ホーム / 極道 / 極道組長の愛犬は、警察庁のΩ / チャプター 1 - チャプター 10

極道組長の愛犬は、警察庁のΩ のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

10 チャプター

プロフィール

攻めプロフィール絹笠 凌臣きぬがさ・りょうしん41歳/α/193cm/100kg日本最大の極道組織《燈城会》4代目会長。玲より9歳年上。身長193cm、体重100kg。玲とは20cmの身長差、51kgの体重差があり、二人が並ぶだけで圧倒的な体格差が分かる。骨格そのものが大きく、肩幅も胸板も厚い。首も腕も太く、仕立ての良いスーツを着ても重量感が消えない。体脂肪を極端に落とした筋肉質というより、殴り合いや実戦で培われた頑丈な身体。黒髪は短く後方へ流している。前髪が数本だけ額へ落ちる癖がある。瞳は黒に近い焦茶。眉と目の距離が近いため普通に見ているだけでも睨んでいるように見える。顔そのものはかなり整っているが、威圧感が強すぎて美形という印象より先に「怖い」が来る。性格短気。猜疑心が異常に強い。自分が知らないところで何かが動いていることを最も嫌う。一度信用した人間には莫大な金も命も預けられる一方、「信用した相手に裏切られるくらいなら最初から疑う」という思考が染みついている。気に入らないことがあれば物へ当たる。テーブルを蹴り飛ばす。酒瓶を壁へ投げる。ガラスの灰皿を投げる。玲へ投げる場合も本当に顔へ当てるのではなく、頬を掠めるぎりぎりの軌道を狙うことが多い。それを加減だと思っている時点で完全におかしい。玲の髪を掴んで顔を上げさせることも、殴ることも、蹴ることもある。怒りや疑念が頂点に達すると、玲との身体の関係を八つ当たりに使う。本人にとって長らく、「俺の犬なんだから俺の好きにする」で終わる問題だった。酒と煙草極度のヘビースモーカー。1日2箱から3箱。怒りや不眠が重なるとさらに増える。酒も依存症を疑われる量を毎晩飲む。ウイスキー、バーボン、日本酒、ウォッカなど種類に拘らず強い酒を好む。酔うほど玲への距離が近くなる。ただしアルコールで完全に判断能力を失うことは滅多にない。玲だけはその何倍飲んでもほぼ酔わないため、飲み比べでは一度も勝てない。玲への異常な執着玲は右腕。組長補佐。愛人。運命の番。番犬。愛玩動物。凌臣の中では全部同時に成立している。玲を自分の足元へ座らせることがある。靴へ口づけるよう命令することもある。他人の前で「俺の犬」と呼ぶ。玲の頭を犬へするように撫でる。その一方で、自分以外が
last update最終更新日 : 2026-08-24
続きを読む

第1話 日本一恐ろしい愛犬

配膳係の靴が、畳には似合わなかった。都心の喧噪から切り離された老舗料亭の離れには、磨き込まれた檜と白檀の香りが薄く漂い、庭の鹿威しが一定の間隔で乾いた音を鳴らしている。燈城会の月例会に使われるその座敷へ入れる者は、直系幹部と厳選された店の人間だけだった。上座には四代目会長、絹笠凌臣が胡坐に近い姿勢で座り、指の間に挟んだ煙草から細い煙を立ち上らせている。仕立ての良い黒いスーツでも隠しようのない百キロの巨躯は、座っているだけで周囲の空間を狭く見せた。凌臣の右後ろには、玻名城澪が立っていた。身長百七十三センチ、体重四十九キロという細い身体は、百九十三センチの凌臣のそばではなおさら華奢に映る。黒に青を一滴落としたような青墨色の髪は襟足を残して整えられ、頬から顎へ落ちる毛束が小さな卵形の輪郭を縁取っていた。雪のように白い肌、長い睫毛、伏せれば冷たい影を落とす灰紫の瞳は、裏社会の人間よりも画廊か高級店の広告に置かれる方が似合いそうだった。初めて見る者なら、恐ろしい組長が気に入って傍に置いている愛人だと考えるかもしれない。だが、燈城会の人間で澪を見た目だけで判断する者はいない。凌臣の肩へ不用意に触れようとした男の指を、澪は笑いもせず二本折ったことがある。別の夜には、向かいのビルの暗がりに潜んでいた狙撃手を、照準器が光るより先に見つけた。組の金を抜いた古参幹部が複数の名義へ分散させた隠し口座も、澪は半日とかからず洗い出した。そのため彼を陰で愛犬と呼ぶ者は多くても、可愛いという意味で口にする者は一人もいなかった。「西の倉庫については、来月から名義を変えます。現状のままでは金融機関側に余計な照会を掛けられる可能性があります」澪が淡々と説明すると、円卓を囲む男たちは手元の資料へ視線を落とした。声は静かで、余計な抑揚がない。質問を受ければ必要なだけ答え、凌臣から指示が飛べば即座に「承知しました」と返す。四年間かけて燈城会の中枢へ入り込んだ男の姿に、迷いも隙も見えなかった。襖が開き、先ほどと同じ配膳係が追加の酒と料理を載せた盆を持って入ってきた時も、澪は話を止めなかった。男は三十代半ばほどで、料亭の制服を正しく着ている。頭を下げる角度も、盆の持ち方も不自然ではない。それでも澪の灰紫の瞳は一度だけ男の足元へ落ち、そのまま袖口へ上がった。ほんの数秒だったため、会議へ集中していた者の大
last update最終更新日 : 2026-08-24
続きを読む

