LOGIN警察庁屈指の潜入捜査官、Ω・鳰川周は、偽名《椹木透》を使い、最大の極道組織・玄京組へ潜り込んで四年。九歳年上の組長・蛇ノ目玄征の右腕、組長補佐、愛人、そして誰も主人へ近づけさせない“愛犬”として恐れられている。無表情の下に任務と憎悪を隠し、苛烈な発情期さえ薬で封じる周。しかし唯一の誤算は、最も憎むべき玄征が運命の番だったこと。昼夜を問わず命令に従い、汚れ仕事も屈辱も受け入れる周を、玄征は所有物のように囲う。互いに「愛している」を嘘だと思い込みながら離れられない二人へ、ある日「お前の犬は警察庁の人間だ」という密告が届く。警察と極道、偽名と本名、復讐と本能。最も近くにいた敵を憎み切れるのか。
View Moreきぬがさ・りょうしん
41歳/α/193cm/100kg
日本最大の極道組織《燈城会》4代目会長。
玲より9歳年上。
身長193cm、体重100kg。玲とは20cmの身長差、51kgの体重差があり、二人が並ぶだけで圧倒的な体格差が分かる。
骨格そのものが大きく、肩幅も胸板も厚い。首も腕も太く、仕立ての良いスーツを着ても重量感が消えない。体脂肪を極端に落とした筋肉質というより、殴り合いや実戦で培われた頑丈な身体。
黒髪は短く後方へ流している。前髪が数本だけ額へ落ちる癖がある。瞳は黒に近い焦茶。眉と目の距離が近いため普通に見ているだけでも睨んでいるように見える。
顔そのものはかなり整っているが、威圧感が強すぎて美形という印象より先に「怖い」が来る。
短気。
猜疑心が異常に強い。
自分が知らないところで何かが動いていることを最も嫌う。
一度信用した人間には莫大な金も命も預けられる一方、「信用した相手に裏切られるくらいなら最初から疑う」という思考が染みついている。
気に入らないことがあれば物へ当たる。
テーブルを蹴り飛ばす。
酒瓶を壁へ投げる。
ガラスの灰皿を投げる。
玲へ投げる場合も本当に顔へ当てるのではなく、頬を掠めるぎりぎりの軌道を狙うことが多い。
それを加減だと思っている時点で完全におかしい。
玲の髪を掴んで顔を上げさせることも、殴ることも、蹴ることもある。
怒りや疑念が頂点に達すると、玲との身体の関係を八つ当たりに使う。
本人にとって長らく、
「俺の犬なんだから俺の好きにする」
で終わる問題だった。
極度のヘビースモーカー。
1日2箱から3箱。
怒りや不眠が重なるとさらに増える。
酒も依存症を疑われる量を毎晩飲む。ウイスキー、バーボン、日本酒、ウォッカなど種類に拘らず強い酒を好む。
酔うほど玲への距離が近くなる。
ただしアルコールで完全に判断能力を失うことは滅多にない。
玲だけはその何倍飲んでもほぼ酔わないため、飲み比べでは一度も勝てない。
玲は右腕。
組長補佐。
愛人。
運命の番。
番犬。
愛玩動物。
凌臣の中では全部同時に成立している。
玲を自分の足元へ座らせることがある。
靴へ口づけるよう命令することもある。
他人の前で「俺の犬」と呼ぶ。
玲の頭を犬へするように撫でる。
その一方で、自分以外が玲を犬扱いすると機嫌が悪くなる。
玲へ勝手に触れた人間。
玲へ銃を向けた人間。
玲を侮辱した人間。
玲へ必要以上に色目を使った人間。
全て覚えている。
二人は毎日必ず身体を重ねる。
最低でも夜に1回。
朝、昼、夜で複数回になる日もある。
凌臣が命じれば玲は仕事中でも拒まない。
寝室だけに限定されない。
車の後部座席。
人気のない倉庫。
取り調べや制裁の終わった現場。
死体がまだ運び出されていない場所の近く。
屋外。
茂み。
トイレ。
ホテルの非常階段。
組の事務所。
