Todos los capítulos de 私の男運、この人に全振りしてたらしいよ。〜クズばっかり寄る原因、ここにあり!〜: Capítulo 1 - Capítulo 10

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呪いが解ける、音がする

行きたかったけど、行きたくなかった、大学のサークル、同期会。毎年恒例の、忘年会を兼ねたものだ。 行きたかったのは、友達に会いたかった。久しぶりの子が沢山いる。 行きたくなかったその原因。──彼、翔麿《しょうま》だ。私のハートを木っ端微塵にした男。認めたくなかったけど、私は翔麿をしばらく引きずっていた。 服もメイクも髪も整えた。今の私の、最上級変換。美容院に行ったのなんて、昨日よ、昨日!担当美容師の加護さんには「明日同窓会で。マウント合戦になるの見え見えだから、ツヤッツヤで!お願いします!」なんて言ったら、いつもよりめっちゃ気合い入れて最後のセットをしてくれた。加護さん、過去最高に楽しそうだったな。 「朝比奈《あさひな》さん、ツヤッツヤのサラッサラ。でもね、向こうは大したイケメンになってないからただ朝比奈さんが無双するだけですよ」って悪い顔で言ってくれた。お茶吹くかと思った。 店に到着。集合時間の10分前から近くをうろついて、店のドアを開けたのは5分前。──いた。こちらを見ている。 本当はずっと、会いたかった人。ぼろ切れみたいに捨てられて、それでも忘れられなかった人。もうそれは恋愛の情ではなかったのかもしれない。もはや依存や執着だった。女子だけのテーブルに座る。しばらくは安全。予想通りのマウント大会。誰が一番幸せか選手権。この世でいちばんどうでもいい。でも彼の近くにいるよりは心拍数はきっとマシ。大学生当時、攻撃的だった子が、ちょっと丸くなっていた。そうだよね。長くいたから嫌な面も見せられただけで。短い時間ならいい人ムーブぐらいできるよね。男子テーブルから席替えの提案。跳ね除けるのも空気が悪くなる。私と、近くにいた女子数人は男子テーブルへ。──なんでよりによって、この席なのよ……!女子数人について座った最後のひとつ。それが私の席。目の前、例の彼、翔麿。嬉しくない。顔なんて、直視できない。気まず過ぎる。しばらく横を向いて会話していた。でもそろそろ感じ悪さが限界。笑顔の筋肉だけ動かして、顔を上げた。──へ?この人、こんな顔してたっけ?私、顔面偏差値、平均ちょい下の男に対して、あんなに未練たらたらだったの……?待ってこいつ。まあまあ薄汚いおっさんじゃん。ああ、こんなやつに未練たらたらだったなんて。これを黒歴史と言わずして何と言う。遠くに、乾い
last updateÚltima actualización : 2026-08-30
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目が覚めた、その日から①

「へええ。青春フィルターって恐ろしいね」 「ほんっとね。あの人、なんであの当時はかっこよく見えたんだろう?」 みんなのリーダー、みさきは目を見開いたその直後にピザを口にした。私、朝比奈りおは当時みんなを相当心配させていた。勿論、翔麿が原因だ。 胸の奥がぎゅっと縮むのが当たり前で、息が喉に引っかかるのにも慣れてしまっていた。息を吸うのにも理由が必要だった。 例の同期会から少し経った、年末。中学からの友達で集まってサルヴァトーレ・クオモでランチ忘年会をしていた。いつもみたいに居酒屋で飲んでも良かったんだけど、集まったメンバーのうち、新婚さんのまどかが妊娠中だったからランチにした。今は8ヶ月だそうで、結構お腹が大きい。 「でもさ、解放されてよかったじゃん?りおちゃん、かなり引きずってたじゃん」 「うぐっ……ひよりさん、それは忘れて頂けると……」 「りおの男の見る目の無さにみんな心配してたんだよ?」 里香が、髪の先からつま先まで完璧なトーンで笑った。陽キャのひよりも、キラキラ女子代表の里香も、刺しに来るなあ。キラキラのエフェクトは里香の為に存在してるんじゃなかろうか。 「でもりお、すっきりした顔してる。引きずったけど、解放されたから良かったじゃん」 「まどか……聖母に見えるよ」 妊婦さんの微笑み、最強説。ほんわか空気のまどかは更に癒しパワーが増強されていた。今宗教開いたら最強だな。 まどかの微笑みに癒されて、私は一瞬だけ油断した。 次の一言で、しほがその油断を粉々にするまでは。「てかさ。よくのうのうと来たよね、その翔麿も。りおと二股かけた相手とデキ婚したくせにさ」「うん、しほさん……私、古傷が」「呪いから解放されたんでしょ?もう大して痛くないでしょ」「ゔっ……確かに」しほの毒は今日も健在だ。「いやあ、青春フィルター、こわいっすね」「こわいっすね、じゃないのよ。りお、ほんと心配したんだからね?」みさきに額を小突かれて、私たちは笑った。マルゲリータ、まだ食べてない。ベジファーストのつもりが、野菜で腹が満ちてきた。たんぱく質……お肉も食べなきゃ。ドルチェまで辿り着けるかな。ダイエットするならビュッフェ来ちゃダメだよね。──大丈夫。私はもう、翔麿に縛られてない。そう思って、ようやく息を深く吸えた気が
last updateÚltima actualización : 2026-08-30
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目が覚めた、その日から②