第2話 東大では笑う男

午前九時を回る少し前、燈城会本邸の会議室には、昨夜捕らえた襲撃者についての資料が並べられていた。玲は濃紺のスーツに着替え、凌臣の右後ろへいつもの位置を取っている。夜明け前に凌臣の寝室を出てから一度自室へ戻り、短いシャワーを浴び、暗号端末の記録を消し、何事もなかった顔で朝の会議へ出た。眠気はあるが表へは出さない。四年間、こういう朝を何度繰り返したか、もう数える気にもならなかった。「店へ入ったのは三日前です。採用時に提出された身分証は偽造でしたが、元になった戸籍自体は実在しています」玲は資料へ視線を落としながら報告した。昨夜のうちに店側の採用記録、防犯カメラ、電話履歴を突き合わせ、男が誰と接触していたかを洗っている。斑鳩井朔が向かいから追加の書類を滑らせると、玲は受け取った瞬間にざっと目を通し、数秒後にはページを閉じた。「厨房担当の一人が金を受け取っています。金額は百八十万。本人はただの紹介料だと言っていますが、送金元の名義が二日前に消えています。昨夜の男と同じ系統でしょう」「始末するか」凌臣が煙草へ火をつけながら言った。玲は僅かに顔を上げ、いつもの無表情のまま答える。「今は泳がせる方が有益かと。こちらが気づいていないと思わせれば、次の接触先が出る可能性があります」「好きにしろ」「承知しました」会議は一時間ほどで終わった。幹部たちが順に立ち上がるなか、玲は資料をまとめ、腕時計へ目を落とした。午後一時から東京大学で講義がある。移動時間を考えれば、ここを十一時半には出たい。凌臣はその視線を見逃さず、灰皿へ煙草を押しつけた。「大学か」「はい。午後から講義がありますので」「昨日撃たれかけた翌日にか」「僕が撃たれたわけではありません」「似たようなもんだろ」「全然違います」玲は淡々と返したが、凌臣は面白くなさそうに鼻を鳴らした。止められる理由はないと判断したのか、それ以上は何も言わない。玲も余計な説明はせず、会議室を出た。本邸の廊下を歩く間、玲の表情はまだ燈城会の組長補佐《玻名城澪》のものだった。声を掛けてきた組員には必要なことだけ返し、昨夜の件を興奮気味に尋ねる若手へも「仕事へ戻ってください」と静かに告げる。笑わない。歩幅も一定で、背筋は真っ直ぐ伸びている。その姿を見れば、夜明け前までほとんど眠っていなかったとは誰も思わないだろう。車へ乗り込
last update最終更新日 : 2026-08-24
続きを読む