玲の大学講義と講義の間に呼び出したことすらある。
凌臣が玲へ遠隔式の玩具を装着させたまま会議や仕事へ出すこともある。
玲がどこまで無表情を保てるかを見るためという悪趣味な理由もある。
玲は公の場では何事もない顔で仕事を続ける。
凌臣はそれを、
「さすが俺の犬」
程度にしか考えていない。
後に自分がどれほど玲の選択を奪っていたか理解していく。
凌臣は玲を愛している。
最初から。
ただし本人がそれを認識できない。
玲へ食事をさせるのは「管理」。
玲を医者へ連れていくのは「管理」。
玲を危険から外すのは「犬を無駄死にさせないため」。
玲が他のαに触れられて激怒するのは「所有物だから」。
玲が消えたら眠れないのも「右腕がいないから」。
全部別の理由を付ける。
玲の、
「愛しています」
だけは最も信じていない。
命令すれば何でも演じられる男だから。
だからこそ、玲が自分を本当に愛する可能性を一度も考えられない。
ゆげい・れい
潜入名、
はなしろ・みお
32歳/Ω/173cm/49kg
警察庁キャリア組。
階級は警視。
警察庁長官官房付という表向きの肩書を持つが、実際には長官直属の特殊潜入捜査官。
警察内部でも存在を知る者はごく少数。
数々の潜入を成功させてきた最高峰の潜入捜査官であり、
「できないことを探す方が難しい」
と評される。
173cm、49kg。
明確な低体重。
肩幅は成人男性として極端に狭く、小柄な女性と並べてもほとんど違和感がない。
胸板も薄い。
腰も細い。
手首、足首、指まで華奢。
ただし体幹だけは異常に強く、実戦訓練によって無駄なく鍛えられている。
玲の格闘は力で押し切るものではない。
相手の重心。
関節。
呼吸。
死角。
筋肉が緩む瞬間。
全てを見て動く。
そのため100kg近い男でも条件が揃えば転倒させられる。
肌は雪のように白い。
血色が薄く、寝不足になると陶器のように見える。
顔立ちは絶世の美女と表現して差し支えないほど女性的。
小さな卵形の輪郭。
細い顎。
真っ直ぐな鼻筋。
薄すぎない唇。
灰紫色の瞳。
睫毛は非常に長く、横から見ると明確に影が落ちる。
伏し目にした時の顔は特に女性的。
男性用のスーツを着ていても、美青年ではなく、
「男だと説明されなければ女だと思う」
と言われることがある。
髪は黒に青を1滴混ぜたような青墨色。
襟足を残したウルフカット。
顔周りの毛束は頬から顎へ自然に落ち、細い輪郭をさらに強調する。
女装は全く違和感がない。
ドレス。
スカート。
パンツスーツ。
ハイヒール。
化粧。
ウィッグ。
全て扱える。
女性として潜入した経験も複数ある。
本人は、
「使える顔なら使えばいいだろ」
程度にしか考えていない。
玲の基本一人称は、
「俺」
燈城会で凌臣と2人きりの時も「俺」。
警察官として同期や信頼できる部下と話す時も「俺」。
本来の玲は完全に「俺」の人間。
ただし公的な仮面では変える。
燈城会の組長補佐《玻名城澪》として組員、他組織、取引相手へ接する時は、
「僕」
警察庁キャリア《靫負玲》として公式会議、記者対応、上級官僚へ報告する時は、
「私」
人前では、
「組長」
2人きりでは、
「凌臣さん」
絶対に呼び捨てにしない。
燈城会で見せている玻名城澪は、
冷静。
無表情。
従順。
常に敬語。
余計なことを言わない。
命令されたら即答。
何をされても顔へ出さない。
しかし本来の靫負玲は全く違う。
喜怒哀楽が豊か。
毒舌。
腹黒。
口が悪い。
頭の回転が速いため、言い返そうと思えば相手が二度と口を開きたくなくなるほど論破できる。
負けず嫌い。
悪戯好き。
