Lahat ng Kabanata ng 私の男運、この人に全振りしてたらしいよ。〜クズばっかり寄る原因、ここにあり!〜: Kabanata 11 - Kabanata 20

88 Kabanata

敵は諦めない①

昼休み、給湯室の前。 紙コップのコーヒーが湯気を立てている。 榊が通りざまに、ふっと足を止めた。 「……今日、いつもと違う」 心臓が一回だけ跳ねた。 匂い。鎖骨のミスディオール。 自分のための境界線を、相手に言語化された瞬間。 榊は視線を合わせずに続ける。やめろ。続けなくていい。 「なんか、甘い。……朝比奈さんっぽい」 「朝比奈さんっぽい」は褒めだ。でも私にとっては、侵入の宣言。駄目。嬉しくない。 コーヒーを一口飲み、低く返す。 「匂いの話は、やめて」 榊が一瞬止まる。 それから、笑顔を作る。 「……ごめん。嫌だった?」 嫌だった、じゃない。危険なんだ。 榊が離れる。残り香だけが近い。 胸の奥が苦しい。息が浅い。 吐く。細く。音を立てない。 もう一回。 それでようやく、視界が戻る。 いつまでも給湯室にはいられない。私は紙コップを捨てて席に戻った。 ──人目の少ない時にだけ、起きる。だから、言葉にすると私の方が悪者にされる。 私はいつも消耗させられる。助けを訴える方法なんて、とうの昔に忘れていた。 『たすけて』が言えないまま、自席の引き出しからイヤホンを取り出した。いつもスマホとBluetoothで繋ぐ、お気に入りの赤いもの。 まだ時間はある。休憩室で推しを浴びれば、きっと午後から頑張れる。 音は、境界線になれる。席に戻って、骨伝導の赤いイヤホンを耳に引っ掛ける。休憩室まで持たない。音量は小さく。外界を消しすぎない程度に。冒頭のソロ。推しの声だ。鳴った瞬間、胸の奥の氷が少しだけ溶けた。──大丈夫。まだ私は、戦える。そう思ったのに。椅子の背に、影が落ちた。背中の毛が少し逆立つ。「朝比奈さん」振り向かなくていい。振り向いたら、侵入の続きになる。「さっきの、ごめん」さっきの“ごめん”それは謝罪の顔をした追撃だ。返事を引き出すための、扉のノック。私は画面から目を離さず、イヤホンを外さないまま言う。「……何かご用?」榊が一拍止まる。それから、笑ってごまかす声。「その、用って程じゃないけど。……嫌だったなら、ちゃんと謝りたくて」謝罪を丁寧にすると、相手は許す側に回される。許す側に回ると、関係が再起動する。私はその仕組みを、もう知って
last updateHuling Na-update : 2026-09-06
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敵は諦めない②

指摘が容赦ないのに、責めてはいない。 私は骨伝導イヤホンに手をかけて、外した。繋がった赤い輪が、急に頼りなくなる。 受け取るのかと思ったのに、氷室所長は手を出さない。 代わりに、私の指先が焦って落としそうになる瞬間だけ、軽く押さえた。 ほんの一秒。 触れたのは、そこだけ。 「……ここ」 氷室所長がテーブルの端を顎で示す。 私はそこにイヤホンを置いた。置いただけで、胸が空っぽになる。 「吸うな」 低い声が落ちた。 「……え?」 「吸いすぎる。先に吐け」 命令口調。なのに救助。 私は息を吐いた。細く。長く。音を立てない。 もう一回。 それでやっと、肺の奥が落ち着く。 氷室所長は給湯器の前に立ち、紙コップにお湯を注いだ。 粉末の何かを入れて、かき混ぜる。甘い匂いじゃない。薬っぽい、現実の匂い。 「温かい。飲め」 差し出されたコップを握る。 指先から熱が入って、身体が現実に引き戻される。 「……ありがとうございます」 「礼はいらない」 氷室所長は私の顔を見ない。 見ないまま、言う。 「目が笑ってない」 胸がきゅっと縮む。 「……気のせいです」 「違う」 短い否定。 それ以上の追及はない。代わりに、淡々と続ける。 「朝比奈は、今のままで足りてる」 足りてる。 褒め言葉でも慰めでもない。判定だ。 その一言が、胸の奥の硬さをほどいていく。 私はコップの縁に口をつけた。温かい。 息が、やっと最後まで通る。氷室所長が椅子を引く音をさせて、立ち上がった。「……戻るぞ」「はい」私が立ち上がると、テーブルの端で赤いイヤホンが滑りかけた。氷室所長が反射で押さえ、私の掌に戻す。「だから言った」口元の影が、ほんの少し揺れた。笑いを堪える時のやつ。ドアの前で、氷室所長は一拍だけ止まる。「榊がまた来たら、俺が止める」私は頷くしかできない。氷室所長は視線を合わせないまま、最後に一言だけ落とした。「守るのは、俺の仕事だ」──息が止まった。でも、嫌な苦しさじゃない。所長が休憩室のドアを軽く開けて振り向いた。どうしたんだろう?所長の視線が、私の頬で止まった。「……朝比奈?まだ、ここにいるか?」「え……?」頬に所長の指先を感じた。涙を拭っている。……え?私……?所長の指先の体温が引き金になったのか
last updateHuling Na-update : 2026-09-07
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敵は諦めない③