第3話 公では僕、警察では私

深夜1時を回った本邸は、昼間とは別の建物のように静かだった。廊下を歩く組員の足音も途絶え、庭に面した障子の向こうからは、風に擦れる竹の葉の音だけが細く聞こえてくる。玲は自室の内鍵を掛け、念のため盗聴検知器を1周させてから、机上の書類を全て裏返した。凌臣の執務室から戻ってまだ30分も経っていない。大学で学生に笑っていた写真を手元へ置き、不機嫌になっていた凌臣の顔が浮かんだが、玲は息を吐いて思考から追い出した。腕時計を外し、裏蓋に隠した薄型端末を取り出す。暗号通信機器は、玲の虹彩と指紋、時間ごとに変化する認証列を全て通さなければ起動しない。左手で8桁、右手で12桁を入力し、最後に端末を机上の遮蔽ケースへ収めると、黒い画面へ警察庁の閉鎖回線が立ち上がった。燈城会側の機器と接続したことは1度もなく、片方を押収されてももう片方へ辿れない。画面には既に複数の人物が並んでいた。警察庁長官の納所允孝をはじめ、長官官房、組織犯罪対策部門、国際捜査、資金洗浄対策に関わる幹部たちが、それぞれ別の安全施設から接続している。玲はシャツの襟を整え、椅子へ座り直した。背筋を真っ直ぐ伸ばし、表情から私情を消す。そこにいるのは燈城会の愛犬でも、学生へ笑う大学講師でもなかった。「警視、靫負玲。定時報告を開始します」自分の本名を口にしても、声は少しも揺れなかった。画面の隅に録音不可を示す表示が点灯し、幹部の1人が頷く。玲は資料を開かない。机上には白紙のメモ帳とペンしか置かれていなかった。「燈城会が現在把握している海外送金ルートは7本です。うち3本は東南アジア経由、2本は欧州系の投資会社を挟み、残る2本が国内法人へ還流しています。国内へ戻る2本について、法務省関連法人へ接続する可能性があります」国際捜査担当の幹部が眉を寄せた。「可能性というのは、どの程度だ」「現時点で直接証拠はありません。ただし、香港法人《ライデン・ストラテジック・ホールディングス》から2025年11月17日に送金された4億8200万円が、シンガポールの《オーレリア・アセット・マネジメント》を経由し、2025年11月21日に国内の《東亜政策研究振興機構》へ分割入金されています。金額は1億6000万円、1億2200万円、2億円です」玲は視線を上げることなく答えた。質問した男が手元の資料を捲り、該当箇所を探す。その動きが止
last update最終更新日 : 2026-08-24
続きを読む

第4話 帽子1つで嘘を暴く

男が帽子を脱いだ瞬間、玲はその裏地へ1度だけ目をやった。燈城会本邸の応接間には、午後の薄い光が障子越しに差し込み、黒檀の卓へ淡い影を落としている。向かいに座った男は、自らを欧州系慈善財団《アルベリオ財団》の日本代理人、クラウス・ベルンハルトと名乗った。年齢は50代半ばほど、濃紺のスーツに絹のネクタイ、腕には古いパテック・フィリップらしき時計を巻いている。髪は銀色を丁寧に撫でつけ、物腰も穏やかで、少なくとも表面だけを見れば長く上流階級に身を置いてきた人物に見えた。凌臣は男の経歴を質問しなかった。既に下調べはしているはずなのに、あえて確かめることもせず、煙草を指に挟んだまま相手の話を聞いている。その右後ろに立つ玲にも、何も指示を出さない。ただそこに置いているだけだった。それがむしろ玲には分かりやすい。見ろ、ということだ。玲はこの役目を説明されたことがない。最初の頃こそ「何か分かったら言え」と命じられたが、今では凌臣が会談相手を玲の視界へ入れるだけで十分になっていた。相手がどの手で名刺を出すか、椅子へ座る時にどちらの脚を庇うか、身につけた品が本人の経歴と矛盾しないかを、玲は会話と同時に拾っていく。凌臣も途中で横顔を確認することはあっても、会談の最中に答えを求めない。玲が本当に危険を察した時だけ先に動くことを、4年の間に覚えていた。男は日本国内での医療支援事業を拡大するため、燈城会傘下の物流網を使いたいのだと説明した。財団は3代にわたり欧州の資産家一族が運営し、戦後から慈善事業へ莫大な資金を投じてきたという。口調には無駄がなく、日本語にも不自然な訛りがない。資料も整っており、財団の設立年、寄付実績、理事名簿、海外拠点の一覧まで用意されていた。「私の家は、代々資産の運用と慈善活動を両立してきました。祖父の代から、日本との縁も深いのです」男はそう言って微笑み、卓上の紅茶へ手を伸ばした。その動きで袖口が数センチ上がり、時計の文字盤がよく見える。玲は視線を止めたのは1秒にも満たない。それでも、針の形、インデックスの焼け、ケースの厚み、ラグの磨耗、ブレスレットの接続部分まで十分だった。話の途中で、男は暑いと言って帽子を脱いだ。濃い灰色のフェルトハットで、内側にはロンドンの老舗帽子店《ハロウェイ&クレイン》の金箔ロゴが入っている。卓の端へ置く際、裏地が僅かにめくれ、汗止め
last update最終更新日 : 2026-08-24
続きを読む