酒席では人を酔わせて観察する。
同期の失態を全部覚えて翌朝読み上げる。
他人をからかうのが好き。
意外とよく笑う。
子どもと動物には甘い。
学生にも甘い。
潜入捜査が始まる前は、警察学校でもかなり目立つ人間だった。
4年間、その人格をほぼ完全に殺している。
玲は一度見たものをほとんど忘れない。
瞬間記憶に近い視覚記憶と、異常なまでの連想記憶を併せ持つ。
人物の顔だけではない。
ナンバープレート。
ホテルの絨毯。
レストランの食器。
袖口。
靴底。
時計の文字盤。
ネクタイの結び方。
家具の木目。
銃の傷。
トランプの並び。
全て記憶する。
初対面の人間を一目見るだけで、
ブランド。
ライン。
生産年。
生地。
仕立て。
既製品かオーダーか。
どこのテーラーか。
本物か偽物か。
までほぼ当てる。
ジャケットのボタン位置と肩の処理だけでメーカーを絞る。
シャツの縫製だけで工房を判断する。
帽子も同様。
フェルト。
縫製。
リボン。
クラウンの形。
裏地。
これらからメーカーや年代を見抜く。
腕時計は特に詳しい。
メーカーだけではない。
シリーズ。
リファレンス。
製造年代。
正規部品か交換部品か。
文字盤のリダン。
ベゼルの交換。
ブレスレットの年代違い。
偽物。
まで見る。
会議へ来た政治家の時計を一度見ただけで、
「公式給与だけでは買えない」
と判断し、裏金捜査へ繋げたこともある。
陶磁器。
絵画。
刀剣。
家具。
古書。
宝石。
酒。
葉巻。
革製品。
アンティーク玩具。
コイン。
切手。
古い銃器。
楽器。
ほぼ全分野へ最低限以上の知識を持つ。
骨董品なら、
年代。
産地。
窯。
修復歴。
贋作の可能性。
来歴の不自然さ。
まで見る。
玲にとって、
「物は人間より嘘が下手」
だから。
完全な両利き。
文字。
箸。
銃。
ナイフ。
カード。
スマートフォン。
どちらの手でも精度がほぼ変わらない。
片手を負傷した状態でも能力を落とさないために訓練した結果ではなく、元々両手を同程度に扱えた。
射撃では右手と左手を途中で切り替える。
カードゲームでは左右どちらからでも同じ速度でディールできる。
大学の黒板でも右手で数式を書き終えると、そのままチョークを左へ持ち替えて続きを書く。
学生は最初かなり驚く。
玲は賭博にも異常に強い。
特にカード。
ポーカー。
ブラックジャック。
ブリッジ。
バカラ系の私設ゲーム。
地下カジノ独自のカードゲーム。
ほぼ全て対応できる。
最大の武器は、
表情が全く変わらないこと。
極道で4年間、何をされても無表情を維持する訓練を実地で続けてきた男である。
ブラフでも本命でも呼吸が変わらない。
脈拍すら意識的にある程度抑えられる。
さらに他人の癖だけは全部見る。
カードを確認する時間。
瞬き。
舌。
指。
チップへ触れる回数。
椅子へ体重を掛ける方向。
酒を飲むタイミング。
全て記憶する。
配られたカードの順番も可能な限り記憶する。
確率計算も頭の中で即時に行う。
国際犯罪組織が参加する超高額私設賭場では、
数億円程度なら玲にとって表情を変える金額ですらない。
数百億。
数千億。
最終的には企業株式、港湾権益、暗号資産、船舶、債権を担保に、
数兆円相当が1卓で動く賭博
へ座る。
凌臣でさえ一瞬考える場面で、玲は、
「乗ります」
の一言でベットする。
そして勝つ。
玲にとって怖いのは金額ではない。
計算できないことだけ。
玻名城澪の社会的な本職は、
大学講師。
燈城会へ潜入するために警察との接点が一切ない人間を作る必要があった。
単なる無職や企業社員では、凌臣側の調査能力を誤魔化せない。
