All Chapters of 花婿は俺なのに、オーダースーツを着るのは親友だった: Chapter 1 - Chapter 9

9 Chapters

第1話

俺が怒っていることに気づいた涼音は、顔色を変えた。「司は10年来の親友でしょ。彼にグルームズマンを頼むくらい、いいじゃない」「ごめん、陽色。僕の何がお前を怒らせたのかわからないけど。お前が怒ってるなら……」司は大げさに手を振り、いかにも譲歩してやるといった態度で言った。「この衣装は譲るよ」そう言うと、彼は高級オーダースーツを放り出し、ソファの隅でひとりいじけ始めた。涼音は眉をひそめ、俺を冷たい目で一瞥した。そして迷うことなく小走りで司のもとへ向かい、慰め始めた。「司、この衣装はあんたの体に合わせて作ったのよ。襟のダイヤだって、私が一つずつ3か月かけて付けたんだから。着ないなんて言わないで」「そうですよ」見かねた新人の店員が、2人のそばへ歩み寄った。「そのスーツは柊社長がご自身でデザインされたんです。型紙を引いてから裁断するまで、半年近くかかっているんですよ。瀬名様、柊社長がどれほどあなたを大切になさっているか、おわかりでしょう。どうかご機嫌を直してください」俺は呆気に取られた。店員は、どうやら俺と司を勘違いしているらしい。それでも彼女は、涼音の険しい視線に気づかないふりをして、なおも言葉を続けた。「あちらのお連れ様の衣装をご覧ください。シワだらけの中古品です。タダでも欲しがる人はいないでしょう。それに比べれば、社長が瀬名様に向けるお気持ちこそ本物ですよ」店員が言い終えた瞬間、店内は水を打ったように静まり返った。不穏な空気を察した店員は、諭すように俺の肩を軽く叩いた。「怒らないでくださいね。私、ご友人を慰めるために本当のことを言っただけですから。新郎が不機嫌だと場が重くなりますし、グルームズマンとして少し我慢していただけますよね?」俺は苦笑した。「でも、新郎は俺なんですけど」店員の顔がこわばった。大変な失言をしてしまったと悟った彼女は、恐る恐る涼音の顔を窺った。涼音は苛立たしげに手を振り、店員を下がらせた。「新人の言うことなんて気にしないで。あなたのスーツも私が選んだの。シワじゃなくて、そういうデザインなのよ」俺は答えず、スマホに目を落とし、先生へ追ってメッセージを送った。【先生、最短なら明日の夜の便に乗れます。そちらへ行ってもいいですか?】「私が話してるの、聞
Read more

第2話

「あんなの勝手に帰らせればいいのよ!今のうちにあのワガママを直してやらないと、将来痛い目を見るのはあいつよ」涼音は俺を引き留めようとする司の手を振り払い、司の体に衣装を当てて見栄えを確認し始めた。まるで、俺こそが彼女の新郎だという事実などすっかり忘れてしまったかのように。「涼音、陽色を責めないでやってよ。最近、結婚式の準備でずっとピリピリしてるんだ。わざと拗ねてるわけじゃないさ。それに外は土砂降りだ。新郎を雨の中に追い出したら、風邪を引くよ」司は俺を気遣うような言葉を並べながらも、試着の手を止めることはなかった。窓の外では、雨脚がさらに強くなっている。涼音は、俺が彼女の車でこの郊外の店まで来ていて、自力で帰る足がないことを知っていた。それでも平然と言い放った。「雨に打たれて、少しは身の程を思い知ればいいのよ。私が甘やかしすぎたのね。自分の親友であるあんたにまで嫉妬するなんて、一体何様のつもりかしら」その言葉を聞いて、俺はもう振り返ることなく雨の中へ飛び出した。15分後、司がSNSを更新した。【また涼音のロールスロイス・レイスに乗せてもらった。雨に一滴も濡れずに済んで、なんだか残念だな】投稿された写真に写る車内は、俺にとっても見慣れたものだった。これまで涼音の助手席に数え切れないほど座ってきたのは、俺の親友だった。それでも俺は、ずっと気にしないように努めてきた。2人の仲がいいことは、俺にとっても喜ばしいことだと思い込んでいたからだ。だが、俺が折れるたびに、2人の態度はますますエスカレートしていった。今回は、もう「いいね」もコメントもしなかった。大雨の中を1時間近く歩き続け、ようやく家に戻った。ずぶ濡れになった服を着替える間もなく、涼音からメッセージが届いた。【まだレストランに着かないの?ぐずぐずしないで。私は司と先に行ってるから】そういえば、試着の後は3人で星付きのレストランへ行く約束をしていたのだった。【早く来てよ。いつも私たちを待たせるんだから】こんなことは初めてではなかった。一緒に食事をすると約束していても、司はいつも涼音の車に同乗してくる。そのため2人は先に着き、俺だけが10キロ以上離れた会社から向かうことになる。ようやく到着した頃には、料理は半分ほどなくなっている
Read more