第5話 運命の番

廊下の向こうで、凌臣の足が止まった。玲はその瞬間、自分の身体から何かが漏れたのだと悟った。燈城会本邸の午後は来客も多く、廊下には組員が数人行き交っている。誰も振り返らない。傍を通った若い組員も、資料を抱えた事務方も、何の異変も感じていない顔をしていた。それなのに20メートル近く離れた場所にいた凌臣だけが、煙草を口元へ運びかけた姿勢のまま動きを止めている。玲は腕時計へ視線を落とした。予定日まではまだ2日ある。今朝も高濃度の抑制薬を服用し、昼には追加の遮断剤も使った。熱もない。手の震えもない。心拍も普段とほとんど変わらない。それでも、身体の内側には数時間前から微かな重さがあり、薬で押し込めたはずのΩ特有の感覚が薄い膜の向こうで蠢いていた。「澪」低い声が廊下を渡った。「はい、組長」玲はすぐに顔を上げた。公の場で使う声と表情を崩さない。凌臣は周囲へ何も説明せず、指に挟んだ煙草を灰皿へ押しつけると、顎だけで奥の部屋を示した。「来い」「承知しました」玲が歩き出すと、組員たちは誰も不思議そうな顔をしなかった。組長が澪を呼びつけることなど日常の一部だ。だが玲にとって、その数歩は妙に長く感じられた。凌臣へ近づくほど、ほとんど消していたはずの匂いが鮮明になる。焦がした檜、血を思わせる乾いた鉄、熱を持った樹脂。4年前から変わらない、玲の神経を理屈ごと乱すαの匂いだった。最初にそれを嗅いだ日のことを、玲は今でも細部まで覚えている。4年前、まだ《玻名城澪》という名前が燈城会の誰にも馴染んでいなかった頃、玲は本邸ではなく都内の会員制ホテルへ呼ばれていた。警察庁が何年もかけて作った身分は既に完成していた。大学で研究と講義を続ける若い学術畑の男。資産管理と数字に強く、裏社会との接点は薄いが、ある企業の粉飾を見抜いたことで燈城会側の関係者へ接触したという筋書き。戸籍も学歴も納税記録も研究実績も、調べられる限り破綻しないよう積み上げてある。それでも、絹笠凌臣本人の前へ立つ瞬間だけは別だった。日本最大の極道組織を率いる男は、部下から上がった書類だけで人を信用するほど甘くない。玲はホテルの個室へ案内されるまでに、廊下の防犯カメラ4台、非常口2か所、警備役と思われる男7人の配置を記憶していた。もし身元を疑われ、その場で拘束された場合に使える脱出経路も3つ考えていた。扉が開く。ま
last update最終更新日 : 2026-08-24
続きを読む

第6話 数百億なら誤差

賭場には、現金を積み上げた華やかさがなかった。都内湾岸部の外資系ホテル、その最上階からさらに専用エレベーターで下った地下区画には、看板も受付表示もなく、黒い扉の前に立つ警備員だけが入場者の資格を確認していた。玲は凌臣の半歩後ろを歩きながら、廊下の監視カメラの位置、警備員の利き手、腰の膨らみから推測できる携行武器まで順に記憶していく。ここを運営しているのは燈城会と長く取引のある欧州系物流企業だったが、裏では金融、海運、武器、薬物の仲介まで扱っており、賭場も単なる娯楽施設ではなかった。入場時に渡された黒革のケースを開くと、中には通常のチップではなく、権利証を電子化した薄型プレートが並んでいた。現金だけではない。上場企業株式、非上場会社の持分、社債、港湾倉庫の優先使用権、貨物船の所有権、投資ファンドの受益権まで、法的な名義移転を可能にする書類が事前に信託会社へ預けられている。勝負が確定すれば、翌営業日にそれらが動く仕組みだった。玲はケースを見下ろしながら、軽く眉を上げた。「趣味が悪いですね」隣を歩く凌臣が煙草を咥えたまま横目を寄越す。「賭場で善趣味求めんな」「現金だけならまだ分かりますけど、港の倉庫まで賭ける人間の気が知れません」「お前がそれ言うか?」「俺はまだ何も賭けてませんよ」周囲には日本語を理解する者が少なく、さらに凌臣と玲の座席周辺には専属警備以外ほとんど人が寄らない。玲も人前で使う《玻名城澪》の「僕」ではなく、自然に「俺」へ戻っていた。潜入先でありながら、凌臣と2人きりに近い状況では、この切り替えがいつしか当たり前になっている。玲自身、それがいつから始まったのか正確には覚えていなかった。今夜の目的は賭博そのものではなかった。燈城会が東南アジアで共同利用している海運ルートについて、取引相手のヴァルター・シュタイナーと条件を更新する必要があり、その交渉場所として相手側が賭場を指定してきたのだ。シュタイナーは60歳前後の大柄なβで、表向きは物流企業の会長だが、港湾労組、保険会社、複数国の税関関係者へ強い影響力を持つ。凌臣とは10年以上の付き合いがあり、互いに信用しすぎない程度には相手を知っていた。「新しい倉庫使用料は18%上げる」シュタイナーがカードを配らせながら告げた。卓上では既に数億円相当の権利が動いているが、凌臣の顔色は変わらない。煙草
last update最終更新日 : 2026-08-24
続きを読む

