All Chapters of 徒花、ふたたび咲く 〜私を道具と蔑んだ夫が、愛を乞うて地獄を這い回る〜: Chapter 1 - Chapter 2

2 Chapters

第1話 氷の夫

 神崎家の朝は、いつも音もなく始まる。 杏奈は六時前に目を覚まし、隣で眠る夫を起こさぬよう、息さえ潜めてベッドを抜け出した。広すぎる寝室には、ふたりの体温が触れ合った記憶などひとつもない。 昴はいつもベッドの端で背を向けて眠る。まるで、隣に誰かがいることそのものを拒むように。 それでも杏奈は毎朝、この背中を見つめてから一日を始めた。漆黒の髪が枕に散り、シーツの白さの上で、彼の輪郭だけが彫像のように整っている。 眠っているときの昴は、ほんの少しだけ、あの近寄りがたい硬さを解いて見えた。だから杏奈は、この数十秒が好きだった。彼が目を覚ませば、すぐにまた氷が張ることを知っていても。 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、彼女の指先を白く透かした。細く、長い指。かつては鍵盤の上で歌うように動いた指だ。今はもう、誰のためにも音を奏でることはない。結婚してからピアノには触れていなかった。昴が、音楽を好まなかったからだ。 キッチンに立ち、杏奈はいつもの朝食を整えはじめる。昴の好みは、もうすっかり覚えていた。塩気は控えめに、コーヒーは深く濃く、卵は半熟の一歩手前で。五年という歳月は、報われない努力ばかりを彼女に積み上げさせた。 艶やかな栗色だった髪を、後ろでひとつにまとめる。鏡の中で、色素の薄い琥珀色の瞳が、感情を消したまま自分を見返していた。結婚してから、彼女は自分を飾ることをやめた。華やかな色も、ゆるく巻いた髪も、すべて手放した。 昴が「派手な女は好かない」と、たった一度こぼした言葉のために。彼の好む地味な妻でありたくて、杏奈は自分らしさを少しずつ手放してきた。削れば削るほど、いつか彼の隣にぴたりと収まれる気がして。 愚かだと、誰かに笑われてもいい。それでも杏奈は、昴を愛していた。 階段を下りる足音がした。「おはようございます」 杏奈が顔を上げると、昴がスーツの袖口を直しながらダイニングへ入ってくるところだった。百八十五センチの長身に、隙のない仕立ての黒。整えられた前髪の下で、切れ長の双眸が彼女を一瞥し――そして、何も映さなかった。 おはよう、の返事はない。いつものことだ。彼はただ、用意された椅子に腰を下ろす。 杏奈はコーヒーを注いだ。湯気の向こうで、彼の横顔は完璧なまま動かない。誰もが振り返る美貌だと、世間は言う。 財閥の若き総帥、神崎昴。 冷
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第2話 一年

「神崎さん。落ち着いて、聞いてください――」 医師の声は、ひどく慎重だった。まるで、割れやすい硝子細工をそっと卓上に置くような手つきで、その人は言葉を選んでいた。 杏奈は半身を起こしたまま、点滴の管が揺れるのをぼんやりと眺めていた。さきほどの激しいめまいの余韻が、まだ頭の芯に重く残っている。けれど彼女の意識は、自分の体のことよりも、ただひとつのことに向かっていた。「あの……お腹の子は。子供は、無事ですか」 声が震えた。それだけが、今の彼女にとってすべてだった。 医師は一瞬、痛みをこらえるように目を伏せた。それから、ゆっくりと頷いた。「ご懐妊については、問題ありません。赤ちゃんは、無事です」 その言葉に、杏奈の肩からほっと力が抜けた。よかった。この子は、無事だ。彼女は無意識に下腹へ手を当て、安堵の息を吐いた。 けれど、医師の表情は晴れなかった。むしろ、本当に伝えなければならないのはこれからだとでも言うように、その人はカルテに視線を落とし、再び口を開いた。「ただ、神崎さん。あなたが運ばれてきたとき、激しいめまいと一時的な意識消失がありました。念のため、頭部の検査をさせていただいたのですが――」 言葉が、そこで途切れた。 杏奈は、医師の顔を見た。白衣の人がこれほど言いよどむ姿を、彼女は見たことがなかった。「……何か、あったのですか」 静かな病室に、機械の電子音だけが規則正しく響いていた。 医師は、意を決したように顔を上げた。その瞳には、職業的な冷静さの奥に、まぎれもない人間としての憐れみが滲んでいた。「脳に、腫瘍が見つかりました」 腫瘍――その二文字が、杏奈の鼓膜を打った。 脳腫瘍。聞いたことのある言葉だった。けれど、それが今、自分の身に向けられているのだと理解するまでに、ほんの数秒の空白があった。「……腫瘍、ですか」 杏奈の声は、不思議なほど落ち着いていた。まるで他人の話を聞いているようだった。「はい。位置と進行の度合いから見て、残念ながら、悪性である可能性が高いと考えられます。しかも――進行性のものです」 進行性。 その響きが、ゆっくりと杏奈の胸の底へ沈んでいった。「もちろん、より詳しい精密検査が必要です。ただ、画像から判断する限り、すでにかなり進行しています。正直に申し上げます。手術で完全に取り除くのは、極めて難しい場
last updateLast Updated : 2026-08-21
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