一日の業務を終えて外に出る。だいぶ暖かくなってきた。通勤用のコートを、薄いものにしようか迷うぐらいだけど、やっぱり帰りは寒い。 駅まで近いというのが、うちの職場のいいところだ。顧客にとっても良いけど、通勤する私達にとってもありがたい。 交差点で足を止め、スマホを見ていた。ふと顔を上げると、斜向かいに榊くんがいた。地下鉄の3番出口から出てきた、背の高い茶髪の女性と合流した。 心臓が、縮んだ。水を浴びた感覚。 ──ああ、これ。あのストーリーを見たときと同じ。 嫌だな。榊くんのことなんて、考えたくないのに。脳内まで、氷室所長は助けてくれない。 バッグから赤いイヤホンを取り出した。もう、私を救ってくれるのは推しだけだ。あの、世界中でヒットした彼らの楽曲で、自分を蘇生するしか術が無い。 昼にも聴いた、冒頭の推しのソロ。何度聴いてもいい。ううん、これが私の命綱。 信号が青に変わった。一歩ずつ、ヒールのかかとを控えめに鳴らして歩き出す。 負けない。私には推しがいる。職場で助けてくれる氷室所長もいる。 そろそろ女子会メンバーに、榊くんの意味のわからない振る舞いについて語ろうか。 みんな、ぶった斬ってくれるんだろうな。 早く言語化しないとね。 言語化できた頃、私はきっと榊くんから解放される。三月に入ると、空気が少しだけ軽くなる。寒さが緩むせいじゃない。年度が終わる匂いがするからだ。事務所のカレンダーには、内見の予定と、退去の立ち会いと、更新の締切がぎゅうぎゅうに書き込まれていた。“年度末”は、言い訳なく忙しい。榊くんは、相変わらずだった。距離は取る。目も逸らす。ですますで取り繕う。なのに、ふとした瞬間に“余計な一言”だけ落としていく。そのたびに私は、仕事の言葉に戻った。仕事に戻るのが、いちばん安全だから。氷室所長は、必要なときだけ私の前に立つ。立つけれど、抱きしめない。私の呼吸が浅い時だけ、短い指示で戻してくる。──その距離が、ありがたい。三月末、所長が朝礼で言った。「四月から新人が入る。各部署、受け入れ準備しろ」新人。その二文字だけで、事務所の空気が少し変わった。“変化”は、時々、救いになる。私は備品棚のラベルを貼り替え、共有フォルダの整理ルールを見直した。名前の付け方。写真の格納先。鍵袋の管理。新人が来ても崩
last updateHuling Na-update : 2026-09-07
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春、犬が来た。①

