徒花、ふたたび咲く 〜私を道具と蔑んだ夫が、愛を乞うて地獄を這い回る〜

徒花、ふたたび咲く 〜私を道具と蔑んだ夫が、愛を乞うて地獄を這い回る〜

last updateLast Updated : 2026-09-04
By:  いろは杏Ongoing
Language: Japanese
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五年間、神崎杏奈は夫・昴に微笑まれたことが一度もなかった。それでもいつか愛されると信じ、艶やかな髪も、誇りだったピアノも捨て、ただ神崎の妻であり続けた。 そんな彼女に、同じ週、二つの報せが届く。宿った命と、余命一年の宣告。 けれど災害の夜、昴が迷いなく救ったのは愛人だった。冷たい瓦礫の下で、杏奈は我が子と、五年分の愛を失う。 離婚届を遺して消えるはずが、逃げ道はすべて昴の手で塞がれていた。 「お前は復讐の道具だ。一生、俺のそばで罪を償え」 ——私の借りは、命で返す。あなたの借りは、一生かけて後悔しろ。 すべてを失って初めて、彼は狂ったように彼女を捜し始める。ただ一度でいい、戻ってきてほしいと願いながら。

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りりか
りりか
なかなか辛いお話ですね。 幸せになって欲しい。せめて生きている間は。
2026-10-10 14:11:48
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9 Chapters
第1話 氷の夫
 神崎家の朝は、いつも音もなく始まる。 杏奈は六時前に目を覚まし、隣で眠る夫を起こさぬよう、息さえ潜めてベッドを抜け出した。広すぎる寝室には、ふたりの体温が触れ合った記憶などひとつもない。 昴はいつもベッドの端で背を向けて眠る。まるで、隣に誰かがいることそのものを拒むように。 それでも杏奈は毎朝、この背中を見つめてから一日を始めた。漆黒の髪が枕に散り、シーツの白さの上で、彼の輪郭だけが彫像のように整っている。 眠っているときの昴は、ほんの少しだけ、あの近寄りがたい硬さを解いて見えた。だから杏奈は、この数十秒が好きだった。彼が目を覚ませば、すぐにまた氷が張ることを知っていても。 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、彼女の指先を白く透かした。細く、長い指。かつては鍵盤の上で歌うように動いた指だ。今はもう、誰のためにも音を奏でることはない。結婚してからピアノには触れていなかった。昴が、音楽を好まなかったからだ。 キッチンに立ち、杏奈はいつもの朝食を整えはじめる。昴の好みは、もうすっかり覚えていた。塩気は控えめに、コーヒーは深く濃く、卵は半熟の一歩手前で。五年という歳月は、報われない努力ばかりを彼女に積み上げさせた。 艶やかな栗色だった髪を、後ろでひとつにまとめる。鏡の中で、色素の薄い琥珀色の瞳が、感情を消したまま自分を見返していた。結婚してから、彼女は自分を飾ることをやめた。華やかな色も、ゆるく巻いた髪も、すべて手放した。 昴が「派手な女は好かない」と、たった一度こぼした言葉のために。彼の好む地味な妻でありたくて、杏奈は自分らしさを少しずつ手放してきた。削れば削るほど、いつか彼の隣にぴたりと収まれる気がして。 愚かだと、誰かに笑われてもいい。それでも杏奈は、昴を愛していた。 階段を下りる足音がした。「おはようございます」 杏奈が顔を上げると、昴がスーツの袖口を直しながらダイニングへ入ってくるところだった。百八十五センチの長身に、隙のない仕立ての黒。整えられた前髪の下で、切れ長の双眸が彼女を一瞥し――そして、何も映さなかった。 おはよう、の返事はない。いつものことだ。彼はただ、用意された椅子に腰を下ろす。 杏奈はコーヒーを注いだ。湯気の向こうで、彼の横顔は完璧なまま動かない。誰もが振り返る美貌だと、世間は言う。 財閥の若き総帥、神崎昴。 冷
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第2話 一年