第3話

頭が重く、浅い眠りを繰り返していた。ようやくまどろみかけたとき、ヒステリックな声に叩き起こされた。「陽色、どういうつもり?」涼音は俺をベッドから引きずり起こし、リビングまで連れていくと、キャリーケースを指差した。「荷物をまとめて何をする気?どこへ行くの?来週は結婚式なのよ。まだそんな当てつけみたいな真似をするつもり?」俺はしばらく黙り込み、やがて口を開いた。「当てつけなんかじゃない。涼音、俺たちは別れよう」彼女はその言葉が聞こえなかったかのように、苛立ちを露わにしてまくしたてた。「司は、あなたがこの店の料理を食べたがっていたのを覚えていて、来なかったあなたのためにわざわざテイクアウトまで頼んでくれたのよ。なのに仮病を使って荷物までまとめて。今さら結婚の条件をつり上げようっていう魂胆なの?」俺は眉をひそめた。「涼音、正気か?」「そういうところよ」涼音は冷ややかな顔をした。「司が言っていたわ。あなたの家は最初、2000万円を要求してきたって。でも彼が間に入って何度も説得してくれて、200万円まで下げさせたそうじゃない。陽色、私にはお金があるけど、都合のいいカモになるつもりはないの。2000万円も出せば、あなたより顔がよくて優秀な男なんていくらでも見つけられる。わざわざあなたを選ぶ必要なんてないわ」俺の口元は引きつり、怒りで体が震えた。「俺が金目当てでお前と一緒にいるとでも言いたいのか?7年間、お前が俺にくれたものを全部合わせても、司が履いているスニーカー1足分にも満たない。それでも俺はお前のそばにいた。俺が金を狙っていると、本気で思っていたのか?」彼女は顔をそむけ、冷たく言い放った。「ほら、またそうやって細かく勘定して。お金なんて気にしていないと言いながら、結局は誰がいくら使ったか計算してるじゃない」その瞬間、俺は呆れて笑うしかなかった。涼音をあまりにも愛してしまった俺が、馬鹿だったのだ。だからこそ、彼女に何度も俺を傷つけることを許してしまった。「もういい。涼音、俺たちはこれで終わりだ」そう告げると、俺はキャリーケースを引いて振り返ることなく家を出た。彼女が俺の「別れよう」という言葉を聞き逃したのか、それともいつものように、ただ俺が拗ねて無視を決め込んでいるだけだと思ったのかはわ
Read more

第4話

2時間後、俺は国際空港に到着した。搭乗口へ向かう前に待合スペースで時間を潰していると、柊美智子(ひいらぎ みちこ)からメッセージが届いた。【陽色くん、今どこにいるの?一緒に食事でもどう?】文字を入力しては消し、さんざん迷った末に、俺はその誘いを受けることにした。婚約を解消すると決めた以上、双方の親には俺の口から直接説明するべきだ。7年付き合ってきた間、涼音の母親である美智子は、俺によくしてくれていた。だが、レストランの個室に入った瞬間、これが穏やかな話し合いなどではなく、俺をなだめすかすための席だと悟った。涼音は司の腕を親しげに組んで上座に座っており、俺には向かい側の末席しか残されていなかった。「陽色くん、よく来てくれたわね」美智子が立ち上がって迎えてくれた。一方、涼音はあからさまに嘲笑うように口元を歪めた。「お母さん、だから心配しすぎだって言ったでしょ。陽色が私から離れられるわけないのよ。あんなに私に執着してるんだから、わざわざ仲直りの場なんて用意しなくてよかったのに」美智子は気まずそうに咳払いをした。涼音はそれには構わず、メニューを俺の前へと放り投げた。「ほら、注文して。お坊ちゃん。先に言っておくけど、お母さんに頼まれたから来てあげただけよ。私が来たかったわけじゃないんだからね」俺は唇を噛み締め、かつて心から愛した彼女の目を見つめた。だが今はもう、何の感情も湧いてこなかった。昔の彼女なら、俺の腕に甘えるように絡みつき、「何が食べたい?」と優しく聞いてくれたはずだ。俺が少し眉をひそめただけで、料理が口に合わないのか、それとも部屋の温度が合わないのかと、いつも心配そうに顔を覗き込んできたものだ。しかし今、そのすべての優しさは司に向けられている。「お気遣いありがとうございます、おばさん。でも、結構です。俺と涼音は……もう別れました」声に力を込め、はっきりと告げた。その場にいた全員の顔色が変わった。涼音の顔には一瞬動揺が走ったが、すぐに軽蔑の色へと変わった。「やっぱり司が言っていた通りね。土壇場になって、より多くの金を引き出そうっていう魂胆でしょ。ネットのくだらない昼ドラにでも影響されて、拗ねてみせれば私がお金を積むとでも思った?寝言は寝て言いなさいよ」司はわざとらしく困った
Read more