そこで警察庁は何年もかけ、
「学術畑だけを歩いてきた玻名城澪」
という極めて強固な身分を構築した。
ただし経歴だけを偽造したのではない。
玲本人に本当に教えられる能力がある。
数学と化学は専門家水準。
論文を読めるだけではなく研究者と議論できる。
そのため潜入開始後も、
東京大学と東京科学大学で非常勤講師として教鞭を執っている。
東京大学では主に応用数学、確率論、数理モデル。
東京科学大学では物理化学、量子化学、化学熱力学などを担当。
玲にとって大学勤務は、
「玻名城澪が警察とは無関係である」
という最強のアリバイであると同時に、本当に好きな仕事でもある。
燈城会とは完全に別人。
いつも柔らかく笑っている。
口調も優しい。
「ここまでは大丈夫?」
「分からなかったら遠慮しなくていいよ」
「今の式、途中を飛ばしすぎたね。ごめん。そこからやり直そうか」
と話す。
怒鳴らない。
馬鹿にしない。
質問を歓迎する。
黒板へ向かう時には独特の癖がある。
片手でチョークを持って数式や反応式を書く。
空いている方の手は、必ず背後の腰へ軽く当てている。
右手で書けば左手が腰。
途中で左手へチョークを持ち替えれば右手が腰。
姿勢が非常に綺麗。
講義室のどこで誰が理解できなくなったかもすぐ分かる。
学生が質問しなくても、
ノートを取る手が止まった。
視線だけが黒板と教科書を往復している。
隣の学生のノートを見た。
ペンを回し始めた。
その程度で気づく。
授業後、
「さっきの3行目から分からなくなったでしょ」
と本人へ声を掛ける。
分かるまで教える。
1時間でも付き合う。
同じ説明で駄目なら別の例を使う。
図。
日常現象。
カード。
料理。
時計。
何でも教材にする。
そのため学生人気が異常に高い。
女性だけではない。
男性学生からも明確に好意を持たれる。
本人はほとんど気づいていない。
玲本人は、
「質問が多いな」
程度に思っている。
凌臣だけは気づく。
そして機嫌が悪くなる。
玲本人は自覚していない。
顔だけではない。
無表情。
知性。
声。
所作。
危険性。
自分を欲しがっている人間へほぼ興味を示さない態度。
これらが合わさり、極端に人を惹きつける。
αだけでなくβやΩまで魅了する。
他組織から、
「澪を寄越せ」
という要求が出るのも珍しくない。
大学でも男女問わずモテる。
警察学校時代も同じだった。
だが玲だけが気づかない。
凌臣は全部気づく。
そのたびに不機嫌になる。
玲のΩフェロモンは極上。
雨に濡れた白檀、冷えた白桃、月下香。
甘い。
しかし甘ったるくない。
冷たさがある。
普段は徹底的に抑えているためほぼ匂わない。
発情期になると一気に濃くなる。
玲の発情期は非常に重い。
高熱。
震え。
疼痛。
判断力低下。
強い番への渇望。
通常の抑制薬では足りない。
玲は高濃度薬を使って全部押し潰す。
なぜなら、
完璧な忠犬が発情期だから休むことなど許さない。
少なくとも玲本人はそう考えているから。
69歳/α/188cm
燈城会3代目会長で凌臣の父。
若い頃は国内裏社会で知らぬ者のいない大物だった。
20年以上前の事件で重傷を負い、現在も長期療養施設でほぼ意識のない状態。
凌臣が唯一、誰にも見せず定期的に会いに行く相手。
61歳相当/Ω/160cm
凌臣の母。
凌臣が幼い頃に死亡したとされている。
非常に気が強く、極道の妻でありながら組員へ遠慮をしなかった女性として古参から語られる。
小柄で華奢。
若い頃は美人だったという。
64歳/β/178cm
現警察庁長官。