「神崎さん。落ち着いて、聞いてください――」 医師の声は、ひどく慎重だった。まるで、割れやすい硝子細工をそっと卓上に置くような手つきで、その人は言葉を選んでいた。 杏奈は半身を起こしたまま、点滴の管が揺れるのをぼんやりと眺めていた。さきほどの激しいめまいの余韻が、まだ頭の芯に重く残っている。けれど彼女の意識は、自分の体のことよりも、ただひとつのことに向かっていた。「あの……お腹の子は。子供は、無事ですか」 声が震えた。それだけが、今の彼女にとってすべてだった。 医師は一瞬、痛みをこらえるように目を伏せた。それから、ゆっくりと頷いた。「ご懐妊については、問題ありません。赤ちゃんは、無事です」 その言葉に、杏奈の肩からほっと力が抜けた。よかった。この子は、無事だ。彼女は無意識に下腹へ手を当て、安堵の息を吐いた。 けれど、医師の表情は晴れなかった。むしろ、本当に伝えなければならないのはこれからだとでも言うように、その人はカルテに視線を落とし、再び口を開いた。「ただ、神崎さん。あなたが運ばれてきたとき、激しいめまいと一時的な意識消失がありました。念のため、頭部の検査をさせていただいたのですが――」 言葉が、そこで途切れた。 杏奈は、医師の顔を見た。白衣の人がこれほど言いよどむ姿を、彼女は見たことがなかった。「……何か、あったのですか」 静かな病室に、機械の電子音だけが規則正しく響いていた。 医師は、意を決したように顔を上げた。その瞳には、職業的な冷静さの奥に、まぎれもない人間としての憐れみが滲んでいた。「脳に、腫瘍が見つかりました」 腫瘍――その二文字が、杏奈の鼓膜を打った。 脳腫瘍。聞いたことのある言葉だった。けれど、それが今、自分の身に向けられているのだと理解するまでに、ほんの数秒の空白があった。「……腫瘍、ですか」 杏奈の声は、不思議なほど落ち着いていた。まるで他人の話を聞いているようだった。「はい。位置と進行の度合いから見て、残念ながら、悪性である可能性が高いと考えられます。しかも――進行性のものです」 進行性。 その響きが、ゆっくりと杏奈の胸の底へ沈んでいった。「もちろん、より詳しい精密検査が必要です。ただ、画像から判断する限り、すでにかなり進行しています。正直に申し上げます。手術で完全に取り除くのは、極めて難しい場
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第3話 祝福の写真
 それは、何の変哲もない一枚の写真だった。 共通の知人が「いいね」を押したことで、たまたま杏奈のタイムラインに流れてきた投稿。投稿者の名は、宝生亜里沙。 昴の初恋の女だ。 杏奈はその名前を見るだけで、いつも胸の奥がざらりと痛んだ。華やかで、目を引く美貌の女。明るいブラウンの髪を惜しみなく巻き、唇には鮮やかな赤を引いた、自信に満ちた笑み。 昴の前では「か弱く可憐なシングルマザー」を演じながら、杏奈と二人きりになると、決まって猫のように目を細めて囁くのだ。『昴さんが本当に欲しかったものが何か、あなた、気づいてもいないのね』 その亜里沙が投稿した一枚の写真。 ガラス越しの街灯りの下、杏奈は震える指で画面を拡大した。 そこには、温かな光に満ちた部屋が写っていた。大きなテーブルの上には、何本もの蝋燭を灯したホールケーキ。色とりどりの飾りつけ。そしてその中心で――幼い子供を抱き上げ、目を細めて笑う昴の姿があった。 杏奈は、息をするのを忘れた。 笑っている。昴が、笑っている。 五年間、ただの一度も自分には向けられたことのない表情だった。あの氷のような双眸が、今はやわらかくほどけて、腕の中の子供を慈しむように見つめている。 前髪が少し乱れ、口元には見たこともないほど優しい弧が描かれていた。まるで、本物の――父親のように。 写真に添えられた亜里沙の言葉が、追い打ちをかけた。『今日は大切な人の誕生日。みんなでお祝いできて、本当に幸せな一日でした。やっぱり、家族っていいね』 家族。 その二文字が、杏奈の胸を鋭く抉った。 あの子は誰の子なのだろう。亜里沙は、子の父親を決して明かそうとしない。けれど、こんなにも幸せそうに子を抱く昴の姿を見せられて、信じずにいられるだろうか。 あの子は、もしかしたら――。 いや。考えるな、と杏奈は自分に言い聞かせた。考えてはいけない。 けれど、一度生まれた疑念は
last updateLast Updated : 2026-08-25
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第4話 守るべき宝物