第5話

「……どういうこと?」涼音はその場で固まった。控室の外に、誰もいない?結婚式をすっぽかした?あの瀬名陽色が?そんなはずはない。胸の奥から、理由のわからない焦燥感が込み上げてきた。涼音は慌ててスマホをつかみ、陽色へ電話をかけた。しかし、無機質な呼び出し音が鳴るばかりで、メッセージを送ってもいっこうに既読がつかない。彼女はすぐさま結葉の肩を強くつかみ、取り乱した声を上げた。「すっぽかしたってどういうこと!?あいつはどこへ行ったのよ!」結葉は痛そうに眉をひそめ、おずおずと答えた。「E国へ向かったことはわかったんだけど、詳しい場所までは……」結葉の声が小さくなっていくにつれ、涼音の怒りと焦りはどんどん膨らんでいく。そのとき、エレベーターの到着音が響いた。司が、自分の体に合わせて仕立てたあの高級なタキシードを着て、足早に涼音のもとへやってきた。「涼音、陽色はまだ嫉妬してるのかい?僕が話してこようか」いかにも物分かりのいい男を装った顔だった。以前の涼音なら、陽色がまたわがままを言って司を困らせていると思っただろう。だが今回は、その声を聞くだけで無性に苛立った。「……必要ないわ」涼音は眉を寄せ、かすれた声で告げた。「陽色は……E国へ行ったのよ」司の表情が固まる。「E国?いつの間に?」涼音はそれに答える暇もなく、スマホの連絡先を必死にスクロールし、陽色の親戚や友人へ片っ端から電話とメッセージを送った。だが、誰からもまともな返事は返ってこなかった。得体の知れない恐怖が、彼女の心臓を鷲掴みにする。7年間、陽色が彼女のもとを離れたことは一度もなかった。喧嘩をして彼女が家から追い出しても、陽色は黙って玄関の前に座り込み、涼音の怒りが収まるのを見計らってから、彼女の好きなミルクレープを買って戻ってきた。残業をすれば、夜食を届けてくれた。機嫌が悪ければ、花や飲み物を買ってきて、夜通し愚痴を聞いてくれた。涼音は、陽色の愛に慣れきっていた。その従順さも、我慢強さも、行き届いた気遣いも、そこにあるのが当然だと思っていたのだ。それが今、すべてが自分の指の隙間からすり抜けていってしまったように感じていた。彼女は虚ろな目で、その場にへたり込んだ。「どうしてなの?どうしてよ、陽
Read more

