、これからはお父さんと一緒に、少しずつ前を向いて生きていくから」父も笑っていた。けれど、その笑みはこわばっていた。父は、母が落ち着きを取り戻したことに安堵する一方で、僕のことで母がまた傷つくのを恐れていたのだと思う。車が夕暮れの道を進む途中、恵子からまたメッセージが届いた。【掃除と食事の支度は終わりました。湊くんは、まだ出てきません。今日は何も食べていないと思いますが、このままでいいですか】父は母から画面を隠し、短く返信した。【そのままで構いません。今日はもう帰ってください。数日、家を空けるので、その間も来なくて大丈夫です】送信したあと、父は母を見た。母は窓にもたれ、久しぶりに穏や
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第6話

車内は、物音ひとつしないほど静まり返った。ハンドルを握る父の手には、青い血管が浮いていた。一度だけ母へ顔を向け、すぐに前へ向き直った。その横顔は、母がどう反応するのかを恐れているようだった。母はしばらく戸惑ったように黙り込み、今聞いた言葉を理解しようとしていた。けれど、僕の名前を聞いた途端、母の顔から戸惑いが消えた。眉間にしわが寄り、代わりに見慣れた怒りが浮かんだ。「湊?あの子のことなんて、もう忘れかけてたのに!今度は何をたくらんでるの?優奈が生まれ変わって幸せになるのが気に入らなくて、また私たちを困らせようとしてるんでしょう。今度は誰かと口裏を合わせて、死んだふりまでしたの?そんなに死にたいなら、あの地震でがれきの下敷きになって死ねばよかったのよ!」母は息を継ぐ間もなく、僕を罵り続けた。僕は、思わずほっとした。よかった。母は、僕が本当に死んだとは思っていない。もし本当に死んだと知っても、それで母が喜ぶのなら、僕はそれでもよかった。僕は母へ、力なく笑いかけた。家に着くなり、母は声を張り上げて僕を呼んだ。「湊!どこにいるの!今すぐ出てきなさい!」あの地震以来、母は、悪いことが起きるたびに僕のせいだと思うようになった。母は僕へ怒りをぶつけることで、優奈を失った苦しみを少しでも和らげていたのだと思う。「どうして出てこないの?隠れて死んだふりをしていれば、優奈と同じように心配してもらえるとでも思った?そんなこと、あるわけないでしょう!」母は家中の扉を開け、僕を捜し回った。「出てきなさい!今度こそ児童相談所に連絡して、施設へ入れてもらうから。優奈が言ったように、私はこれから前を向いて生きるの。だから、もう私を困らせないで!」どうして母が突然、あれほど取り乱して僕を捜すのか分からなかった。これまでは、僕の姿など見たくないと言っていた。僕がクローゼットやスーツケースへ隠れたまま、二度と出てこなければいいとさえ思っていたはずだ。それなのに、本当に僕がいなくなった今、どうして母は家中を捜しているのだろう。父が慌てて母へ駆け寄った。「落ち着け。湊なら、田中さんに頼んで、いったん別の場所へ連れていってもらった。数日したら遠くの親戚に預ける。もう二度と会わなくて済む」父がはっきりそう言い切る
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第7話

父はすべてを淡々と話し終えると、警察官に付き添われ、僕の遺体を確認するため別室へ向かった。いつも冷静で、どんなときも迷わず判断していた父が、その部屋の前で足を止めた。二度、深く息を吸ってから、ようやく中へ入った。父は、そこで僕の遺体を見た。今朝まで生きていた僕は、今は物言わぬ遺体となって横たわっていた。体の広い範囲が黒く炭化し、手足の先は一部が失われていた。何より痛ましかったのは、狭いスーツケースの中で折り曲げられたまま硬直した体と、ひどく歪んだ顔だった。最後にどんな表情をしていたのか、もう読み取ることさえできなかった。「これが……息子なんですか」父の声はかすれていた。目の前にいるのが僕だと、まだ信じられないようだった。警察官は、すぐには答えなかった。父の視線の先には、黒く焦げたスーツケースも置かれていた。今朝、父が車へ積んだ、あのスーツケースだった。部屋の中は、しんと静まり返った。そのとき、廊下から甲高い声が響いた。「湊はどこ?今すぐ出てきなさい!いつまでこんなことを続けるつもりなの?警察まで巻き込んで、何を考えてるのよ!」僕が母の声に引かれるように廊下へ出ると、母は制止する警察官たちの手を振りほどいていた。まるでこの部屋にいると分かっているかのように、迷わず中へ駆け込んでくる。そして、父と目が合った。「湊も、ずいぶん大がかりな芝居をするようになったのね」そう言い放ったものの、声の震えは隠せていなかった。若い警察官が、気まずそうに父へ説明した。「こちらの方が、亡くなった湊くんの母親だとおっしゃって、どうしても中へ入ると聞かなくて……」「亡くなった?湊が死ぬわけないでしょう。あんな大きな地震でも、生き残ったんだから……」母はいつものように声を張り上げた。けれど、頭上の白い照明に照らされた顔からは、すっかり血の気が引いていた。言葉はそこで途切れた。室内にかすかに漂う遺体の臭いが、母の鼻をついた。次の瞬間、母は壁へ手をつき、激しくえずいた。かたくなに視線を下げまいとしていた母も、とうとう涙でにじむ目を僕の遺体へ向けた。黒く焼け焦げた体。顔にはもう、もとの面影さえ残っていなかった。母が、あれを僕だと分かったのかは分からない。僕に見えたのは、苦しそうに何度もえずき、そ
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第8話