月曜の朝。席に着いた私は自分の手を見た。乾燥で、指先が少し白い。 デスクの上のポンプ式のビタミンCハンドクリームを指先に出して、手のひらで温める。そこに、いつもの癖でDIORの「lucky」のボディローションをワンプッシュ──じゃなくて、米粒ふたつ。同じく指先にそっと出してから、さっきのハンドクリームを温めていた手のひらに移す。 混ぜる。擦る。手の甲。手首の内側。香りが、肌の温度で立ち上がる前に、もう一つ。左手首のアップルウォッチを少しずらす。 ミスディオールの練り香水。小さなケースを開けて、スティックのまま直接、スッとひと撫で。つけたのは、手首じゃない。鎖骨に直接つける。きっと私だけが楽しめる、ふわっと飴のように甘く香る場所。 ──私の匂いがあるところ。そこが、私の境界線だ。 呼吸を整えるためのルーティン。私を“仕事の私”に戻すスイッチ。誰のためでもない。今日を、無事に終えるための手順。 そのとき、椅子の軋む音がした。 すぐ隣。視界に入れないようにしていたのに、気配だけで分かる。彼の肘が机に乗る音、タブレットの画面を触る指のリズム。距離は、たぶん一メートル。守れてる。守れてるのに──香りは空気で越境する。 彼が、わずかに息を吸うのが分かった。ほんの一瞬、顔の向きが変わる。こちらを見たわけじゃない。見ないまま、“気づいた”だけ。 ……気づかなくていいのに。私はキーボードに指を置いて、画面だけを見る。香りは仕事のふりをして、私を守るふりをして、いちばん無防備なところをさらす。彼の声が、いつもより低く落ちた。「……今日、早いですね」たったそれだけ。なのに、胸の奥がきゅっと縮む。私は笑顔の筋肉だけ動かして、返す。「うん。月曜だし」──距離は守って。匂いは、私が守る。だからお願い。呼吸は乱れないで。コピー機の前はいつも混む。書類を抱えた人が、誰かの背中を避けながら流れるみたいに通る。私は端末に用紙をセットして、印刷ボタンを押した。機械が唸る。紙が吐き出される音。──そのリズムに合わせて呼吸を整える。「朝比奈さん」背後から声が落ちた。丁寧で、低くて、近い。振り返らなくても分かる。すぐ隣。気配で空気が一段狭くなる。来たんだ。私はコピーの排出口を見るふりをして、身体だけ半歩、横にずらした。ほんの半歩。でも、その半歩が私の肺を守る。本当は
last updateÚltima actualización : 2026-08-30
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目が覚めた、その日から③