開店前の事務所は、春の匂いがした。 雪の名残はもうないのに、床だけが冷たくて、足先が少しだけ現実に引き戻される。 カウンターの奥でコピー機が低く唸る。氷室所長は無言でキーボードを叩き、私は鍵束と申込書の残数を確認していた。 “静か”は今日もいちばん安全だ。 ドアが開いたのは、その静けさが整いきった瞬間だった。 「おはようございます!」 明るい声。新品のスーツの皺が、まだ固い。 背が高い。髪は短く整っていて、顔の作りが反則みたいに真っ直ぐだ。 「本日から配属になりました。速水蒼《はやみそう》です」 名刺が、まっすぐ差し出される。 握手の手がぶれない。視線が落ち着いている。新卒にしては、余計な緊張がない。 氷室所長が顔を上げた。 「氷室だ。……朝比奈が指導する」 「はい。朝比奈さん、よろしくお願いします!」 “さん”。呼び方が最初から正しい。 私は一拍だけ間を置いて、名刺を受け取った。 「こちらこそ。荷物、そこ置いて」 速水は頷いて、鞄を指示された場所に置いた。置き方が丁寧すぎて、逆に怖い。 「あと、これも提出します」 彼が差し出したのは、資格証のコピーだった。宅建、賃管、FP——紙の上の文字が、静かに殴ってくる。 私は思わず目を上げた。 速水は、にこっと笑っただけだった。可愛い。大きな尻尾が揺れた気がした。……気のせいだ、たぶん。 「一応、持ってます。あとTOEICも…必要なら」 “持ってます”の言い方が軽い。軽いのに、背中が真っ直ぐだ。 氷室所長が短く言う。 「今日、内見二件。朝比奈、同行で教えろ」 「承知しました」 速水が即答した。言葉が硬いのに、嫌味がない。 私は胸の奥で、ほんの少しだけ息を吐いた。 ──春、犬が来た。しかも、賢い犬。爽やか。営業スマイル完璧。メモ魔。そして返事がいい。絵に描いたような次世代エースだ。榊くんがエースみたいな顔をしていた事務所に、今日から“本物”が来た。数年で化ける。──いや、もっと早いかもしれない。……なんでこの子が、うちに回ってきたんだろう?氷室所長が裏で何か動いたのか。そう考えるのが自然なくらい、出来がいい。午前の内見は女性のお客様だった。物件より速水くんの顔を見ていた時間の方が長かった……と
last updateHuling Na-update : 2026-09-08
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春、犬が来た。②

爽やか。営業スマイル完璧。メモ魔。そして返事がいい。 絵に描いたような次世代エースだ。榊くんがエースみたいな顔をしていた事務所に、今日から“本物”が来た。 数年で化ける。──いや、もっと早いかもしれない。 ……なんでこの子が、うちに回ってきたんだろう? 氷室所長が裏で何か動いたのか。そう考えるのが自然なくらい、出来がいい。 午前の内見は女性のお客様だった。 物件より速水くんの顔を見ていた時間の方が長かった……と口に出すと嫌味だからやめよう。 でも途中でお客様が鞄から手鏡を出したのは、たぶん気のせいじゃない。 所長は別件の契約で外に出ていた。 事務所に戻ると、速水くんはまだ笑っていた。表情筋、今日のうちに筋肉痛になるよ。 「──もう一件の内見は午後ね。お昼ご飯、食べに行こうか。事務所の近くに、昼は定食やってる美味しい居酒屋があってね、美味しいのよ」 「はいっ!僕もう、お腹ぺこぺこです。いくらでも食べられます!」 今日の運転は私。助手席の彼は、車内でも営業スマイルを崩さない。 「結構食べる方?」 「はいっ!付き合ってる彼女によく呆れられます」 ──お、早速カミングアウト。 助かる。こっちから聞かずに済む。 「彼女とは長いの?」 「はいっ!幼馴染なんです」 あら。かなりの歴史じゃん。盤石カップルだ。 私はハンドルを握ったまま、心の中で小さく頷いた。……よし。安心してちゃんと可愛がれる その瞬間、ポケットのスマホが短く震えた。 アップルウォッチの画面の端に、名前が一瞬だけ見える。 ──榊恒一。 指先が、ほんの少しだけ冷たくなった。 私は通知を伏せるように画面を下に向けて、何もなかった顔で車を出した。「ただいま戻りましたー」事務所のドアを開けると、榊くんと目が合った。さっきのLINEはまだ見てない。「お疲れさまでした。お昼、どうします?」LINEについては触れない顔。“俺、スマホばっか見てるわけじゃないんで”ってやつ。「"太郎さん"、速水くん連れてこうかなって」「いいですね。行きましょう」太郎さんは営業所の近くの居酒屋。しかし榊くんも来るのか。まあしょうがない。他に誰か……いた!「莉子《りこ》さん、行けます?今日は太郎さんですけど」画面モニターを難しい顔
last updateHuling Na-update : 2026-09-08
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春、犬が来た。③