玲の両親と親しく、2人を失った玲を実子同然に育ててきた。
玲にとって父親以上に父親に近い恩人。
穏やかで知的。
警察官の名前をよく覚えている人格者として知られる。
玲が潜入へ出るたび、
「必ず生きて帰れ」
と言う。
59歳/α/181cm
法務大臣。
組織犯罪対策や司法制度改革を掲げる人気政治家。
弁護士出身。
テレビでは温厚で理路整然とした話し方をする。
燈城会へは極めて厳しい姿勢を取る。
海外政財界にも強い人脈を持つ。
32歳/β/180cm
玲の警察学校時代からの同期。
本来の玲を知る数少ない人物。
明るく粗雑。
玲の美貌にも慣れ切っており、
「黙ってりゃ絶世の美女、口開いたら性格の悪い男」
と言える。
玲とは喧嘩も多いが非常に仲がいい。
36歳/α/187cm
燈城会若頭。
凌臣の側近。
澪が燈城会へ入り込んだ当初から、その異常な能力を警戒していた。
現在は実力だけは完全に認めている。
冷静で、凌臣の暴走を止められる数少ない人物。
29歳/α/184cm
燈城会直系団体の若頭補佐。
澪に命を助けられて以来、非常に懐いている。
距離が近い。
肩を組もうとして澪に避けられる。
それでも近づく。
凌臣に毎回睨まれている。
本人だけ理由を分かっていない。
27歳/β/175cm
警察庁の若手キャリア。
玲の後輩。
公務中の完璧な靫負警視しか知らないため、
「玲さんは上品で静かな人」
と本気で信じている。
玲の同期から本性を聞かされても信じない。
敵対組織の男が息を引き取ってから、倉庫の中は妙に静かになっていた。湾岸の外れに建つ古い物流倉庫は、潮と油と錆びた鉄の匂いが混じり、天井近くを走る蛍光灯が不規則に明滅している。床には尋問に使われた椅子が倒れ、その数メートル先には灰色のシートを掛けられた遺体が横たわっていた。血はもう広がっていないが、コンクリートへ染み込んだ暗い色だけが生々しく残っている。玲はその横でしゃがみ込み、回収された携帯電話、折れたSIMカード、財布、鍵束を種類ごとに透明袋へ分けていた。死んだ男は、燈城会と対立する新興組織《玖堂連合》の構成員だと名乗っていた。数日前から燈城会内部の運搬経路が外へ漏れ、倉庫2か所が警察より先に何者かへ荒らされている。凌臣はその情報源を探すため男を捕らえたが、尋問の途中で容体が急変し、そのまま死亡した。誰かが口封じ用の薬物を事前に使っていた可能性もあり、玲は死因については勝手に決めつけず、死体と所持品を別々の情報として扱っていた。「舌噛んだとかじゃねぇんだろうな」離れたところで凌臣が低く言った。煙草を吸う速度が普段より明らかに速く、灰皿代わりの空き缶には既に数本の吸い殻が詰まっている。男が吐いた内容の中には、燈城会内部に協力者がいるという話が含まれていた。名前までは出なかったが、凌臣が知らないところで自分の組織が動かされているという事実だけで、彼の苛立ちには十分だった。「可能性は低いです。口腔内の出血量と歯列を見る限り、自傷による致死ではありません」玲は袋へ封をしながら答えた。公の場に近い状況なので一人称は出していないが、周囲にいるのは凌臣と斑鳩井朔、それに後処理を担当する数人だけだ。玲の声はいつも通り静かだった。「薬か」「まだ分かりません。吐瀉物と血液は採ってあります。持病の可能性も切れませんし、拘束前に何か摂取していた可能性もあります」凌臣は舌打ちし、近くの折り畳み机を蹴った。金属脚が床を擦り、大きな音が倉庫内へ響く。若い組員が一瞬肩を強張らせたが、玲は顔も上げなかった。凌臣が怒っている時、物が飛ぶ程度は珍しくない。今の蹴り方なら人間へ向けてはいないと判断できるため、警戒を1段階上げる必要もなかった。玲は財布の中身を確認した。運転免許証は玖堂連合が用意した偽名らしく、顔写真だけは本人と一致している。現金は8万3000円、ホテルのカードキーが1