アオバ賃貸パートナーズ。社内では“アオパ”って呼ばれてる。 うちは賃貸仲介がメインで、管理がサブ。法人社宅は少しだけ。 繁忙期の賃貸仲介は、戦場だ。 来店予約が重なり、内見の鍵が足りず、保証会社の審査は返事が遅い。 「今日中に契約できますか?」の圧と、「家賃下がりませんか?」の交渉と、「親が反対してて…」って泣きそうな声まで同時に飛んでくる。 七年目の私は、宅建も賃管もFPも持ってる。 だから重要事項説明も、初期費用の組み立ても、更新と解約の落とし穴も分かる。 ……分かるけど、これだけ忙しいとさすがに息が浅い。 だから、最初は助かった。 内見の段取りが噛み合わなくて、電話が鳴り止まなくて、私の頭も回らなくて。そんなとき、五年目の榊くんは、さらっと鍵の手配を代わってくれた。管理会社に一発で繋がる言い方を知っていて、担当者の機嫌の取り方も上手かった。 「朝比奈さん、ここ、先に僕が押さえときます。内見、詰まると崩れるんで」 崩れる、という言葉が優しかった。 “あなたが崩れる前に”と言われた気がした。私はそこに、勝手に救いを見た。勝手に、心を置いた。後輩という気軽さもあったのかもしれない。 だから──スマホの画面を見た瞬間、息が止まった。彼の画面に映っていたのは、物件じゃなくて──彼の私生活だった。休憩中、ふと開いたSNS。ストーリー。夜景。ワイングラス。指先だけ写ったツーショット。タグも名前もないのに、“恋人がいる人”の空気だけは、あまりにも明確だった。(……いたんだ)冷水を浴びた心臓が、きゅっと締まった。反射的にスクショを撮って画面を閉じた。スクショは消さなかった。消す理由が、私にはまだ見つからなかった。気づいた瞬間、頭の中で何かが静かに閉まった。扉というより引き戸。音も立てずに、すっと。私は何も言わない。言えないんじゃない。言う必要がない。だってここは職場で、私は社会人で、彼の私生活は彼のもので。そうやって、今まで何度も自分を守ってきた。だから私は、その後、いつもどおりに振る舞った。いつもどおりに微笑んで、いつもどおりに「助かりました」と言って、いつもどおりに仕事を回した。──“いつもどおり”は、距離を取るための仮面だ。“いつもどおり”を完遂した私、偉い。全人類、今の私を、ベッタベタに褒めて。なのに。次の
last updateÚltima actualización : 2026-08-30
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呼吸の仕方①

「朝比奈」 背後から落ちた低音で、背筋が勝手に伸びる。 氷室所長だ。笑わない。褒めない。雑談しない。 スーツの選び方が皇帝で、店の空気を静かに支配している。 「この申込、保証会社の承認待ち? 連帯保証人の収入証明、揃ってない」 「はい、今お母様にお願いしてて——」 「電話。いま。『今日中に』って言え」 「……はい」 所長は、それ以上言わない。 怒ってるのか、淡々としてるだけなのか、分からない目。私生活は全く見えない。 指示がいつも最短で、結果だけ出るのが悔しい。プロだ。 閉店後。ようやく電話が切れた瞬間、私は小さいチョコの箱を所長に渡した。 今日、契約が一件決まったのは所長の一言が効いたから。 「お疲れさまでした。今日、助けていただいたので」 所長は一瞬だけ箱を見て、いつもの無表情で言う。 「気を遣うな」 そう言いながら、受け取る。 受け取るんかーい。っていう混乱を残して。 その夜。 スマホが震えた。 『チョコありがとうございます! いま電車の中で食べてます!めっちゃ美味しいです!』 ……え? 今、電車?電車の中だって? あの“氷の皇帝”が? 人の内見ルートと鍵の在庫には鬼みたいに厳しいのに、チョコは待てないの? 私はそのまま固まって、既読だけ付けた。♢♢♢翌朝。開店準備。新着物件の図面を出して、内見用の鍵をまとめる。申込書を補充していると、背後からまた低音が降ってきた。「朝比奈」振り向くと、所長がカウンター越しではなく、ちゃんと仕事の距離で立っている。目は鋭いまま。手には鍵束。「昨日のLINE、既読だけだったな」……そこ拾うんすか?「すみません、夜遅くて……」「問題でもあったか?」真顔。氷みたいな目で、聞いてくる内容が小学生。(いや、問題って……何!?)「問題は……ないです。ただ……」「ただ?」「……意外すぎて、びっくりしました」所長は一拍置いて、首を少しだけ傾けた。「意外か?」「意外です」「そうか」そこで終わる。終わるんかい!私は耐えきれずに言ってしまった。「所長、電車で食べるんですね」「うん」「……家まで我慢とか」「しない」「……子どもみたい」言った瞬間、やばいと思った。こういうの、地雷だ。氷結
last updateÚltima actualización : 2026-09-02
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呼吸の仕方②