「速水くんの歓迎会、やりたいね。今週の金曜とか?」 莉子さんの食べっぷりは今日も素敵だ。特盛唐揚げ定食がどんどんお口の中に消えていくのに、莉子さんはスレンダー。燃費、どうなってんの。 速水くんの目が、ほんの一瞬だけ固まった。 ──ああ、これは。幼馴染の彼女との予定がもう入っている顔。 「今週だともう予定入ってる人多いかもなので、一旦所長に相談ですね」 榊くん、速水くんにも助け船出すんだ。女子社員だけだと思ってた。速水くんみたいなデキる新卒は疎まれそう──なんて思った私の方が、意地が悪い。 ……いや。榊くんは普通に予定があるんだろう。前に駅の近くで合流してた、あの人。スクショに写ってた手の持ち主は、きっとその人だ。 結局、“今週”は見送った。 歓迎会は、4月の最後の金曜日に決まった。 午後の内見を終えて事務所に戻ると、速水くんは椅子に座って放心していた。 「──はい。お疲れさまでした」 速水くんのデスクにコーヒーを置いた。好みがわからないからブラックで。 「……えっ、あっ、ありがとうございます!すみません、先輩に淹れさせてしまって」 「大丈夫。いきなり内見二件行ったんだから、疲れて当たり前だよ」 ブラックをそのまま、速水くんは口に含んだ。──いける子か。 「今度は、僕に淹れさせてください。学生のとき、ロミオでバイトしてたんです」 月末の、金曜日。事務所は18時に閉店。19時スタートの歓迎会は『太郎さん』が会場となった。水無瀬駅近くの、事務所御用達の居酒屋だ。事務所に近い居酒屋、最高。 話の中心は速水くん。端正な顔立ちと期待される有能感。事務所の中で、彼にお近づきになりたがっている女性社員は多数。 1ヶ月教育係として接してみると、速水くんはたまに突飛なことも言う。笑いを取りにきてるな、と理解できたのは少し後だった。空気を柔らかくするのもどうやら上手そうだ。 ……うん、これはモテるわ。幼馴染の彼女はやきもきしていないだろうか。 「朝比奈さん、それ、何です?」 榊くんがグラス片手に隣に座った。みんな各々自分の行きたいテーブルにグラス持参で動いていた。 いつからか、テーブルを動かずに壁の花になることに慣れていた。不自然にならないよう、テーブルの端の席を選ぶことが多い。向かいの席の莉子さんも「テーブル動くのは若手に任せればいい」と
last updateHuling Na-update : 2026-09-09
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皇帝の正体①

……ん?朝? 昨日は……そうか、飲み会だったな。速水くんの歓迎会。今日が土曜日で、休み取れてて良かった。だいぶ寝坊したみたい。 お布団がふかふか。私、最近布団乾燥機してたっけ?忙しかったのにこんなにお布団ふかふかって最高。幸せ。最後に布団乾燥機したのいつ……? ……って⁉︎ これ、私の布団じゃない! 私の布団のシーツは薄い黄色とクリーム色のストライプ。このシーツ、青いよ? てかここどこ⁉︎昨日飲み会だったよね?服は……来てる。脱いだ形跡無し──よし、事故ってない。ただ、頭の中の“最後の30分”だけがごっそり無い。 やらかしてるのは服と私の記憶か。ああ、しわくちゃだし……。 「……起きた?」 部屋のドアの向こうから、聞き覚えのある低音。 ──嘘でしょ。どう考えてもこの声って……。 「大丈夫か?朝比奈」 皇帝スーツじゃない、Tシャツとジャージのオフモードの氷室所長がドアを開けた。 「しょっ……所長⁉︎」 「朝メシ、食うか?」 いつもよりサラサラの前髪。眼鏡。……そうか、いつもコンタクトだったのね。イケメンのオフモード、眼福。じゃなくて! 「あ、あああ、あの、所長」 「ん?」 「わ、わたし、ワタクシ、な、なんでここに……?」 眉を上げた氷室所長はベッドに近づきすぎない位置で、椅子を引いて座った。 「んー……聞きたい?」 いつもは氷の皇帝なのに。 今はただの“男の人”だ。 「は、はい……」 えええええ?私、昨日、何やらかした?そのやらかしのおかげで、氷室所長のオフモードが拝めるという最高の副産物が発生してるけど。 背もたれに身を預けて長い脚を組む所長からは、いつものオーラが消えている。オーラを消すと、ただの男の人だ。気怠そうに「そうだな……」と斜め横を見上げるその仕草すら、色気満々なんですけれども。 だめ。直視しちゃだめ。数分で致死量喰らう。 「──確認な。昨日、朝比奈、榊と随分仲良く飲んでたの、覚えてる?」 昨日?榊くん……? 記憶を辿る。 ジンジャーハイボールをひと口ねだられて。グラスを持ったまま、榊くんに飲ませて。そうだ、その後日本酒。日本酒飲んでたんだ。『太郎さん』は日本酒の種類が豊富で。何回も注文して、榊くんと利き酒対決してたんだ。 「えっと
last updateHuling Na-update : 2026-09-09
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皇帝の正体②

