「朝比奈」背後から落ちた低音で、背筋が勝手に伸びる。氷室所長だ。笑わない。褒めない。雑談しない。スーツの選び方が皇帝で、店の空気を静かに支配している。「この申込、保証会社の承認待ち? 連帯保証人の収入証明、揃ってない」「はい、今お母様にお願いしてて——」「電話。いま。『今日中に』って言え」「……はい」所長は、それ以上言わない。怒ってるのか、淡々としてるだけなのか、分からない目。私生活は全く見えない。指示がいつも最短で、結果だけ出るのが悔しい。プロだ。閉店後。ようやく電話が切れた瞬間、私は小さいチョコの箱を所長に渡した。今日、契約が一件決まったのは所長の一言が効いたから。「お疲れさまでした。今日、助けていただいたので」所長は一瞬だけ箱を見て、いつもの無表情で言う。「気を遣うな」そう言いながら、受け取る。受け取るんかーい。っていう混乱を残して。その夜。スマホが震えた。『チョコありがとうございます!いま電車の中で食べてます!めっちゃ美味しいです!』……え?今、電車?電車の中だって?あの“氷の皇帝”が?人の内見ルートと鍵の在庫には鬼みたいに厳しいのに、チョコは待てないの?私はそのまま固まって、既読だけ付けた。
Última actualización : 2026-09-02 Leer más