凌臣の機嫌が悪くなった理由を、玲は前夜からほぼ把握していた。燈城会と長く付き合いのある地方組織の幹部が本邸を訪れ、帰り際、廊下ですれ違った玲へ必要以上に近づいたのだ。相手は40代のαで、酒が入っていたとはいえ足取りは確かだったから、距離感を誤ったわけではない。玲の肩へ腕を回そうとし、避けられると面白がるように笑い、今度は青墨色の髪へ指を伸ばした。「相変わらず綺麗だな、澪。絹笠のところに置いとくのが勿体ねえ」玲は触れられる直前に半歩だけ身体をずらした。相手の手を折るほどの場面ではないと判断し、表情も変えずに「お酒が過ぎていますよ」と返そうとしたところで、背後から重い足音が近づいた。振り向く必要はない。焦がした檜と煙草の匂いで誰か分かった。「何してる」凌臣の声は低く、怒鳴ってはいなかった。それでも男の手が止まり、廊下にいた組員たちまで自然に口を閉じた。凌臣は玲の背後まで来ると、男が伸ばしていた手首を掴み、ゆっくり自分の方へ引いた。「いや、冗談ですよ。減るもんじゃないでしょう」「俺のもんに勝手に触んな」「まだ触ってませんよ、組長」玲が淡々と訂正すると、凌臣が横から睨んだ。「お前は黙ってろ」「事実を申し上げただけです」相手の幹部は場を収めるように笑ったものの、凌臣は最後まで笑わなかった。取引相手でなければその場で腕の1本くらい折っていたかもしれない。玲はそう判断し、問題を広げないために相手を玄関まで送り、そのまま残りの仕事へ戻った。ただし、凌臣の不機嫌だけは夜になっても消えなかった。そして翌朝、玲が寝室へ呼ばれた時、机上に置かれた小さな黒いケースを見た瞬間、昨夜から続いていた機嫌の悪さと今日の命令が繋がった。凌臣はベッド脇のソファへ深く座り、朝から煙草を吸っている。窓は少しだけ開いていたが、部屋には煙と強いαの匂いが残っていた。玲は扉を閉め、ケースへ近づいて中を確認すると、凌臣を見た。「今日ですか」「ああ」中に入っているのは、遠隔操作で作動する小型の器具だった。過去にも似たものを使われたことがあるため、用途を聞く必要はない。問題は予定だ。「午前中、直系幹部を集めた資金会議ですよ」「知ってる」「午後は海外法人の責任者も来ます」「それも知ってる」玲は数秒、凌臣の顔を見た。男は悪びれもしなければ、説明する気もない。だから玲も遠慮なく言
賭場の時計が午前3時を回っても、卓を囲む者たちに眠気は見えなかった。照明は入場時から1度も明るさを変えず、窓のない地下区画では外が夜なのか朝なのかすら分からない。玲は革張りの椅子へ浅く腰掛け、卓上へ積まれた権利プレートと、新たに封を切られたカードを静かに眺めていた。数時間前まで300億円、さらに600億円相当を動かした勝負が続いていたにもかかわらず、空気はむしろ最初より研ぎ澄まされている。向かいのシュタイナーは、負けが込んでいる人間とは思えないほど機嫌が良かった。苛立ちを隠しているのではなく、玲という未知の相手を解析することそのものを楽しんでいるらしい。さきほどから勝負よりも玲の手元を見る時間が長く、視線は右手の指先、カードの持ち方、チップ代わりの権利証へ触れる順序を追っている。玲は気づいていたが、わざわざ教える理由もないので、何も知らない顔で右手だけを使い続けた。「今度は君が配れ」シュタイナーがそう言って、専属ディーラーへ手を上げた。ディーラーは1歩下がり、封を切ったばかりのデッキを玲の前へ置く。