昼休み、給湯室の前。 紙コップのコーヒーが湯気を立てている。 榊が通りざまに、ふっと足を止めた。 「……今日、いつもと違う」 心臓が一回だけ跳ねた。 匂い。鎖骨のミスディオール。 自分のための境界線を、相手に言語化された瞬間。 榊は視線を合わせずに続ける。やめろ。続けなくていい。 「なんか、甘い。……朝比奈さんっぽい」 「朝比奈さんっぽい」は褒めだ。でも私にとっては、侵入の宣言。駄目。嬉しくない。 コーヒーを一口飲み、低く返す。 「匂いの話は、やめて」 榊が一瞬止まる。 それから、笑顔を作る。 「……ごめん。嫌だった?」 嫌だった、じゃない。危険なんだ。 榊が離れる。残り香だけが近い。 胸の奥が苦しい。息が浅い。 吐く。細く。音を立てない。 もう一回。 それでようやく、視界が戻る。 いつまでも給湯室にはいられない。私は紙コップを捨てて席に戻った。 ──人目の少ない時にだけ、起きる。だから、言葉にすると私の方が悪者にされる。 私はいつも消耗させられる。助けを訴える方法なんて、とうの昔に忘れていた。 『たすけて』が言えないまま、自席の引き出しからイヤホンを取り出した。いつもスマホとBluetoothで繋ぐ、お気に入りの赤いもの。 まだ時間はある。休憩室で推しを浴びれば、きっと午後から頑張れる。 音は、境界線になれる。席に戻って、骨伝導の赤いイヤホンを耳に引っ掛ける。休憩室まで持たない。音量は小さく。外界を消しすぎない程度に。冒頭のソロ。推しの声だ。鳴った瞬間、胸の奥の氷が少しだけ溶けた。──大丈夫。まだ私は、戦える。そう思ったのに。椅子の背に、影が落ちた。背中の毛が少し逆立つ。「朝比奈さん」振り向かなくていい。振り向いたら、侵入の続きになる。「さっきの、ごめん」さっきの“ごめん”それは謝罪の顔をした追撃だ。返事を引き出すための、扉のノック。私は画面から目を離さず、イヤホンを外さないまま言う。「……何かご用?」榊が一拍止まる。それから、笑ってごまかす声。「その、用って程じゃないけど。……嫌だったなら、ちゃんと謝りたくて」謝罪を丁寧にすると、相手は許す側に回される。許す側に回ると、関係が再起動する。私はその仕組みを、もう知って
Huling Na-update : 2026-09-06 Magbasa pa