両親への事情聴取は続き、ふたりはすぐには家へ帰れなかった。母があんなふうに取り乱さず、父がうまく説明できていれば、ただの事故として扱われ、すぐに帰れたのかもしれない。僕はそう思っていた。父は腕の立つ弁護士で、頼れる弁護士仲間も大勢いた。それでも警察は、僕のことを知る人たちを次々に呼び、話を聞いた。恵子、児童相談所の職員、担任、近所の人たち。「ご両親は、よく湊くんに『かくれんぼでもしていなさい』と言っていました。そうすると、湊くんは黙ってクローゼットやスーツケースに入るんです。おふたりは『放っておけばいい』と言って、食事の時間になっても呼ばないことがありました」「あの家が上の子をかわいがっていないことは、近所でもみんな気づいていました」「奥さんは、以前は普通だったんですが、いつからか近所で意味の分からないことを口にするようになりました。自分の子どもは優奈ちゃんひとりだけだと、いつも話していたんです。あとになって、優奈ちゃんは亡くなった下のお子さんだと知りました」「ご両親は学校へほとんどいらっしゃいませんでした。湊くんはいつも、ほかの子が帰るまで学校に残り、最後にひとりで帰っていました」「湊くんは児童相談所へ何度か相談に来て、家ではない場所で暮らしたいと話していました。ひどく思い詰めた様子だったため、虐待を受けている可能性もあると考え、学校や市の担当部署と一緒に家庭の状況を確認していたところです」その証言は、ひとつずつ記録に残された。父は、記録された証言に目を通すと、かすかに笑っただけで、何ひとつ否定しなかった。「私はここに残って、必要なことにはすべて答えます。ただ、妻は長く精神科の治療を受けていて、ようやく少し落ち着いてきたところです。これ以上、妻を刺激しないよう配慮していただけませんか」父は母を病院へ戻してほしいと頼んだ。しかし、警察はその求めに応じることができず、代わりに母の主治医を警察署へ呼んだ。主治医が母の状態を見守るなか、事情聴取は続けられた。警察は母の状態に配慮しながらも、必要な事実を確かめる手を緩めなかった。自宅の防犯カメラに残っていた映像が、両親の前で再生された。画面の中で、母がまた激しく取り乱した。テーブルの上のカップをつかみ、僕の頭めがけて投げつけた。僕は動かず、その場に立
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第9話

母は、もともとこんな人ではなかった。記憶の中の母は、穏やかで、何でも知っている大学教授だった。弁護士の父にも、少しも引けを取らなかった。僕に歴史の本を読み聞かせ、立派な大人になるにはどう生きればいいのかを教えてくれた。僕と優奈がけんかをすると、どちらか一方だけをかばわず、ふたりをきちんと叱った。けれどあの地震以降、僕のせいで、母は激しく取り乱し、理屈も通じなくなり、僕へ残酷な言葉を浴びせるようになった。警察署の一室でも、母は突然立ち上がり、映像を操作していた警察官からマウスを奪うと、日付を次々に切り替え始めた。止めようとした警察官を、年配の警察官が手で制した。それ以上、誰も母を止めなかった。日付が切り替わるたび、別の日に記録された映像が画面に現れた。映っている出来事は違っても、そこにはいつも同じ光景があった。我を失って怒鳴る母。疲れ切った顔で、その母をなだめる父。そして、どの映像にも、母のそばへ音もなく現れる僕がいた。僕が近づくのは、たいてい母の気持ちが少し落ち着いているときだった。母が見ていない隙に、飲み終えたカップへこっそり水を注いだ。壁に飾られた母の写真を、僕は何度も丁寧に拭いた。なかでも、大学の正門前で本を抱え、ひとりで写っている写真は、曇りひとつ残らないほど磨いた。ソファで眠ってしまった母には、毛布を掛けた。母が眠っている隙に、そっと膝へ頭を預け、その匂いを胸いっぱいに吸い込んだこともあった。お母さん。お母さん。お母さん。そんなときだけ、僕はおそるおそる、この呼び名を口にすることができた。ある日の映像では、ソファで眠る母が、悪い夢でも見ているように眉を寄せていた。僕はその背中を軽くたたきながら、幼い頃に母が歌ってくれた子守歌を口ずさんでいた。映像が止まった。停止した画面に、呆然とする母の顔がぼんやり映り込んだ。その顔は、どうすればいいのか分からず、途方に暮れた子どものようだった。長いあいだ、母は悪夢のような日々と、僕への憎しみの中に閉じ込められていた。そのせいで、すぐそばにいる僕の姿が見えなかった。僕もかつては、母に何より大切にされていた息子だった。そのことさえ、母は思い出せずにいた。けれど今、僕の死を告げる知らせが大きな石となり、母と僕を隔てていた厚い
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