LOGIN彼女の柊涼音(ひいらぎ すずね)は数字に弱く、買い物をするたびに数を一つ多く間違える。 2人で出かけるときも、3人分の席を予約する。 「ごめん、間違えちゃった。あなたの親友も呼ぶ?」 俺・瀬名陽色(せな ひいろ)の誕生日にも、プレゼントを二つ買ってくる。 「ごめん、買いすぎちゃった。あなたの親友にも一つあげたら?」 そんなことが続くうちに、俺は感覚が麻痺し、このお決まりのパターンを受け入れるようになっていた。 結婚式の衣装を試着する日までは。 涼音は、ふいに手を伸ばして俺を遮った。 「陽色、あなたの衣装はあっちよ。これはグルームズマン用だから、親友の司に着てもらうの」 顔を上げると、目の前にあるオーダースーツは美しいシルエットに仕立てられており、襟には銀色に輝くダイヤモンドがあしらわれていた。 一方で、新郎である俺に残されたスーツは、どこにでもあるような安っぽい既製品で、シワが寄って薄汚れている。 その瞬間、俺の中で何かがプツリと切れた。 たった1着の高級オーダースーツまで鳴海司(なるみ つかさ)に譲る彼女に、これ以上執着する理由がどこにあるというのだろう。 俺は黙って視線を落とし、E国にいる指導教官へメッセージを送った。 【黒木先生、そちらの研究所はまだ人を募集していますか?】
View More枯れかけた黄色いバラの束を抱えてうずくまる人影を見て、俺は足を止めた。忘れ物を取りに、一時的に研究所へ戻ってきただけだった。まさか、涼音がまだここで待ち続けているとは思わなかった。彼女は俺の姿を認めると赤く腫れた目をこすり、突然駆け寄ってきて、氷のように冷え切った体で俺にすがりついてきた。「陽色、ごめんなさい……調べたの。全部、司にだまされてたわ。本当にごめんなさい……お願い、もう一度やり直せない?これからは何でもあなたの言うとおりにするから……!」その言葉は、確かに心からの痛切なものに聞こえた。だが、すべてが遅すぎた。今さら彼女がどれだけ涙を流そうと、俺の心はもう微塵も動かなかった。「涼音、何度言えばわかるんだ。俺たちはもう終わっ――」言葉を言い終える前に、彼女は糸が切れたように俺の目の前へ崩れ落ちた。丸2日間何も口にせず、心身ともにとうに限界を超えていたのだろう。一瞬呆然としたが、俺はすぐに救急車を呼んだ。「低血糖と極度の疲労、ストレスによる失神です。ブドウ糖の点滴を打ちましたから、少し眠れば目を覚ますでしょう」病院の看護師は、淡々とそう説明した。俺は静かにうなずき、治療費だけを全額支払ってから、振り返ることなく病院を後にした。涼音が目を覚ましたのは、それから30分後のことだった。手の甲には、まだ点滴の針が刺さっている。記憶が鮮明によみがえった途端、彼女は飛び起き、乱暴に針を引き抜いた。「陽色はどこ!?陽色!」血走った目で周囲を見回し、大声で叫ぶ涼音に、看護師は冷静に肩をすくめて言った。「あなたを連れてきた男性なら、『彼女のことはもう自分には関係ない』と言って、お支払いを済ませて帰られましたよ」その短い事実が、涼音の心に残っていた最後の希望を粉々に砕き散らした。彼女はベッドの上で子どものように体を丸め、声を上げて泣き崩れた。その後、涼音は抜け殻のようになって帰国した。再び司と顔を合わせても、彼に向ける以前のような甘さは完全に消え失せていた。司が親しげに抱きつこうとしても冷たく拒絶し、理由を聞かれても何も答えない。あまりに何度もまとわりついてくるため、涼音はついに吐き捨てた。「うるさいわね。あんた、私の何様だと思ってるの?」司は呆然と立ち尽くした
「あなたたち……」涼音は言葉を失い、俺の薄情さに深く傷ついたような、信じられないという顔をした。俺はそのまま絵里香の手を取り、涼音に向かって静かに告げた。「涼音、俺たちはこれで完全に終わりだ。これから俺がどこでどう生きようと、誰と過ごそうと、お前にはもう関係ない」涼音の唇が小刻みに震えた。何かを必死にこらえているようだった。俺はもう彼女の表情を見るのをやめ、一度も振り返ることなく屋上を後にした。しばらく無言で廊下を歩いていると、張り詰めていた糸が切れたのか、俺の体がかすかに震えていることに気がついた。すると、隣を歩いていた絵里香が俺の服の裾をちょこんと引いて、下から覗き込むような声で言った。「先輩。私の故郷では、誰かの服の裾をつかむのは『付き合う覚悟がある』って意味なんですよ。責任、取ってくださいね」俺は思わず眉をひそめた。「は?」絵里香は至極真面目な顔でうなずいている。「くだらない嘘をつくな」俺は手に持っていたスマホで、彼女の頭を軽くコツンと叩いた。「君の故郷じゃ、ハグやキスだって普通の挨拶なんだろ。それで裾をつかむだけが特別扱いなわけないだろうが」絵里香は堪えきれずに声を上げて笑った。嘘を見破られてもまったく気にした様子もなく、白衣のポケットから真っ赤なバラを1輪取り出した。「ひどい恋から抜け出せたお祝いです。私が特別に交配して育てた品種なんですよ。その辺の普通のバラとは違いますからね」俺は苦笑してそれを受け取った。その後は何もなかったかのように実験室へ戻り、残っていた実験データをまとめ終えた。一方、屋上に残された涼音は激しく取り乱していた。頭の中で、陽色が言い放った言葉が何度も何度もリフレインする。――あの日、俺は司を殴ってなどいない。疑うなら、あの店の監視カメラの映像でも確認してみろ。あの日の個室での出来事が、鮮明に脳裏によみがえった。彼女が状況を理解するより先に、司の額は腫れ上がり、血を流していた。司の悲鳴が、涼音の理性を一瞬で吹き飛ばしてしまった。陽色の説明など一切聞かず、彼女は一方的に彼を悪者にして責め立てたのだ。まさか、司が自分でわざとやったのでは……涼音はガタガタと震え出した。底知れない恐怖が心の奥底から広がり、手足の先まで冷
