まぶたの裏が、やけに明るかった。海原瑠理子(かいばらるりこ)は息を吸い込んだ。 塩の味がしない。肺を押し潰していた水の重さもない。 代わりに鼻腔を満たしたのは、洗いたてのリネンの匂いだった。「……え?」 目を開けると、見覚えのある天蓋があった。淡いアイボリーの布地に、小さな薔薇の刺繍。 この天蓋は「子供っぽいから」と外させたはずだ。なのに、これがあるということは――? 瑠理子は勢いよく上半身を起こした。窓も、カーテンも、壁際の鏡台も、すべて記憶の中にある。 ただし、十年前の記憶。 足をもつれさせながら鏡台へ駆け寄る。 鏡の中に映っていたのは、二十八歳の自分ではなかった。 頬にはまだ少女らしい丸みがあり、長い髪にも傷みひとつない。なにより、左手の薬指に指輪がなかった。「うそ……」 震える手で枕元の携帯を取る。 表示された日付を見た瞬間、息が止まった。 四月十六日。 十年前の、四月十六日。 十八歳の春。 忘れるはずがない。 今日だ。 両親を事故で亡くした二十一歳の青年が、海原家へやって来る。 瑠理子が、橘淳と初めて出会った日。「戻って……きた?」 呟いた自分の声が、ひどく遠く感じた。 黒い海。 冷たい水。 最後に見た、淳の顔。 手を伸ばして自分を追ってきた彼の姿まで、鮮明に覚えている。 夢ではない。あの痛みも、絶望も、本当にあったこと。 これから起こる十年間の辛い出来事を、瑠理子は恐ろしいほど鮮明に覚えている。 瑠理子はスマートフォンを握りしめたまま、床へ座り込んだ。 どうして戻ったのかなど分からない。 神様の気まぐれでも、悪魔の悪戯でも構わない。 ただ、ひとつだけ確かなことがある。 これは、やり直しができるということだ。 瑠理子は膝の上で拳を握った。 ――父を、死なせない。 ――母を、死なせない。 ――海原グループを、誰にも奪わせない。 そしてもうひとつ。これだけは、他のどれよりも難しいと分かっていた。 ――二度と、あの人を愛さない。 そのとき、階下から車が停まる音がした。 瑠理子は顔を上げた。心臓が激しく鳴り始める。 来た。 十年前と同じように彼が来た! 瑠理子は急いで着替え、部屋を飛び出した。階段を駆け下りると、玄関ホールの大理石に、朝の光が長く伸びていた。父が誰かと言葉を
Last Updated : 2026-08-15 Read more