シャワーは熱かった。お湯で正気を戻しながら、私は浴室の壁に手をついて深呼吸をした。出ると、脱衣所に紙袋が置いてある。中身はTシャツとハーフパンツ。……所長のだ。Tシャツは大きくて、着たらワンピースみたいになった。ハーフパンツ、無くてもいけそう……?──いやいやいや。思考が危険。履け、私。それ、彼氏の前で披露するやつ。ハーフパンツ、履いてなかったら事件だ。ありがたい。というか恥ずかしい。というか、サイズ感で所長の体格を想像するの、やめろ私。リビングに出ると、キッチンから香りが来た。しじみ汁。氷室所長がエプロンもせずに真顔で鍋を見ている。手つきは慣れてるのに、どこか不器用。テーブルの上には、三角が崩れたおにぎりが二つ。海苔が斜め。握りが強すぎたのか、米が横に逃げている。そして、目玉焼き。……焦げてる。外周だけ、黒い。なのに黄身が生のまま、ぷるん、と光っている。どういう火加減?「……所長、それ……」「失敗した」即答。潔い。皇帝、料理の言い訳はしないタイプ。「しじみ汁は成功だ」「成功です。匂いで分かります」私が席に座ると、所長は向かいには座らず、少し離れた位置に椅子を引いた。距離が、正しい。だから余計に落ち着かない。正面じゃなくて良かった。ベッド占領して、シャワーも着替えも借りたくせに、向かい合わせで目を合わせられる気がしない。「昨日のこと、まだ聞きたいか?」箸を持つ手が止まる。「……聞きたい、です」所長はしじみ汁を一口飲んでから、淡々と言った。「榊が送るって言った。俺が止めた」「……」「お前が危ないから。以上」“以上”って。所長の目、こんなに強かったっけ……?じっと見つめられて、動けない。強い。感情じゃなく、規則の目だ。言い方報告書なのに。私、所長に守られてる。焦げた目玉焼きを割ると、黄身が流れた。おにぎりは崩れたまま、妙にうまい。しじみ汁が胃に沁みる。「……所長、料理するんですね」「たまに」「皇帝なのに」しまった。所長は裏で皇帝呼ばわりされてることを知らない。所長が眉を上げる。うわ……私、終わった?酔っ払いの介抱こんなに手厚くしてもらったというのに。「は?」「……いえ、何でも」所長は一拍置いて、あきれたように息を吐いた。「俺は皇帝じゃない」その否定が、なぜか可笑しくて、私は笑って
last updateHuling Na-update : 2026-09-10
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皇帝の正体③