第6話

E国へ来てから、俺は自分の時間を自分のために使うようになった。以前は涼音の予定に合わせるため、自分のことはすべて後回しにしていた。彼女に手料理を振る舞うために早く帰宅しなければならず、生物学の研究を諦めた。マッチョ好きの彼女に応えるため、睡眠時間を削ってジムへ通い続けた。友人との集まりも、研究所での研修も、自分の予定は何もかも彼女を優先するために犠牲にしてきた。だが今、俺は自分自身を取り戻すと決めたのだ。研究所で、黒木誠(くろき まこと)教授が半分冗談めかして言った。「ここは忙しいからね。夜10時を過ぎても残業になることが珍しくない。恋人との時間を優先したいという甘い考えの者はいないだろうね?」室内が静まり返り、全員の視線が一斉に新入りの俺へと集まった。一気に顔が熱くなる。沈黙の中、俺は小さく首を振った。「俺には……もう恋人はいないので」教授は少し驚いたように俺を見たが、すぐにうなずいた。「それもいいだろう。男はまず仕事に打ち込むべきだからな」そう言って、彼は部屋の後ろにいる人物を手招きした。金色の髪と青い目をした女性が、こちらへ歩いてくる。「陽色、紹介しよう。君の後輩だ」彼女は、俺が頭を悩ませていた研究データを受け取ると、その場ですらすらといくつかの解決の糸口を書き込んでみせた。「先輩、雨宮絵里香(あまみや えりか)です。母方の姓を名乗っています」その名前なら聞いたことがあった。父親は古生物学者、母親は弁護士。E国の名門大学を卒業すると、すぐにこの研究室へ入った才能ある若手研究者だ。俺より年下だが、この研究所でのキャリアは俺より長い。「よろしく頼むよ」絵里香は明るく活発な性格で、研究所で俺を見かけるたび、笑顔で「先輩」と呼んできた。ときどきコーヒーを差し入れてくれたり、俺の席を通り過ぎるついでにプロテインを置いていったりすることもある。E国に来てからの最初の1週間、俺は一切の雑念を捨てて仕事に没頭した。昼は実験、夜は報告書の作成。枕に頭をつければ一瞬で気を失うように眠れるほど忙しく、涼音のことを考える余裕などなかった。親戚や友人を通じて彼女が居場所を探ろうと連絡してきても、俺はすべて取り合わなかった。涼音の連絡先も、司の連絡先も、すでにスマホから完全に消去し
Read more

第7話

涼音は陽色から届いたメッセージと写真を、スマホの画面に食い入るように見つめていた。【俺にはもう新しい生活がある。これ以上、俺の邪魔をしないでくれ】耳の奥で、低い耳鳴りがガンガンと響き続けている。出国する前、司が必死に自分を引き止めながら言った言葉が脳裏によみがえった。「涼音、考えてみろよ。あいつがどうしてE国へ行ったと思う?向こうに別の女がいるからに決まってるだろ」涼音は震える指で電話をかけ、E国に留学している知人に頼み込んだ。「調べて……この女が誰なのか」声が震え、最後の言葉はかすれてうまく発音できなかった。陽色があれほど自分を愛していたのに、あっさりと別の女を見つけたなど、到底信じられなかった。ほどなくして女性の身元が判明し、涼音は休む間もなく研究所のある街へと向かった。その街の夜の冷え込みは厳しく、彼女は大学の生物研究所の前で一晩中待ち続けた。朝、人に発見されたときには、凍えて身動きすらできない状態だった。それでも、意識を取り戻して最初に口にしたのは、助けを求める言葉ではなく、心の中でひたすらすがりついていた名前だった。「陽色……」二つ目の実験を終え、俺は疲労で痛む腰をさすった。そこへ絵里香がやってきて、何も言わずに湿布薬を差し出してきた。「国内から取り寄せたものです。どうぞ」俺はすぐには受け取らず、彼女の目元に痛々しく残る青あざを見つめた。「誰かと揉めたのか?」「それが、聞いてくださいよ」絵里香は大げさに手を振った。「今朝、研究所の入り口を開けようとしたら、凍えきった女性が倒れていたんです。慌てて中に運んで温かい飲み物を飲ませたら、意識が戻った途端、急に私を殴りつけてきて。すっごく痛かったんですよ。しかも、私が自分の婚約者を奪ったって喚くんです。もう意味がわかりません」俺の心臓が、大きく跳ねた。「その人は今、どこにいる?」俺が涼音と再会を果たしたのは、出国してから1ヶ月後のことだった。研究所のロビー。そのソファの隅で、涼音は小さく体を丸めていた。ひどくやつれている。服はシワだらけで、髪は手入れされずパサパサに乱れ、目の下には真っ黒な隈が落ちていた。俺を見た瞬間、彼女はソファから跳ね起き、目に光を宿した。「陽色……やっと見つけた」周囲
Read more