第7話 両利きのディーラー

賭場の時計が午前3時を回っても、卓を囲む者たちに眠気は見えなかった。照明は入場時から1度も明るさを変えず、窓のない地下区画では外が夜なのか朝なのかすら分からない。玲は革張りの椅子へ浅く腰掛け、卓上へ積まれた権利プレートと、新たに封を切られたカードを静かに眺めていた。数時間前まで300億円、さらに600億円相当を動かした勝負が続いていたにもかかわらず、空気はむしろ最初より研ぎ澄まされている。向かいのシュタイナーは、負けが込んでいる人間とは思えないほど機嫌が良かった。苛立ちを隠しているのではなく、玲という未知の相手を解析することそのものを楽しんでいるらしい。さきほどから勝負よりも玲の手元を見る時間が長く、視線は右手の指先、カードの持ち方、チップ代わりの権利証へ触れる順序を追っている。玲は気づいていたが、わざわざ教える理由もないので、何も知らない顔で右手だけを使い続けた。「今度は君が配れ」シュタイナーがそう言って、専属ディーラーへ手を上げた。ディーラーは1歩下がり、封を切ったばかりのデッキを玲の前へ置く。玲はカードケースの封印番号と縁の加工を1度だけ確認し、右手でデッキを持ち上げた。「俺がですか」「嫌なら断ってもいい」「別に構いません。ただ、不正を疑われるのは面倒ですね」「この卓は全方位から撮っている。君が細工できるなら、それも見てみたい」玲は肩を軽く竦め、リフルシャッフルを始めた。左右の束をほぼ同じ枚数へ分け、親指の圧を均等に掛けて噛み合わせ、最後にカットする。カードは一定の音を立てて卓上へ滑り、誰の前にも同じ距離で止まった。凌臣は玲の横で煙草を咥えたまま、その手元よりもシュタイナーの顔を見ている。最初の3ゲーム、玲は意図的に右手しか使わなかった。カードを配る時も、自分の手札を確認する時も、権利プレートを動かす時も右側で統一する。シュタイナーの視線が自然とそこへ寄り、カードを見るより玲の親指と人差し指の間を追う時間が増えていく。どちらが利き手なのか、強い札を持った時に指へ何か出るのか、探していることは明白だった。4ゲーム目、玲は何の前触れもなくデッキを左手へ持ち替えた。右手を卓の端へ置き、左だけで同じようにシャッフルし、そのままカードを配る。速度も精度も変わらず、配札位置の誤差すらほとんどない。シュタイナーの眉が僅かに動いた。「左利きなのか」「
last update最終更新日 : 2026-08-24
続きを読む