涼音は陽色から届いたメッセージと写真を、スマホの画面に食い入るように見つめていた。【俺にはもう新しい生活がある。これ以上、俺の邪魔をしないでくれ】耳の奥で、低い耳鳴りがガンガンと響き続けている。出国する前、司が必死に自分を引き止めながら言った言葉が脳裏によみがえった。「涼音、考えてみろよ。あいつがどうしてE国へ行ったと思う?向こうに別の女がいるからに決まってるだろ」涼音は震える指で電話をかけ、E国に留学している知人に頼み込んだ。「調べて……この女が誰なのか」声が震え、最後の言葉はかすれてうまく発音できなかった。陽色があれほど自分を愛していたのに、あっさりと別の女を見つけたなど、到底信じられなかった。ほどなくして女性の身元が判明し、涼音は休む間もなく研究所のある街へと向かった。その街の夜の冷え込みは厳しく、彼女は大学の生物研究所の前で一晩中待ち続けた。朝、人に発見されたときには、凍えて身動きすらできない状態だった。それでも、意識を取り戻して最初に口にしたのは、助けを求める言葉ではなく、心の中でひたすらすがりついていた名前だった。「陽色……」二つ目の実験を終え、俺は疲労で痛む腰をさすった。そこへ絵里香がやってきて、何も言わずに湿布薬を差し出してきた。「国内から取り寄せたものです。どうぞ」俺はすぐには受け取らず、彼女の目元に痛々しく残る青あざを見つめた。「誰かと揉めたのか?」「それが、聞いてくださいよ」絵里香は大げさに手を振った。「今朝、研究所の入り口を開けようとしたら、凍えきった女性が倒れていたんです。慌てて中に運んで温かい飲み物を飲ませたら、意識が戻った途端、急に私を殴りつけてきて。すっごく痛かったんですよ。しかも、私が自分の婚約者を奪ったって喚くんです。もう意味がわかりません」俺の心臓が、大きく跳ねた。「その人は今、どこにいる?」俺が涼音と再会を果たしたのは、出国してから1ヶ月後のことだった。研究所のロビー。そのソファの隅で、涼音は小さく体を丸めていた。ひどくやつれている。服はシワだらけで、髪は手入れされずパサパサに乱れ、目の下には真っ黒な隈が落ちていた。俺を見た瞬間、彼女はソファから跳ね起き、目に光を宿した。「陽色……やっと見つけた」周囲
E国へ来てから、俺は自分の時間を自分のために使うようになった。以前は涼音の予定に合わせるため、自分のことはすべて後回しにしていた。彼女に手料理を振る舞うために早く帰宅しなければならず、生物学の研究を諦めた。マッチョ好きの彼女に応えるため、睡眠時間を削ってジムへ通い続けた。友人との集まりも、研究所での研修も、自分の予定は何もかも彼女を優先するために犠牲にしてきた。だが今、俺は自分自身を取り戻すと決めたのだ。研究所で、黒木誠(くろき まこと)教授が半分冗談めかして言った。「ここは忙しいからね。夜10時を過ぎても残業になることが珍しくない。恋人との時間を優先したいという甘い考えの者はいないだろうね?」室内が静まり返り、全員の視線が一斉に新入りの俺へと集まった。一気に顔が熱くなる。沈黙の中、俺は小さく首を振った。「俺には……もう恋人はいないので」教授は少し驚いたように俺を見たが、すぐにうなずいた。「それもいいだろう。男はまず仕事に打ち込むべきだからな」そう言って、彼は部屋の後ろにいる人物を手招きした。金色の髪と青い目をした女性が、こちらへ歩いてくる。「陽色、紹介しよう。君の後輩だ」彼女は、俺が頭を悩ませていた研究データを受け取ると、その場ですらすらといくつかの解決の糸口を書き込んでみせた。「先輩、雨宮絵里香(あまみや えりか)です。母方の姓を名乗っています」その名前なら聞いたことがあった。父親は古生物学者、母親は弁護士。E国の名門大学を卒業すると、すぐにこの研究室へ入った才能ある若手研究者だ。俺より年下だが、この研究所でのキャリアは俺より長い。「よろしく頼むよ」絵里香は明るく活発な性格で、研究所で俺を見かけるたび、笑顔で「先輩」と呼んできた。ときどきコーヒーを差し入れてくれたり、俺の席を通り過ぎるついでにプロテインを置いていったりすることもある。E国に来てからの最初の1週間、俺は一切の雑念を捨てて仕事に没頭した。昼は実験、夜は報告書の作成。枕に頭をつければ一瞬で気を失うように眠れるほど忙しく、涼音のことを考える余裕などなかった。親戚や友人を通じて彼女が居場所を探ろうと連絡してきても、俺はすべて取り合わなかった。涼音の連絡先も、司の連絡先も、すでにスマホから完全に消去し