第8話

「あなたたち……」涼音は言葉を失い、俺の薄情さに深く傷ついたような、信じられないという顔をした。俺はそのまま絵里香の手を取り、涼音に向かって静かに告げた。「涼音、俺たちはこれで完全に終わりだ。これから俺がどこでどう生きようと、誰と過ごそうと、お前にはもう関係ない」涼音の唇が小刻みに震えた。何かを必死にこらえているようだった。俺はもう彼女の表情を見るのをやめ、一度も振り返ることなく屋上を後にした。しばらく無言で廊下を歩いていると、張り詰めていた糸が切れたのか、俺の体がかすかに震えていることに気がついた。すると、隣を歩いていた絵里香が俺の服の裾をちょこんと引いて、下から覗き込むような声で言った。「先輩。私の故郷では、誰かの服の裾をつかむのは『付き合う覚悟がある』って意味なんですよ。責任、取ってくださいね」俺は思わず眉をひそめた。「は?」絵里香は至極真面目な顔でうなずいている。「くだらない嘘をつくな」俺は手に持っていたスマホで、彼女の頭を軽くコツンと叩いた。「君の故郷じゃ、ハグやキスだって普通の挨拶なんだろ。それで裾をつかむだけが特別扱いなわけないだろうが」絵里香は堪えきれずに声を上げて笑った。嘘を見破られてもまったく気にした様子もなく、白衣のポケットから真っ赤なバラを1輪取り出した。「ひどい恋から抜け出せたお祝いです。私が特別に交配して育てた品種なんですよ。その辺の普通のバラとは違いますからね」俺は苦笑してそれを受け取った。その後は何もなかったかのように実験室へ戻り、残っていた実験データをまとめ終えた。一方、屋上に残された涼音は激しく取り乱していた。頭の中で、陽色が言い放った言葉が何度も何度もリフレインする。――あの日、俺は司を殴ってなどいない。疑うなら、あの店の監視カメラの映像でも確認してみろ。あの日の個室での出来事が、鮮明に脳裏によみがえった。彼女が状況を理解するより先に、司の額は腫れ上がり、血を流していた。司の悲鳴が、涼音の理性を一瞬で吹き飛ばしてしまった。陽色の説明など一切聞かず、彼女は一方的に彼を悪者にして責め立てたのだ。まさか、司が自分でわざとやったのでは……涼音はガタガタと震え出した。底知れない恐怖が心の奥底から広がり、手足の先まで冷
Read more

第9話

枯れかけた黄色いバラの束を抱えてうずくまる人影を見て、俺は足を止めた。忘れ物を取りに、一時的に研究所へ戻ってきただけだった。まさか、涼音がまだここで待ち続けているとは思わなかった。彼女は俺の姿を認めると赤く腫れた目をこすり、突然駆け寄ってきて、氷のように冷え切った体で俺にすがりついてきた。「陽色、ごめんなさい……調べたの。全部、司にだまされてたわ。本当にごめんなさい……お願い、もう一度やり直せない?これからは何でもあなたの言うとおりにするから……!」その言葉は、確かに心からの痛切なものに聞こえた。だが、すべてが遅すぎた。今さら彼女がどれだけ涙を流そうと、俺の心はもう微塵も動かなかった。「涼音、何度言えばわかるんだ。俺たちはもう終わっ――」言葉を言い終える前に、彼女は糸が切れたように俺の目の前へ崩れ落ちた。丸2日間何も口にせず、心身ともにとうに限界を超えていたのだろう。一瞬呆然としたが、俺はすぐに救急車を呼んだ。「低血糖と極度の疲労、ストレスによる失神です。ブドウ糖の点滴を打ちましたから、少し眠れば目を覚ますでしょう」病院の看護師は、淡々とそう説明した。俺は静かにうなずき、治療費だけを全額支払ってから、振り返ることなく病院を後にした。涼音が目を覚ましたのは、それから30分後のことだった。手の甲には、まだ点滴の針が刺さっている。記憶が鮮明によみがえった途端、彼女は飛び起き、乱暴に針を引き抜いた。「陽色はどこ!?陽色!」血走った目で周囲を見回し、大声で叫ぶ涼音に、看護師は冷静に肩をすくめて言った。「あなたを連れてきた男性なら、『彼女のことはもう自分には関係ない』と言って、お支払いを済ませて帰られましたよ」その短い事実が、涼音の心に残っていた最後の希望を粉々に砕き散らした。彼女はベッドの上で子どものように体を丸め、声を上げて泣き崩れた。その後、涼音は抜け殻のようになって帰国した。再び司と顔を合わせても、彼に向ける以前のような甘さは完全に消え失せていた。司が親しげに抱きつこうとしても冷たく拒絶し、理由を聞かれても何も答えない。あまりに何度もまとわりついてくるため、涼音はついに吐き捨てた。「うるさいわね。あんた、私の何様だと思ってるの?」司は呆然と立ち尽くした
Read more
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status