内見車を降りた瞬間、外気が肺に入った。 冷たい。ありがたい。密室じゃないだけで、人間は生き返る。 物件の鍵を返して、書類を整えて、店に戻る。 ドアが閉まる音で、現実がまた始まった。 カウンターの向こうで、氷室所長が書類をめくっている。 背筋が伸びる。あの人の前では、変な“湿度”が通用しない。 仕事の距離は仕事の距離として固定される。ありがたい。 「朝比奈」 呼ばれた。 低い声。必要なことしか言わない声。 「さっきの申込。保証会社、返事遅いな」 「はい。今日中に押します」 「押すじゃない。押せ」 短い。鋭い。 でも不思議と、胸が苦しくならない。 氷室所長の言葉は、境界線を越えない。侵入じゃない。“指示”だ。 私は端末を取り、電話をかける。 「いつもお世話になっております。アオパの朝比奈です」 言葉が整っていく。呼吸が戻っていく。 電話が終わった瞬間、所長が私の手元を一瞥した。 「声、落ち着いたな」 「……え?」 「さっきまで浅かった」 ……気づいてたんだ。 拾い上げるのは、私の“事情”じゃなくて、仕事に必要な部分だけ。 こういう“触れない手当て”が、いちばん効く。 私は一瞬、口角が上がりそうになった。 こういうのが、大人の救命ボートなんだと思った。 「ありがとうございます」 「礼はいらん。結果で返せ」 相変わらず皇帝。 でもその一言で、私は地面に足がついた。 鍵束を戻し、資料を棚に差し、ペンを持ち直す。 世界がまっすぐになる。肺が、やっと自分のものに戻った。 ……そのとき、背中に視線が刺さった。 振り向かなくても分かる。 遅れて店に戻ってきた榊くんが、こちらを見ている。 氷室所長の“正しい距離”に救われた直後に、 榊くんの“近い気配”が、余計に浮き彫りになる。 私は気づいてしまった。 ──榊くんは、私を見ているんじゃない。 私が“戻った瞬間”を見ている。 私を、「いつもの場所」に戻すために。♢♢♢翌朝。開店前のカウンターは静かで、コピー機の音だけが規則的に鳴る。私と氷室所長だけが、静かにそれぞれの仕事をしていた。スマホは机の端に。印刷物を揃えながら、画面から指先だけ遠ざけた。画面が震えたのは、ちょうど「境界線の匂い」を鎖骨に置いた直後だった。『おはよう。昨日、よく眠れた?
last updateÚltima actualización : 2026-09-03
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呼吸の仕方③

氷室所長は資料から目を上げず、ボールペンの先だけを止めた。 「朝比奈さん、今の件。更新鍵は俺が持つ。管理には“氷室判断”で返す。いいな」 「……はい」 “いいな”は命令じゃない。逃げ道を残した確認。それでも胸の奥がふっと軽くなるのは、私が今、誰かのルールに守られているからだ。 コピー機の前に戻る。紙が吐き出される音が、規則正しくて救いになる。 規則。機械。感情が混ざらない。そういうものが、今日はありがたい。 背中に気配が近づく。一メートルが、九十センチになる。自分で気づくその前から、感覚が過敏になる。空気が体温を帯びるのが分かって、指先が一瞬だけ冷たくなった。 「朝比奈さん」 榊の声は柔らかい。柔らかいのに、刃みたいだ。柔らかい刃は、避けにくい。防御が難しい。 「さっき所長と……何の話?」 (来た) “雑談のふりをした探り” この人はいつも、業務の箱に私事を混ぜる。混ぜた瞬間に、私のほうが“拒否しづらい人”になるって知っている。 私はコピーされた紙を揃えたまま、顔だけを半分向けた。笑顔の筋肉だけ使う。目は笑わせない。 「業務です。共有が必要なら、所長から回ります」 “あなたには渡さない”ではなく、“手順に乗せる”と言う。拒否の角を、ルールで丸める。 榊は一拍だけ黙った。その一拍で、彼の中の計算が音を立てるのが分かる。「じゃあ」と引くか、「でも」と押すか。 「……そっか。了解」 了解。敬語じゃない。なのに声は丁寧で、顔は優しい。いい人の仮面のまま、今日も私の境界線を指でなぞってくる。 「昨日、眠れた?って送ったの、嫌だった?」やめろ。やめろ、やめろ。今ここでそれを言わせたら、私が“心が狭い人”になる。私は紙をトレーに置き、トン、と軽く叩いて整えた。整える。整える。私の仕事は整える。整えて、余計な匂いを閉じ込める。「榊くん。業務以外の連絡は、控えてください」声が自分のものじゃないみたいに落ち着いて聞こえた。DIORの残り香が、まだ鎖骨に残っている。香りは“私のもの”で、彼のものじゃない。これは私の鎧。だから私は、そこを守る。榊の目が瞬いた。笑っているふりをする筋肉が、一瞬だけ遅れる。たぶん彼は、私がこう言うのを想定していなかった。「……ごめん。そういうつもりじゃ……」「分かってます」分かっている、だからや
last updateÚltima actualización : 2026-09-03
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やられっぱなしじゃ、ない。①