違う。御礼。御礼だから。焼肉=御礼。デートではない。……たぶん。“たぶん”を付けた時点で、もう負けてる気がする。所長は私の顔色なんて気に留めないふうに、コーヒーのカップを流しに置いた。音が小さい。無駄がない。そのまま寝室の方へ消えて、何かを取って戻ってくる。手には、白い紙袋。「これ」机の上に置かれた袋の口から覗くと、私のブラウスとタイトスカートが入っていた。きれいに畳まれているわけじゃない。畳める状態でもない。それでも、これ以上しわが増えないように、と思ったであろう痕跡だけがある。「……所長が?」声が、必要以上に小さくなった。問いただすつもりなんてない。ただ確認したいだけなのに。所長は一拍置いて、淡々と言った。「袋に入れただけだ」踏み込まない。だけど放置もしない。境界線を引いたまま、最低限だけやってくれる。私は紙袋の口をそっと閉じた。──昨日、私はこのブラウスのまま、所長のベッドを占領して寝た。もし吐いていたら。もし何か汚していたら。考えただけで胃が縮む。でも、そうじゃない。そうじゃなかった。だから所長は「袋に入れただけ」で済ませた。たぶん、そこにも意図がある。「……車で送る」所長が淡々と言う。「その格好で外、歩くな。目立つ」その格好。所長のぶかぶかのTシャツと、丈の長いハーフパンツ。明らかに男の服。男の家から出てきましたを体現する服。私はTシャツの裾を無駄に引っ張った。ぶかぶかの布が、情けないくらい身体を隠してくれる。隠してくれるから、余計に“何を隠してるのか”が浮き彫りになる。「そんな……所長。そこまでお世話になるわけには」「もう十分なってる。今さら取り繕っても変わらないだろう」“今さら”。昨日の三十分が闇のままでも、今さら変わらない。そう言われた気がして、喉が鳴った。「……ありがとうございます」所長は玄関に向かいながら、背中で言う。「礼はいらない」「でも」「でも、は禁止」ずるい。その一言で私の口は閉じる。閉じるのに、呼吸は苦しくならない。不思議だ。靴を履いて、紙袋を抱え、ドアの外に出る。冷たい空気が頬に当たって、現実がぐっと近づく。車に乗ると、室内にほんのりコーヒーの匂いが残っていた。さっきの朝の現実が、匂いだけで追いかけてくる。所長はエンジンをかけ、前だけを見る。運
last updateHuling Na-update : 2026-09-10
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ミッション発生!①

家に帰ってきた。こっちが、私の世界。氷室所長の家で一晩過ごしてシャワー借りて朝食一緒に食べて。それも、この、大きなTシャツとハーフパンツ。上司だ。はい、上司です。上司なの。彼氏じゃないの。……えっ?彼氏って……?いやいやいやいや!図々しい!なんて図々しい考え!そりゃね。皇帝なのにね。目玉焼き焼いたら白身は焦げるのに黄身が生だし?おにぎり変形してたし?なのに顔は大真面目だし?可愛いが過ぎるでしょ。酔っ払って所長のベッド占領したんだよね?私が潰れたのにつけ込むことだってできたのに。あの人は。所長は。しなかった。え、紳士。ジェントルマン。──いや知ってるけどね。氷室所長が紳士なのは。一緒に働いてたらそれぐらいはわかる。ブラウスを洗濯機に入れる。そうだ。着替えなきゃ。いつまでもこのTシャツとハーフパンツのままでは……いてもいいけど。誰も見てないし。いやいやいや!全身が氷室所長の気配に包まれてるじゃない。守られてるじゃない。現実に戻らないと。──お前は、守られることに慣れろ。脳内で、あの低音が再生される。頬が熱く、耳まで熱が伝わるのがわかる。えっ……と?守ってくださるんですか?氷室所長が?私を?いやいやいやいや!妄想が過ぎる!いや落ち着いて。私、氷室所長と焼肉に行くんだよね?私から連絡するって言っちゃった。……これ、焼肉デートに誘うっていうミッションですよね?……落ち着いた。落ち着いてしまった。洗濯物、干した。お昼ごはん、食べた。部屋も、整ってしまった。氷室所長に連絡できる状況じゃん!LINE、だよね?電話では、ないよね?さあどうする?仕事終わりに行くのがいいのか?それとも休日にさらっと晩ごはん?それともランチ?仕事の日のランチではないよね。所長も私も、服に焼肉の匂いついちゃうもん。ふたりて行ったってバレバレ。榊くんの反応が怖過ぎる。じゃあ仕事終わりもダメか。あの皇帝スーツに焼肉臭ついちゃう……それはそれで笑っちゃうけど。だってあの、伝説の目玉焼き焼いちゃう人だもの。でも、あの伝説の目玉焼きの件は私と氷室所長だけの秘密にしておきたいな。なぜかって?だってレアだから。私だけが知ってる氷室所長の可愛い面、簡単に人に教えるわけにはいきません。そもそも氷室所長の次の休みっていつなんだろう?そしてその日は私も休みなのか?私も所
last updateHuling Na-update : 2026-09-11
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