 その夜、昴は帰ってこなかった。 杏奈が温め直した夕食は、二度、冷めた。リビングの灯りの下で、彼女は明け方近くまで夫を待ち、結局は子供のことを告げる機会を逃した。 翌朝戻った昴は、いつもの冷ややかな横顔で、どこに泊まっていたのかも告げず、ただ「着替える」とだけ言って寝室へ消えた。 それから、数日が過ぎた。 杏奈は何度も切り出そうとした。お腹に、命が宿っていることを。けれど、そのたびにあのSNSの写真が瞼の裏をよぎり、声が喉の奥で凍りついた。 昴の、自分には決して向けられない、あの優しい笑み。亜里沙の腕の中の、幼い子供。「家族っていいね」という、無邪気で残酷な言葉。 それでも、伝えなければ、と杏奈は思っていた。この命にだけは、罪はないのだから。     * * * 機会は、思いがけない形で訪れた。 神崎家が出資する、地方の保養施設。その視察に、昴が同行を命じたのだ。夫婦そろって顔を出さねばならない、という、ただそれだけの同行。 それでも杏奈は、わずかに期待した。慣れない土地で、二人きりの時間が少しでもあれば――そのときこそ、子供のことを打ち明けられるかもしれない、と。 けれど、その期待は、現地に着いた瞬間に砕けた。 施設には、亜里沙がいた。 昴が呼んだのか、彼女が押しかけたのかは分からない。ただ、亜里沙は当然のように昴の隣に立ち、当然のように杏奈へ、あの猫のような目を向けた。「あら、奥さま。こんな田舎まで、わざわざご苦労さまです」 艶やかな赤い唇が、嗤いの形に歪んだ。 杏奈は、何も言い返さなかった。言い返す気力も、もう残っていなかった。ただ、夫の隣に立つ華やかな女と、その傍らで何も咎めない昴を、静かに見つめていた。 視察の最中も、亜里沙は終始、昴に寄り添っていた。足元が悪いと言っては彼の腕に縋り、寒いと言っては彼の上着を求めた。 昴は、それを拒まなかった。杏奈には一片の優しさも見せないその手が、亜里沙にだけは
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第5話 死んだもの
 悲鳴は、声にならなかった。 救急車の天井の白さがぐにゃりと歪み、杏奈の視界は再び闇に呑まれた。意識が途切れる最後の瞬間まで、彼女は赤く濡れた指先を見つめていた。お腹を庇い続けたその手が、今、最も恐れていたものを告げていた。 次に目を覚ましたとき、杏奈は白い病室にいた。 窓の外は、すでに夜だった。点滴の管が、腕から細く伸びている。消毒液の匂い。規則正しい電子音。すべてが、あの余命を告げられた日と同じだった。違うのは――下腹に当てた手のひらに、もう、あの小さな熱が感じられないことだった。 杏奈は、すぐに悟った。悟ってしまった。 それでも認めたくなくて、彼女は枕元のナースコールを、震える指で押した。 やがて現れた医師は、あの日と同じ、痛みをこらえるような顔をしていた。その表情を見ただけで、杏奈にはすべてが分かった。けれど医師は、それでも、言葉にしなければならなかった。「神崎さん。残念ですが……お腹のお子さんは、助けられませんでした」 静かな病室に、その言葉がゆっくりと染み込んでいった。 土砂の衝撃と、長時間の圧迫。母体が受けた負担は、あまりにも大きすぎた。懸命の処置も、間に合わなかった。 ――医師は、そう続けた。けれど杏奈の耳には、もう半分も届いていなかった。「……そう、ですか」 杏奈の声は、不思議なほど凪いでいた。 涙は、出なかった。泣き叫ぶことも、取り乱すこともなかった。ただ、胸の奥がしんと冷えていくのを感じていた。まるで、体の内側に、音もなく雪が降り積もっていくように。 医師が去り、ひとりになった病室で、杏奈は、空っぽになった下腹をそっと撫でた。 ほんの数日前、ここには、たしかに命があった。淡い黄色のおくるみを夢見た、小さな命が。「お父さんになるのよ」と告げる日を心待ちにしていた、自分とこの子の、ささやかな未来が。 その何もかもが、冷たい瓦礫の下で消えた。「……ごめんね」 杏奈は、誰もいない病室で、声に出
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第6話 鎖