開店前のカウンター。コピー機の音が規則的に続く。紙の角を揃えるたび、気持ちが整う。整う。こういう単純作業が、今日は救いだ。本当は何も、考えたくない。 机に戻る途中、スマホが短く震えた。個別じゃない。社内グループの通知特有の乾いた振動。 画面を見なくても分かった。このタイミングで、榊が何かを投げる匂いがした。 案の定、社内の全体LINE。 『【共有】本日10:30 荒木様 内見追加 急で恐縮ですが、皆さんよろしくお願いします。 対応:榊(車出します) 資料:朝比奈さん作成の一式を使用 注意点:鍵の受け渡し、現地で確認します』 ……出た。 (車出します) (朝比奈さん作成) (注意点) 短い文の中に、彼の自己像がぎゅっと詰まっている。 “仕事できる俺” “段取り回せる俺” “朝比奈さんとも連携してる俺” 個別で入れなかった距離を、全体の空気で押し戻してくる。人目という圧力に紛れて、さっきの境界線を薄めるやり方。 私は、指先でスマホを伏せた。見たことは分かる。既読もつく。でも、反応はしない。ここで彼の投げた球に触れたら、彼の勝ちだ。 既読は、彼のためのものじゃない。けれど榊は、既読を“合図”だと思っている。 視界の端で、榊が椅子に座ったまま、こちらを見ているのが分かった。ちらり、じゃない。微笑みの形で、反応が来るのを待っている。 「ほら、ちゃんとやってるだろ」 「共有しただろ」 「連携してるだろ」 言葉にしないまま、そう言う目。 (……うるさい) 私が作成した資料は、私のこだわり。彼の点数表じゃない。共有は保険で、関係性の餌じゃない。そのとき、氷室所長の机から“カチ”とペンの音が鳴った。紙を一枚めくる音。パソコンのキーが二つ、短く叩かれる音。無駄のない音が続く。次の瞬間、全体LINEがまた震えた。氷室所長から。『【訂正/指示】10:30 荒木様 内見:同行は氷室。車は所長車を使用。榊は11:30 飯田様 対応へ回す。資料は最新版を共有済(朝比奈→氷室管理)。鍵受け渡しは事務所で実施。現地対応禁止。』──息が止まるかと思った。訂正。指示。余計な形容詞が一つもない。榊の「車出します」を、さらっと消した。「現地で確認します」を、規則で封じた。そして
last updateÚltima actualización : 2026-09-04
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やられっぱなしじゃ、ない。②

