神崎家の朝は、いつも音もなく始まる。 杏奈は六時前に目を覚まし、隣で眠る夫を起こさぬよう、息さえ潜めてベッドを抜け出した。広すぎる寝室には、ふたりの体温が触れ合った記憶などひとつもない。 昴はいつもベッドの端で背を向けて眠る。まるで、隣に誰かがいることそのものを拒むように。 それでも杏奈は毎朝、この背中を見つめてから一日を始めた。漆黒の髪が枕に散り、シーツの白さの上で、彼の輪郭だけが彫像のように整っている。 眠っているときの昴は、ほんの少しだけ、あの近寄りがたい硬さを解いて見えた。だから杏奈は、この数十秒が好きだった。彼が目を覚ませば、すぐにまた氷が張ることを知っていても。 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、彼女の指先を白く透かした。細く、長い指。かつては鍵盤の上で歌うように動いた指だ。今はもう、誰のためにも音を奏でることはない。結婚してからピアノには触れていなかった。昴が、音楽を好まなかったからだ。 キッチンに立ち、杏奈はいつもの朝食を整えはじめる。昴の好みは、もうすっかり覚えていた。塩気は控えめに、コーヒーは深く濃く、卵は半熟の一歩手前で。五年という歳月は、報われない努力ばかりを彼女に積み上げさせた。 艶やかな栗色だった髪を、後ろでひとつにまとめる。鏡の中で、色素の薄い琥珀色の瞳が、感情を消したまま自分を見返していた。結婚してから、彼女は自分を飾ることをやめた。華やかな色も、ゆるく巻いた髪も、すべて手放した。 昴が「派手な女は好かない」と、たった一度こぼした言葉のために。彼の好む地味な妻でありたくて、杏奈は自分らしさを少しずつ手放してきた。削れば削るほど、いつか彼の隣にぴたりと収まれる気がして。 愚かだと、誰かに笑われてもいい。それでも杏奈は、昴を愛していた。 階段を下りる足音がした。「おはようございます」 杏奈が顔を上げると、昴がスーツの袖口を直しながらダイニングへ入ってくるところだった。百八十五センチの長身に、隙のない仕立ての黒。整えられた前髪の下で、切れ長の双眸が彼女を一瞥し――そして、何も映さなかった。 おはよう、の返事はない。いつものことだ。彼はただ、用意された椅子に腰を下ろす。 杏奈はコーヒーを注いだ。湯気の向こうで、彼の横顔は完璧なまま動かない。誰もが振り返る美貌だと、世間は言う。 財閥の若き総帥、神崎昴。 冷
Last Updated : 2026-08-21 Read more