第8話 玩具を付けた組長補佐

凌臣の機嫌が悪くなった理由を、玲は前夜からほぼ把握していた。燈城会と長く付き合いのある地方組織の幹部が本邸を訪れ、帰り際、廊下ですれ違った玲へ必要以上に近づいたのだ。相手は40代のαで、酒が入っていたとはいえ足取りは確かだったから、距離感を誤ったわけではない。玲の肩へ腕を回そうとし、避けられると面白がるように笑い、今度は青墨色の髪へ指を伸ばした。「相変わらず綺麗だな、澪。絹笠のところに置いとくのが勿体ねえ」玲は触れられる直前に半歩だけ身体をずらした。相手の手を折るほどの場面ではないと判断し、表情も変えずに「お酒が過ぎていますよ」と返そうとしたところで、背後から重い足音が近づいた。振り向く必要はない。焦がした檜と煙草の匂いで誰か分かった。「何してる」凌臣の声は低く、怒鳴ってはいなかった。それでも男の手が止まり、廊下にいた組員たちまで自然に口を閉じた。凌臣は玲の背後まで来ると、男が伸ばしていた手首を掴み、ゆっくり自分の方へ引いた。「いや、冗談ですよ。減るもんじゃないでしょう」「俺のもんに勝手に触んな」「まだ触ってませんよ、組長」玲が淡々と訂正すると、凌臣が横から睨んだ。「お前は黙ってろ」「事実を申し上げただけです」相手の幹部は場を収めるように笑ったものの、凌臣は最後まで笑わなかった。取引相手でなければその場で腕の1本くらい折っていたかもしれない。玲はそう判断し、問題を広げないために相手を玄関まで送り、そのまま残りの仕事へ戻った。ただし、凌臣の不機嫌だけは夜になっても消えなかった。そして翌朝、玲が寝室へ呼ばれた時、机上に置かれた小さな黒いケースを見た瞬間、昨夜から続いていた機嫌の悪さと今日の命令が繋がった。凌臣はベッド脇のソファへ深く座り、朝から煙草を吸っている。窓は少しだけ開いていたが、部屋には煙と強いαの匂いが残っていた。玲は扉を閉め、ケースへ近づいて中を確認すると、凌臣を見た。「今日ですか」「ああ」中に入っているのは、遠隔操作で作動する小型の器具だった。過去にも似たものを使われたことがあるため、用途を聞く必要はない。問題は予定だ。「午前中、直系幹部を集めた資金会議ですよ」「知ってる」「午後は海外法人の責任者も来ます」「それも知ってる」玲は数秒、凌臣の顔を見た。男は悪びれもしなければ、説明する気もない。だから玲も遠慮なく言
last update最終更新日 : 2026-08-24
続きを読む

第9話 死体のそばでも犬は鳴かない

敵対組織の男が息を引き取ってから、倉庫の中は妙に静かになっていた。湾岸の外れに建つ古い物流倉庫は、潮と油と錆びた鉄の匂いが混じり、天井近くを走る蛍光灯が不規則に明滅している。床には尋問に使われた椅子が倒れ、その数メートル先には灰色のシートを掛けられた遺体が横たわっていた。血はもう広がっていないが、コンクリートへ染み込んだ暗い色だけが生々しく残っている。玲はその横でしゃがみ込み、回収された携帯電話、折れたSIMカード、財布、鍵束を種類ごとに透明袋へ分けていた。死んだ男は、燈城会と対立する新興組織《玖堂連合》の構成員だと名乗っていた。数日前から燈城会内部の運搬経路が外へ漏れ、倉庫2か所が警察より先に何者かへ荒らされている。凌臣はその情報源を探すため男を捕らえたが、尋問の途中で容体が急変し、そのまま死亡した。誰かが口封じ用の薬物を事前に使っていた可能性もあり、玲は死因については勝手に決めつけず、死体と所持品を別々の情報として扱っていた。「舌噛んだとかじゃねぇんだろうな」離れたところで凌臣が低く言った。煙草を吸う速度が普段より明らかに速く、灰皿代わりの空き缶には既に数本の吸い殻が詰まっている。男が吐いた内容の中には、燈城会内部に協力者がいるという話が含まれていた。名前までは出なかったが、凌臣が知らないところで自分の組織が動かされているという事実だけで、彼の苛立ちには十分だった。「可能性は低いです。口腔内の出血量と歯列を見る限り、自傷による致死ではありません」玲は袋へ封をしながら答えた。公の場に近い状況なので一人称は出していないが、周囲にいるのは凌臣と斑鳩井朔、それに後処理を担当する数人だけだ。玲の声はいつも通り静かだった。「薬か」「まだ分かりません。吐瀉物と血液は採ってあります。持病の可能性も切れませんし、拘束前に何か摂取していた可能性もあります」凌臣は舌打ちし、近くの折り畳み机を蹴った。金属脚が床を擦り、大きな音が倉庫内へ響く。若い組員が一瞬肩を強張らせたが、玲は顔も上げなかった。凌臣が怒っている時、物が飛ぶ程度は珍しくない。今の蹴り方なら人間へ向けてはいないと判断できるため、警戒を1段階上げる必要もなかった。玲は財布の中身を確認した。運転免許証は玖堂連合が用意した偽名らしく、顔写真だけは本人と一致している。現金は8万3000円、ホテルのカードキーが1
last update最終更新日 : 2026-08-24
続きを読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status