一件目の内見先は、駅から少し歩く築浅。 オートロック、宅配ボックス。人気条件が揃ってるのに、退去直後でなぜか今日だけ空いている。 「日当たり、午後も入りますね」 私は荒木様に説明しながら、所長の横顔を盗み見た。 いつも通り無表情。 なのに私のチョコを家まで待てず電車で食べたあの横顔が、まだ視界に残っている。 氷室所長は、我慢ができない。 甘いものにも──たぶん、私にも。 二件目は、古いけど立地がいい物件だった。 玄関を開けた瞬間、空気がひやりとする。 「……寒いですね」 私が言うと、所長は無言で自分のコートのポケットを探った。 そして、何も言わずに私の手のひらに小さいものを置く。 カイロ。熱が、じわっと皮膚の内側に染みた。 (……え、なに、今の) 「ありがとうございます」と言おうとしたけど、声が一瞬遅れた。 あの氷みたいな人が、言葉なしで優しくするの、ずるい。 内見が終わり、エレベーターに乗った時だった。 住人らしい年配の女性が、所長を見てにこっと笑った。 「あら所長さん、今日は彼女さん?」 所長は一秒も迷わずに言った。 「うちの担当です」 ……“うち”? 私の脳内で何かが跳ねた。 “彼女”じゃないのに、“うち”って言うの? その一言が、妙に落ち着くのが腹立つ。 エレベーターを降りる瞬間、所長が先に出て、私に鍵束を促した。 「返却、忘れるな」 「はい」 鍵束を渡そうとして、指が触れた。 ──それだけで、身体が先に反応した。息が浅くなる。喉の奥で空気が止まる。頭の中が一瞬だけ真っ白になる。──大人の恋は、時々、呼吸を奪う。その文だけが、胸の内側で勝手に完成した。所長は何も気づかず、いつも通りの顔で歩き出す。私は遅れてついていきながら、ポケットのカイロを握りしめた。温かい。なのに、胸の奥は、ひやりとする。(……この人、ほんとに自覚ないんだ)呪いみたいな感情が、静かに目を覚ます音がした。榊くんの視線より、カイロの温度の方が、よっぽど厄介だった。荒木様は、三十代の女性だった。靴を揃える動きが丁寧で、目だけが忙しい。生活の匂いを探す目。住む人の目。氷室所長の案内は無駄な形容詞がなかった。「おしゃれ」「かわいい」を言わない。代わりに言うのは、数字と手順。「ここが収納。奥行きは──」
last updateÚltima actualización : 2026-09-05
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やられっぱなしじゃ、ない。③

開店前の事務所は、まだ静かだった。 カウンターの奥でコピー機が低く唸り、誰かのキーボードだけが規則的に鳴る。 私は昨日のグループLINE通知を、既読もつけずに放置したまま、内見用の台本の最終確認をしていた。 内見用の“台本”には、鍵と設備、注意点と採寸──漏れたら困る順に並べてある。 台本は二枚。要点だけ。形容詞は削った。 ──客の人生を決めつけないために。 隣で椅子が軋んだ。榊が立った気配。 「朝比奈さん、昨日の内見どうでした?」 声は明るい。 「僕からも夜の周辺環境、事前に調べておきます!」 その続きが来るのも分かっている。 「あと、寒いから無理しないでね」 (……出た) 進捗共有の皮を被った、体調の侵入。 気遣いの形で距離を回収するやり方。 私は顔だけ上げて、子どもに言い聞かせるような声を作った。 声も柔らかくする。角を立てないために。 ──でも温度は渡さない。 「榊くん、ありがとう。夜の周辺環境はね、所長が同行するから所長判断でいくよ」 榊のまばたきが一拍遅れる。 「え、でも僕も──」 私は遮らない。遮らずに、手順で閉じる。 「うん、気持ちは助かる。だから、あなたは別で必要なことをお願い」 言いながら、台本を一枚、榊の前に置く。 紙の角を揃えたまま。 「今日のうちに、この台本を二十回音読。言い回しを口に馴染ませて。それと、昨日の内見の写真、共有フォルダに物件ごと整理して、コメントだけ入れておいてね」 「……二十回」 小さく呟いて固まる。 数字が怖いんじゃない。誤魔化しが効かないのが怖い顔。私は微笑んだまま、さらに一段だけ当たり前みたいに続ける。「大丈夫。二十回くらい、すぐだよ。息継ぎの場所と、言い切るところだけ決めたら、勝手に回り始めるから」榊の口が開いて、閉じる。反論の言葉が出ない。その時、カウンターの向こうで“カチ”とペンの音が止まった。氷室所長が、ほんの一瞬だけ顔を上げた。表情はいつも通り無表情。でも目だけが、「今の言い方、うまい」と言っていた。(……所長、聞いてた)私は気づかないふりをして、榊にだけ視線を戻す。「あと、寒いから無理しないでってやつ。お気持ちは嬉しいけど、私の体調管理は私がやる。榊くんは、今日の業務を回す。それで十分」笑顔のまま言う。優しい声のまま言う
last updateÚltima actualización : 2026-09-05
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