玲はカードケースの封印番号と縁の加工を1度だけ確認し、右手でデッキを持ち上げた。「俺がですか」「嫌なら断ってもいい」「別に構いません。ただ、不正を疑われるのは面倒ですね」「この卓は全方位から撮っている。君が細工できるなら、それも見てみたい」玲は肩を軽く竦め、リフルシャッフルを始めた。左右の束をほぼ同じ枚数へ分け、親指の圧を均等に掛けて噛み合わせ、最後にカットする。カードは一定の音を立てて卓上へ滑り、誰の前にも同じ距離で止まった。凌臣は玲の横で煙草を咥えたまま、その手元よりもシュタイナーの顔を見ている。最初の3ゲーム、玲は意図的に右手しか使わなかった。カードを配る時も、自分の手札を確認する時も、権利プレートを動かす時も右側で統一する。シュタイナーの視線が自然とそこへ寄り、カードを見るより玲の親指と人差し指の間を追う時間が増えていく。どちらが利き手なのか、強い札を持った時に指へ何か出るのか、探していることは明白だった。4ゲーム目、玲は何の前触れもなくデッキを左手へ持ち替えた。右手を卓の端へ置き、左だけで同じようにシャッフルし、そのままカードを配る。速度も精度も変わらず、配札位置の誤差すらほとんどない。シュタイナーの眉が僅かに動いた。「左利きなのか」「
賭場には、現金を積み上げた華やかさがなかった。都内湾岸部の外資系ホテル、その最上階からさらに専用エレベーターで下った地下区画には、看板も受付表示もなく、黒い扉の前に立つ警備員だけが入場者の資格を確認していた。玲は凌臣の半歩後ろを歩きながら、廊下の監視カメラの位置、警備員の利き手、腰の膨らみから推測できる携行武器まで順に記憶していく。ここを運営しているのは燈城会と長く取引のある欧州系物流企業だったが、裏では金融、海運、武器、薬物の仲介まで扱っており、賭場も単なる娯楽施設ではなかった。入場時に渡された黒革のケースを開くと、中には通常のチップではなく、権利証を電子化した薄型プレートが並んでいた。現金だけではない。上場企業株式、非上場会社の持分、社債、港湾倉庫の優先使用権、貨物船の所有権、投資ファンドの受益権まで、法的な名義移転を可能にする書類が事前に信託会社へ預けられている。勝負が確定すれば、翌営業日にそれらが動く仕組みだった。玲はケースを見下ろしながら、軽く眉を上げた。「趣味が悪いですね」隣を歩く凌臣が煙草を咥えたまま横目を寄越す。「賭場で善趣味求めんな」「現金だけならまだ分かりますけど、港の倉庫まで賭ける人間の気が知れません」「お前がそれ言うか?」「俺はまだ何も賭けてませんよ」周囲には日本語を理解する者が少なく、さらに凌臣と玲の座席周辺には専属警備以外ほとんど人が寄らない。玲も人前で使う《玻名城澪》の「僕」ではなく、自然に「俺」へ戻っていた。潜入先でありながら、凌臣と2人きりに近い状況では、この切り替えがいつしか当たり前になっている。玲自身、それがいつから始まったのか正確には覚えていなかった。今夜の目的は賭博そのものではなかった。燈城会が東南アジアで共同利用している海運ルートについて、取引相手のヴァルター・シュタイナーと条件を更新する必要があり、その交渉場所として相手側が賭場を指定してきたのだ。シュタイナーは60歳前後の大柄なβで、表向きは物流企業の会長だが、港湾労組、保険会社、複数国の税関関係者へ強い影響力を持つ。凌臣とは10年以上の付き合いがあり、互いに信用しすぎない程度には相手を知っていた。「新しい倉庫使用料は18%上げる」シュタイナーがカードを配らせながら告げた。卓上では既に数億円相当の権利が動いているが、凌臣の顔色は変わらない。煙草