「お母さまが――桜子さんが、先ほど、急に倒れられたんです」 その言葉を聞いた瞬間、杏奈の足元から、世界が崩れ落ちた。 彼女は、駅の改札を駆け抜けた。流産したばかりの体が悲鳴をあげるのも構わず、ただひたすらに走った。タクシーを拾うと、療養所までの道のりが永遠のように長く感じられた。窓の外を流れる景色も、運転手の声も、何ひとつ頭に入ってこない。胸の中で、ただ一つの祈りだけが繰り返されていた。 お母さん。どうか、無事でいて。 お願い。あなたまで、わたしから奪わないで。 療養所に着くと、桜子はすでに、近くの大きな病院へと搬送されたあとだった。杏奈は再びタクシーに飛び乗り、その病院へと向かった。受付で母の名を告げると、案内されたのは、集中治療室の前の、薄暗い廊下だった。 ガラス越しに、母の姿が見えた。 徒花桜子。かつては、凛とした女医だった人。白髪の混じった髪をいつもきちんとひっつめにして、患者思いの、まっすぐな医師だった。 けれど今、ベッドに横たわるその姿は、痛々しいほどに痩せ細り、無数の管に繋がれていた。穏やかな寝顔だけが、昔と変わらず、杏奈とよく似た優しさを湛えていた。「……お母さん」 杏奈は、ガラスに手をつき、声を震わせた。 やがて、担当の医師がやってきた。その表情は、重かった。 桜子は、もともと、重い病を患っていた。療養所での生活も、その治療の一環だった。けれど、病はここへきて急速に進行していた。今すぐ大きな手術を行わなければ、命の保証はできない。――医師は、そう告げた。「手術を、お願いします」 杏奈は、即座に答えた。考えるまでもなかった。母を救えるなら、何でもする。「お願いします。母を、助けてください」 医師は、痛ましげに、けれど誠実に頷いた。そして、続けた。「ただ……非常に難しい手術になります。専門の設備と、海外からの医師の招聘も必要です。費用が――かなり、高額になります」 その金額を聞いたとき、杏奈は息を呑んだ。 数千万。とても、今の自分に用意できる額ではなかった。 杏奈には、自由になる財産が、ほとんどなかった。神崎の妻という立場にありながら、彼女が自由に使える金は、わずかな生活費だけ。昴は、妻に財産を持たせることを決して許さなかった。籠の鳥に、外の空を見せないように。 けれど――昴の妻という立場を使えば。彼に頭を下
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第7話 悪魔の契約
 神崎の本社ビルは、夜空を貫くように、冷たくそびえていた。 最上階の総帥室。その重厚な扉の前で、杏奈はしばらく立ち尽くしていた。流産したばかりの体は、まだ鉛のように重い。 けれど、彼女を躊躇わせていたのは、体の痛みではなかった。この扉の向こうで、夫が――いや、もう夫とも呼べないあの男が、自分に何を突きつけてくるのか。それが、わからなかったからだ。 けれど、もう引き返せない。母の命が、この扉の向こうに人質に取られている。 杏奈は、深く息を吸い、扉を押し開けた。 広大な部屋の奥、夜景を背にして、昴は立っていた。 漆黒のスーツに包まれた、長身の体躯。整えられた前髪の下で、切れ長の双眸が、入ってきた杏奈を冷ややかに射抜いた。誰もが振り返るほどの美貌。けれどその美しさは、今、人を凍てつかせる、剥き出しの刃のようだった。「来たか」 昴の声は、低く、静かだった。 杏奈は、彼の前まで歩み寄り、まっすぐに立った。震える膝を、必死に押さえながら。「……母の手術費のこと、あなたが手を回したと、聞きました」 声が、掠れた。けれど、彼女は目を逸らさなかった。「口座を凍結したのも、わたしの仕事を奪ったのも、あなたなんですね。なぜ、こんなことを。わたしは、もう、あなたの前から消えるつもりでした。離婚届も、置いてきたはずです」 昴の口元が、わずかに歪んだ。冷たい笑みだった。「消える? お前が?」 彼は、ゆっくりと杏奈に近づいた。「勝手に消えることなど、許すと思ったか。お前は――俺の許しなしに、どこへも行けない」 その瞳の奥に、杏奈は、奇妙な光を見た。怒りとも、執着ともつかない、暗く激しい何か。けれど、彼女には、それを読み解く余裕などなかった。「……何が、望みなんですか」 杏奈は、震える声で問うた。「母を助けるために、わたしは、何でもします。だから――」「何でも、だと?」 昴は、その言葉を冷ややかに繰り返した。そして、杏奈の顎を、冷たい指ですくい上げた。その瞳が、彼を映して揺れる。「いいだろう。お前の母親の手術費は、俺がすべて出してやる。最高の医師も、設備も、用意してやる。――その代わり」 彼は、顔を近づけ、囁いた。冷たい吐息が、杏奈の頬を撫でる。「お前は、今日この時から、俺の所有物になれ」 杏奈の心臓が、冷たく軋んだ。「妻ではない。人間ですら
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第8話 道具の作法
 神崎邸の玄関ホールに、艶やかな声が響き渡った。「おかえりなさい、奥さま。――ああ、もう、奥さまでもないのかしら?」 宝生亜里沙。 昴の、初恋の女。普段はか弱く可憐なシングルマザーにしか見えないというのに、今の彼女の表情には、かつて昴の前で見せていた従順さなど微塵も残っていなかった。明るいブラウンの髪をいつものように惜しみなく巻き、赤い唇を、勝ち誇った弧に歪めている。 彼女は、まるでこの家の女主人であるかのように、玄関ホールの中央に立っていた。 杏奈は、何も言わず靴を脱いだ。流産と、母の急変と、昨夜の契約。あまりにも多くのものにすり減らされた体は、もう、亜里沙の挑発に反応する気力すら残していなかった。 その沈黙が、かえって亜里沙を苛立たせたらしい。彼女は、ヒールの音を響かせながら、杏奈に近づいてきた。「聞いたわよ。あなた、昴さんの所有物になったんですってね。妻の座も失って、ただの道具に」 亜里沙は、くすくすと喉を鳴らして嗤った。「みじめねえ。でも、お似合いよ。あなたみたいな地味で退屈な女には、それがちょうどいいわ」 杏奈は、亜里沙の顔を静かに見つめた。 不思議だった。以前なら、この言葉に、胸を抉られただろう。けれど今は、奇妙なほど、何も感じなかった。愛が死に、子を喪い、絶望の底まで落ちきった心には、もう、傷つく余白すらなかったのだ。「……何か、ご用ですか」 杏奈の凪いだ声に、亜里沙はわずかに鼻白んだ。「ご用? ふん。これからは、わたしがこの家に自由に出入りするから。そのつもりでいなさい、ってこと。昴さんが、許してくださったの。わたしと、わたしの可愛い子のために」 ――子。 その言葉に、杏奈の胸の奥が、ほんのわずかに疼いた。失った我が子の面影が、よぎる。けれど、彼女はそれを表情に出さなかった。「だから、あなたは――」 亜里沙は、勝ち誇ったように続けた。「これからは、使用人として、わたしに尽
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第9話 リジェネシアという名
 扉の向こうは、静寂と薄暗がりに沈んでいた。 昴の書斎。広い室内には、天井まで届く書架が壁を埋め、重厚な執務机が窓を背にして据えられていた。 カーテンは半ば閉じられ、差し込む朝の光が、宙に舞う埃を白く照らしている。男の匂いがした。彼の纏う、冷たく乾いた香り。それが、この部屋にも染みついていた。 杏奈は、そっと足を踏み入れた。 心臓が痛いほど鳴っていた。もし、見つかったら。けれど、引き返すつもりはなかった。これは、自分が立てた誓いの、最初の一歩なのだ。 部屋は、塵ひとつなく整えられていた。 けれど、二歩、三歩と進んだところで、杏奈の足が止まった。 匂いだ。 彼の乾いた香りの下に、別のものが混ざっている。甘く、重く、まとわりつくような――昨夜、この部屋に満ちていたはずの香水。 杏奈は、ゆっくりとソファのほうへ目をやった。 クッションは整えられ、グラスも片づけられている。それでも、背もたれの布地に、明るいブラウンの髪が一本、朝の光を受けて金色に光っていた。 杏奈は、それを、長いこと見つめていた。 ――この部屋には、五年間、一度も入れてもらえなかった。 掃除さえ許されなかった。近づくことも、扉に触れることも。この家で最も固く閉ざされ、妻でさえ立ち入りを拒まれた、男の聖域。 その聖域のソファで、あの女は、髪を乱していたのだ。 喉の奥から、笑いがせり上がってきた。声にならない、乾いた笑い。杏奈は、口元を手で押さえた。 滑稽だった。あまりにも。 五年間、この扉の前を通るたび、そっと足音を殺していた自分。彼の領域を侵さぬよう、息を潜めていた自分。その健気さの、なんという無意味さ。 ――そして、そこで、笑いが止まった。 だったら、なぜ。 杏奈は、光る一本の髪を見つめたまま、動けなくなった。 これほどまでに、あの女に溺れているのなら。この聖域にまで招き入れ、髪を乱させ
last updateLast Updated : 2026-09-04
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